種/キラ誕生日2022「バラは、美しく芳しくあるように人の手が加えられ続けている品種ですけれど」
しゃきんとした音とともに茎に鋏が入る。ガーデニングに用いられるそれは、堅い枝をも容易く断つ鋭さを有しているが、慣れた手つきで扱う様には危なげがない。見ている方が鮮やかさを覚える程だった。
「まるでわたくしたちのよう」
ラクスはそう言って目の前の花を眺める。美しい花に向けられる表情は柔らかだったが、言葉から察せられるのはまた別の感情だった。
「これもバラなの?」
キラは花に詳しいとは言えない。ラクスが丹精している花は、彼が知る多弁のバラのイメージとは随分離れた作りをしていた。素朴な野の花のようで、鮮やかな黄色が目を引く。
「そうですよ。これはロサ・フェティダ。黄バラの原種のひとつです。元々は西アジアの方に自生していたのですって」
プラントの暦の上では五月。地球の北半球の感覚で言えば春の終わり、あるいは夏の初め。それに合わせて咲くように調整されたバラの花は、ちょうど今時分が見頃だった。
「それからあれがソレイユドール。少しオレンジがかっていますけれど、あれもこのロサ・フェティダに連なる品種なんですよ」
幾重にも重なる花弁でふっくらとした形を持つそれは、ロサ・フェティダとはまるで印象が違う。
「全然違う花みたいだね」
「そうですね。……人の手でより良い、美しいものを造り上げるのも、また情熱が為せる業なのでしょうけれど」
またひとつ鋏が入る音がした。花が美しく咲くように、こうして人の手を入れる。いくつかの見頃の花を切り花にして、ラクスはバラの花壇を離れる。彼女が自ら手を入れられる程度の、ささやかな庭は今朝も様々な色彩に満ちている。
かつてキラが過ごしたシーゲル・クラインの屋敷には、広大な美しい庭園が備えられていた。人が造り上げた真空の海に浮かぶ箱庭の、そのまた中の庭でキラは目覚めたことを思い出す。
視界に入るいくつもの花々に、きっとあの世とやらにたどり着いてしまったのだと一瞬本気で思ったのだ。同時に自分がそういううつくしい場所にたどり着けることなんてあるだろうかという疑念が過り、思い出したかのように悲鳴を上げる身体に、どうやらまだ生きているらしいと悟ったことも。
そして今もまだキラは息をしている。あのときと同じように、ラクスのそばで。あの頃は想像もできなかった未来に自分は来てしまった。こんなにもおだやかな朝を迎えているなんて、十六歳の自分は信じられるだろうか。どうかな、信じられないかも、とキラは小さく笑う。表情の変化に気付いたラクスが向ける視線に、「不思議だなって、思って」と応じる。
「初めてここに、プラントに来たときは、ここがいつか僕が生きる場所になるなんて思わなかったから」
望んだ未来だったかと問われれば、それもよくわからない。この生き方を選ぶまでに、自分は多くのものを奪ってきたし、また失いもした。それでも今ここにいることは自分で決めた。そばにいたいと想ったひとと共に生きることも。
「でもラクスがいない場所にいる僕も、ちょっと今は想像できないかも」
それくらい、彼女はキラの人生だとか生活の一部になってしまった。
ラクスは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、ついで手のひらをキラの頬に伸ばす。
「……ありがとうキラ、あなたが生まれてきたこの日に、あなたといられることがとても嬉しい」
そしてその言葉のとおりの表情を見せる。
「それは僕が言うことかな」
敵わないなあ、とキラは笑う。
「……きみに出会えたのは、奇跡みたいだなあって」
使い古された口説き文句のようなそれも、本心からの言葉が思わず声になってしまったものだった。
出会えたのは偶然だった。わずかでも場所と時間が合わなければ、きっともう道は重ならなかっただろう。けれどそのたった一度の邂逅が、キラをここにまで連れて来た。そもそも、自分が生まれて来たことさえも奇跡的な確率で、何かが違っていたら生まれたことにも気づかずその生涯は閉じていた。
世界は不条理で理不尽で、おそろしいほど繊細なバランスの上に成り立っている。その中で同じ時を分かち合えることの幸いを思った。
「ありがとう、ラクス。この日に僕といてくれて」
言葉にして、どれだけ伝えられるだろうか。生まれてきたことを、出会えたことをよろこびと告げてくれたひとに。
頬に触れる手のひらを包み込むように、キラは自らのそれを重ねた。
見上げる透きとおった湖の青、指先から伝わる体温、自分に向けられる彼女のすべてを、何ひとつなくしたくないと思った。
「黄色のバラをあなたに贈るのは、本当は相応しくないのでしょうけれど」
そしてラクスが手に取ったのは、ロサ・フェティダだった。人の手に依らぬかたちを持つ花。
「そうなの? こんなにきれいなのに?」
ラクスは少しだけ困ったように笑う。
「『薄れゆく愛』という言葉は、あまり良いものではありませんもの」
「何だっけ、花言葉?」
「ええ。……でも『平和』とも言いますわね。それはとても素敵なので」
慈しむようなまなざしを、ラクスは黄色のバラに向けていた。
「……そうだね。それは、いいな。とても」
人が勝手に与えた意味など関わりなく、花はただあるがままに咲くだけで美しかった。それでも、人の願いを宿したそれを、キラはそっと受け取る。
「ずっと咲いていてほしいよね」
祈りにも似た言葉。まるでその応えのように彼女は微笑んだ。