幻水3/坊ちゃん グラスランドの最果てにあるようなその遺跡は、正確に言えばその跡地は、乾いた風が吹きすさぶ、どこか空虚さを思わせる地だった。砂礫を踏みしめながら歩を進める青年の黒い目は、崩れ落ちて最早入り口の用を為していない瓦礫の山を見つめていた。
「こんな寂しいところで……」
彼は運命を呪いながら――それとも憂いか――魂を空に還してしまったのだろうか。
サガミ・マクドールはルックの最期を知らない。気ままに旅を続ける中で、仇敵同士だったグラスランドとゼクセンの連合軍がハルモニアの神官将と戦って勝利したと噂を聞いたに過ぎない。その神官将がかつての仲間であったと知ったのはすべてが終わったあとだった。彼と友と呼べるような関係であったかと言えば素直に首肯することは難しかった。ただ、真の紋章の継承者であるというだけで、どこか奇妙な繋がりを感じていたのは確かだった。もっともあちらがどう思っていたかは知らないが。
デュナンの統一戦争が終わってからも、時折魔術師の島に立ち寄ることはあった。所在が確かな継承者の数少ない場所であり、レックナートやルック、それにいつからか加わったセラの存在は、もはや人の世とは違う理で生きるサガミにとってやはり仲間と呼べるものだったので。
色素の薄い肌と髪の色はいかにも生粋のハルモニア人といった印象のセラだったが、実のところ出自はよくわからないのだと言う。けれど当の本人は特に気に留めていないようであった。
「今の私には何のかかわりもないものですから」
そう言って彼女は師と兄弟子、そして時折ふらりと訪れる客人のために丁寧に茶を淹れていた。供されたカップを一口付け、おいしいよ、と告げれば、感情の起伏の少ない表情の中で、わずかに柔らかく笑う。サガミの記憶の中のセラは、そういう可憐さを持ち合わせている少女だった。あの頃のレックナートの邸は、まるでグレッグミンスターの生家を思わせる、穏やかな時間が流れていた。デュナン共和国の建国当初の大小様々な混乱も過去のものとなり、近年の大きな事件と言えばハイイースト動乱くらいのものだった。そういう概ね平穏な時間を過ごすことに慣れてしまっていた。
最後にルックと顔を合わせたのはいつだっただろうか、とサガミは思い巡らすが、正確には思い出せない程度の時間は過ぎていた。
仮に、彼が自身の真意を明かしてくれていたのならば、自分はどうしただろうか。あの端正な顔に拳を二、三発くらいは入れて、お前は馬鹿か、くらいは言っただろうか。そうすることができていれば、今こうして誰に向けることもできなくなった感情を持て余すこともなかったのかもしれない。
「水臭いも何もないか……」
お互いのことは、たぶん知っていることより知らないことの方が多い。一緒にいて話が弾むというわけではなかった。それでも、会話など何一つせず、それぞれが別のことをしていたあの空間を居心地が良いと思っていたのは、自分だけではないという根拠のない確信のようなものがあった。それくらい、信じさせてほしかった。
右手の甲が不意に熱を持った気がして、思わずサガミは左手で握った。魂喰らいの名を持つ紋章は、解放戦争以来その鎌を振り下ろしてはいない。そうならないように、一つ所に留まらず、近しい者は遠ざけてきた。その代償が寂しさだと言うのならば、随分安いものだ。けれど、ルックがこのような最期を迎えたという結果さえも、自身に課せられた呪いの一つだったのだとすれば――自分も、あるいは世界を呪い、彼と同じ命題にたどり着くのだろうか。つまるところ、この世は真なる紋章の思惑のままに紡がれる織物でしかないのだと、気付いてしまったら。
いや、とサガミは頭を振る。そうではないのだと、自分は知っている。夜空の星の如く、数多の人の願いと意志が、流れを変えてきたことを、他でもない自分は信じなければいけない。だからこそ残されたものがあり、還って来た人がいるのだと、サガミは知っている。
「……今度来るときは花でも持ってきてやるよ」
次の瞬間、突然の突風が通り過ぎて行った。身を包む旅装のマントをはためかせた一瞬の後には、嘘のような静けさが戻って来ていた。
「今の、お前の返事だったか?」
よしてよ、らしくないな、と盛大に顔をしかめながら悪態を吐くルックの顔が容易に想像できて、サガミは苦笑した。微風に乗って目の前を白い何かが過ぎていく。反射的に手でつかんだ。
「……花びら?」
砂色に支配されたこの場所には似つかわしくないもののように思えた。触れた花弁は瑞々しく、今まさに花開いたかのようでもあった。どこに咲いているのだろうと、サガミはあてもなく足を進めた。果たして見えてきたのは、青々とした草地とそこに無造作に花々が咲く一画だった。砂礫の中で、そこだけが異質な空間だった。人為的、もっと言えば人知を超えた、魔力の残滓を感じる。
「土の魔法……?」
それ自体はさしてめずらしいものではない。ただ、こういった用法はあまり見たことが無い。大地そのものではなく、その中に眠る生命に働きかけるような繊細な術は、相当の熟練者だけが用いる技法だった。何とはなしに辺りを見回すと、遠目に人影がちらついた。
(ルック?)
一瞬見えた顔に、心臓が跳ねる。あちらも自分に気づいただろうか。彼は踵を返し、ほどなく姿が見えなくなった。けれどあの人は『彼』ではない。一瞬幽霊でもいたのかと本気で思ったが、思い当たる節もあった。
(あれは、ササライか)
デュナンでの戦争の折に、戦場でちらりと見かけた程度だが、ルックと彼の姿が驚くほど似ていたことをよく覚えている。真なる土の紋章の継承者とされるハルモニアの神官将。ササライもまた、このグラスランドの戦争に関わっていたのだということは風の噂で耳にしていた。それも炎の運び手の協力者として。その経緯も、双子のようによく似た彼らの関係も、とうとう知らずじまいだが、おそらく浅からぬ因縁があったのだということは想像に難くない。互いが互いにどのような感情を抱いていたのか、今の自分に知る術は無い。ただ、このささやかに芽吹く一画は、もしかすると彼なりの手向けだったのかもしれない。寂寥の荒野に、雑多な野の花と若芽はいかにもちぐはぐだが、少なくとも大地は枯れてなどいなかった。
「そうだな、花は間に合ってそうだな」
サガミはそう一人呟くと、元来た道を戻る。あてのない旅路は今に始まったことではない。やがて、真の紋章は自分を闇の底に導くかもしれない。それでも、故郷を後にした夜、頭上高くに瞬いていた星の光を思い出す。あの小さな輝きを覚えているから、今はまだこの世界に見切りを付けることはできそうになかった。
もしも、果ての無い旅がいつか終わりを告げたとすれば、その彼方に彼を見つけられるだろうか。そのときは、文句の一つや二つでは済まないから、せいぜい覚悟しておくんだな、とサガミは届かぬ当ての無い言葉を内心で投げつける。黄昏の、一際眩しい落日が平原を照らし、まだ遠く見える湖面に光が躍っていた。