ニキマヨ『全部、君と僕に繋がっている』『全部君と僕に繋がっている』
◆ EP.1 ◆
掲載誌をシナモンのテーブルの上に置く。
女性誌の大きな見出しは、クリスマスの文字が踊っている。
気がつけばもう冬が始まっていて、あっという間にここまで来てしまったという形容できない感覚があった。
充実感と疲労、『もう』と『まだ』が混じる一言ではいい表せないような感想。
もしも、もう一度春に戻って同じことをするかと問われたら、是とも非ともいえなかったが、そんな奇跡は起きない。
現実はここにある。
一つだけいえるのは今まで過ごしてきた日々とは過ぎ去る時間の速さが違い、その目まぐるしさに息が詰まりそうになるのに、どこか楽しんでいる自分もいることだ。
それはひとえに、憧れていた世界の片隅に立っている自負と一緒にいてくれる人のことを好ましく思っているからに違いない。
(……私の写真が紙面に載っているだなんて)
しかもALKALOIDとしての礼瀬マヨイではなく、礼瀬マヨイ個人としての特集ページだ。
表紙に小さく載る自分の写真がよく知る他人のようで不思議に思う感覚に目を細めながら、マヨイはゆっくりと掲載誌のページをめくった。
(……寒い日は誰かといたい……ですか)
男女問わず良く聞く話ではある。
クリスマスやバレンタインなどイベントごとが続く季節に、一人でいるのは寂しいというのは一般的な感情であるらしい。
それは同じように盛り上がることができない疎外感から来るものなのかもしれないし、可視化される劣等感に苦しむ感覚なのかもしれないし、もっと単純な動物としての本能に由来するものなのかもしれない。
(……まあ、私には関係のないことですが)
元々ずっと一人で生きてきたのだ。
誰かといるよりも自分一人の方が落ち着く。
何よりもその方がふさわしいと思う。
華やかな世界は不釣り合いだし、居心地が悪いだけだ。
さらにそれが誰かとだなんて。
考えるだけで参ってしまう。
(……あっ、椎名さん。
……ふふふ、よく撮れてますねぇ)
紙面には自分とニキが写っていた。
最近なにかと一緒に仕事をする機会が増えた。
ユニットの相性のせいなのか、見た目の違いのせいなのかコインの裏表のようにセットでの企画が多い。
今回はイメージが近い白いふわふわの素材のニットを着て、冬の日の休日恋人とくつろいでいるところをイメージしたグラビアとインタビューだった。
柔らかく微笑む自分とニキを見ていると、自分が自分ではないような不思議な感覚を覚えるし、プロの仕事の凄さを思い知った。
実際のところは置いておいて、まるで包容力のある理想的な恋人のように見える。
(……椎名さんは流石ですねぇ。
好きな人を思い浮かべてなんて言われましたけど……そんな人がいる訳もなく。
仕方がないので、お気に入りのぬいぐるみのことを考えてましたぁ)
温かな光の中、深い色のソファに座って手触りの良さそうなブランケットと共にくつろぎ、愛おしそうに微笑むニキ。
紙面の向こう側にいるにも関わらず、おかしな気持ちになってくるのだから、現実でこれを向けられた相手の気持ちを考えた時、自分には到底耐えられそうにないなと思った。
それくらい魅力的に見えるグラビアだったから書店に並べば、話題になるのは間違いなさそうだ。
そう写真を見入っていた時、後ろからふわりと心地よい香りがして人の気配を感じた。
この匂いは知っている。
ニキがいつもつけている香水だ。
嫌味のない爽やかな香りがする。
「……あっ、この間のやつっすか?」
突然声をかけられたが、慣れたものでマヨイは後ろを振り返ると予想通りの人影に微笑みかけた。
予定調和な反応だ。
「そうなんですよ。
お時間があるなら、ご覧になりますか?」
「いいんすか!?
僕もまだ見てなかったんで、助かるっす」
ニキはそう言うとマヨイの隣の空いている椅子に座ろうとし、思い直した。
「ちょっと待ってて欲しいっす。
すぐ戻るんで」
キッチンの方に蜻蛉返りすると何かを準備しているようだった。
(……できたら一緒に見たかったので……嬉しいですねぇ)
ニキが見ていないことをいいことに浮かんだ笑みを手先で隠す。
この時間、シナモンは比較的暇で、ここに来ればニキとこうして話ができるに違いない。
実体験に基づくマヨイの予想は、おおむね当たったようだった。
もっともここ最近は何故かシナモンにマヨイが来た時に、ニキが忙しかった時の方が少ないのだが。
「お待たせっす!」
ニキはシナモンのマグに入った温かい飲み物を二つ、それぞれの目の前に置いた。
白い粘性のある液体が甘い匂いをたてていた。
「これ……もしかしてこの間の……?」
「そうっす!
一緒にホワイトチョコレートのCM出たじゃないっすか。
あの時に作ったホワイトチョコのホットドリンク、タイミングを合わせてシナモンでも出すことにしたんすよ。
これはその試作品っす」
「あぁ……あの時は寒かったので。
椎名さんが作ってくださったホットチョコレートが本当に美味しくて」
ニキと一緒に雪だるまを挟んでホワイトチョコレートを持った時のことだ。
少なくとも雪だるまは本物の雪だったため手が悴んだ。
そんな時ニキが差し出してくれた甘く温かい飲み物は身体と心に沁みた。
「マヨちゃんあの時も美味しそうに飲んでくれたっすよね?
だから、僕いけるって思ってメニューに採用したんすよ!」
「……そうだったんですねぇ。
期間限定とはいえ、いつでも飲めるのは嬉しいです」
そのたびに撮影した時のニキとのやりとりを思い出すことができて、余計に美味しい気持ちになる。
あの写真もそろそろ世の中に出回るはずだ。
自分たちが知らないところで一人歩きしているようでむず痒い気持ちにもなるが、その分思い出も増えていくようで少しだけ嬉しい。
「……あの時もいい感じだったっすけど、今回のマヨちゃん上手に撮れてるっすねぇ」
「そ、そうですかぁ!?」
「うん、そう思うっす!
このニットも普段とイメージが違うんすけど、こうやってみるとすごい良く似合うし、表情も合わせていいなって思うっす」
ニキに太鼓判を押してもらうと視界の中心に入るのを避けていた自分の姿が急によく見えてきた。
確かにとても幸せそうに見える。
「自然な表情を引き出してもらえたとは思うのですが、私、こんなふうに微笑んだことありませんよぉ!?」
「そうなんっすか?
僕、てっきりそういう相手がいるんだと思ってたっす」
ここに来て『相手』というフレーズに驚き、身体が跳ねた。
「そんな訳あるわけないじゃないですかぁ。誰が好き好んで私なんかを……」
「そうっすか?
僕から見たらマヨちゃん良いとこばっかなんで、当然他の人もそうなんだとばかり……案外わかんないもんっすね」
「は、はぁ……」
ニキはそう言って流れるように人好きのする笑みを浮かべた。
そんなものを至近距離で向けられたら、絶句するしかない。
(……はぁ……陽キャの光に当てられてしまいましたぁ。
椎名さんだけですよ、そんなこと言ってくれる人……)
自分との落差が激しすぎて自己嫌悪することすらあるのに、それでもこうして話をしていると落ち着くからつい寄って行ってしまう。
ニキの言う好きは、本当にそう思ってくれているのだと信じられる。
それがマヨイには、嬉しかった。
(……きっと、椎名さんとお付き合いする方は幸せですねぇ。
きっと太陽の光のように絶え間なく愛情を注がれて……)
なんとなくそれを予想すると幸せな気持ちになった。
人を幸せにできる人が友人であり、自分のことを他の人よりも目にかけてくれていることは良い気持ちにさせる。
ふと横を見るとニキは紙面の文字をつぶさに追っていて、何を読んでいるんだろうと気になった。
「……マヨちゃん、好きなタイプ……これなんすか?
考えたことありませんって、一番面白くない回答じゃないっすか!!」
「そ、そうですかぁあ!?
す、すみません……考えたことがなくて……咄嗟にそう言ったらそれを採用していただけて……」
「つまんないっす!
せっかくなんでいま考えてみて欲しいっすよ!」
「えぇ!?」
まさかそんなことを依頼される日が来るとは思ってもみず、困惑するマヨイをニキは期待を込めて見つめていた。
(……す、好きな……タイプ……?)
本当に考えてみたことがなく、自分以外の人は全て好ましいまである。
悩むマヨイにふと前提が抜けていることに気がつく。
別に異性限ったことではないのだ。
そうなれば、敢えて言うならばそうなれたらと憧れる性格なのかもしれない。
「……明るくて……優しい人、でしょうか」
迷いながらそう言った言葉を受けて、ニキはパッと顔を明るくし、マヨイの方をまっすぐ見ると身を乗り出して言った。
「それって僕も当てはまるっすか?」
「……えっ」
あまりの勢いの良さにマヨイは一瞬言葉を失い、どう答えようか迷っている間にキラキラした目をするニキの圧に屈した。
「……あ……当てはまると……思います……」
「マジっすか?!」
「え、えぇ……」
「他にはなんかないんすか?」
ニキは矢継ぎ早にそう言うとその目を期待でいっぱいにしてマヨイを見つめている。
もしもニキにしっぽがあれば今頃ぶんぶん振り回しているだろう。
頭を垂れ撫でてを要求する犬を前に期待から背くことができるほど、マヨイは非情ではなかったし、何よりもそんなニキを可愛いと思ってしまった。
「そ、そうですねぇ。
一緒にいて落ち着く方……とか」
「本当っすか?!
マヨちゃん前に僕と一緒にいると落ち着くってそう言ってくれたっすよね!
他には?」
「おおらかな方ですか、ね……」
「僕、燐音くんにニキは本当なんも考えてねぇなって褒められたことあるっすよ!
後は?」
「あ、えぇと……美味しいスイーツを作れる方とか」
「僕じゃないっすか!」
マヨイが一つ人物像を上げるたび、ニキがわかりやすく喜ぶのでついつい望むような答えを口に出してしまった。
(……これではまるで椎名さんのいいところ見つけみたいになってしまいましたねぇ……)
内心この状況を楽しんでいたマヨイがふと別の側面に気がついた。
(……どうして私の好きなタイプが自分と同じだと、こんなに喜んでくれるんでしょうか?)
浮かんだ疑問の真意を確かめたくて、ニキを青い目を覗き込むと、不思議そうにこちらを見つめ返し、去り際ににこっと微笑んだ。
顔のパーツの形状が大きく変わるように笑い方をするニキに目を奪われた瞬間、一つの仮説に辿り着く。
(……もしかして、椎名さんは……私のことを……?)
そう考えると急に色々なことの点と点が繋がった。
そして、急に恥ずかしくなり、何も言えなくなる。
(……い、いえ、まさか……だって、そんな……こと……私相手にありえない……!)
浮かんだ仮説を消したくても、否定することができる要素が何も思い浮かばない。
もっとこのことについて熟考したいのに、ニるので、マヨイは心ここにあらずで生返事を返した。
「……あとは、そうっすねぇ。
髪の長い男とかどう思うっすか?」
「い、いいと思いますよぉ?」
「そうっすよね!
僕もなんかもう短いと落ち着かなくて。
マヨちゃんの髪も好きっすよ。
その三つ編み、いつもかわいいっすよね」
「は、はぃいッ!?」
突然の流れ弾を受け意味を理解した瞬間、マヨイの頬は朱に染まった。
(……すき、って……かわいいって……ッ!?
な、なんで、ですかぁ!?
あ、ありえないですよぉ!だって……っ!!)
その感情をきちんと自分の中に落とし込んでしまいたいのに、マヨイの思考よりも先にニキの話は進んでいく。
すでにニキの興味はページの先に向かっていて、カフェの新作特集を眺めていた。
流石おしゃれカフェ激戦区。
ニーズと雰囲気を兼ね備えたスイーツの数々は写真からも美味しそうが伝わってきた。
「ここ美味しそうっすね。
あっ、こっちのプリンも!
パフェも美味しそうだし、この店の焼き菓子も……最近こういうの流行ってるっすよねぇ」
すでにニキの目は半分仕事半分私事に染まっていて、マヨイのことは頭から抜けているようだった。
そのことにほっとしつつ、マヨイはマヨイでスイーツ会としての市場調査として紙面に視線を落とす。
今度差し入れに持っていくものを、若干の現実逃避を交えつつ考えていると紙面を見ていたはずのニキと視線があった。
「マヨちゃん、今度一緒にカフェ巡りに行かないっすか?
メニューの参考に他の人の意見も聞きたいし」
「いいですよぉ。
私も新規開拓をしなければと思っていたんです……」
先程まで考えていたことを忘れ、二つ返事で了承したあとすぐにそのことを思い出すことになる。
「助かるっす!
休日に二人でお出かけって、なんかデートみたいっすね!」
ニキはそう言うと楽しそうに笑った。
ep.2
「……では、明日、10時に……っと。
おやすみなさい」
送信内容が思わず口から漏れていた。
そこまで入力して送信、そして可愛らしい絵文字も送る。
ぴこぴこと動くうさぎが可愛くて、ふふふと目を細め、眠るための格好でベッドの上で横になるとなんとなく過去のメッセージをスクロールした。
気付けばこの間からニキと毎日のようにメッセージのやりとりをしている。
最初は明日の予定の打ち合わせのためだった。
どちらかが寝てしまい、次の日おはようの挨拶を送りあうようになってから、メッセージによる雑談に発展していった。
取り止めのない会話。
おはようにおやすみなさい、お疲れ様でした。
そんな些細なやりとりが増えていって、気がつけば自分の日常の中にニキの存在が溶けていく。
気がつけば通知のマークがつくことが楽しみになっている自分がいた。
(……この時、楽しかったですねぇ。
メッセージを送った直後に椎名さんと鉢合わせして……)
その時の反応を思い出すと可笑しくて、口元に浮かぶ笑みを噛み殺すことなく、枕に顔を押し付けた。
身体の中に満ちるあたたかくて嬉しい気持ちが溢れそうになるたび、こうして枕で塞いで理由のわからない幸せを噛み締めていた。
ただの友達なのに。
いままで自分にはいなかった、少しだけ特別な友達。
自分が人を大切に思えるという事実が、
そして、相手から与えられる好意が、胸を膨らませて、あたたかくした。
この気持ちの名前を知らない。
相手の中にあるだろう気持ちの名も。
ただお互いを繋いでいる気がしているものが愛おしくて、そのことに思いを馳せると自然と嬉しくなった。
(……あした)
ニキと待ち合わせをして、気になるお店で何かを食べて、買い物をする。
別にそれだけのことのはずなのに。
とても特別なことのような気がしてくる。
その時間のことを考えると目が冴えて眠れそうになかった。
時間より少し早くついた。
駅舎のガラスにうつる自分の姿を見ておかしくないか確認してしまう。
白いふわふわした素材のオーバーサイズのニットに普段履くようなタイトな黒いボトムを合わせた。
首元が空いていて素肌が普段よりも多く出ることも身体のラインが出ない服も着慣れなくて、普段とは違う装いに不安になる。
本当にこれで良かったのか、出かける前に何度も確認をしたのに。
自信がなくなるたび、ニキに『似合ってる』と言われた言葉を思い出して無理矢理外に出た。
結局こんな気分にはなるのだが。
(……この格好を見たら、椎名さんはなんて言うんでしょか。
まあ、人の格好なんて気にする方ではないですし、きっと気にも留めないと思うのですが。
椎名さんにとっては些細な賛辞だったと思いますし……)
一緒に紙面を見た時に貰った感想が頭の中に残っていて、服を選ぶ時に手にとってしまった。
その時のむず痒いような気持ちは自分の中だけの感情でいい。
覚えていないなら好都合だった。
逆に意識して買ったなんてことがわかれば、恥ずかしすぎて死んでしまう。
(別に普通の服ですし!!
似合うと言われたから参考にしただけ、それだけなので……)
気合いを入れてもうガラスは見ないこととし、かわりにスマホに視線を落とした。
タイミングよく通知が来て内容に視線をあげると改札から出てくるニキと目があった。
「「あっ」」
お互いに名前を呼ぶ前に相手の服装に目がいって、言葉を無くしてしまった。
ニキが着ているものもマヨイと同じもこもこの白いニットだった。
「いやぁ……まさか、マヨちゃんもそれ着てくるとは思わなくて……」
「は、はい……本当に場が読めず……すみません……まさか、私なんかと……」
「いや、それは僕のセリフなんで……」
もう鏡に映る自分たちすら見たくなくて、マヨイはひたすら俯いていた。
男同士のペアルックなんて異常な状況、それによって全ての人の視線がこちらに集中しているような気がして嫌な汗が出てくる。
唯一の救いは、目的地の通りではクリスマスマーケットをしていて、人でごった返していたことだ。
もともと街並みが綺麗で、お洒落なカフェが立ち並ぶ通りではあったが、今日はそれに加えてて通りの中央に様々なテナントが出店している。
グリューワインやクープクーヘンを売る店からはシナモンやグローブの甘いスパイスの香りがし、クリスマスオーナメントやキャンドルを灯す木工細工の見ているだけでワクワクするような屋台が並ぶ。
赤と緑、そして金で統一されたテントや街灯や軒先を飾るリボン。
まだ12月が始まったばかりだというのに、明日からでもクリスマスが始まりそうだ。
暖かく幸せな夜への期待に満ちていた。
クリスマスに込められた幸福への願いは郷愁に似て、期待やぬくもりを思い出させる。
例え、そんな記憶が自分になかったとしても、自然と笑みがもれる。
少なくともそういった人たちがこの場には溢れていた。
木の葉を隠すなら森の中と言うように、この人だかりにおかげで、マヨイたちに向けられた関心はすぐに埋もれていく。
目移りするような光景とまともに歩くことが叶わない状況にそんな余裕がないのだ。
(……こ、この人混みの中を……私が……ッ!?)
いまからその中に飛び込むのかと思うと足がすくんだ。
「……マヨちゃん、手」
ニキによって差し出された手の意味が分からず、目を丸くするマヨイを気にせず、ニキはマヨイの手を握った。
「よし!これではぐれないっすね!
行くっすよ!」
手を繋いでいるのだと認識するよりも早くニキは歩き出していた。
「し、椎名さん……っ!!あのッ!!」
「大丈夫っす!
店の場所はわかってるんで、僕にまかせて!」
「そ、そういうことではなく……ッ!!」
この状況に戸惑っているのだということをニキに伝える前にマヨイの方に余裕がなくなってしまった。
真っ直ぐ歩くことができないような人混みで、いま手を離してしまったら、人混みに酔うか怖気付いて離脱してしまいそうだ。
それがわかっていてこうしてくれているのかマヨイにはわからなかったが、恥ずかしいという気持ちだけで振り払うことはできなくなっていた。
繋がっている手のぬくもりとニキの背中だけを意識していれば、なんとか足をすめることができる。
(……でも、私……)
ずっと前から早くなっている心臓の音が耳の奥でうるさい。
緊張や羞恥からくるだけの動機ではない。
それがわかっているからこそ、ぎゅっと目を一度閉じた。
(……勝手に……おかしなふうにとってしまいます。
全部。
椎名さんがしてくれること)
手段だとわかっているのに。
何を勝手に勘違いしているのだろうと自分自身が一番思っているのに。
(……別に私だって、どうなりたいだとかそんなことを思っているわけじゃないのに)
自分自身のことすらいまはよく分からなかった。
「外まで並んでるっすね。
予約しておいてよかった〜!」
通されたのは奥まったテーブルだった。
ウォールナッツの落ち着いたブラウンのテーブル、打ちっぱなしの壁と大きなガラスと黒い冊子が印象的な店内だった。
満員の人々のおしゃべりの声と所々に配置されたグリーンが無機質でシックな印象を柔らかいものに変えている。
「全部椎名さんにお任せしてしまって……すみませんでした」
「いやいや、全部僕の好きでやってるんで!
マヨちゃんが付き合ってくれるだけで嬉しいっすよ」
慣れないことの連続で肩を窄めているマヨイに、ニキはにこやかに微笑んだ。
そして、メニューを見ようとしたところでハッとした顔をしてマヨイをみる。
「っていうがこの後、2つお店梯子しようと思ってるんすけど、大丈夫っすか?
マヨちゃん、そんなに食べれる方じゃないっすよね。
僕は甘いしょっぱい甘いしょっぱいすればいくらでもいけるんすけど」
もう今日が始まってしまっているというのに、いまさらの配慮にマヨイは口元を隠して笑うと答えた。
「量は食べらないんですけど……甘いものは好きです。
だから、大丈夫だと思いますよ」
「マヨちゃんは無理しなくてもいいっすよ!
これ以上無理ってなったら、僕に回してくれればいいっす!
その方が色んな味の確認もできるし……」
「はい。わかりました。
お言葉に甘えるかもしれません」
本当にいくらでもいけそうなニキを想像して、小さく笑うとマヨイも前提とすべき事柄に気がついた。
「……でも、私でよかったんですか?
もっと適任が……」
謙遜した後に、内心どこかで『そんなことない』と言ってもらえることを期待している自分を理解して、言わなければよかったと思った。
自分の自信のなさをニキに埋めてもらおうとするなんて。
なんでもない、すみませんと謝りそうになるところでニキが口を開く。
「僕、マヨちゃんの一口目を食べてる時の顔見るの好きなんすよ!
すっごい幸せそうに食べるんで」
ニキはその時のマヨイを思い出し、ニコッと笑った。
「料理人冥利に尽きるんすよ。
あっ、こんな顔して僕が作ったものも食べてもらえたらいいなって。
そこから、それならどんなのがいいのかなって考えるきっかけになるというか……」
ニキはにこにこしながらそう話したが、マヨイの内心は穏やかではなかった。
「えっ……そんなッ!?」
自分がそんな顔をしていた自覚もなければ、それを見られていた自覚もない。
「……見られているなんて……知りませんでした……」
「気付いてからは、いっつも見てるっすよ。
目、キラキラさせてて可愛いなぁって思って……」
「か、かわ……ッ!?」
(だめ、ですッ!!
意識してしまうッ!
椎名さんにとって何でもないことでも、私には……ッ!!
聞くだけで動機が!)
もう口をひらけばドツボにハマりそうで、熱く赤くなった顔を二つあったメニューの一つを覗き込んで隠すことでごまかすことにした。
幸いニキも、もうメニューに視線を奪われている。
(……嬉しいのに、それ以上に未知の感情が怖くて……。
自惚れてしまいそう。
だって、私なら……こんなこと、特別な人にしか言えない……)
こんなふうに二人で出かけることも、誰とでもできるわけじゃない。
ましてや、楽しみに思えるなんて。
そんなの、特別だ。
自分にとっての特別な相手。
「……マヨちゃんは決まったっすか?」
「は、はいッ!?」
「いや、さっきからそのページ見てるんで、どうしたのかなって」
「あッ!?えッ!?ええっと……」
今更、初めて目にしたなんてこと言えるわけもなく、マヨイは慌てて紙面を見た。
メニューに載っているスイーツは、洗礼された見た目だけではなく随所にこだわりが見える仕上がりだった。
その中の一つに目が吸い寄せられる。
「……これを……」
隙のない見た目のスイーツの中に一つだけ可愛らしいジンジャーマンのクッキーが載っているケーキがあった。
「あっ、それッ!
マヨちゃん好きそうだなって思ってたっす。
可愛いの好きっすよね」
「な、何でご存じなんですかぁ!?」
「何でって……バレバレっすよ。
んじゃ、僕はこれとこれにするっすね」
ニキには隠し事ができないのかもしれない。
困惑するマヨイを他所に、ニキは流れるように注文をし、そんな様子をマヨイはただ見つめていた。
注文したスイーツに舌鼓をうって、次のお店ではニキの豪快な食べっぷりを堪能した。
最後のお店に来る頃には、もう日はだいぶ傾いていた。
落ち着いた色合いの店内で、ステンドグラスが嵌め込まれた窓から、夕方特有の橙色の光がさす。
光は窓際に座るニキと深い色をした木のテーブルの上を明るくした。
最近一部で流行している昔ながらの喫茶店には常連客しかおらず、隣の声が聞こえるほどの喧騒はない。
今日の中で一番美味しいは甲乙付け難かったが、一番落ち着くはココだとマヨイは思う。
結果的に昼を抜いたので、最後にもう一つと思っていたケーキが手元に届く。
湯気の立つカフェオレを口元にあて、あれだけあったものがもうなくなってしまったと感心する気持ちでニキの方を見た。
先程までニキのテーブルの上には注文したナポリタンスパゲッティとサンドウィッチがあった。
そして綺麗に食べられた皿は下げられ、代わりにやってきたのは銀色の高台の上に載ったカラメルプリンだ。
プリンの上には生クリームと一粒の軸付きさくらんぼがお行儀よく座っている。
それをいま目を輝かせて見ているので、まだ余裕があるのだと知れた。
(……あの身体の何処に……?)
今日一日一緒に過ごして、その疑問だけは未だ謎のままだ。
ニキはああ言ったが、ニキが食べる姿も美味しそうで気持ちがいい。
それをぼうっと見ていると目があった。
「まよひゃん」
徐にニキが口をもごもごさせると、滑舌悪くマヨイの名前を呼んだ。
視線を改めにニキに向けると同時にべっと舌を出す。
舌の上には赤いさくらんぼの軸が結ばれた状態で乗っていた。
「じょーずにむすべたひゅ」
摘んで皿の淵に乗せる。
「僕、これだけは昔から上手なんすよ♪」
カラッと笑うニキと舌の柔らかさと赤が目に残る。
勝手に意識をしていたから恥ずかしいだけで、赤面した後にそんな反応する必要もなかったと気がついた。
どうしても自意識過剰というか……過敏に考えてしまっている気がする。
「マヨちゃんもやったことあるっすか?」
「あ、ありませんよぉ、そんなこと……」
「そうなんっすか?
僕、長ければ2回結べるっすよ」
実演しようかともう一度軸を口に入れようとするニキを手で遮って止めた。
「お、お行儀が悪いですよぉ」
「……それもそうっすね」
勝手に意識して、少し鼓動が早くなってしまったことが恥ずかしくて何も言えなくなってしまったマヨイをニキが不思議そうに見る。
「どうしたんすか?プリン食べたいっすか?」
「い、いえ……っ!
そういうことではなく……!!」
いま自分の手元に来ているクグロフ型で焼いたドライフルーツのバターケーキだけで十分お腹はいっぱいになりそうだ。
気持ちを切り替えようと粉砂糖が振りかけられた側面にフォークを入れ、小さくした一切れを口にするとバターとフルーツ、ラム酒のよい香りがした。
それが鼻先でふわりと香った時、今日という一日が走馬灯のように思い出された。
「……今日一日、とても楽しかったですね」
噛み締めた後の口の中が甘い余韻に包まれた。
「僕もっすよ。
よかった、マヨちゃんも同じ気持ちで」
にこっと笑うニキを見て、知らず知らずにマヨイも口元を綻ばせていた。
「また今度何処かに行きたいっすね」
「はい!」
予想よりもずっと歯切れの良い返事に驚いたのは二人とも同時だった。
そして先に破顔したのはニキで、にやつきながら口を開く。
「前は何回も誘ってやっと良いって言ってくれたのに、良い反応っすね」
「ち、ちがいますぅ!」
「違わないっすよ。
だって反応が違うんで。
何回も誘い続けた甲斐があったっすね」
ニキはしみじみとそう言い、マヨイはマヨイで昔のことを思い出した。
最初は逃げてばかりで、途中からは渋々付き合っていた。
思えばこんな自分によく根気よく付き合ってくれたものだ。
「……何度も声をかけてくださって、椎名さんには感謝しています。
でも、本当にどうして……?」
もう卑屈でも謙遜でもなく純粋な疑問だった。
ニキは少し考える素振りをして、思いついたように口を開いた。
「……マヨちゃんのことが好きだからっすかね」
「えっ!?」
耳を疑って、思わずニキの顔をまじまじと見てしまった。
ニキからはなんの緊張も見えず、ただ調子良さそうにしている。
「マヨちゃんも今はそうじゃないっすか?」
「あ…ッ、えっ……?」
覗き込まれるのはマヨイの番だった。
ニキの青い目に自分が写り、うっ…と後ろに後ずさった。
そうなのか。
そうじゃないのか。
一瞬のうちに頭の中で議論したが、分かったことは否定することは本意ではないということだけだ。
それ以上のことは考えようとしても、未知の領域すぎてオーバーヒートしそうだった。
「そ、そうなのかも……しれません……?」
「なんでそんな変な顔して、口籠るんすか?!
そうなんすよね?」
「そ、そうです!」
勢いに押されてそう言い切った後に、頭を抱えたくなる衝動をぐっと我慢した。
人目がなかったら、確実に逃走している。
(わ、私は何を!?
変な意味で取られたら!?
い、いえ、そもそも椎名さんはどういう意味で……ッ!?
もちろん、友人としての好意に違いないのですご!!
そんなこと、私が気にする必要はそもそもないのでは!?
ですが、同意した以上、それはまさか……ッ!?)
悩んだところで踏み込んだことが聞けるわけでもなく、ただ
「なはは、よかったっす♪
僕の頑張りが実を結んだっすね」
ニキは満足気にそう言ってにこやかににそう言った。
赤く熱くなった頬を両手で押さえるマヨイを横目に満足のいく回答を手に入れたニキは今日の出来事を思い出しながら、夢見るように話した。
「次行くならどこが良いっすかねぇ。
マヨちゃんの好きなとこでもいいっすよ」
想像だけで楽しそうにしているニキを見ていると、こっちも自然と楽しくなってくる。
「今日みたいになにか食べに行ってもいいし、クリスマスマーケットをじっくり見るのも楽しそうだったっすね」
記憶の中の今日みたポスターや、最近見た雑誌の特集を思い出しているみたいだ。
(……どこに行ったとしても、きっと楽しくて……同じくらい、こうした落ち着かない気持ちになるんでしょうね……)
純粋な好意を受け止めるのは、慣れないからこそ怖い。
同じくらい嬉しいのに。
それを素直に認めることも、表に出すこともマヨイには難しいことだった。
(……この好きは……どんな形なんでしょうか)
初めてで、他を知らないからよくわかない。
ニキと同じだと言われれば「そう」で、それが何かと言われたら「分からない」。
少し特別で、特別すぎない。
ちゃんと形にはめてしまえばいまある関係が壊れてしまう気がして、より深く考えたくなかった。
少なくともマヨイはそうだった。
「マヨちゃんとなら、どこに行っても楽しそうっすね」
「……私もちょうどそう考えていました」
「なら、まだ時間はあるし、行きたいところ思いついたらってことで。
行きたいとことか、したいこと、マヨちゃんも考えておいて欲しいっす」
「わかりましたぁ」
ニキは満足そうに笑った。
(……椎名さんと行きたいところ……したいこと……。
もしも、お付き合いしたりすることになれば……もちろん、椎名さんはそんなこと望んでないと思いますが。
それでも、もしも、そうなったなら……口付けをしたり……それ以上のこともするんでしょうか。
……私が?
椎名さんと……?)
「さぶっ……」
店の外に出た瞬間、寒気で身体が震えた。
日が出ていた夕方まではそれほどでは無かったが、暗くなると一気に寒くなる。
雪こそ降っていなかったが、冬のさすような寒さが外に出ている顔や手を刺す。
店内で温かくなった肌がすぐにでも冷めそうだった。
それでも。
「……綺麗ですね……」
「本当っすね」
冬の寒さは夜の光を一段と美しいものにした。
外に出た瞬間、目に飛び込んで来た街路樹や街頭に施されたイルミネーションの光が綺麗で、思わずため息が出た。
その吐く息も白く変わる。
イルミネーションを見たことがないわけではないはずなのに、こんなにも美しく見えることがこれまでにあっただろうか。
今までもよりもずっと鮮やかで、輝いて見えた。
その理由を考えた時、マヨイはなんとなくニキの方を見てしまった。
「……マヨちゃん、手」
差し出された手を握り返し、引かれるままに歩き出した。
昼間ほどの混雑ではないから、もう実利のために繋ぐのではない。
ただその手に触れたいため。
カバンの中には手袋があったはずなのに、付けるのが勿体無くて取り出せずにいた。
(……あったかい……)
繋がっているところから、溶けてしまいそうなほど。
「あっ、マヨちゃん24日って空いてるっすか?」
ニキは歩くペースを落としてマヨイの方を見た。
「えっと……はい、確か夕方以降なら」
「僕のその日なら調整がつきそうっす」
冬の光の下で見るニキの笑顔は、一際輝いて見えて。
見ているだけで、胸の中が温かくなった。
熱くなった心臓から、とくとくと巡る血液が指の先まで熱くしていく。
「なら、その日、もっとすごいイルミネーション見に行かないっすか?」
「はい……喜んで」
EP.3
吐く息が白い。
外は肌を指すような寒さで。
一人でいる時は外に出たくないと思うのに、いまはその冷たさが何故か心地よいとすら思った。
繋がっているところと街を覆う光がより好ましく思えるから。
冬の夜の空気は澄んでいて、イルミネーションの光が普段よりもずっと特別なものへと変えていた。
色とりどりの光が、道や木々を飾り付け、歩く街並みは何かを祝福しているようだった。
少し前までは、自分にとっても。
いまはその半分も享受できていない。
(……何度も予防線を張って、違うと言い聞かせてきたのに。
いつの間にか、そうであって欲しいと思っていたんですね……)
そのことを思うと胸の奧がツキンと痛んだ。
その痛みが大きければ大きほど、自分の中で大きくなっていたのだと実感した。
(……一度もそんなこと言われたことはなかったのに。
勝手に思い込んで、盛り上がって……私だけが……この気持ちを育ててしまった)
人混みに対して手を繋ごうと差し出された手を拒否してしまった。
手袋をして暖かいはずなのに、ずっと寂しい。
思いもぬくもりも共有することはできない。
でも、もうあの時と同じようには振舞えなかった。
(……椎名さん)
並んで歩く人の横顔を伺い見て、目があった。
そして、どうかしたのかと表情を覗き込まれ悪戯っぽく微笑まれる。
ニキのつける香水の香りがふわりと香り、この香りがする時に感じた楽しかった時のことが思い出される。
本当にそれだけで楽しかったはずなのに。
(……どうして、私だけ……)
ただ苦しくなるだけの気持ちを抱えて、どうしてあのままでは居られなかったのだろうと考えた。
友達以上なのは分かっていても、その先の名前をつけることから逃げていた。
誰にでも、こんなこと出来るわけない、したくないのに。
ずっとこのままでいいと思うのに、同じくらいずっとこのままでいたいから、この関係に名前をつけるべきなのか決められてないでいた。
名前をつけたら壊れてしまいそうで。
でも、名前をつけることで安心したい自分もいる。
そんな曖昧なままで、与えられる幸せだけを受け止めて噛み締めていたのに。
あの日、全部変わってしまった。
きっとニキにとっては何も変わっていないはずで、ただ自分が自覚してしまっただけだ。
きちんと名前をつけてしまった。
『この好きは、正しく恋愛感情なのだと』
ニキにとってそうではなかったと知った今、行き場のない思いは好意を与えらるたび、苦しくて逃げたくなった。
嬉しくて堪らないのに、同じくらい切ない。
こんな気持ちになるのなら、知らなければよかった。
自分自身の気持ちなんて。
(……綺麗)
イルミネーションの一番奥には教会の鐘を模した光の建物があって、一際輝きを放っていた。
こんな時でも、目が奪われるほど光は綺麗で。
その中心で笑って手招きをしているニキを見ていると、何故か無性に泣きたくなった。
(……ずるい。
私にだけこんな気持ちにさせて)
好き、で。
大好きで。
自分の中をこんなにも掻き回されると知っていたら、好きになんてならなければよかった。
(……いえ、それは……好きになれてよかった、です。
でも、だからこそ、もう同じではいられない)
友達と同じように振る舞うことも、
友達の扱いをされて満足することも、
そんな器用なことはできそうになかった。
「マヨちゃん、これやらないっすか」
名前を呼ばれ、ニキのところに歩み寄るとそこには星とハートの形の南京錠があった。
教会の鐘の下にはすでに沢山の鍵がついていて、たくさんの人の願いが込められていた。
形には友達と恋人の関係性が、願いは『共につけた人との変わらない関係』。
硬貨で代金を払ってニキが手に持っていたのは、友情を示す星の形の鍵だった。
それをそっと元に戻して、ハートの形を手に取った。
目を丸くするニキに苦笑することしかできない。
自分でも、こんなことをするとは、
これんなことが許せなくなるとは思わなかった。
こんな子供じみたおまじないでも、この関係が続くことを願うことができなかった。
「……椎名さんに伝えたいことがあるんです」
【ここでマヨイ視点終わり。
扉絵か何か入れたい。
モチーフのかデザインページでもいいな】
「……なんなんですか、ニヤニヤして」
「別にニヤニヤなんてしてないっすよ!」
自分の荷物の前で熱心にスマホを眺め、緩んだ表情を直しているニキにHiMERUは怪訝な顔をしてそう言った。
HiMERUの知るニキは、こんな僅かな空き時間ですらスマホを取り出すような男ではなかった。
軽食を取り出しているのは何度も見たのだが。
最近は暇さえあればスマホを取り出して、何かメッセージを送っている。
現にいまも収録が終わり楽屋に帰ると同時にカバンの中からスマホを取り出して、頬を緩めていた。
次に他の人がここを使うのは聞いている。
一分一秒を争うような状況ではなかったが、のんびりするような場面でもないはずで、それはニキもわかっているはずなのに。
「今じゃないといけないんですか?」
急かすHiMERUに対してニキはいまだに指を動かしている。
「ちょっと待って欲しいっす!
すぐ終わるんで!」
急いでメッセージをタイプしながらも、口元が笑っている。
このやり取りを楽しんでいることは明白だった。
(……彼女か、誰かなんでしょうか)
ここ数ヶ月ずっとこんな感じだ。
浮ついているように見えたし、こんなに熱心に何かをしているニキを見たことがなかった。
いつもの自分を変えてしまうような存在。
月並みな発想だが、恋をしているのだと思った。
(そういう相手を作るタイプだとは思ってなかったのですが)
食べ物をはじめとする、自分の都合を優先する男だと思っていた。
あの椎名ニキが食べ物よりも優先する相手。
そんな奇特な存在に純粋に興味が湧いた。
「……椎名。
ただでさえ締まりのない顔が余計に酷くなってますよ」
「えっ!?
そんなにっすか!?」
ようやく送り終わったらしくニキは顔を上げると、自分の頬に手を当てた。
自覚は本当にないらしい。
こんなにも相手への好意で溢れているように思えるのに。
「誰なんですか?」
隠すか知らない相手か。
踏み込んだことを聞いてみたものの、答えには期待していなかった。
「マヨちゃんっすよ」
「礼瀬?」
予想外の名前に驚くHiMERUをよそにニキは何でもないことのように続けた。
「いまからこのスタジオで撮影らしくて、ちょっとでも会えないかって送ってて……」
「ちょっと待ってください。
最近の相手、すべて礼瀬なんですか?」
まさか今その名前がでてくるとは思ってもみなかった。
HiMERUの知るマヨイこそ、こんな頻度でやり取りをする相手ではなかったからだ。
(椎名も礼瀬もグループチャットで何も話さない常連じゃないですか。
それなのに、そんな密なやりとりが可能なんですか!?)
「そうっすよ。
おはようって言ったり、おやすみって言ったり、週末どこ行くか計画したり、なんか楽しいんすよね。
あっ、マヨちゃん!」
「こ、こんにちは……失礼します……」
楽屋のドアが空き恐る恐る入ってきたのは、マヨイだった。
片手にスマホを持っているのを見るに、直前までニキとやり取りをしていたらしい。
「こっち来てもらって申し訳なかったんすけど、下手に待ち合わせするよりも確実かと思って……この間言ってたやつ、持ってきてたんでいま渡したくて……」
「……私からお願いしたものでしたし……わざわざありがとうございます」
ニキは自分の荷物の中から紙袋を取り出すと、それをマヨイに手渡している。
(この二人が……?
本当に?)
普段と変わらないように見えるが、つい穿った視線で見てしまう。
元々仲が良いとは思っていたが。
「……やけに親密なようですが、二人は付き合っているのですか?」
他人の事情に関与するのはらしくないと思っていても、好奇心が勝ってしまった。
側から見たら奇妙すぎる関係性、いっそそうだと言ってもらえたほうが納得ができる。
「わ、私が!?椎名さんとですかぁ!?
ま、まさか!そんな…ッ!?
そんなこと、ご、ご迷惑だと思いますしッ!?」
驚く猫のような反応をするマヨイに対して、ニキはあっけらかんとしてそう言った。
「やだなぁ、HiMERUくん何言ってんすか。
そんなことあるわけないっすよ」
「……ぇ」
マヨイの表情が凍る瞬間をHiMERUだけが気づいていた。
元々明るい表情をする男ではなかったが、感情が消えていくのをはじめてみた。
二人がどんな関係なのかはわからなかったが、それでもニキの一言がマヨイに響いているということはわかった。
「僕とマヨちゃんは友達っすよ。
すごく大事な。
変な勘違いしないで欲しいっす。
ね、マヨちゃん?」
ニキが明るくそう言い切り、マヨイに向き合う頃にはいつものマヨイに戻っていた。
もともと挙動不審気味で、強く出るタイプではない。
いつも不安を抱えているような。
「は、はい……そう……ですね。
私なんかを、友達だと言ってくださる椎名は奇特な方なので」
何故か一度言い淀んだ。
さっきの変化に気づいていなければ見落としてしまうような僅かな。
「……付き合うなんて……そんなおかしな勘違い、するほうがどうかしてるんですよ」
言葉が端から順番に死んでいく。
それは言い聞かせることで自己を殺していくような。
(……大丈夫、なのか……?)
どちらになんと声をかけるべきか、踏んでしまった地雷を悔やむ間もなく、マヨイはこの後用事があるからと頭を下げると部屋を後にした。
それを笑顔で見送るニキの首根っこを捕まえ、後ろにひいた。
「いいんですか?」
何故自分がこんなおせっかいを焼かなければならないのか。
「なにがっすか?」
まるで分かってないニキを見ていると、怒りに近い感情が湧く。
マヨイへの同情なのか、それとも巻き込まれてしまった自分への憤りなのかはわからない。
ニキの無神経さに対する何かなのかもしれない。
とにかく、同じユニット、同じサークル、その程度の愛着はあったらしい。
「礼瀬ですよ」
「えっ?
用事は終わったっすよ。
それに明後日にもまた会う約束してるし……」
明後日。
思い出すまでもなく、明後日はクリスマスイブだ。
今日の収録もクリスマスに合わせたもので、最近口を開けばクリスマスの話題ばかりがのぼる。
「クリスマスイブに、二人で?」
「そうっす!
一緒にイルミネーション見に行くんすよ!」
屈託なくそう答えるニキに悪気はまるでなくて、純粋にその予定が楽しみなのだいうことがわかった。
この二人の関係が実際のところどうなのか、HiMERUは知りたいとも思わなかった。
どちらが正しいとも、間違ってるとも言えるわけではないのだけど、それでも。
(……少し同情しますよ、礼瀬には)
勝手に推理を働かせ、事情を推測ってしまった償いとして、自分にできる範囲の忠告をニキにはすることにした。
(……マヨちゃん遅いっすね)
駅の改札の先でマヨイを待つ。
夕方といえどもすでに外は暗く、通りは男女のペアで歩く人が大勢いた。
(クリスマスイブなんすのねぇ)
だからなんだと思っていたが、この人の多さだけはうんざりしている。
どこもかしこもいつもよりも人が多い気がする。
(別に今日が空いてただけで、他に意味なんてないっすよ。
僕もマヨちゃんも)
先日、HiMERUに受けた忠告が、いまも胸の片隅に居座っている。
もう少し視野を広く持てや、相手のことを考えて行動しろと言われたが、なんのことだかわからなかった。
それでも、何故か気にかかる。
(マヨちゃんのことなら、よく考えてるっすよ?
好きなものも知ってるし、昨日寝た時間まで……)
大事な友達。
優しくて、一緒にいると落ち着く相手。
控えめなところも、笑うと案外かわいいところも好きだった。
喜ぶことをしてあげたいし、喜ばそうとしてくれることが嬉しい。
今日だってマヨイとじゃなきゃ、出かけなかったし、こんなにも楽しみじゃなかった。
(それだけ。
それだけっすよ)
他に何があるというのだろう。
それじゃ何がいけないんだろう。
(……マヨちゃん、早く来ないかな)
今日は雪が降ると言っていた。
この間おそろになってしまったセーターを着て、寒空を見上げた。
同じような白いセーターを目で追ってしまう。
マヨイに似た香りがした気がして、人混みを探して、全然違ったと落胆する。
同じ香りの人なんているわけない。
あの匂いの香水があれば、買い占めたいくらい。
香りがしたと思うたび、それが待ち遠しく思う自分の記憶がそうさせたのだと思い知るたび、時計の針が進むのが遅く感じた。
待ち合わせの時はいつも楽しみだ、という気持ちしかないのに。
(……なんか、不安。
なんでっすかね?)
きっとマヨイに会えば、こんな不安消えてしまうはずだ。
だって、会えば通じ合えるし、楽しくて……。
(……あっ)
スマホが震えて、電車が遅延していたため遅れるとメッセージが届く。
(……なんだ)
珍しくマヨイが遅れるから、だからこんな気持ちに。
「……椎名さん」
改札から駆け寄るマヨイは、暗い色のタートルネックのセーターを着ていて、よく見るコートを羽織っていた。
(いや、そりゃそうっすよね)
なんでまたお揃いになるなんてことを思ったのか。
普通に考えたらわかるはずのことを一瞬でも期待し自分自身が馬鹿らしかった。
「すみません、遅れました……」
「いや、いいっすよ!
遅延は仕方な……」
隣に並んだ時、ふわりと香る香りが何故か自分のつける香水と同じ香りのものだった。
(……あれ、こんなのつけてたっけ……?)
「いきましょうか」
そう言って目的地の方に歩き出したマヨイはニキの方を振り返らなかった。
吐く息が白い。
外は肌を指すような寒さで。
冬の夜の空気は澄んでいて、イルミネーションの光が普段よりもずっと特別なものへと変えていた。
色とりどりの光が、道や木々を飾り付け、歩く街並みは何かを祝福しているようだった。
人の多さも頭上と隣を見れば気にならない。
「……マヨちゃん、人が多いから手、繋ぐっすか?」
合理的な判断で、嫌がられたことはなかったはずだった。
マヨイは小さく微笑むと緩く首を振った。
「大丈夫ですよ、はぐれないようにしますので」
やんわりとNOを突きつけられた時、胸の奥がツキンと痛んだ。
(……あれ、なんで……?)
あくまでもはぐれないためだけの提案だったから、それが却下されても問題はない。
ただ空いた片手が、空を掴むたび、そこにあったはずのマヨイの手を思うと急に寂しくなった。
(あれ……いや、だって……別によくないっすか?
手袋忘れたの残念だったな、くらいのことで)
それだけのはずだ。
あの時感じたような心が満ちるような感覚はなく、冬の寒さが空いた手の平から入り込み、心まで冷やしていくようだった。
(……マヨちゃん)
さっきからこちらを見てくれない。
何か気に触るようなことをしたのだろうか。
HiMERUに言われた忠告をいまさら思い出して、不安になった。
何もしてないはずだ。
自分たちはいつも通りで。
並んで歩くマヨイの横顔を伺い見た時、ふいに目があった。
せめて雰囲気を明るくしたくて、どうかしたのかと表情を覗き込まれ悪戯っぽく微笑んだ。
そうしたらきっとマヨイも困ったように笑ってくれると信じて。
いつもとは違う香水の香りがふわりと香り、反射的にいつもの香りがする時に感じた楽しかった時のことが思い出された。
こんな表情のマヨイが見たかったわけじゃない。
今日だって楽しいことだけでいっぱいにしたくて。
(……僕、なんかしちゃったんすか……?)
漠然とした不安を抱えて、どうしてあのままでは居られなかったのだろうと考えた。
友達以上なのは分かっていた。
こんなにも好きになれる友人がこの先でてくるとも思えなかった。
燐音に感じる同志のような感覚とは違う、ただやることなすこと、小さなこと一つだって好ましくて、好きになっていた。
それを伝えるたびに、困りながらも喜んでくれることも嬉しくて。
誰にでも、こんなこと出来るわけない、したくないのに。
もっとこの幸せな循環が続けばいいのにと思っていた。
僕は何も変わらないつもりなのに、マヨイは何かが違ってしまっていて。
その理由が分からなくて、分かればきっと解消して前と同じに戻れるように努力したのに。
『いつまでも変わらない、友情のために』
マヨイの気の乗らない態度をどうにかしたくて楽しい話題を振るのに、いつもと同じような反応は返ってこない。
代わりに申し訳なさそうに微笑まれ、それを見るたびにこっちも苦しくなった。
一緒にいてこんなに嬉しいのに、同じくらい胸が痛む。
嬉しくて堪らないのに、同じくらい切ない。
こんな気持ちになる理由が知りたくて、理由を知りたいのに分からない。
自分自身の気持ちなのに。
(……綺麗っすね)
イルミネーションの一番奥には教会の鐘を模した光の建物があって、一際輝きを放っていた。
こんな時でも、目が奪われるほど光は綺麗で。
少しでも明るい話題を提供したくて、中央まで駆け寄るとマヨイの名前を呼んで、手招きした。
泣き出すのではないかと思った。
寂しく微笑むマヨイが痛ましくて、思わず目を逸らしてしまった。
(……たぶん、僕のせいなんすよね)
他に不機嫌になる理由があったとしても、マヨイの性格からしてそれを自分に押し付けるとは思えなかった。
それ程度にはマヨイのことを知ってるつもりだ。
(僕が無神経だから、マヨイちゃんに何かしちゃったんすか?
一緒にいる時は、楽しい気持ちにだけなって欲しいのに)
直接不満をぶつけられないことがもどかしかった。
マヨイが何を考えてるのか知らなければ、何も直せない。
(……なにか……なんかないっすか?!)
助け舟を求めてあたりを見回すと立て看板を見つけた。
イルミネーションの鐘の下に設置されたチェーンに一緒に鍵をかければ、ずっとその関係が保てる。
色んな人が思い思いに南京錠を手に取っている。
(……マヨちゃんとの関係がよくわかんないまま終わっちゃうなんて、いやっす)
星の形の鍵をつければ、ずっと変わらない友情を誓える。
渡りに船とはこのことだった。
ずっといつまでも変わらなければいい、末長く仲良くしていたかった。
「マヨちゃん、これやらないっすか」
マヨイはニキの方に歩み寄ると立て看板の文言を読んだ。
そして、自分を見て儚く笑った。
ニキが手に持っていた星の鍵をそっと下の位置に戻して、代わりにハートの形の鍵を手に取った。
(……な、なんで?!)
ハートは恋人の関係を願うものだ。
マヨイだって、それを読んだはずなのに。
「……椎名さんに伝えたいことがあるんです」
「伝えたいことって……」
マヨイの目には強い意志が宿っていて、その瞬間伝えたいことの重さを理解してしまった。
その熱さを理解した瞬間心臓の音が早くなる。
マヨイは何度も言い淀んだ後に、ハートの鍵をニキに渡した。
「……椎名さんのことが……好きです」
ニキの手を鍵ごとぎゅと握り、その中心を見つめている。
握る手が細かく震えていた。
マヨイの勢いに飲まれて、言葉を理解するのに時間がかかった。
一拍間を置いてから慌てて返事をした。
「……僕も好きっすよ。
前にもそう言って……」
「たぶん、そういうことじゃないんです!」
以前自分からもしたことのあるやり取りだったから、気にすることじゃない、そう伝えようとしたニキの言葉に被せるようにマヨイは言った。
その声は悲痛で、ニキの方が動揺してしまった。
「すみません。
私、こんな……ッ、好きになって欲しいって言ってるわけじゃないんです、こんな私のことを好きになれだなんて……今でも十分なのに……」
「だから、好きって……」
「違う……ッ、そうじゃないんです……」
マヨイの声が震えていて、覗き込むと目尻に涙が溜まっていた。
「大丈夫っすか!?」
それを指先で拭おうとしたニキの手をマヨイは払った。
「……あ…っ」
いま自分がしてしまったことに唖然とするマヨイがまばたきをするとぽろぽろと涙の粒が落ちていった。
「すみません……ッ、本当に。
椎名さんは悪くないのに……」
「マ、マヨちゃん!?」
一度拒否されたにも関わらず、もう一度手を伸ばしてマヨイの手首を掴んだ。
ここはあまりにも人の目が多い。
周りの視線から逃れるように、人気の少ない方へマヨイを連れていく。
(……泣くほど辛いんすか?
僕が……なんかしちゃったから……?)
マヨイの手を引きながら理由を探したけど、まるで分からなかった。
直前の会話にヒントがあることはわかるけど、反芻してもやはりわからなかった。
(……好き……だから?
僕もマヨちゃんのことは好きだし、それで良くないっすか?)
無理矢理繋がっている手のひらの熱に思いをはせる。
折れそうなほど細い手首は頼りなくて、いつ離れるともしれなかった。
(……ちゃんと、好きっすよ。
僕、マヨちゃんのこと……だから、あんな顔しないで欲しいのに)
手を引いて、光と人の波から逃げ続けた先は薄暗い路地だった。
街灯も少なく大通りから外れるため、店も人通りもない。
ようやくマヨイに向き合うことができたはずなのに、自分の正面で俯くマヨイから表情は読めなかった。
月さえ届かない路地に、大通りからネオンの光が淡く届く。
頭上を覆うように電線と高いビル。
どこかの店のエアコンの室外機が動く音と、喧騒の残滓が低く響いていた。
「……マヨちゃん、顔あげて……」
「……いやです」
手を振り解かれ頑なに顔を上げないマヨイにこちらが泣きそうになる。
「でも、ちゃんと顔見て話したいっすよ……」
何か一つでいいから、ヒントが欲しい。
「……こんな酷い顔、お見せしたくない……です」
項垂れ肩を振るわせるマヨイに出来ることと言ったら、手を伸ばすことくらいでニキは肩に触れた。
それは振り解かれなかった。
「……どうして……そんなに優しくしてくれるんですか?」
絞り出すように呟いた声は震えていた。
「友達が落ち込んでたら、当たり前じゃないっすか?」
頼むからそんな声を出さないで欲しい。
できることなら、なんでもしたいのにと思っても何ができるのか自分には分からなかった。
一呼吸置いて。
「……椎名さんにとっての当たり前が」
こぼれ落ちていくように、一つづつ吐き出される言葉が路地に散らばっていく。
「私には特別で……嬉しくて、楽しくて……だから……」
マヨイは顔を上げるとニキに詰め寄った。
背中が壁につく。
驚くよりも先にマヨイの唇が自分のものに触れていた。
「好きになってしまったんです。
……本当にすみません」
身体を離してもニキの胸元を掴んだまま、俯き肩を震わせていた。
「すみません……本当に。
気持ち悪いですよね、私なんかに好かれて……椎名さんは誰でもするように、私に優しくしてくださっただけなのに……勘違いされて……挙げ句の果てにこんな気持ち、押し付けられて……」
「待って!
なんでそんな話になるんすか?!」
俯くマヨイの顔を無理矢理あげさせると、目元が赤く腫れていて、この葛藤はきっと今に始まったことじゃなかったんだと、理解した。
理解した瞬間に、キスされた衝撃なんて吹き飛んでいて思わずその身体を抱きしめていた。
言葉を尽くしてもまだ足りなくて。
どんなことを言えばいいのか分からなかったけど、ただ目の前にいる傷ついた人をそのままにしておきたくなかった。
抱きしめた後、どうしたらいいのか……何を言えばいいのか分からなくて、ただ心臓の音だけを聞いていた。
自分の心臓もマヨイの心臓もこんなにも早く動いていたんだなと思うと、少しだけ楽になった気がする。
たぶんそれはマヨイも同じで、身体から緊張の力が少しだけ抜けたのがわかる。
抱きしめる温もりも人の肌の柔らかさも時に言葉よりも、ずっと有益だ。
「……別に……気持ち悪いなんて思ってないっすよ……」
ようやく出たセリフがこれだなんて、情けないなと思った。
もっと魔法のような言葉が言えればいいのに。
「……美味しそうで……人のことを齧ろうとする人ですから。
……これくらいは平気かもしれないとは…思ってました……」
マヨイの言葉に少しだけ余裕が混じっていて、そのことにほっとした。
応える代わりに抱きしめる力を強くした。
「……でも、私……それを……私以外の人にはもうして欲しくないんです……」
小さくそう呟く言葉を聞いて、ようやくマヨイの言う『好き』の形がわかった気がした。
「……そっか」
「……はい」
マヨイが顔を上げると自分の顔のすぐそばに唇があって、合わせてみてもいいのかもしれないと思った。
明るい緑色の瞳にネオンの光がうつる。
不安にこちらを見つめる目。
(……もう一回)
こんなことを思うなんてどうかしてると思う。
でも、そうしない理由もなくて。
あと、純粋に可愛いな、と思った。
可愛くて、そうしてみたいと思ったから、そうした。
(……さっきは突然でわかんなかったっすけど、柔らかいんすね。
唇って)
唇を離すと驚くマヨイの顔があって、安心させたくて微笑みかけた。
「やっぱ、別に気持ち悪くなんてないっすよ」
一瞬何が起きたのかわからない顔をして、すぐに顔を赤くして俯いた。
「……な、なんで……ッ」
それでも自分から離れずに、服を掴む手に力が入ったのが、かわいいなと思った。
「……同情……ですか?」
先程までとは違う。
そんなことを聞いているけど、そんなことないと分かっている人の声だ。
「そんなんじゃないっすよ。
僕もしたくなっただけっす」
そんなんじゃない。
マヨイの好きは分かっても、自分の好きはわからない。
だって、こんなに好きになった人、初めてだから。
初めての経験に、自分の中の正攻法なんてものはなくて、ただ衝動に任せているだけだ。
「だって、椎名さんは私のこと……」
「好きっすよ」
「違うんです、その好きじゃ……」
「何が違うのか、僕にはわかんないっすよ。
分かるように、してみせて」
マヨイが踏み込んでこれるところがどこまでなのか。
どこまで来たら、自分も無理だと思うのか。
知りたい。
もっと好きにならせて欲しい。
「……ッ」
つんと突き出した唇に、今度はマヨイから唇を合わせた。
今も気持ち悪いなんて感情、まったくなくて。
ただ目の前の人に対する愛情だけが増えていった。
(……やっぱ、ちゃんと好きじゃないっすか……)
閉じていた目をうっすら開けるとニキを必死に喰んでいるマヨイがいて、それを見ていたら余計にそう思った。
好きの気持ちが膨らんでいく。
服を掴んでいた手が自分の背中に周り、角度が深くなった後にマヨイの舌がするりと潜り込んできた。
(……マヨちゃんって結構大胆)
入れた後に動かない舌はここまでしたら分かるだろうと、ただ試しているだけのようで。
それをニキの方から絡めとったら、マヨイの身体がびくっと震えた。
「ん〝ッ!!ん〝ーーッ!!!ん〝!!」
必死に身体を離そうと抵抗しているマヨイを見ていると、興が乗ってしまいニキの方から積極的に口付けた。
マヨイの口内を舌で謎って、前歯の切先に触れる。
「……ッ……ふ…っ……んッ……はぁ…ッ……ん〝…ッ」
マヨイの身体から力が抜けて、ただニキのことを受け入れる頃、唇を離した。
離す瞬間、糸がひいてその先には顔を真っ赤にしたマヨイがいた。
困惑している表情が可愛くて、思わず笑ってしまった。
「なんでマヨちゃんがそんな顔するんすか?」
「……ッ!
だって……椎名さんが……ッ!!」
自分から仕掛けたくせに返り討ちにあうと涙目になるマヨイがおかしくて、悪戯っぽく耳元で囁いた。
「……でも、結構良かったっすよね」
何か言うたびビクッと反応するマヨイを見ていると、好きな子に意地悪している気持ちになる。
「マヨちゃん気づいてないかもしれないけど、すごいえっちな匂いになってる……」
「……勝手に……匂いでこっちの気持ち、判断しないでください……」
「違うんすか?」
「……うぅ……ッ」
からかってそう聞くと、返事はなくて代わりに匂いが濃くなった。
(こんな反応も可愛いって思っちゃうのに……本当に無理と思う時、来るんすか?)
抱きしめた身体を逃さないようにもう一度ぎゅっと抱いた。
マヨイの身体は細くて腕の中におさまってしまう。
「……休憩してく?」
ここに来るまでにラブホ街の中を通りすぎてきた。
現にいま受けてるネオンの光だって、その中の一つだ。
「どこまでやったら僕が無理って思うのか、試してみないっすか?」