雨の日のその後の話 ザァ、ザァ、と水の流れる音がする。
視界の端に辛うじて写り込む時計の針は、もうすぐ起床時刻に迫るところだった。
けれど、バスタブの水をひっくり返した様な雨を降らす雨雲が重く立ち込めるせいで、窓の外には朝の清々しさなど到底感じられはしない。
せっかくだから起きてしまおうかと体を捩ると、そこで初めて違和感に気づく。
昨晩、アベンチュリンを抱きしめて眠ったはずの腕はいつの間にか解かれていた。代わりに彼の両耳を塞ぐように手のひらが、穏やかな寝顔に添えられている。そこに緩く絡められた指先から、彼の体温が僅かに伝わって自身のそれと溶け合うように馴染んでいた。
―ピピピッ
端末が起床時刻を告げる。
アラームを止めようと手のひらをほんの少し浮かせるとそれを拒むように、重ねられていた指に力が込められる。
「おはよう、レイシオ」
「おはよう、アベンチュリン。アラームを止めたいのだが?」
手を離して欲しいと言えば、込められた力はそのままに、もう少しだけ、と返ってくる。
まるで犬か猫のように頬擦りをする様子に、無理やり手を解くのは諦めた。どうせ、3分後には鳴り止むのだ。
「…外は土砂降りのようだが、朝食はどうする?」
昨夜の予報では晴れだったので、今朝は近くのカフェのテラス席でモーニングを食べようと約束していた。
「そうだね…冷蔵庫にも何にも入ってないし」
「君が少し我慢できるなら、何か買出しに行ってくる」
「えっ? 君ひとりで?」
「当たり前だ。傘は一本しかないんだから」
昨夜、この部屋を訪れた時には雨が降る様子などなかったので、当然のように傘はこの家の住人分しか置いていない。
とりあえず置いてあるだけのような、間に合わせで用意しただけのような。そんな安っぽいビニール傘が一本だけ、玄関に立てかけてあったのを思い浮かべる。
「せっかくだから、予定通りに出かけようよ」
「馬鹿を言うな。傘も無いのにこの雨の中出かけたらどうなるか、幼稚園児でもわかることだ」
「でも、カフェは歩いて5分くらいだし。あの傘は結構大きいから、ふたりでピッタリくっついたら案外大丈夫だと思うけど?」
あまりにもなんでもないことのように言われて、思わず聞き返してしまう。
「…? そもそも君、雨は嫌いじゃないのか?」
その言葉に、アベンチュリンは少し困ったように眉を下げた。
「それはそうなんだけど…。でも、レイシオ。君、本当は雨が好きだろう?」
「…気づいていたのか」
「そりゃあ、わかるよ。君の恋人だからね」
これまで口に出したことはなかったけれど、雨が街を濡らす音に耳を傾けるのは、案外嫌いではなかった。
「だからさ。僕も君の好きなものを、少しでも好きになれたらいいなって思うんだ」
アベンチュリンが、穏やかに笑っている。
「少しだけ濡れてしまうかもしれないけど、急いで行けばすぐだよ。それに、カフェのテラス席は使えないだろうけど、窓際の席に座って雨の街を眺めるのも、君と一緒ならすごく素敵なことのような気がするんだ」
どうかな、と問いかける声にウソは無いようだった。
狭い傘の下に身を寄せて、左右の肩を少し濡らしながらふたりでカフェへ駆け込む様子を想像する。想像の範囲でしかないのに、なんとなく、漠然と。アベンチュリンは笑っていてくれるような気がした。
「君が、それで良いのなら」
君が、雨に不安を抱かず、怯えることなく、心穏やかに過ごすことができるなら、それで。
起床を急かしていたアラームはすでに鳴り止んでいて、雨は相変わらず窓を叩いているが、勢いは少し弱まったようだった。
「出かけるなら今だな」
絡まる指をゆっくりと解いて、ベッドを抜け出す。布団の間から、少し不満げな声が聞こえてきたので、それを引き剥がしてしまうとアベンチュリンも諦めたように起き上がる。
カーテンを開けば、少し遠くの空には青空が薄く覗いていた。どうやら通り雨のようなもので、朝食を食べ終わる頃には止みそうだった。
「…朝食を終えたら、」
「うん?」
「傘を買いに行こう」
同じように、窓の外を眺めているアベンチュリンは、僕の言葉に不思議そうに首を傾げて、パチパチと瞬きをした。
「今日は使わないかもしれないが。次の機会があれば、君とお揃いの傘で出かけたい」
きっと、午後にはただの荷物になるかもしれない傘を。ビニール製ではない傘を、彼のために選びたいと思った。
どうだろうか、と今度はこちらから問いかけると、アベンチュリンはもう一度瞬きをして、それから、少しだけ泣きそうな表情をして微笑った。