「イヌピー、おいで」
「ん、」
俺の姿を認めた途端、ココはぱたりと読みかけの本を閉じて、自分には到底真似出来ないような甘ったるい声で俺を呼んだ。
二人で一緒に眠る前のわずかな時間。
ベッドに乗り上げて無意識に甘えるように擦り寄ると、髪、頬に触れられながら名前を呼ばれた。
連勤が続いていつもより少しだけ疲れている時、納期の迫った案件をいくつも抱えて、対応に追われて帰宅した夜。それ以外でもココはこうして俺を甘やかす。そしていつも優しくキスをくれるのだ。
キスをするのは決まってココから。
他人から見てもきっと、愛おしいものを見る目で俺を見つめるココの視線はいまだにくすぐったいけど、同棲を始めたばかりのころより大分慣れた。
ココの顔が近づいて、その合図に自然と俺は瞼を閉じてじっと唇が触れ合うのを待つ。
ココはそういう甘い雰囲気を作るのが上手い。今日のように俺を甘やかす時だけでなく、朝昼晩、ココのキスしたいタイミングで名前を呼ばれて、俺は誘導されるように自然と瞼を閉じるようになっていた。
セックスをするときだけじゃない。日常の隙間に入り込むように、時には軽い挨拶をするようにココは俺とキスをしたがる。外国では挨拶がわりにキスをすると聞いたことがあるが生憎ここは日本だ。
けれど最近は抵抗をしようと思わないくらいに、俺は一日に何度もするキスに疑問も持たなくなるくらい、それはもう俺たちの生活の一部のように溶け込んでいた。
「舌入れるとヤりたくなるから、今日は軽いのだけな」
「ん……っ」
指を絡めて啄むだけのキスをして、何度目かで唇をくっつけたまま、お互いの背中に腕を回して抱きしめ合う。セックスしなくても、こうしてココの体温が自分の中に染み込んでいくような抱擁は俺を安心させた。
けれど本当は今日、深いのがしたかった俺は舌先で控えめにココの唇をつついてみる。するとすかさず「コラ」と咎められて唇が離れていった。
今日触れ合うだけのキスに留まっているのは、このところ俺の仕事が忙しくて、セックスしてしまえば明日に響くだろうというココなりの気遣い。分かっていてもどこか物足りない。
「イヌピー、今日は我慢だろ?」
額を合わせられて、たしなめるような声色でココが言った。
「今日ヤりてえ」
「絶対明日の朝ダルくて素直に起きねえじゃん」
我慢我慢。そうココは俺に言い聞かせるみたいに諭すように囁いて、再び触れるだけのキスを再開する。頭を撫でるように髪に触れてくる手つきが、いつもより優しい気がした。
こうしてココとキスをしていると、同棲を始めて少し経った頃の失敗を思い出す。
触れ合うだけのキスにも大分慣れてきて、今度はエロい気分になるキスをココに覚えさせられていたころ、自分からもココにキスしてみたくなった俺は、作法も何も分からずに取り敢えずココの服を引いて唇を合わせた。
けれどそれがよくなかった。勢いよくガツンとぶつかった互いの歯。その衝撃にココも俺もびっくりして、そっと顔を離せば痛みに歪んだココの顔。自分の歯が鈍く痛んだことはどうでもよかった。それよりもココに痛い思いをさせてしまったことが悲しくて、思いの外落ち込んだ。
そうして初めて自分からしてみたキスは失敗に終わってしまったのだ。
ココは気にしなくていいと言ってくれたけれど、そのつもりでココに近づくと途端に体が躊躇する。それに俺がココみたいに雰囲気を作ってスマートにキスするところなんて正直思い浮かばない。また失敗したらと思えば自分からココにキスをすることは無くなっていたのだ。
◇
依頼の来ていたバイクのメンテナンスは無事納期までに終わらせた。明日の休みは気持ちよく過ごせそうだと、仕事の休憩中、昼飯に買ったパンを咀嚼する。
世の中で起こる出来事、ニュースには正直そこまで興味がないが、定期購読しているバイク雑誌は読み尽くしてしまっていたから仕方なく携帯を弄る。
適当に流し見していると、目に入ってきたのはポッキーの日という記事。今年は何味のポッキーを食べる? という煽り文句と共に記事の画像には沢山の種類が並んでいた。
ポッキーなんてどれも一緒だろ、と思っていたのに、期間限定、苺味のソイツを見れば少しだけ興味が湧いた。
そして俺は思い出した。昔、先輩達が男同士でふざけてポッキーゲーム、なんてのをしていたことを。先に折れた方が負けのゲーム。どっちが先に折るかを予想して、先輩たちは金を賭けて盛り上がっていた。
頭の中でぱちんと何かが弾けたように閃く。これは使えるかもしれない。自分からココにキスをする練習に。
◇
「ココ、これ……食うか?」
ココの用意してくれた飯を食べて風呂に入った後、仕事終わりに買っておいたポッキーを手にココの元へ向かう。
ソファに座ってタブレットを弄るココが視線をこちらへ目を向ける。企みがココにバレるのではないかと少しだけドキドキした。
「ポッキー?」
「今日、これの日らしいって見たからなんとなく」
「へえ、珍しいじゃん。しかも苺味」
腹いっぱい、と断られるかと思ったがココの胃はブラックホール並みに入る。何度外食で俺の食べきれなかった分を食べてもらったか知れない。
自分の隣をぽんぽん叩きながら「こっち座れよ」とココが言った。断られなかったことに安堵しつつ、この先上手くやり遂げられるかと心配になる。今日こそはココに自分からキスしたい。
その企みのために用意されたポッキーの箱を、ココのかたちのいい指が開けていく。それを見ながら、なんでもない風を装って俺は話を持ち出した。
「なぁココ、」
「うん?」
「ポッキーゲームって知ってるか?」
「知ってるけど」
ぴたりとココの動きが止まって、その瞳がこちらを見る。やりてえの? と聞かれているみたいで、恥ずかしくなった俺は、昔先輩達がふざけてやっていたのを思い出して、それで買ってきたのだと言い訳のように口にした。苦しい言い訳だと思った。ココのことだ、すぐに俺の企みを見抜かれるかと思ったのに、その反応は想像したものと違っていた。
「ココ……?」
その話を聞いたココの表情は、いつの間にか険しくなっていた。黙ったかと思えば眉間に皺を寄せ、先ほどの悪戯めいた雰囲気も消えている。一瞬にしてココの雰囲気が固くなったのが分かった。
「イヌピーもそれ、先輩達とやったの?」
明らかに面白くなさそうな顔でココが言った。
ココは昔からこういうところがある。俺が昔の族の話を持ち出した時、自分の知らない話があればその時のことを探るように聞いてくる。そしてその時の機嫌はあまりよくないことがほとんどだ。俺はこの話題は失敗だったか、と心の中で後悔した。
「やってねえ」
「ホントに?」
「本当に。第一賭ける金がなかった」
いくらチームの人間でも野郎とキスするなんて嫌悪感がある。賭け事に使っていい金がないのは本当だったけど、そう言っておけば自然とその輪から外され、そして正直に言えばそのことに安堵していた。
「そっか」と呟いたココはまだ完全には納得していないようにまだ何か考えているみたいで、けれどふいに口を開いた。
「ねえイヌピー」
「何だ?」
ココの親指が弾力を楽しむように俺の唇に触れる。
真面目な話をする時の、そしてあまり機嫌の良く無い時のココの顔。心の動きと、それに連動する表情の変化も、一緒に生活するようになって俺は随分詳しくなった。
「……金があったらやってたワケ?」
その顔は、俺の「やってない」という答えを確認して、早く安心したいと言っているように見えた。
そのくらい分かれよ。同棲して結構経つのに、自分がまだどこか完璧には信用されていないのかと悲しくなる。
だんだんイラついてきた俺はココから箱を奪って、袋を雑に開けてピンクに色付いたポッキーをココの口に咥えさせる。ココの肩を掴んでこちらを向かせて、勢いで反対側を自分で咥えると苺の甘い匂いが広がった。
少し驚いたようなココと目が合って、怒りが徐々に萎んでいく。後に引けずに、誤魔化すように食べ進めていくと、ココもそれに倣って少しづつ咀嚼し始めた。
ココの顔が段々と近づいてくる。キスする時はいつも目を瞑っているからこの距離でココの顔を見るのはレアかも知れない。
じわりと口内に唾液が溜まっていったのは、チョコレートの甘さだけが原因ではないと思う。俺は近づくココの顔が上手く見られずに、たまにココと目があってもすぐに逸らしてしまう。
あと少しで唇が触れ合う寸前、このままキスする流れに覚悟を決めて、目を瞑ったところで耳に何かが触れる感覚がした。驚きで体が跳ねて、咥えていたポッキーが呆気なく折れる。耳に触れたのはココの指。キスをする時、癖のようにココは俺の髪や耳を弄りたがるのだ。
「っ、」
「イヌピーの負け。てか苺味初めて食ったけどうまいな」
折れたポッキーを指で押し込んだココが、先ほどの仕返しのように意地悪さを含んだ顔をする。
ココめ。心の中で悪態をついて、もう一回、とせがむ。
けれどその後何度やっても結果は惨敗だった。あと少しで唇の触れ合う距離でココが毎回手を出してきたからだ。最初のように耳に触れてきたり、体をくすぐってきたり。今回こそはと思って毎回覚悟を決めても、唇の触れ合う寸前、ココに手を出されて呆気なく俺の負けに終わった。
だんだんこの状況に焦れた俺は、ヤケクソ半分で残りの数本を一気に掴んで、ココに見せつけるようにボリボリ咀嚼してやった。
「イヌピー?」
「もう辞めだ」
甘ったるい苺味に頭がバカになりそうだった。同時にどこかで思っていた。こんな馬鹿らしいゲームで仮にキスできたとして、それは俺からしたことになるのだろうか。
「イヌピー、おいで」
膝に乗るように誘導されて、素直に応えてやるのも何だか悔しくて躊躇った。ぽんぽん自分の膝を叩くココをそのままにするのも悪い気がして、渋々という顔を作って緩慢な動きで首に手を回す。
「意地悪して悪かった」
膝に乗っている分、こちらの方が目線が高い。俺を見上げて目を合わせながらココがそう言った。
そんな、俺を見つめるココの顔をペタペタ触ってみる。色気のある触り方なんて知らないが、ココの真似をして耳に触れて、優しく髪を弄ってみた。しばらくそうしてみたけど、くすぐったそうにされるばかりで、一向にココが作るような甘い雰囲気にはなってくれなかった。
「なに、どうしたのイヌピー」
流されてくれるどころかニヤニヤ楽しそうに笑うココにイラついて、膝の上から退こうとしたのに腰に腕を回されていて動けない。
「……散々焦らしやがって」
「悪かったってば」
「ココ、動くなよ。…………今日は俺からキスしてえ」
ココの頬を両手でできる限りそっと包む。俺の言葉を聞いたココに、どこか嬉しそうに見つめられる。
改まって自分からするのだと思えば心臓が煩くなり始めた。いつもされているようにただ唇を合わせる。今日はそれが自分からというだけ。たったそれだけのことなのに。
ずっと思っていた。俺からキスをしなくなってからもココは毎日のように自分からしてくれた。俺がココの立場だったら、自分からばかりするのは、寂しいかもしれない。
キスを待つココの顔を記憶するように眺める。なんでも器用にこなせるココの無防備な顔をこうして観察したのは初めてだったけど、ちょっとかわいいかもしれないと思った。
呼吸を止めて、ゆっくり顔を近づけて、精一杯優しく。そっと触れるだけのキスをした。いつもココにされている、もっとエロい気分になれるヤツもしてみたいけど、今日はこれでいい。これで満足だった。
ゆっくり顔を離して目を開けると、ココにすかさず頭部を押さえられて再び唇が触れ合った。ぬる、と舌が割り込んできて、口内を荒らされる。やっぱりココはキスが上手い。俺の好きな上顎。そこを舌でゆっくり擦られてすぐにとろけそうになる。口内に残った苺味が、お互いの唾液と絡まって余計に甘く感じた。
ゆっくり唇が離されて、どちらのものかわからない唾液でココの唇が濡れていた。それがなんだか凄く色っぽい。
「……イヌピーからキスしたいって言ってくれたの、すげえ嬉しかった」
「……ココ、」
「うん」
「やっぱり……俺からもたまには……したいかもしれねえ」
歯切れ悪くそういうと、パッとココの顔が明るくなる。けれどすぐになにか噛み締めているようなよく分からない顔に変わった。うん、うん、と嬉しそうに頷いたあと、
「イヌピー、嬉しい」そう言って苦しいくらいに抱きしめられる。
「俺からばっかりしてもいいけど、イヌピーからまったくキスしてもらえないの、少し寂しかったから」
耳元でぽそりと囁かれた声が、本当に寂しそうで胸がきゅっと苦しくなる。
俺も受け入れるだけだったの、ちょっと寂しかった。俺だってココが好きなのに、一方的に気持ちを貰っているみたいで。そう言葉にはせずに「うん、」と呟く。
「最初の頃、歯ぶつかったから? イヌピーから全然してくんなくなったの」
「……あぁ。ココ痛そうだったし申し訳ねえと思って」
「そんなこと気にしなくて良いのに」
ゆっくり体を離したココが俺を見つめて、何かを思いついたような顔をした。
「じゃあさ、明日から一週間、俺からはキスしねえから全部イヌピーからしてよ」
ちょっと甘えたような表情と声色で俺を試すみたいにココはそんなことを言った。
言葉に詰まった俺を見て、ココは一回もしねえのはナシな、と釘を刺してくる。
「全部って、全部?」
「全部」
当たり前のようにココは言った。朝目覚めた時も家を出る時も、夜寝る前も、果てはセックスの時も含まれるのだろうか。ため息をつきそうになりながら、けれど今まで自分からキスすることから逃げていた罪悪感のようなものも胸の中に居座っている。俺はココの提案に仕方なく頷いた。
「分かった。………けど明日から……俺からキスする代わりに今日が終わるまではココからな」
「イヌピー、そういうかわいいの、どこで覚えてくんの?」
はあ、とため息をつきながら、けれど嬉しそうな顔のココに再びぎゅっと抱きしめられる。
「……後ろの準備、してある」
ココの背に腕を回してそっと呟くと、その体がピクリと反応した。
明日は俺の仕事が休みで、ココの授業は午後からであることを知っていた。長い夜になりそうな予感がした。