赤「ねえ、ミニルドくん。それって……」
ドラ公のじっとりとした声が背後から近付いてくる。僕は振り返ることをなくタイを締めた。
「何も問題ないでしょ?」
「まぁ……そうねぇ……」
くつくつと笑っているだけで、それ以上は何もない。粘度の高い、細く伸びる声が耳に絡む。
さも愉快そうな声色に、不愉快さを乗せていることを隠そうとしない。そう、今はそんなことすら気にしなくても構わない状況だったから。
まくり上げた袖は肘の手前で緩く止まっていた。まだ夏服で過ごしているから、腕がこそばゆい。
「せっかくだから、お父さんに見せてあげたらいいのに」
「ねぇ、うるさい」
ドラ公の声が消え、氷を砕く音だけが店内に響く。すぅ、と細く吐き出されるドラ公の呼吸音に含まれる怒気に、気付かないフリをして無視できるくらいには僕も図々しくなった。
目的はそこじゃない。見誤ってはいけない。
今、ドラ公のペースに乗ってやる必要はないのだから。
「アッハッハッ」
甲高い声が、何かをザリッっと削いでいくように耳に届く。わざと不愉快さを引き起こそうとしている、意地の悪い声。
アイスピックを置いて振り返ると、手にした氷と同じ温度の瞳が僕をじとりと品定めするように眺めていた。
「……なに?」
「いや、背は大して変わらないのに、随分と違うものなんだなぁってね」
細い唇を歪に吊り上げて、意地の悪い笑顔を隠すこともなくそう言い放つ。感情を乗せない冷たい瞳が、つむじからつま先までをゆっくりと辿っていく。
ねちっこい視線がいやらしく肌を撫でる。品定めでもしているかのような態度のくせに、ドラ公はそれ以上何も言わずに踵を返す。
「さぁて、私も準備でもしようかね。店長代理?」
こちらを見ることもなくドラ公は厨房へと消えた。誰に言うでもない言葉だけをカウンターに残して。
今、お互いがどんな顔をしているかなんて、見なくともわかってしまうくらいには、お互いの手の内は知られてしまっている。理解まではできなくとも。
「………………はぁ」
一人ではどこかよそよそしさを感じるカウンターで、一つ溜息を零した。苛立ちを抑えられない男の時間はおしまいにしなくちゃいけない。オープンまでにやることはまだ山程あるんだから。
奥の厨房からもリズミカルなナイフの音や、くつくつと沸騰する鍋の音がし始めた。いつも通りの日常。違うのはカウンター内で開店準備をしているのが僕ということだけ。
今日、父さんは組合の会合に行ってしまっているからだ。新横浜から出るのだからと取引先を回ったり、珍しく数日家を空けている。
一日二日程度なら定休日もあるし閉めてしまうのだが、何日もとなるとそうもいかない。ここはただのバーではなく退治人ギルドでもあるのだから。
もちろんマスター業を僕ができるわけもなく、あくまで取り次ぎ役の代行だ。店には昔からの馴染みの退治人がたくさん来てくれていて、フォローに回ってくれている。僕はただの高校生で、退治人ではないから。
僕が今できること。それはこの店をいつも通りに開けるだけ。教わったことをできるだけ丁寧になぞり、いつもに近い状況にすること。まったくの同じにはならないにしても、父さんが築いてきたこの店を数日繋ぐこと。
「大丈夫」
何かトラブルがなければ問題はないはず。開店準備がほぼ済んだ店内を見回した。グラスに氷、フルーツはもちろん、店内の掃除も問題ない。
いつもの父さんを思い出す。開店前、どこに立って、何を見て、何を考えているのかを。一つ一つ、なぞるように確認していく。
普段多くを語らない父さんが、何を思って、何を大切にしているのかをつい追ってしまう。かつての仲間たちをどんな気持ちで見送って、ここに帰ってくる僕をどんな思いでここで迎えているのかを。
父さんの色だった赤のないこの制服で、一体何を思っているのかなんて、本当のことは僕にはわからない。触れられたくはない部分でもあるところだから。
「おっきいなぁ」
鏡に映る自分の姿は、見慣れないものでおかしくて笑ってしまう。言われなくても体型が違うことはわかっている。いくら歳を重ねて昔よりは痩せこけたとはいえ、今でも鍛えている父さんと、ただ学校の運動程度の僕ではわかりやすいほどに差があった。
ベストは胸元からでも袖口からでも手が簡単に入るくらいには隙間ができている。シャツだって、首周りも袖もゆるく余裕がある。これが僕と父さんの差。見ているものの差。
こんなにも強い人を思うだなんて、思い上がりもいいところだけど、この強く鍛えた内側にいまだに癒えない傷があることを知っている。過去にすることも、忘れることもできず、じゅくじゅくといまだに鈍い痛みを生み出している傷。鍛えても何かに没頭しても忘れることなんてできないもの。
誰かに縋ることも助けることもできずに、抱え続けた傷をそのままに生きている父さんの、側にいることはできる。僕にだけできること。だからこそ傷つけてしまうこともあるのはわかっているけれど、知って離れるなんてそれこそ無理な話だった。
カタン
鍵を開け、外にかかる札をひっくり返す。帰宅する人が増え始めるこの時間から、この店の一日は始まる。メニューボードを立てかければ、何人かの人が声をかけてくれた。
ずっと住んでいる街だから。僕たち親子が過ごしている街。
僕が何をしてもしなくても、この街の時間は流れていく。だから僕は笑っていよう。父さんが過ごすこの場所を、少しでもいいものにしていられるように。
「いらっしゃいませ」
いつもの街。いつもの店。いつも通りの日常。
僕のことを何も知らない夕日が、店も、この制服も赤く染めていた。