GG/カイデズ あー腹減ったー、なんかメシ食ってくる、と呑気に部屋を出ていくシンを見送り、カイとディズィーは顔を見合わせる。気を利かせてくれたのか、はたまた本当に空腹だったのか、とにかく部屋には二人しか居なくなった。
「……驚いたわ。あんなにシンが大きくなっていたなんて。最後に会ったのはもう何年も前だもの。……カイさん?」
息子の成長に驚きと嬉しさでディズィーは頬を赤らめるが、彼女が名を呼んだ伴侶はそれ以上に顔を紅潮させ、それを覆うように手に口を当てていた。
「すみません……ちょっと驚いて、というか結構動揺してしまって」
本当にめずらしい、とディズィーは少し目を見張る。カイの感情表現は豊かな方だと思うが、平静さを失うことは滅多にないのに。少し時間を置き、彼はようやくディズィーに向き直る。
「あの子が父と呼ぶのは、ソルだけだったので」
そして見せた表情は、穏やかで、少し寂し気だった。
「それも仕方がないことでしょう。生まれて半年も経たない間に大好きだった母親と離され、見知らぬ男にいきなり預けられて。恨むな、という方が無理な話です」
「でも、それは」
ディズィーもまた、幼いシンの手を離した痛みを覚えている。何よりも守らなければいけなかった、自分より体温の高い、小さかった手。忘れることなどできるはずもなかった。あれほどに自分は無力なのだと思い知らされたことはなかった。それでもなお、そうしなければならなかった。恨まれても、嫌われても、ただシンがシンとして生きることを願ってしまった。
「ええ、後悔はしていません。あのときも、今も。……それでも、手元で育てる事の出来なかった自分の不甲斐なさはわかっているつもりなんです」
カイはそう言いながら苦笑する。
「いささかというか、大分偏りがあろうが、それでもソルは彼なりにシンを立派に育て上げてくれました。あの子に想いを上手に伝えられなかった自分よりも、余程親としての役割を果たしてくれた」
ディズィーが封印されていた間に何があったのか、カイは簡潔に要旨のみ伝えるが、シンについては、彼自身の想いを乗せて、言葉として費やすことを惜しまなかった。
「あれだけのことをしておいて、いや逆かな、何もしないでおいて、父親面などもうできないのだと勝手に諦めていたんです。……でも、あの子の方が私の想像を遙かに超えてしまっていた」
結局ソルの世話になってしまったな、とカイは何となく面白くなさそうに笑うが、その根底にあるのはその態度と裏腹なものであることをディズィーは知っている。
「私たち、いつもソルさんに助けられているんですね。……今も。そうなんでしょう?」
来るべき災厄に対峙するために、ソルもまたこの城に留まっている。だからこそディズィーが解き放たれたこのときに、シンと会うこともできた。
「シンはソルさんと一緒に、たくさんいろんなことを経験して、成長したんですね」
一瞬の邂逅だった。それでもあの青年はディズィーの記憶の中のシンではなく、最後に会った時よりずっと明るい表情をしていた。それだけで、よかったと思ってしまった。
「あの子に何もできなかったのは、私も同じ。あなたがどんなにあの子を愛していたか、ちゃんと伝えてあげられなかった。……ねえ、カイさん」
少しだけ俯いたカイの顔を覗き込み、溢れそうな水を湛えた彼の目元を拭うようにディズィーは指で触れる。
「あなたがとてもたくさんのものを抱えていたこと、あの子は、本当はわかっていたんです」
「ディズィー」
指が目から離れ、ディズィーは両手でカイの頬を包み込んで、こつんと額と額を合わせる。そうすると、互いの瞳がとても近い。
「あなたの帰りが遅い夜も、『パパはきょうもおしごとなの? いっぱいやらないといけないの? パパじゃないとだめなの?』っていつも聞いていました」
幼かったシンに、何と伝えたらよかったのだろう。今なら上手に言えるなどとも思えないが、それでも目の前にいてくれるひとに、ディズィーが今伝えたい言葉は決まっていた。
「私も、シンも、あなたに守られていたから、ここでこうしていられるんです」
青と赤の光彩が互いを捉える。夜の暗がりでも、見失われることのない輝き。ディズィーは手と額を離し、カイに向き直る。
「あの子が体も心も健やかに育ってくれたのを見て、私本当に嬉しかった。あの子を育ててくれたソルさんと、それを悩みながらも選んだあなたはきっと正しかった」
「正しかったとあなたは言ってくれるのですね。……そうであれば良いとずっと願っていますが、どうだったかな」
苦笑めいた表情で、独白のような言葉をカイは口にする。
「呼び方なんて形式でしかないのだし、それはそれで構わないと思っていたはずなんです。それでもやっぱり、あの子が父さんと呼んでくれたことがこんなにも嬉しい」
泣きそうに、けれどひどく綺麗に笑うものだから、ディズィーの胸はぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。けれどその痛みは心を苛むものではなかった。
「きっと、また呼んでくれます。だってあなたはシンのお父さんなんだもの」
それだけは、絶対に、何があっても変わらないこと。ディズィーがカイを愛して、また愛されたから、シンはこの世界に生まれてきてくれた。
「だから、シンの言うとおり、最後なんて言わないで。せっかくシンとまた会えたんだもの、まだたくさんしたいことがあるんです。……私は生きていたい。あなたのそばで」
イリュリアという巨大な国を背負うこの人は、弱さを決して見せない。少なくとも守るべきものに対しては。
「カイさんが守りたいと思うものを、私にも守らせてください。……ずっとあなたはそうしてくれていたのだもの。今度は私も一緒に」
ディズィーの持つギアとしての強大な力。それは忌むべきものだった。それを持っていたから人に追われ、息を潜めてあの森で暮らしていた。けれど、そうでなければ出会わなかった人がいる。辿り着けなかった場所がある。カイに、シンに出会えなかった。それで今為せることがあるというならば、迷うことなど何もない。
「……いつも私はあなたの強さに助けられている。前に進む力を与えてくれる。……ありがとう、ディズィー」
カイの両腕がディズィーの背に回り、額は肩に押しつけられた。そして耳元でぽつりと落とされた呟き。
「甘えたいのは私の方なのに」
少しだけ拗ねた響きをしたそれにディズィーは笑い、自らの手をカイへ伸ばした。その指を彼の手が掬う。
「……手放せなくなってしまうからいけないな。もう時間は残されていないのに」
惜しむような声音を紡ぐ唇が、ディズィーの指に触れる。離れていくその熱に寂しさを覚えたのは、けれど一瞬だった。
「明日のその後で、いくらでも。そうでしょう、カイさん」
その先に、まだ共に在ることのできる日々があることを知っている。確信を持ってディズィーはカイと目を合わせる。
「ええ、そうですね。……次はきっと時間に邪魔されることもない」
そうしてもう一度だけ互いの背に手を伸ばす。束の間の抱擁であっても、それは最後ではなく、また出会うための約束なのだと、ふたりはもう知っている。