TOAR/アルシオ 意識が浮上すると共に開けた視界は淡い緋に満たされていた。紗のようなその隙間から光がきらきらと踊っている。朝焼けにも似た色彩は、どこか現実離れしたうつくしさで、さてこれは夢の続きだろうかとうっかり瞼を閉じそうになったところで気付いた。
この色は、シオンの――
「……おはよ」
寝起きの、乾いた喉から発せられた朝の挨拶は明瞭な発音とは言い難かった。柔らかな枕に横向きの頭を半ば沈ませながら、アルフェンは視線だけを向ける。水底の青はすぐに見つかった。
「おはよう、アルフェン。起きてしまったのね」
どことなく残念そうなシオンの顔が頭上にあった。その指先がアルフェンの額から頬へ、髪の生え際をなぞるように滑り落ちていく。長い髪がまるで帳のようにアルフェンの視界の端で流れ落ちている。夢ではなく、紛うことなき現実の、触れられるもの。触れたいと意識するより先に反射的に手が伸びた。指に絡ませて、癖の無い柔らかな髪の感触を楽しむ。彼女がその美しい髪を傷めないように気を遣っていることは知っていたので、しばしの手遊びの後、わずかな名残惜しさを覚えつつ解放した。
「何してたんだ?」
咎めるものではなく純粋に疑問を覚えて訊いてみる。自分が目覚めたことでそれは中断してしまったのだろうが。
「何をしていたというわけでもないのだけれど……さわっていただけよ」
「俺の顔を?」
「顔、だけではないけれど……」
言っている内に気恥ずかしくなってきたか、シオンの口が鈍る。たぶんお互いの頭の天辺から爪先まで知っているのに、今更だという気もするが(何なら自分が知らない傷痕さえきっと知られている)。
「意外に、あなた起きないのね。旅の間、野営しているときは、声を掛ける前にも目を覚ましていることもあったのに」
「見張りを立ててるとは言え野宿だしなあ。どこかで気を張っていたのかもな」
最低限の疲労回復にはなっただろうが、いつ何が起こるかもわからず、安全が保証されるわけでもない。そして交代制の見張りはどうしても睡眠を断続的なものにする。野で夜を明かすとはそういうことだった。もちろんその中で得たものは多くあったし、楽しく充実した時間であったことも確かだったが。
「今はそうではないということ?」
「だって雨風がしのげる屋根と壁があって、柔らかくて温かい寝床があって、ズーグルに寝込みを襲われることもないし、一度眠ったら朝まで起きる必要が無い。何も心配しなくても良い」
熟睡を約束する申し分ない我が家だ。実際に寝起きするとそのありがたみをひしひしと実感する。
「帰る家があるって、やっぱり良いよな」
アルフェンはシオンの手を取って指を遊ばせる。指先を捕まえては放したりを繰り返していると、くすぐったい、と笑いが漏れて、シオンから逆襲されたりする。同じように手のひらを取って指の付け根を押してみたり、ひっくり返して手の甲に自身の手を重ねて大きさを比べてみたりしている。アルフェンより小さくて細い女の手だ。けれどこの手に何度も救われてきた。今も、きっとこの先も。
「あと、シオンだから」
「私だから?」
「そばにいるのがシオンだってわかっているから、気が緩んでいるのもある」
たとえ安全だとわかっている場所でも、眠っているときに好き放題さわられたらさすがに気づく。ここまでされてもだらしなく惰眠を貪っていられるのは、シオンだからだ。
たったひとり、ゆるしたひとだから。
「……随分と信頼されたものね」
これは明らかに照れ隠しとわかる様子でシオンは掛布に潜ってしまった。アルフェンからはぎ取られた形になったので、まだ気温が上がりきらない朝にさすがに肌寒いのだが。
「シオン、かえして」
無言を貫く白いかたまりは何の反応も示さず、ただ丸まっている。
「シオン」
そうであるならば実力行使をするまでだ。えい、と引っ剥がせば割とあっさりと観念する。というより、勢い余って仰向けのアルフェンの胸に乗り上げたりするから、思わず、うわ、と声を上げるが、当の本人は意に介さず見下ろしていた。
「私だけなの?」
「そう、シオンだけ」
その答えに、彼女は実に満足そうな表情をした。
「私だけが知っている、アルフェン」
何を思い出したのか、忍ぶような笑い声を小さく上げる。
取り返した掛布を引っ張って、今度は二人ともくるまった。どさくさに紛れて、上下も反転。つまり、今度はシオンがアルフェンを見上げている形になった。朝に似つかわしくない暗がりの中で、交わす声はひそやかだ。
「……起きるのよね?」
「起きるけど、今日は予定も無い」
だからもう少しくらいこうしててもいいだろ、と落としたキスは拒まれなかった。
「……あなたは時々、ずるいわ」
少しだけ長く重ねた唇を離すと、わずかに上がった息と共にやや恨みがましい視線を向けられる。
「それも、シオンだけが知ってる」
「そういうところよ」
挑むように、シオンは艶然と笑う。次いで男の首に手を回して、顔を引き寄せた。額を合わせると、互いの目がとても近くで揺れている。
「……シオンも、時々ずるいと思う」
「知っているのはアルフェンだけよ」
鼻先まで触れ合わせて、唇もそうなる寸前の距離で止まる。
距離を詰めることは簡単だ。ほんの少しだけ動けばいい。求めればすぐに叶えられる。それでも求められたいと思う気持ちは互いにあって、二度目のキスをねだるのはさてどちらから、とわけのわからない駆け引き――勝負をしている。
子どものように素直に欲しがってしまえばそれで済むのに、自分たちはずるいおとななので、無条件に相手から与えられることを期待してしまう。
結局根負けするのは自分の方だろうな、とアルフェンが思ったところで、不意を突く、啄むような口付けが。一瞬の間だった。
「……そういうところ」
諦めたようにシオンの肩口に頭を預けてそう呟くと、耳のすぐ近くで笑う声がした。
「それも知っているのはあなただけだから、いいの」
そうやって絆されるのはいつもアルフェンだった。
ほんと、そういうところだぞ、と駆け引きも何も置いてきぼりにして、三度目のキスをした。