TOAR/アルシオ 流星雨、というらしい。
「つまり、流れ星がたくさん見られるってことだろ」
「そのようね」
シスロディアの、きんと凍るような硬質な空気の中で吐いた息が煙る。外気にさらされた頬に熱が集中するのがわかる。
「幻の花も綺麗だったけれど、寒いところでしか見られないのよね」
「星も、寒くて空気が乾燥しているところの方がよく見えるって言ってたな」
虚空に浮かぶ象牙の塔、もとい観測拠点はダナの天文現象も予測している。曰く、今回の流星群は百年に一度という規模で星が流れるのだとか。さりとて特に大した影響があるわけでもなく、単純に眺めて楽しむ程度のものだけど、と最早文字通り浮世離れた存在であるダエク=ファエゾルの研究員はさして興味も無さそうにただ事実だけを述べる。彼らにはありふれた現象でも、ダナの大地に生きる人間にとってはそうでもない。
「一生に一度っていう感じなんだろうなあ」
シオンより年長のはずのアルフェンの方が楽しそうなので、シオンも浮き足立つようなふわふわした心地がする。心が躍る、というのはこういうことなのだろうか。
「もしかして前にも見たことがあるの?」
「いや記憶には無いけど……たぶん、初めてだと思う」
たまたまシスロデンに所用があったので、その帰りネヴィーラ雪原まで出向いてみれば晴れた夜空に星が散っていた。人里から離れて人工の灯りも届かない、そして深い雪に覆われたこの場所は音さえも閉じ込めてしまう。しんと静まり返った宵闇の中で、互いの足音と声だけが響く。
「私も初めて。楽しみだわ」
そっか、と笑うアルフェンの頬にも赤みがさしている。夜の雪原が冷えることは分かっていたのでできる限りの防寒対策はしてきたのだが、それにしても今夜は冷える。目の前には赤々とした焚き火が揺らめいていて、手をかざすとかじかんだ指先が痺れるようだった。野で夜を明かすことは慣れているはずなのに、久々に野営地で過ごす夜はどこか新鮮だった。
「こんな風に外で過ごすこともね、ちょっと楽しいの」
「家で暮らすのに慣れてしまったからな」
温かさを約束する家屋、食卓と寝床、帰る家があるということは何物にも代えがたい。それでもこうして火を囲むことも、今となっては懐かしささえ感じられる。火にかけた鍋の中には夜食のスープが湯気を立てていて、アルフェンがカップによそってシオンに手渡す。
「ありがとう。……温かいわね」
両手で暖を取りながら、口を付ける。素朴な素材だけで作られているが風味は豊かで芯から体を温めてくれる気がした。
「もっと辛くした方があったまると思うんだけどな」
そういうアルフェンの手元には、香辛料の容器が待機している。せっかくの滋味あふれるスープも、あれを投入するとアルフェン専用にしかならなくなる。
「あなたの分は自分で調整して」
笑いながらシオンはカップを傾けた。
薪の爆ぜる音を聞きながら、時折頭上に目を遣る。かつてシオンが母なる大地だと信じていた星は、今はもう見えない。頭上ではなく、この足元に広がり触れられる世界となったから。
「……こうして見える星はすごく小さいのに、本当はダナより大きいんだよな」
「そうね。私たちには眺めることしかできないけれど」
夜空の星は、その一つ一つが自ら燃えていて、とても遠くにあるからその光だけがダナに届くのだという。そしてその光さえも、長い時間をかけてここまでたどり着いているので、もしかしたら今見えている星も、本当はとうの昔にもう燃え尽きてしまっているかもしれない。ダエク=ファエゾルに生きる人々の感性は少々理解し難い部分もあるが、その知識は間違いなく世界を広げてくれた。ただダナで、あるいはレネギスで生きているだけでは知り得なかったこの世の仕組み、世界の在り方。聞けば聞くほど、自分たちは何も知らなかったのだと思わされたのだけれど。
「そんなこと考えたこともなかったけれど、星もいつかは消えてなくなるんだな」
当たり前のように存在すると思い込んでいただけで、実は何もかも変わっていく。アルフェンがぽつりと呟きながら遠く瞬く光を仰ぐ。それが何故か知らない横顔に見えて、シオンの胸をざわつかせる。
「……私たちにとっては、遠い遠い未来のことだけれどね」
少なくとも、今生きている人々の一生よりなお遠い未来。いつか何もかもが消えてなくなってしまうのだという。
「でも、例えそうだとしても、今私たちが生きていることが無意味ということではないでしょう?」
あのとき、生きたいと願ったことも、運命に抗ったことも。その対価がアルフェンと共に生きる時間なのだということを、シオン自身が痛いほどわかっている。
「……ずっと先のことなんてわからない。そのとき何が意味を持つのかも。でも、今ここにシオンがいてくれること以上の意味とか、価値とか、俺は知らない」
アルフェンの藍鉄の瞳の奥で、焦がれるような色が閃く。それなのに真摯とも言える静けさを伴ってシオンを見つめている。
ああ、これほどまでにこのひとは。
自分の方こそ焦がれる胸の内を抱えているのだと自覚して、シオンは彼の視線を受け止めた。
「……私もよ。あなたと言葉を交わして触れ合う以上の幸いを知らないもの」
頬が熱いのは、寒さからでも、また炎で温められたからでもなく、ただ自身の内からとめどなく溢れてくる熱によるものだった。自分だけでは決して生み出せなかった熱は、分かち合ってはじめてかたちになる。それを教えてくれたひとが、今目の前にいる。
シオンがアルフェンの頬に指を伸ばすと、触れた先から彼の体温が伝わる。一際大きな薪の爆ぜる音がして、それが合図のように顔が、互いの唇が近付いていく。そして目を閉じる寸前に、視界を横切るもの――
「あ」
「あ?」
ここでそういう風にぶった切るのかお前は、とか恨めし気な言葉が聞こえた気もするが、シオンは立ち上がって高い空を仰ぐ。
「星! 流れ星だわ」
宵闇を縫って尾を引く光。目で追ううちにまた別のところで星が流れるのが見えた。
「……これは」
雨のように落ちる光に、アルフェンも目を凝らす。燃える炎は寒さから身を守ってくれるが、星の光に対してあまりにも明るい。二人で湖のほとりにまで足を伸ばした。
「……きれい」
思わず感嘆の息が漏れた。凪いだ湖面は空を抱いている。水鏡にいくつもの星の軌跡が描かれた。幻想的な光景であったが、冷えた空気は自分の意志とは関係なしにシオンの肩を震わせる。
「あ……ここだと冷えるよな」
「平気。そんなに長居をするわけでも無いし」
ずっとここにいるわけにもいかない。もうしばらくこの夜空を眺めたら、凍えないうちに戻らなければいけないことはわかっていた。
「もう少しだけ、ここで見ていたいの」
百年の一度の星降る夜。二度と無いであろうこの奇跡を、少しでも長く見ていたい。
「じゃ、こうしているか」
言うなり、アルフェンは自分の外套の内にシオンを招き入れる。後ろから抱きしめるように彼の両腕が回されて、冷たい夜のにおいがした。
「……くっついていた方が寒くないだろ」
その声が耳元で響いて、顔がとても近いことがわかる。防寒の為に何重にも着込んでいるから、互いの体温を分け合うことはない。ただ包みこまれた分だけシオンを冷気から守ってくれる。
「あなたの方が冷えるわ」
「俺の方が体温高いから大丈夫」
「……ありがとう」
〈荊〉がシオンの内から無くなっても、しばらくは人と触れ合うことに慣れなかった。無意識に固くなる体を、預けられるまでになったのはいつからだっただろうか。アルフェンが幾度も触れて、抱きしめて、もう何にも怯えなくて良いのだと伝えてくれた。
数え切れない星が流れて、時折一際明るい流星が頭上を横切っていく。
「願いごと」
「え?」
「流れ星に願いごとをすると、それが叶うって言われていた。……たぶん、俺が子どもだったときにそう聞いたような気がする」
今のダナに伝わっているかはわからないけれど、とアルフェンは言う。レネギスはそもそも天文現象とは無縁の場所だ。シオンの記憶をたどってもそれらしいことは聞いたことがなかった。
「アルフェンは何か願うことがあるの?」
「シオンは?」
質問を質問で返され、それは反則、とシオンは眉を寄せるが、やがてアルフェンに向き直り目を合わせて少しだけ笑った。
「……もう叶っているもの」
一瞬驚いたように、けれどアルフェンもシオンと同じ表情を向ける。
「俺もだよ」
百年に一度の夜。それ以上の奇跡を知っている。
出会えたことも、心を通わせたことも、同じ願いを抱いたことも、こうして触れ合えることも。重なる唇を予感して、今度こそシオンは目を閉じた。