「ぅ……、あっ…………ん、ぁ」
ちかちかと眩い光が目の前に広がって、今いる場所が上か下かもわからない。開きっぱなしの口から荒い吐息と共に絶えず声が漏れているはずなのに、自分がどんな音を発しているのかすら耳に届かない。
何かが頬を伝い、床と擦れる髪が吸い込み濡れていく。じわりと広がる生ぬるい感覚が体の輪郭を曖昧にしている。
体のあちこちに心臓があるみたいに、全身がうるさく鳴り響いてる。動かすことすら難しくなっている指先さえ、どくどくとけたたましい音で脈打つのがわかる。
けれどそのおかげで、今自分の手足がどこにあるかが理解できた。あんなにも遠くに、何かを求めるように伸ばされた爪先は、赤ん坊のように空を舞うだけで何も掴めない。
ただ四方に伸びた手足の位置に、自分がどんな情けない格好になっているかを想像した。赤ん坊のような、腹を見せる犬のような、成人男性が到底する姿ではないのはわかっていた。
「は、ははっ……」
何かを言いたくても蕩けた頭ではまともな言葉も浮かばない。自分の名前も、目の前の相手の名前すらもうまく思い出せない。
耳に流れ込む甘い音はきっと自分の名前なのだろう。柔らかな音が心地よくてつい口角が上がってしまった。
もう少しだけ聞きたくて腕を伸ばせば、音はより鮮明に脳内に響いた。腕も耳も、声が触れる場所が熱くなる。
すぐ目の前ではくはくと動く唇がある。何を伝えたいのかなんてまったくわからなかったから、唇の動きを目で追った。
「き……も、ち……い、い……?」
どうやら正解だったようで、唇は静かに笑った。それと同時に体の奥に激しい衝撃と新しい熱が生まれた。
体がバラバラになりそうなほどの振動に、慌てて手を伸ばし振り落とされないように抱きつけば、しっとりとした熱が腕に広がる。
中は煮えたぎるようにあついのに、穏やかなあつさがそれを包み込んでいく。何が起きているのかわからなかった。自分の体があついのか冷たいのかさえも、何もわかっていない。ただただ体中を走り抜ける熱に翻弄されるだけ。
「あ……っ、は…………ぅ、あっ……」
どうしたらいいのか、どうするべきなのかも蕩けた頭は考えることを放棄しようとする。ぼんやりと浮かんだ言葉を、うねる熱が簡単に飲み込んでいく。
せっかく何かを思い出せるかというところに、絶えず言葉を流し込まれ思考は停止する。熱に飲み込まれた体は、聞こえた言葉を理解しようと勝手に動いてしまう。
うわ言のように繰り返されていたのは、きもちいい、あいしてる、だと理解したのはだいぶ経った後だった。
そうか。今はきもちのいいことをして、それはあいのあることなのか、とぼんやりと考える。
愛があるから気持ちよくなるのか、気持ちがいいから愛が生まれるのか。そんなことはもうわからない。
きもちいいとは、あいしてるとはなんだろう。聞こえた音を真似てぽつりと呟けば、ことさら丁寧に体を撫でられた。
ペンで描き出すように自分の輪郭が鮮明になっていく。ああ、自分の手や足は、今こんな形をしているのか。
体温の高い指先が触れた場所から、じわりと新たな熱が生まれる。じれったいような燻る熱が、なぜか気持ちいいと思えてしまった。
「あっ……! ぁ、あ……っ」
柔らかな快楽にたゆたっていたのもほんの一瞬。腹の奥がひっくり返るほどの刺激に息をするのを忘れてしまう。
内蔵を裏返そうとする動きは驚くほどゆっくりとしているのに、一気に心臓を貫くほどの衝撃が襲う。内側から捏ねられて撫で整えて、違うものに作り変えられてしまうのではと思えた。
息をするのも上手くできず必死に息を吸い込むと、頭を撫でられた。汗で張り付く髪をゆっくりとかき上げられる。
手の動きにあわせ息をすれば、吐き出すばかりになっていた息が少しずつ整っていく。涙でぼやける視界の先に目を凝らすと、優しく微笑む顔があった。
柔らかく目を細めこちらを見つめている。覚えている。この穏やかな顔は見覚えがある。何年経とうと色褪せることはない。
凛々しいほどに清廉な顔が、こちらを見てくしゃりと笑う。その瞬間がどれほど愛おしくてたまらなかったか。
真っ直ぐ見つめてくる瞳。弾むような音で呼ばれる自分の名前。それだけで表情が緩んでしまう。
そしてそんな中で抱きあえることがどれだけ幸せか、一人だった頃は想像もつかなかった。誰とでもいいわけじゃない。特別な相手だから、心から求め和えたからこそ満たされることを知った。誰かと寄り添って共に歩んでいけることの喜びを教えてくれた。
だからこそ名前を呼んで、触れ合って、繋がりたい。側にいたいと思えたんだ。愛があるからこその心地よさ。それを君は教えてくれた。
ああ、ずっとこうして、溶け合ってしまいたい。木漏れ日のようなあたかいた場所で、二人寄り添っていたい。何度も名前を呼びあって、ずっとここで……。
「父さん」
ひゅっと息を飲んだ。あついくらいに汗ばむ体から血の気が引いて、さっきまでとは違う汗がじわりと滲む。
「あ……っ、あ…………」
目の前には忘れられない人の面影を残した息子の姿があった。同じ顔で見つめてくる。細めた目の形も、柔らかく上がる口角も、よく似ていた。見間違うほどに似た笑顔は、その体に同じ血が流れているのだと忘れることを許さなかった。
「父さん……」
上擦る声で呼ばれているのは、他の誰でもなく自分であった。熱の籠もった声は思考を溶かそうとしてくる。
真っ直ぐ見つめてくる澄んだ瞳を見返せず、思わず腕で顔を覆った。自分が今、どんな顔をしているのかを考えたくなかったからだ。
いや、考えなくてもわかっている。だからこそ見せてはいけないものだった。
この声に、この思いに、返してはいけない。返せるものは何も持っていないから。この瞳が見つめる先には自分ではない誰かではないといけないんだ。
「う……っ、あ……」
思わず空っぽの胃がせり上げてきそうになった。同じ温度の瞳に見つめられて、自分のあるべき姿を思い出してしまうから。
けれど体の奥は今も熱く脈打ち続けている。その浅ましさに唇を噛みしめるが、荒く吐き出される吐息が思い通りにはさせてくれなかった。
こうして体を重ね、心を通わせることの心地よさを知ってしまっているから。愛することの安堵感を覚えてしまったから。だから体は卑しくも欲してしまう。
勝手に溢れ出す涙の理由がどちらかなんてもうわからなかった。ただぼやけた先の笑顔があまりにも似ていて、苦しくて堪らないのに、あと少しだけと望んでしまった。
「父さん」
目を閉じる。これ以上何も見ないように、きつくきつく目を閉じて、あたたかい日だまりの中から逃げ出した。
真っ暗な中、蕩けるような甘い声だけが響いていた。