種/ラクス誕生日2022「彼は行ったのかね」
父の言葉にラクスは黙って頷いた。そうか、と短い答えの他には何も継ごうとせず、シーゲル・クラインはただ慣れ親しんだリビングのソファに腰掛けていた。
「……お父さまは、これで良かったのですか」
「あれをどうするかは未定だった。正式に配備される前にどこかで奪取できれば良かったが、奪ったところで我々にもどうすることもできないような代物だ。彼がどの勢力にも与しないと決めたのであれば、現状それで良い。……信じて良いのだろう?」
「はい」
それだけは確信を持ってラクスは告げる。ただ傷が癒えるのを待っていたわけではなかった。傷が癒えてもどこにも行くことを選べないようであれば、あるいはもう少しだけ穏やかな日が続いただろうか。――違う、と自身の内が判じるのがわかった。もうそれは欺瞞でしかない。夢から醒めて、新しい日は始まってしまった。それで良かった。
「キラは選びました。それがどれほど険しいものかわかっていてなお」
「ちょうど頃合いだったな。彼に渡すように時が動いていたのかもしれん」
シーゲルはゆっくりと息を吐き、娘に向き直る。
「ここを離れる準備はできているか? 間もなく迎えが来る。早々にここを立ち去らねばならない」
「ええ」
もしかすると、この瞬間がこの家で過ごす最後の時となるかもしれない。そして父と言葉を交わすことも。頭ではわかっていた。パトリック・ザラ、ひいてはプラントの中枢に反旗を翻すということは、追われるものになるということを。今が束の間の、そしておそらくは最後の安らかなる時間であることも。ただあまりにも静かだったから、実感が伴わないだけで。その静寂を破るように、何かが跳ねる音と共にラクスの名を呼ぶ電子音が廊下から近づいてくる。バウンドしながらラクスの手に収まったハロを慈しむように撫でながら、声をかけた。
「ピンクちゃん、わたくしの言付けをお願いしてもよろしいですか?」
肯定のつもりなのかライトを点滅させたピンクのハロを、両手で抱える。
「アスランがもしかすると、訪れてくれるかもしれないので」
その名を聞き、シーゲルが口を開く。
「……済まないな、彼に会うこともできなくなってしまった」
申し訳なさそうなその声に、ラクスは首を横に振った。
「いいえ。……お父さまにご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、手がかりを残すことをお許しくださいますか」
「一度だけであれば。……私たちだけではなく、仲間を危険にさらすことは本意ではない」
淡々とした口調ではあるが、その言葉が持つ重みはわかっていた。けれどそのリスクを負ってでも彼と言葉を交わすことに価値はある。――そう信じたい。
「ええ、ありがとうございます。それで会えなければ、縁が無かったということなのでしょうから」
ふふ、とラクスは父に笑ってみせる。シーゲルは目を伏せながら、言葉を選ぶかのようにゆっくりと口を開く。
「……こんなことを今更言うのは卑怯だが、お前を巻き込んでしまって、本当にすまない。違う道を示すことさえしてやれなかった」
本当に今更だと思った。それとも、この期に及んででもなければそう切り出すこともできなかったのだろうか。
「……そうすることを、わたくしは自分で選んだつもりです。そんな顔をなさらないで、お父さま。たとえ、選ばされていたのだとしても、決めるのはわたくし」
それは誰にも譲る気はなかった。何不自由なく育てられ、うつくしいものもそうでないものも見聞きした。クラインの娘に生まれなければ得ることのできなかったもの、知らなかったこと。それらがどのような意味を持つのか。静かに眺めるだけの時期は終わった。あとは為すべきことを決めて動くだけ。
「わたくしがしてきたこと、これからしようとしていること。それが正しいかどうかなど、わからない。それでもこの状況が正しいことだとも、わたくしには思えないのです」
沈黙が肯定だと言うのであれば、もう静観などしたりしない。終わりの見えない争いを続けて、その果てに自分たちは何もかも失ってしまうかもしれないのに。それをわかっていながら何もしないことは、緩慢な死を受け入れることと何が違うのだろう。
憂うというより憤りに近い声に、シーゲルは顔を上げた。
「……絶対の正義などこの世に存在しない。だから自分が動く指針は正しさではなく自分がどうしたいか。私はそうすることにした。……パトリックは皮肉のつもりで09に『ジャスティス』と名付けたのだろうか」
本気で自分の正義を信じているのだとすれば、いよいよ私たちの道は違えてしまったな、とそれこそ皮肉のようにシーゲルは笑った。
無二の友、だったはずだ。同時代に第一世代のコーディネイターとして生まれ、自分たちがあるがままに生きられるように、共に夢を見て。ラクスが今よりも幼かった頃、そして母たちがまだここに居た頃、この家でもパトリック・ザラと父は盛んに話をしていた。――今となっては遠い残照だったが。柔和とは言い難かったが、決して冷たいひとではなかった。それが明らかに変わってしまった理由は痛いほどわかる。けれど、だからこそ同じ罪を犯すことを見過ごすことなどできなかった。
「たとえあちらがもうそう思っていなくても、私が友としてできることをしなければ」
眩しいほどの西日が射し込むリビングで、シーゲルが寂しそうに浮かべる笑みにラクスは静かに頷き、次いで翻って部屋を辞す。最後になるかもしれない、生まれ育ったこの場所に別れを告げるべく当てもなく歩を進める。
海――プラントの貯水湖を望む庭園。アスランが訪れる日はここでよく紅茶を淹れた。――たぶん何事も無く彼と結婚する日が来たとしても、自分たちはそれなりに上手く夫婦生活を送れたであろうことは想像に難くなかった。自分たちは互いに干渉しないからだ。各自の領域を侵さず穏やかに、ただ過ごすことはきっと難しいことではなかった。
けれど、ラクスはそうではない関わりがあることを知ってしまった。アスランと同じようにおだやかなひとだった。けれど、それだけではなかった、その心の内に触れたいと、望んでしまったひと。
もっと早くに出会って折り合いを付ける術を知っていたら、あるいは生涯会うことがなかったら。自分の心はずっと穏やかでいられたかもしれない。けれどこの時でしか出会えなかったのだ。さだめられたものという考え方は好ましいものではなかったが、そういう形でしか出会えなかった。それはもう受け入れるしかなかった。
風のようなひとだった。微かに大気を揺らすだけかと思えば、吹きすさぶ嵐のような感情を身の内に宿している。今もきっと。それでも、もう他者に捕らわれず、自分の行く先を自分で決めて在るべき場所へ向かっていくのだろう。
黄昏に染められた空――砂時計の外壁の向こう、羽ばたく翼に思いを巡らす。
「またきっと会えるのでしょう? キラ」
再会の期待と願いを乗せた声を運ぶように、少しだけ強い風が吹き抜けていった。