小さき命(kiis)小さき命
練習場のベンチ下。わずかな暗がりで蠢く影。
誰もいなくなったフィールドは、綺麗に整備されており、切り揃えられた人工芝はそよりともなびかない。
ミヒャエル・カイザーは、一人だと思っていたフィールドに感じる、何かの気配に眉をひそめた。
──動物か?
まさかネズミだとはいわないよな、“青い監獄”と、隠すことなく不快を舌で鳴らす。未だにもぞもぞと動くそれは、カイザーの存在に気づいているのか否か。小さな体でよりベンチの奥へと進んでいく。
どちらにせよ、駆除を依頼するには正体を確かめねばならない。ベンチを蹴れば、驚いて出てくるだろうが、それでどこかに逃げてしまえば元も子もないだろう。面倒くさいと、対象が逃げ出さないように慎重に近づいていく。
そっとのぞき込んだ先で見つけたのは、カイザーの好奇心を刺激するに十分であった。
◆
バスタード・ミュンヘンのロッカールームへ続く廊下。ひっそりと静まる道で、潔は同チームの黒名と一緒にタブレットをたたいていた。黒名の持つ画面には、各選手の試合と練習記録のデータが映し出されている。
「ごめんな、黒名。急に呼び止めて。ちょっと気になるところがあったからさ」
「構わない。俺も潔と話がしたかった」
謝る潔に、黒名はそう軽く受け止める。練習後、同じタイミングでシャワールームに入った黒名を呼び止めて正解だった。本当は今すぐにでもモニタールームに行って、試合を見返したい気持ちもあるが、他の選手が使っていたのでこっそりと遠慮した。今の時間帯なら、と人の居なさそうなロッカールームを二人は目指している。
「他の奴らは誘わなくて良かったのか?」
タブレットを傾けながら話す黒名に、潔は「ああ」と頷く。
「雪宮とか誘おうかなぁ、とも思ったんだけど……。今日は黒名と話したかったし、また今度にする」
「そうか」
何気ない会話はそこで終わり、すぐに次のトレーニング内容に移行していく。足音と二人の話し声だけがこだまする廊下は、目的地へたどり着くには不十分過ぎるぐらいに短かった。部屋に足を踏み入れようとした時、ふいに潔が足をとめた。
「潔?」突然止まった潔に黒名もぴたりと隣につく。「どうした、入らないのか」
「あー、いや、なんて言うか」
歯切れの悪い物言いに、黒名もちら、と見る先に目を動かす。ロッカールームの映る視界のはしに見えた青。むかつくほど美しく靡くグラデーションに、黒名は「納得」と頷いた。
誰も居ないと思ったロッカールーム。その中央、平行に並んだベンチに、その人物は座っている。長く伸びた足をゆうたりと組み、男──ミヒャエル・カイザーは何やらご機嫌そうにしていた。
まだこちらには気づいていない様で、カイザーはその手元を見続けている。潔としては、このままひっそりと消えてしまいたい。しかし、このまま戻るのも何となく負けた気持ちになる。隣で待ってくれている黒名も、潔の動向をうかがっている。
さて、どうしようか。
体半分はすでに帰路の方角へと向いていた潔だが、ふとカイザーが手にしている物体に目がいった。よく見ればそれは、手の中で無象に動いている。さほど大きいわけではないようで、すっぽりと体は手中に収められている。時折指の間から除く小さな手足の様なものが、カイザーの甲をうざったらしく叩いた。
(何やってんだ、あいつ。動物? でもこんなところで見つける動物なんて……、まさかネズミとか言わないよな)
うげ、と顔をしかめる潔に、黒名も気付いたのか、ジャージの裾を軽く引かれる。
「い、潔、あれって」
「黒名も気付いたか? 何捕まえたんだかわかんねぇけど」
「え」
「え?」
思わず向かい合った顔と顔。
そんな変な事言ったか、俺? と、首を傾げる。
「潔だろ、あれ」
そう言って黒名の指さす先は、カイザーの手の中で。「俺?」とまた集中して視線を向ける。
──大きな目が、こちらを見つめている。
「うぉっ!」
驚いて出た声はロッカールームに響き渡るほどの声量で、しまった、と口を押さえた時にはもう遅かった。
くるり、と振り向いたカイザー。その手に仕舞われ、尚も逃げだそうともがいている物の姿も、良く見えるようになる。
大きく開かれた深い青の瞳。ずんぐりとした体には、申し訳ない程度に伸びた小さな四肢。そして、頭に揺れる双葉。
その小さな生き物は、まさに“潔世一”をデザインとした、人形であった。