あなたの瞳が欲しい どんぶりの底までうっすらと透ける黄金色のスープは、肉の油が溶け出て甘みを引き立て、深いコクを生み出していた。
「っぷは~! ひと仕事終えたあとのラーメンはやっぱ美味い!」
両手で傾けていたラーメンどんぶりの器を屋台のテーブルに置くと、詠は幸福たっぷりの息を吐いた。
「仕事って、今日は刀衆のお役目でもしたの?」
「このサボリ魔がそんなことしてるわけないだろう、鬼火」
くだらないことを聞くんじゃないよ、と冷たくあしらう九尾の狐に、詠の隣で頬杖をつく鬼火は「じゃあ何?」と首を捻る。その鬼火の前に赤い爪先が伸びてきたかと思うと、ミントを添えたシャーベットの器が置かれた。鬼火がわぁ! と喜びの声を上げれば、続けて彼に柄の長い匙を差し出した鎌鼬が「んなの決まってんだろう」と可笑しそうに笑う。
「烏天狗の使いをしていたんだろう?」
「当たり。むしろ、それしかしてない」
「相変わらず、こき使われているねぇ」
くすくすと楽しそうな九尾に、詠は何を返しても情けない気持ちになるばかりで、黙って口を尖らせた。
妖怪の中でも強靭な力を持つ烏天狗に、そうとは知らず使役しようとけしかけたのはもう随分と前の話だ。季節が何度巡ったか数えることすら恐ろしいが、そろそろ解放してくれてもいいのに。心中でそう愚痴ってから、同じようなことを以前にもこの葛ノ葉で溢したことがあったと思い出す。あのときも九尾の狐には「バカだねぇ。人間の生なんて妖怪にとっちゃ瞬きほどのことだよ」と笑われたので、まだまだこの生活は続くのだろう。
「勘弁してくれ……」
「詠は、まだ帝都に戻る予定はないの?」
シャーベットの冷たさに酔いしれながら、鬼火が話しかけた。口元についたわんぱくな汁を九尾の狐が布巾で拭ってやる。
「今のところは。中央も人手が足りてるみたいだし、俺や重みたいな問題児は、むしろ英隊長とか蒼みたいな真面目な連中の目が届くところに置いていた方が上もラクなんだろうよ」
「目が届いてなかったから、あのうさん臭い眼鏡も悪さしたんじゃねぇの?」
妖怪の辻切事件と、それに伴う騒動からも半年は経つ。鎌鼬はあのときの被害について未だ不満を抱いているらしい。
ここでうっかりフォローする相手を間違えると、烏天狗に負けず劣らず短気な鎌鼬が何をしてくるのかわからないので、詠は「そうとも言う」と適当に濁した。
「すぐ帰るわけじゃないなら良かった! 詠がいなくなったら寂しくなっちゃうもんね」
「鬼火……嬉しいこと言ってくれるじゃん!」
妖怪とはいえ、ラーメン葛ノ葉は行きつけの店。鬼火や鎌鼬とも他の刀衆に比べれば親しくしている。素直に嬉しくて、「こいつぅ~」と鬼火に抱き付こうと伸ばした腕に、ボッと青い炎が散った。
「わわわ」
慌てて隊服の裾を叩いて鎮火させ屋台の奥を睨んだが、九尾は涼しげな顔で扇子を揺らしている。この店主のことも嫌いではないが、こういうところは絡みにくい。鬼火は九尾の狐の妖火から生まれたという。我が子のような鬼火がカワイイのはわかるが、少しは手加減もして欲しいものだ。
「別に、ボクは寂しくないけど」
そのカワイイ鬼火はといえば、匙をぺろりと舐めながら先程とは真逆のことを言う。
「えっ」
「だってボクや鎌鼬は、人間界に遊びに行けるもん!」
「あ、そういうことね……」
「オイオイ、流石に帝都の中央となったら気軽に行けるもんじゃねぇぞ」
「そーなの?」
「そーだよ」
呆れながらも、鎌鼬は仕方のない奴だというように笑っている。九尾も鎌鼬も、悪戯好きの鬼火に甘い。
鬼火の悪戯に一番振り回されるのは、人間サイドなんですけどね。
「じゃあ僕が寂しくなるってこと? そりゃあこのラーメンが味わえなくなるのは残念だけど」
「お望みなら人間界まで出前をやろうか?」
「念のため聞くけど、誰が作って誰が運ぶんだ?」
「そりゃもちろん、ウチの優秀な丁稚さ」
「だと思ったよ!」
「もーっみんな違うよぉ、ボクが言ってるのは烏天狗のこと!」
「はぁ?」
三人の視線が鬼火に向く。詠のあげた素っ頓狂な声に、鬼火は大きな瞳をにっこりと細め「詠がいなくなったら、烏天狗が寂しがっちゃうでしょう」と楽しそうに繰り返してシャーベットを頬張った。
「ほいよ、これでいいかい?」
「上等。何かつまみになるものはある? できれば、漬物とかだと有難いんだけど」
「そんならこれ持ってきな」
右手と左手に一本ずつ酒瓶を持っていた男の頭の後ろから、三本目の腕が出てきて口を縛ったビニール袋が眼前に差し出された。
赤い汁が染みた袋の中身は、人間界で言うところのキムチだろう。稀に怪しげな食材を使った紛い物を売りつける妖怪もいるが、ここの店主は烏天狗や蛟とも馴染みのある、信頼できる妖怪だ。詠は三本腕の店主から商品を全て受け取ると、代金を支払って店を後にした。
店から少し離れて開けた通りに出ると、行き交う妖怪たちの中に紛れて、ひと際目を惹く美しい男が気だるげに立っている。
昼間、葛ノ葉で聞いた鬼火の言葉が浮かぶ。それをすぐに振り払って、詠は男へと駆け寄った。
「お待たせしました、烏天狗さん」
「ああ」
ぼうっと妖怪の群れを眺めていた烏天狗がゆっくりと詠の方を向く。白い肌は人間とは違うイキモノであることをありありと示し、千里先まで見通すという瞳の下に宿る小さな黒子がミステリアスさを助長する。緩く結われた長い髪は妖気に満ちていることが、人間である詠にもなんとなく感じ取れた。
詠が購入した品をちらりと見ると、烏天狗は「ご苦労」と呟いて大きな団扇を優しく扇ぐ。ひゅるりと吹いた風は詠の腕の中の品々を文字通り巻き上げると、西の空へと低空飛行で飛んでいった。代わりに、詠の手の中へちゃりんちゃりんと硬貨が音を立てて落ちる。
「暇つぶしに賭博に一枚噛んだら思いの外儲けた。取っておけ」
ラッキー。合計の代金よりも多いそれを有難く懐へ仕舞う。顔を上げたときにはもう烏天狗は歩き出しており、詠は慌てて追いかけた。
「今夜は何の用? 今朝集めた妙な虫の関係なら、悪いけど帰りますよ。あいつら捕まえるのに入った草むらで何かにかぶれて手が痒いんで」
「それは災難だったな。鎌鼬に塗り薬を貰わなかったのか?」
「貰いました。多少マシになったけど、そろそろ効果が切れてきたんだ」
「なら後で塗り直せ」
なんだその言い方。一切振り返ることのない烏天狗を後ろから睨みつける。
今朝、早朝から呼び出されたかと思えば、烏天狗に命じられたのは虫取りだった。例の団扇で吹き飛ばされた体は川辺の草むらに落とされ、虫取り網と虫かごを受け取る。烏天狗は、ブンブンとハエのように飛び回る謎の虫をカゴがいっぱいになるまで捕まえろと言い、当の本人は寝床に帰っていった。投げ出せば後が恐ろしい。草むらからの帰り道もわからない。完全に詰んだ詠は、夏休みの小学生のごとく虫かごを首からぶら下げて網を振り回し、言われた通りにそこらじゅうを飛んでいる虫を捕まえることに専念した。
三時間ほどで命令を遂行し、朝食も食べていないことに気付いて葛ノ葉に行ったのだ。何かの葉にかぶれていることに気付いたのは、鬼火のふざけた発言のすぐ後。強烈な痒みに襲われて騒ぎ散らし、鎌鼬に処置してもらって……としているうちに、刀衆の午後の任務に呼ばれたため、あの発言の真意も聞くことができなかった。
今どき、妖怪を使役しようなんて馬鹿な考えが浮かぶ人間はそういない。詠や重のように自分の力を過信した刀衆が立て続けに現れたのは珍しい事だった。そう思えば、烏天狗が「自分の言うことを聞く都合のいい人間」として詠を気に入っているのは納得できる。これを逃せば、そんな人間はしばらくは現れないだろう。
だが、重要であるのは「自分の言うことを聞く」「人間」であること。彼の千里眼を使えば、他の刀衆の弱みのひとつやふたつ、簡単に暴けるはず。それを利用すれば、詠のように脅して利用できるのだ。情報屋のような役回りも、妙な虫取り係や酒のお使いだって他の人間にもできること。詠である必要はない。
僕がいなくなったって、代わりはどうにでもなる。寂しがるなんて、鬼火の思い込みだよ。
考えに耽っていると、足元が灯影街の石畳から舗装されていない砂利道になっていることに気がついた。あれ、と思って周りを見渡せば、二人が歩いていたのは森へと続く原っぱだった。
「いつの間にこんなところまで……あっ」
道の先、並木のように何本かの樹が並ぶ。その樹の根本に、烏天狗が風で運んだ酒やつまみがまるで花見の場所取りのように鎮座していた。てっきり寝床に送ったのだと思っていたが、一足先に目的地に来ていたらしい。
「今夜の用件について問いていたな。安心しろ、ただの花見だ」
「花見? でも、桜が咲くにはまだ早いんじゃ……」
人間界でも、開花宣言にはもう少しあると聞く。烏天狗は「桜じゃない」と呟くと、酒瓶の後ろに置かれていたモノを持ちあげた。
今朝、詠が必死にいっぱいにした虫かごだ。後半はヤケになっていたので気に留めていなかったが、そこそこの大きさの虫が詰まっていると、なかなかグロテスクである。烏天狗もそこに対する関する感性は同じようで、「ちょっとキモいな」と顔をしかめる。
「こいつらは特殊な虫でね。人間界にも近いモノはいるけれど、全く別のイキモノさ」
「はぁ」
「よくわからないという顔をしているな。……まあ見てろ」
そう言って烏天狗が虫かごの蓋をゆっくりと開けると、中から虫たちが一匹、二匹と飛び出していく。
「ううぇ、こっち来るなっ! このっ、ぐ、…あ……?」
詠の周りに飛び交ったのは最初の数匹だけで、すぐに虫たちは列を成すようにして樹の方へと向かっていった。
何の習性だろう。ワケがわからず、ぱしぱしと瞬きをして樹を見上げる詠の後ろで、烏天狗は虫かごを振り回す。そうして最後の一匹まで外に出すと、彼はわざとらしく咳払いした。
「さて、そろそろかな」
すると、烏天狗の声を待っていたかのように一迅の風が吹いた。団扇も振っていないのに、と思いながら、風圧にぎゅぅ、と目を瞑る。
そうして再び目を開いた詠は、目の前の光景に思わず感嘆の声を漏らした。
「わ……なにこれ」
濃いピンクの花々が、発光しながら咲き誇っている。桜よりも明るい紅色の光、光、光。強く発光したかと思えばゆっくりと光度を落としていき、また光る。まるで一輪の花が呼吸をしているみたいだ。
「綺麗……」
この世の光景には思えない。誘われるように低い位置に伸びる枝に手を伸ばして見れば、光の正体にも気がついた。明るく光る花の中央には先ほどの虫が留まっている。夢中で蜜でも吸っているのか、頭は完全に花の中央に埋もれており、小さなお尻がゆらゆらと揺れている。発光しているのはそのお尻部分だった。
「ホタル?」
「少し違うけど、まあ似たようなもんだ。人間界の普通のホタルと違って、こいつらは春の花の蜜を好む。冬の終わり頃に澄んだ水辺で孵って、暖かいうちに蜜を吸い、暑くなる前に卵をつける。……水辺を好むのはホタルと同じかな」
「確かに。でも、ホタルだってこんなに明るくは光らないよ! こんな、花そのものが光ってるみたいには」
そもそも、人の多い都会で生まれ育った詠は本物のホタルすら見た覚えがなかった。人間界でも、田舎ですら自然のホタルはなかなか見られなくなっていると聞く。
「九尾の狐なんかは、灯影街は人間界とだいぶ混ざってるって言うけどそんなことないや。ここは、あっちよりもずっと綺麗で幻想的だよ」
「……そう思う?」
「思う。へへ、おかしいね。刀衆として灯影街に来てもう随分経つのに。今更、来たばかりの頃みたいな気持ちになってるよ」
烏天狗の問いに素で返事してから、詠は我に返ったように「ア、すいません敬語……!」と慌てた。
「いい。そもそも俺は、口調を強いたことはない。お前が勝手に畏まってるだけだ」
日頃とは違う、烏天狗の穏やかな物言いに、そーだっけ、と戸惑いながらも詠はならいいかと呑み込んだ。何より、この幻想的で美しい光景を前に、些細なことで揉めるような無粋な真似はしたくなかった。
烏天狗の用意はよく、酒瓶やつまみはきっちりと上等な敷物の上に置かれていた。金の刺繍で縁取られた濃紺の布も、まさか花見のレジャーシートに使われるとは思っていなかっただろう。どっかりとそこに座り込んだ烏天狗に倣い、隣にしゃがみ込む。ひとまず乾杯か。準備をしようと酒瓶へ手を伸ばせば、「待て」とその手を掴まれる。
「その前にやることがあるだろう」
「やること?」
え、なんだっけ。ぐるりと思考を巡らせてもすぐには浮かばない。あたふたしている間に、烏天狗は愛用の団扇を裾の下へ仕舞う。片手は詠の手を掴んだまま、空いた片手が詠の腰回りに伸びる。
「えっ、えっ?」
帯留め代わりに巻き付けている腰紐に、烏天狗の長い指先がかかる。ちょっと待って、やることって何? ナニ? いくらいい雰囲気だからって、そんな雰囲気ではないでしょ?! 騒がしい脳内とは裏腹に、驚きで声はほとんど出ない。え、え、と戸惑う声だけが零れて、そのときの詠の頭には、逃げるとか切りかかるとか大声をあげるとか、防衛の選択肢はどうしてか一つも浮かばなかった。
何をしたって返り討ちに合うのだ。それなら、無駄な抵抗はしない方が穏便に済む。そうやって流れるように生きて来たから。
覚悟を決めるみたいに、きゅ、と唇を引き結んだ。その下で、烏天狗の指先は詠の腰紐ではなくそこにぶら下がる巾着の紐を解いていた。
「……あ?」
「あった。鎌鼬に貰った薬、これだろう?」
烏天狗の手の上には、小さな竹筒が乗っている。三日月を模した刻印が彫られた筒を開ければ、ツンと香る塗り薬が詰まっている。
「ほら、かぶれたのはどっち? ああ、こっちか。確かに、赤くなってるな……ま、これくらいなら薬を塗って一晩で治るだろ」
「……鎌鼬にも同じこと言われました」
「ああ、そう」
よかったじゃないか、と烏天狗は指先で塗り薬を掬うと詠の手の甲に塗り広げる。マッサージをするように親指の腹で薬を塗り込み、念のためと手のひらまで揉まれる。妖怪の中でも位が高く、本人のプライドもうんと高い烏天狗が、妖力なんて欠片も持たない人間を自ら手当をしている。そこらの妖怪が見たら、卒倒するだろう。詠自身も何が起きているかまるで飲み込めない。とにかく黙ってされるままにしていると、クスクスと笑い声がした。恥ずかしくて見られなかった烏天狗の顏を、恐る恐る覗く。
「心配するな。俺は人間でも妖怪でも、女しか喰ったことはない」
「はっ?! な、なにが、」
「だからそうあからさまに怯えるなと言ってるんだよ。これでも俺はお前のことを気に入っているんだから、避けられるのは不愉快だ」
それはつまりどういうことだ。気に入っているってどういう意味だ!
頭の中では、ずっと鬼火が走り回ってやかましい。詠がいなくなったら、烏天狗が寂しがっちゃう……うるさーい! 頼むから、大人しくシャーベットでも食べててよ! 詠は自分がどんな顏をしているかもわからなくて、ただもう、何も言わずにぷるぷると震えているだけだった。
烏天狗としても、詠がここまで露骨に動揺を見せているのは予想外で、些か不満だった。昼にまた葛ノ葉にいたというなら、自分の非じゃないほどに捻くれた性格の九尾か、あるいは天然故に周囲を無自覚に辱める鬼火にでも、何かを言われたのだろう。
「余計なことをしてくれる」
「ふぇ?」
ぽつりと溢した言葉に、詠が僅かに反応を示す。烏天狗はそれまで優しく労わっていた詠の手をぴしゃりと叩くと、「終わりだよ。ほら、とっとと酒盛りの準備をしな」と努めて冷たく言い放った。
軽く叩かれたことで詠も冷静さを取り戻したのだろう、詠は慌てた様子で今度こそ酒瓶を手に取った。こうなったら、酒を飲んで忘れてしまおう。そんな思惑も浮かび、てきぱきと酒盛りの用意を進めると、やっと二人は盃を小さくぶつけ合った。
「そういえば、この樹って何の樹なの?」
「ああ、桃の樹だよ。こちらもここ数日暖かったからね、例年より早く咲いたんだよ。あまりに早くて虫たちもまだ気づいてなかったもんだから、お前に捕まえさせたんだ」
「ああ、そういう……ま、こんな綺麗なのが見られたならいっか。……桃の樹かぁ、こんなところに生えてるなんて、知らなかったな」
たわいもない話をしながら、酒を進める。その間も、桃の樹は幻のような光を宿し、二人ぼっちの花見を彩る。
「桃の樹といえば、魔除けの力もあるからな。幻界程じゃないが、力の弱い妖怪は好き好んで近づかないし、わざわざ人間に教える奴もそういない。……別に俺だって、お前に教えてやろうと思って連れてきたわけじゃないが」
取って付けたような言い訳に対する反応は、ない。先程のように過剰な反応をされるのも、かといって揶揄われるのも厄介だが無視はいちばん腹が立つ。
「おい、聞いてるのか詠……詠?」
隣を見れば、彼はすでにアルコールに潰されて小さな舟を漕いでいた。ゆらゆらと前後する体に合わせ、両耳の飾りが小さく揺れる。
日頃はその背中に背負われている刀も酒瓶の向こうへと転がされ、無防備なものだ。ここまで妖怪に気を許す刀衆など過去にいただろうか。と呆れて、自身も必須アイテムである団扇を仕舞い込んだままであることに気がつく。
「俺もまだまだかもな」
いつ倒れ込んでもおかしくない詠の腕を引くと、組んだ膝の上へとその体を横たわせる。春が近いとはいえ、夜はまだまだ肌寒い。烏天狗は自慢の羽を器用に動かすと、まるで外界から隠すように詠の体を覆った。
花見の翌朝、気づくと詠は詰所の自室にいた。服装は隊服から気軽な寝間着に着替えられていて、焦りに焦った。何せ、昨晩の記憶がまるでない。烏天狗と乾杯をしたところまでは覚えている。それ以降、何を話し何をしたのか。どうやって帰ったか。いや、自力で帰ったとは到底思えない。青ざめた顔で詰所を駆けずり回りその晩の夜回り役だった楓を捕まえると、彼は表情を変えずに言った。
「烏天狗が眠りこけるお前を連れて門に来た」
「やっぱり……」
「やっぱりじゃない。俺が言うのも何だが、妖怪と呑んで酔いつぶれて介抱されるなんて褒められたもんじゃない。夜回り役が英隊長や蒼だったら、どんな罰則があったかわからないぞ」
「それは本当に、お言葉の通りで……」
楓は楓で妖怪である雲外鏡と親しく(?)しているために、そこまで厳しいことも言えないと判断したのだろう。それでも、現在の刀衆のメンツの中では真面目な方だ。二、三言ほど耳の痛い言葉を貰い、詠は重ねて訊ねる。
「で、そのぉ……僕を部屋まで運んだのって……」
「式神だ。念のためと思って俺が見に行った時には寝間着になっていたから、着替えもお前の式神がしたんだろう」
「あ、そう! そっか!」
そういえば、呑んで潰れた後となると、どうにか自室まで戻れてもそれ以上先のことができないという事が何度かあって、自室の式神に着替えと風呂の手配を任せる術を施した覚えがあった。滅多に発動するものでもないのですっかり忘れていたが。
大袈裟に安心した素振りを見せる詠を怪しげに見ながら、楓がふと視線を下げる。
「腰のところ、何かついているぞ」
「え? ああ、これは巾着……」
楓が指差した先、今は鎌鼬の塗り薬が入っている腰巾着に目を向けると、巾着の口の部分に花弁が挟まっていた。
「あ、昨日の……」
「昨日? お前たち、どこで吞んでたんだ」
「いや。ちょっとお花見をね」
へへ、と笑う詠に楓も深く言及するつもりはなかったらしく、「程々にしろよ」と言い残すと去っていった。
花弁を指先で摘まみ上げる。桜の花弁よりは濃いピンクに染まった、柔らかな花弁。これは、何の花だっけ。烏天狗に教えてもらったような気もするが、記憶はおぼろげである。桜じゃなくて、なんだっけ、梅? いや、もっと違ったような……。
もうここまで出ているのに! というところで引っかかって仕方がない。その場でしばらくうんうんと唸っていたが、すぐに腹が音を立てた。
「……まぁ、また烏天狗に聞けばいいか。それより朝ごはん、朝ごはんっと」
だが、次に詠と烏天狗が顔を合わせたのは桃どころか桜の樹さえも緑に染まる頃だった。
刀衆の壱番隊・弐番隊全員へ招集がかかるという珍事が起きたのは、詠が烏天狗と顔を合わせなくなって二週間ほど経った頃だった。
会議用の大広間は詰所内でも滅多に使われることのない部屋である。詠さえ、本来の目的で利用したのは一、二回程度で、あとは刀衆大忘年会(親睦を深めるためと重が英を言いくるめて開催)や刀衆ボドゲ大会(ときには脳のトレーニングも必要と重が英を言いくるめて開催)、妖怪たちも招いて開いた刀衆タコパ(故郷の味が懐かしくなると隊員のメンタルにも悪影響が出ると重が以下略)などの開催場所にあてがわれた程度。
部屋の中央にはアンティーク調の大きな円卓が置かれており、今日は刀衆と同じ数だけ椅子が並んでいる。
「なーんか嫌な空気」
詠の左隣に座る円が、席次札を指で弾く。
「こんなのまでわざわざ置いちゃってさ」
「英隊長の指示だ。人がわざわざ用意したものにケチをつけるな」
「蒼が用意してくれたのか。言ってくれたら手伝ったのに」
「六人分ぐらい、一人ですぐできる」
楓の気遣いをあっさりと跳ねのけた蒼だったが、楓も「それもそうか」とすぐに納得して黙った。
効率重視の二人はなんやかんやと気が合うらしい。
詠は自身の二つ隣へ目をやった。重の名が刻まれた札の前はまだ空席である。
席は壱番隊と弐番隊が向かい合うように、時計回りに、英、詠、円、重、楓、蒼の順に並んでいる。重苦しい雰囲気が苦手なのは詠も同じ。英隊長の隣かぁ、と少しだけ辟易する。
「蒼は今日の招集理由も聞いたの?」
気持ちを変えようと明るい声で蒼に訊ねたが、彼は「そこまでは知らされていない」と言い、当然、その隣の楓も首を横に振る。
妙な緊張感が漂う中、ボーン…と詰所全体に大きな鐘の音が響き、広間へ英が入って来た。
「待たせたな。駆け足で済まないが、早速今日の議題を……」
腰を下ろしながら言いかけた英が、真向かいの空席を見つける。
と同時に、広間の扉が勢いよく開いて「すんません、遅れましたわ~!」と呑気な京都弁が飛び込んでくる。
「重……」
「お、英隊長も今来たとこで? これで全員集合ですなぁ、丁度良かったわ」
よいこらせ、と古臭い掛け声とともに椅子に座る重。
「ん? わざわざこんなん作りはったん? えらい気合いの入った集まりやんなぁ…おっと脱線してもうたわ。失礼、失礼。英隊長、ほな始めてくださいー」
よくもこれだけ次々に英の地雷を踏み抜けるものだ。当人たち以外全員が思ったが、当然、口には出せない。
刀衆の臨時会議は、英の怒号から始まった。
「いつの時代にも反帝都を謳う連中がいることはお前たちも知っての通りだろう」
英の呼びかけに、各々が肯定の態度を見せる。注意を受けたばかりの重が「あー、あの胡散臭い勢力ね」と相槌を打つのを全員が無視し、英が続けた。
「近年、その反帝都勢力によるデモ行為が加速し、負傷者の出る騒ぎにまで発展することが増えた。……その勢いは増し、先月には西の方で軍が滞在している屯所が襲われた」
「え…」
「そこまで?」
「そんな話聞いてないけど」
「帝都での騒ぎだからな。こちらへの影響は皆無に等しいと判断し、お前たちには伏せていた。が、中央はこの事態を重く見て、いよいよ反帝都勢力に真っ向から対抗することにした」
英の目付きが変わる。初耳の情報に困惑を見せていた何人かの刀衆も、続く言葉に察しがついて固唾を飲んだ。
「内戦が起こる。刀衆からも応援要請がかかった」
灯影街では名ばかりに近い刀衆も、れっきとした帝都の軍人である。指示によっては戦に赴き、帯刀しているソレを振るう必要がある。
「人間相手、ってのは久しぶりだね」
「ここ何年かは帝都も中央も穏やかやったからなぁ」
詠と重の言葉に、若く歴の浅い蒼、楓がハッとした。軍人になってすぐに刀衆に配属された彼らは、軍人としての人間同士の戦を知らない。
「円は戦の経験があったか」
「うちは軍人ばかりの家系ですから。小さい頃から、訓練と称して参加させられてましたよ。ほとんど後方だったけど」
「そうか。私と重も、若い頃に経験がある」
「懐かしい話やねぇ…でもま、いちばん経験があるのは詠やろ?」
「えっ」
全員の目が詠に向く。軍人としての歴も長く、問題を起こし刀衆に飛ばされるより以前は中央に所属していた。
あー、と声を溢しながら、詠は曖昧に頷く。何年かに一度、反帝都の勢力というのは力が増すことがある。前回はまさに詠が中央で隊を率いていた頃だ。
「あくまでも応援。前衛に立つのは中央に所属する人間だ。刀衆からも、全員が呼ばれているわけではない」
「英隊長は行かれるんですね」
蒼の言葉に、英が頷く。すぐに蒼が「俺も、」と言いかけたのを手を挙げて制した。
「本来であれば志願を受けるところだが、今回は両部隊の隊長及び観察係の権限として私から指名させてもらう」
「重隊員、詠隊員、楓隊員。以上三名の隊員に中央への応援を指令する」
「英隊長!」
「落ち着け、蒼」
立ち上がりかけた蒼の肩を、楓がすぐに抑えた。
指名を受けながらも冷静さを欠ける様は見せず、楓は「理由を伺っても?」と英に訊ねる。
「ああ。まずは詠だが、これは経験を見込んでのことだ。後方支援といっても、戦の経験がある者がいるに越したことはない」
「まぁ…そうだよね。拒む理由も拒める権利もないよ」
詠は苦笑いを溢しながらも了承した。
「続いて重だが…」
「嫌やー言うても聞いてくれへんのやろ」
「…今回の活躍次第では、重隊員の昇級及び隊長復帰を中央に持ち掛ける考えだ」
「英はん♡」
ころりと態度を変える重に、円が「うわキモ」と呟く。仮に重が隊長へ復帰したとしても、円の彼への態度が変わることはないだろう。
英は「もちろん、詠もだ」と加えたが、詠は軽く頷いただけだった。
降格されて刀衆に飛ばされた当初こそ、退屈で仕方がないとばかりに感じていたが、妖怪たちと親しくなってからは今の立場というのも気に入っている。烏天狗にこき使われるのも、最近ではマシになってきた。
……階級が戻ったとして、僕が隊長になることはないんだろうな。そうしたら、中央配属に戻る…?
いつか鬼火と交わした会話が思い浮かぶ。帝都に戻るなど、考えていなかった。
「そして、楓についてだが」
「はい」
楓のよく通る返事に、意識が目の前に引き戻される。背筋を伸ばして英の言葉を受ける楓とは対称に、蒼は悔し気な色を浮かべていた。
「蒼、楓の力量は手合わせを受けている私が一番わかっている。どちらも、戦の場においては中央の軍人に負けぬ活躍をするだろう。軍人としての歴を見れば、ここは蒼を指名するのが妥当ではある…が、刀衆の半数以上が灯影街を離れる事態だ。特に、私自身も不在となる。そこでだ、蒼」
「…はい」
「人間界が混乱に陥る状況だ。万が一、そこに妖怪まで参入してくるようなことになれば手が追えない。私の言う意味がわかるな?」
英という男は、刀の腕だけで中央所属にまで上り詰め、刀衆隊長兼観察の座にいるわけではない。そうであったなら、共に戦いと志願するほどの部下はいない。
「隊長不在の間、この灯影街の妖怪たちの管理を徹底し、決して人間界には行かせぬことを誓います。刀衆壱番隊、蒼の名において」
蒼の凛とした声が大広間に響く。英は傷跡の残る目を細めて誇らしげに頷いた。楓も安心した様子で両名を見つめる。
青春ムービーの一幕でも見たような気分になったところで、ただ一人、何の言葉も受けていない円が「あのー、俺は?」と遠慮がちに手を挙げた。ああ、と思い出したように英が答える。
「お前は重並みに油断できないからな。戦に出たらそこに乗じて逃げる恐れがあるからな」
「ひっど! ……ま、無駄な怪我もしたくないからいーけど」
張りつめていた空気がほんのわずかに緩む。誰もが全てを望んで今ここにいるわけではない。軍人を志願した者、そこから刀衆への配属を希望した者、過去の報いから流れ着いた者、滞在している者。帝都に仕える身として、お上からの命があれば遥か遠い地に向かうこともある。
一時でも、同じ場にいる。灯影街において、互いだけが人間同士。軍人であったとしても、そこに生まれる縁を大切にしたいと感じるのは人間らしい心があるからこそだ。
「明日の正午には中央の軍に合流する。戦に向かう者は仕度をしたのち、明朝、大鏡前に集合すること! 終戦の折には、鏡を通して文を出す。それまでは詰所の結界を強化し、妖怪が鏡をくぐらぬように徹せ!」
「はっ!」
狼の鬣のような銀髪を揺らし、英が不敵に笑う。
「皆の者、検討を祈る」
くつくつと煮えるスープを器に入れ、ふうふうと息を吹きかけ冷ますと、九尾の狐はそっと器を傾けた。喉越しのいい醤油ベースのスープに満足して頷く。
「今日も鎌鼬の仕込みは完璧だね」
店主でありながら、殆ど調理場には立たない。気まぐれに自分で仕込むこともあるが、正直な話、丁稚もとい鎌鼬の作ったラーメンの方が美味しいのだ。こればかりはセンスもあるから仕方ない。遅めの朝餉代わりにスープを楽しんでいると、大きな耳がぴんと立った。
自慢の尻尾がぶわりと一瞬だけ大きくなって、薄桃色の毛が宙を舞う。スープ鍋に蓋をしながら、九尾は口を開いた。
「ご無沙汰だね。悪いが、まだ開店前だよ」
「誰もラーメンなんて興味ない」
暖簾の間から顔を見せると、店の奥を覗きながら烏天狗がカウンター席に腰かけた。
「静かだな。いつもの連中はどうした?」
「鬼火ならまだ寝てるよ。鎌鼬も、スープの仕込みを済ませて鬼火と一緒に二度寝さ」
「人間の常連はどうしてる? 詠の奴を見ないんだが」
何気ない様子で訊ねた烏天狗に、九尾の狐目が大きく開かれた。細い月のような黒目が可笑しそうに烏天狗を捉える。
「なんだい、知らないのか? 刀衆は人間界に戻ってるよ。戦のためにね」
「戦?」
烏天狗からすると初耳だった。この三週間ほど、彼は幻界に籠っていたのである。妖気を養うためと幻界に潜ったはいいものの、数日眠るだけのつもりが三週間も経っていたのだ。
人間と妖怪とでは時間の流れが違う。妖怪たちからすれば一日というのは光のように早く、大妖怪である烏天狗となると尚更だった。
「通りで、千里眼でも見つからないわけだ。流石に、人間界までは覗いていない」
「全員というわけではないけどね、蒼と円が残ってる。隊長サマがわざわざ挨拶に来たよ。しばらく刀衆が減る上に、人間界も危ないから鬼火たちを人間界に寄越すなって」
「言いつけを守ってるのか? お前らが?」
「貢物まで貰ったからねぇ」
口直しのお茶を啜る九尾の狐の背後、調理場にはぶ厚い油揚げが座布団のように積まれていた。
「今の刀衆は妙な人間ばかりだよ。律義に手土産持って、妖怪に頭下げに来るんだから……その上、好き好んで戦まで起こす。人間の命なんて吹けば消えるようなものなのにね」
だから人間は嫌いだよ、と九尾は何処か寂しげに呟いた。その視線は、空席のカウンターに向けられる。
ラーメン葛ノ葉はいつの時代も灯影街にある。人間界風のラーメンを提供する葛ノ葉は、人間の、すなわち刀衆の客も多い。
九尾がラーメン屋を経営している理由は誰も知らない。
ただ、いつの時代も店を開けて客を待っている。
「詳しいことが知りたいっていうなら、雲外鏡のところにでも行きな。出発前に楓と話し込んでたから、事情はあっちの方が詳しいだろう」
「ああ、そうする」
邪魔したな、と烏天狗が店を出ようとしたところで「別に私はどうでもいいけど」と前置きして、背中に声がかかる。
「詠も、お前を探していたよ」
返事はなく、ぶわ、と大きな風が軒先の提灯と暖簾を揺らしただけ。
「烏天狗、寂しそうだったね」
「…起きたのかい」
振り返ると、不安げな表情を浮かべた鬼火と鎌鼬が立っていた。
数日前に訪ねて来た英は、蛟と、獣憑きたちの元へも念のため挨拶に行くと言って、油揚げのほかに立派な酒樽もぶら下げていた。
刀衆が管理できない分、悪さする妖怪がいたら対処して欲しい。人間界に行くことはないように。残っている蒼や円に迷惑をかけてくれるな。そんなことを話して、彼は最後に「次に来たら、私も一杯頂こう」と言って去って行った。
同じような台詞を、狐は何度聞いただろう。
「そんな顔をするんじゃないよ。人間だって、案外しぶといものさ」
⸺さ、開店準備だ。手伝っておくれ?
優しい声でそう言い聞かせる九尾の狐に、鬼火と鎌鼬は兄弟のように顔を見合わせて笑った。
「そんで、刀衆からは楓佳たちが応援に行くことになったって」
「そうか。何日前のことだ?」
「一週間くらい、前 長期戦になるかもしれないし、短期決戦で終わるかもしれない、そこは読めないって、言ってた」
「ふぅん」
地上の烏天狗の反応を伺いながら、雲外鏡は樹の上で「もういい?」「もうおわり?」と鏡を抱き締めた。
街のはずれの森は彼の安寧の地だ。何もないから、わざわざ近づく者もいない。手合わせをしろと通い詰める楓と、遊び相手を求める鬼火や鎌鼬がたまに訪れる程度。
短気で面倒なことはすぐに吹き飛ばそうとする烏天狗が、自ら訪ねて来たというだけで雲外鏡は警戒していた。
「なるほどな。それでお前は、こそこそと戦況を覗いているわけか」
「の、覗いてない! ただ、楓佳が手鏡持ってくって言うから、ちょっと確認してるだけ!」
「本当に覗いてたのか。わかりやすい奴だな」
あれま、とわざとらしい反応を返すと、樹の上で雲外鏡が唸り声をあげる。怒っているのか単に恥ずかしいのか、枝葉の隙間からは赤く染まった頬が見え隠れしている。
「そう怒るな。覗きに関しちゃ俺も他人のことは言えない」
「ふん、だろうな」
「…それに、今回ばかりはお前の気持ちもわからなくはないしな」
「え?」
地上に溢された言葉は、樹の上までは届かない。
雲外鏡はそうっと下を覗いて見たが、自由気ままな烏天狗ははすでにこちらに背を向けている。
「もういいのか」
「ああ。聞きたことは聞けた」
突然訪ねて来たかと思えば、勝手に満足しやがって。
相変わらず身勝手な奴だとその背中に向かって舌を出そうとして、やめた。
烏天狗の千里眼は、雲外鏡のように鏡を通してではなく、その眼でそのままに対象を覗く。うっかり背後を見られたなら、次の瞬間には幻界まで吹き飛ばされている可能性だってゼロではないのだ。
大人しく頭を引っ込めて樹の上に座り直した雲外鏡は、抱えていた鏡を自身の正面にかざした。
楓の所持する手鏡は小さく、基本は懐に仕舞われている。それでも戦況が落ち着いている間には、あの強気な瞳がこちらを見つめる。向こうからは雲外鏡など見えていないはずなのに、無事を知らせるようにその姿を写すから、雲外鏡も何度も繋げては見つめてしまう。
そうして慣れた手付きで、いつものように彼の鏡へと繋いだ。
「烏天狗!!」
森の出口へ差し掛かったところで、大きな声が烏天狗を呼び止める。
ゆっくりと振り返った彼と、珍しくも汗を流しながら走ってきた雲外鏡をあざ笑うかのように、風が森を吹き抜けていく。枝葉が騒がしく響いて揺れていた。
ザーザーと、雨音のように、砂嵐のように、誰かの鳴き声のように。
どうしたと訊ねるまでもない、異様な雰囲気。
それを肯定するように、雲外鏡が青ざめた顔を上げる。
「っ、詠が、詠が⸺!」
息切れ混じりの雲外鏡の声は風にかき消されてよく聞こえない。
ただ、しばらくぶりに見る「あいつ」が鏡の中で血潮を胸に横たわっていた。
空は繋がっていると、恋愛映画や青春漫画でよく見る言葉は本当なのか。
灯影街に初めて来た日の天候は雲一つない快晴だった。いつも薄らと霧がかかっている灯影街でこれだけの天気は珍しいのだと、当時案内をしてくれた先任の刀衆が言っていた。
見慣れぬ建築物が並ぶ街に、すれ違うのは妖怪ばかり。日本語の看板があるかと思えば、でたらめの漢字が並んでいるだけだったり、何の肉かわからない塊を軒先で販売する店があったり。ここは人間界とは違うのだと肌で感じながら、ふと見上げた空の青さだけは生まれ育った土地で見上げたそれと変わらなかった。
その青空を、大きな翼を羽ばたかせて横切っていく姿に目を奪われた。
あれが欲しい。
何かに固執することは多くなかった。家に言われて軍人になり、教官に言われるままに竹刀を振って特訓し、生き残れと言われたから相手を切って都を守った。
そうして動いていると、いつの間にか位も高くなって、中央と呼ばれる場所で隊を率いる長になっていた。
刀衆の同僚たちにはわざわざ言ってはいなかったが、元々、刀衆の任への指令は出ていたのだ。今は英が務めている、刀衆隊長兼観察係こそ詠が着くはずだった任である。引継ぎのために帝都と灯影街を行き来している間に、例の騒ぎを起こし降格。予定通りに刀衆にはなったが、任されるはずだった立場は全て後輩に回った。
情けない話。だって、あんなに強い妖怪だとは思わなかったんだもの。
それでも欲しかった。
あの黒い翼を初めて見た日から。
触れてみたかった。触れて、確かめたかった。
風に靡く美しい髪や白い肌は、空のように、自分の知っているものと同じなのか。
地を歩く人間をつまらなさそうに一瞥した瞳は、自分と同じ世界が映っているのか
ただ、知りたかった。
「……ここ、どこ」
視界に飛び込んだのは漆黒の空と細い月。それに、濃ゆく咲き誇るピンク色。
「見覚えが…あ、前にお花見したとこ……?」
意識がはっきりとしてくると、目の前の景色がひと月ほど前の記憶と重なった。あのときは蛍のように発光する虫によって樹がライトアップされていたが、今見える樹は、花そのものが輝きを纏っているかのように明るい。
「ってか、どうして僕こんなところにいるんだろ。戦に出てたはず……」
「気がついたか」
いつからいたのか、すぐ傍らで烏天狗いつものように団扇を構えている。
「え…え? なんで? 僕、戦…内戦に…楓と一緒に後方で……あ…あれ……?」
戸惑いながら記憶を辿る。初めての戦場に出る楓のサポートのため、共に後方部隊にいた。戦はすでに五日目に入り、敵である反帝都勢力も殆ど壊滅状態。あとは時間の問題だろうと話していた時に、ヤケになって特攻して来た残党のひとりが矢を放つ。ヤケクソの軌道は、隣にいる仲間の胸元までまっすぐと伸びて……。
「お前は、楓を庇って矢に撃たれた」
烏天狗の冷たい声に、反射的に左胸を抑える。そこには何もなかった。矢も、痛みも。
そうか、そういうことか。
「死んだんだ、僕」
死を悟ると、人は笑ってしまうらしい。可笑しくもないのに、ハハッ、と笑い声が零れる。
「やー、油断しちゃったな。まさか死ぬなんて。しかも仲間を庇ってかぁ…名誉ある死、みたいな? なーんて……」
「……」
「じゃあこれ、走馬灯? 最期の思い出? それで烏天狗に会ってるなんて、自分で思ってたよりよっぽどあんたが憎かったのかな。まあ、いつ死んでもあんまり未練はないし、自分を撃った人間を恨むよりは妖怪憎んでた方がマシかも!とか…考えてみたり…」
「……」
「…なんか、言ってくださいよ」
懇願の声は思っていたよりも弱々しくなってしまった。もう死ぬというなら、烏天狗相手に明るく振舞っても仕方がないが、だからって弱音も吐きたくない。
不老不死の妖怪の前で、生に執着する姿を見せて何になるんだろう。そうでなくても、永いときを生きる彼にとっては詠の存在など些細なものなのに。
「ここは夢の中だ」
「…は? 夢?」
「そうだ。ヒトは死ぬ直前にも夢を見る。これはその夢だ。おまえは、まだ完全には死んでいない」
「は、はぁ……あ、じゃあ生死の境を彷徨ってる、てこと……?」
「そんな感じだな。ま、このままだと確実に死ぬけど」
「う」
ほんのわずかに浮いた希望があっさりと沈められる。
だが、夢の中とはどういうことか。夢のわりに意識ははっきりとしているし、何より、目の前の烏天狗は明らかに本人である。
詠の疑問に答えるように烏天狗は続ける。
「人間界と妖の世界が存在するように、夢も一つの世界として存在するのさ。人間も妖怪も、その存在を知ってる奴は少ないけどな」
最初からあったのだろうか、あの夜と同じようにふたりの足元には酒瓶が並んでいる。烏天狗はおちょこを手に、楽しそうにする。
「俺は烏天狗。千里眼を持つ妖怪だからな、夢の中まで見通せる」
「……覗きじゃん」
「今更」
そういえば、彼と顔を合わせるのも一ヵ月ぶりだったと思い出す。再会したと思えば、これが最後なのか。
光を宿す花を見上げながら、詠はずっと聞こうと思っていたことを口にした。
「これ、何の樹でしたっけ」
「……桃だ」
「そっか、桃の樹か。しばらく烏天狗さんに会わなかったから、聞き直せなくて…。桜だってとっくに散ってるのに、桃の花がこんなに綺麗なのも、ここが俺の夢の中だからなんだね」
現実では、じきに初夏に入る。本物の梅の花は自ら光らないし、烏天狗とふたりで花を見ることももう無い。
受け入れなくてはいけない。
「詠」
顔を上げると、烏天狗が何かを差し出すようにこちらに拳を向けていた。
その握られた拳が眼前でゆっくりと開く。烏天狗の手のひらには、銀色の光を放つ球が浮いていた。
「なに、これ」
「俺の右目だ」
「!」
どういう意味だと烏天狗の顏を見て、詠はさらに驚いた。幾度と盗み見たことのある、青みがかったシルバーに輝く双眸。以前と変わらずそこにあるはずの色が、右目だけ、濁った灰色に見える。
「千里眼を持つだけあってね。俺の力の源はこの目にある。コレは、その力の半分ということだ」
だから視力が失われてるわけじゃない、と何でもないことのように烏天狗は言うが、詠はまだ理解が追い付いていなかった。
千里眼を持ってるから、力の源が瞳にある。それはまぁ、なんとなく理解できる。理屈ではないことだけど、妖怪だし。
そうだとして、その半分を今目の前に出されている理由は?
自問自答に、一つの考えが浮かぶ。でも、そんな都合のいいことが本当にあるの?
仮にあったとしても、どうして、烏天狗がその選択をするの?
「妖怪になれ、詠。この力をその身に宿せば、お前は助かる」
烏天狗の手のひらで、彼の強いまなざしと同じ光が輝く。
「そんな、こと、できるわけ」
「獣憑きたちを知っているだろ、あれと同じだ。妖怪は人間よりも体のつくりが丈夫で傷の治りも早い。今お前が妖怪…なったとして、せいぜい半妖程度だろうが、妖力を身に付ければ矢で撃たれた傷もマシになる。こうしてお前の魂だけが夢の中に留まってるのも危険なんだ。あまり長い間夢の世界にいると、健康な肉体でも戻れなくなる。それに…」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って! そんな簡単に妖怪になれなんて言われても、すぐ決心できないよ! だいたい、あんただって力の源なんて大事なもの半分も人間に渡していいの?!」
「半分くらい、しばらく幻界で寝てればもとに戻る。俺のことは気にするな」
「するよ! します! そもそも、どうしてそこまでして僕を救おうとするの!」
それがわからなければ、受け取れない。
詰め寄る詠に烏天狗も一瞬押し黙り、視線をずらしながら「雲外鏡にどうにかしてくれと言われた」と小さな声で呟く。
「楓を庇って詠が死にかけてるなら、どうにかしてくれと。楓も他の刀衆もいろいろ言って来て」
「だからって大妖怪がただの人間にそこまで温情かけるかよ。周りに言われて動くやつでもないくせに」
むしろ、周りから要求されればそれを突っぱねるような性分だろう。
「へぇ、随分と俺のことを知った口を利くな?」
「知ってるよ。少なくとも、人間の中ではいちばん知ってる。なんにも知らないで使役しようとして近づいたけど、それからあんたにこき使われた。何度も一緒に酒を飲んだ。俺はあんたのこと、」
勢いに任せて動く口がピタリと止まる。
脳裏に浮かぶのは青い空。今は手を伸ばせば触れられるところにある黒い翼。シルバーの瞳に悩ましげな泣き黒子。無謀にも勝負を仕掛けた人間を追い詰めて可笑しそうに笑っていた顏。何度も無茶ぶりを言って情報集めを手伝わされて。理不尽なことも言われて、やらされて。でも、何故かいつも嬉しそうに人の名を呼ぶ。
理解不能な、人ならざるモノ。理解不能だから、理解したかった。
「烏天狗のことを、知りたかったんだ」
好奇心と探求心は人を動かす。
それは、何かに執着することの少なかった自分にも当てはまって。
「僕はただの人間で、妖怪のことなんてこれっぽちもわからない。わからないから、人間の僕にもわかるように教えてください。あなたは、どうして僕を助けてくれるの……?」
ふわりと風が吹いた。烏天狗が団扇を使ったのかと思ったが、違った。その手は団扇ではなく詠の肩を抱き寄せ、大きな翼が二人をまるごと包み込む。
「お前にいなくなられると、寂しい」
「から……」
「何千年と生きて、何人もの人間を見送った。ここまで深く関わるのも、黙って見送ることが出来ないのも、お前が初めてだ。俺は、お前に消えて欲しくない」
だから、頼む。消え入りそうな声が詠の頭上で弱音を吐く。
誰も知らない、烏のなきごえ。
「…うん、いいよ」
そういうことなら、いいよ。人間を捨てて、あんたについてくよ。
天狗の胸に耳を当て、初めてその鼓動を聞いた。人間と変わらぬ、優しいリズムが刻まれている。
空はいつの間にか澄んだ青空が広がっていた。
刀衆、詰所・大広間――。
人間と妖怪、十数名が料理でいっぱいのテーブルを囲う。
「皆、良く集まった。改めて、帝都中央からの応援要請を立派に勤め上げた刀衆一同、そして今回、協力に応じてくれた妖怪たちに感謝する」ささやかではあるが、慰労と感謝、そして先の戦で負傷した詠隊員の全快を祝し——乾杯!」
「乾杯!」
英の音頭に、人と妖怪の声が入り混じり、あちこちでグラスや盃がぶつかる。さっそくとばかりに料理に食いつく者、あっという間に二杯目に進む者、のんびりと談笑する者まで様々だ。
「詠、詠! 退院おめでとう!」
声を弾ませながら駆け寄り、詠へ抱き付いたのは鬼火だった。喜びの感情を抑えられないのか、小さな青い炎がちりちりと浮かぶのを慌てて消しながら、詠が「ありがとう」と笑う。
「心配だったんだよ! 戦が終わって他の刀衆が戻って来ても詠だけいなくて……人間界の病院に入院してるって蒼が教えてくれたけど、見舞いには行くなってうるさくて」
「そりゃ君たちが来たら病院が大騒ぎだよ」
蒼のことなので、仲間たちが戻って来てからも大鏡の監視には気を付けたのだろう。おかげで、病院内で火の玉とイタチが出たなんて騒ぎにならなくて済んだ。
「でも、本当によかった。烏天狗が、詠に一時的に妖力を分けてあげたんでしょう?」
「――うん」
夢の中で、詠は烏天狗の力を受け入れた。それにより、危篤状態だった詠の肉体は驚異的な治癒能力を発揮し、一命を取り留めた。
ただし、詠に取り込まれたのはその治癒能力だけ。妖怪の持つ不老不死の体も、身に纏う妖力も、何一つ詠には残らなかった。
烏天狗と同じ、千里を見通す美しい瞳も。
「治癒能力だけを人間に与えるなんて、かなり気力のいることなんだって。妖力の使い分け? になるらしくて……九尾の狐が言ってたよ。妖怪同士だってそこまで気を張ってやることは普通ないんだって」
「そう……鬼火の為なら、店長もやりそうだけどね」
鬼火の言わんとすることを察しながら、はぐらかすようにそう言えば、彼もその意図を汲んだように「だといいなぁ」と笑った。
「そこの丁稚はーん、こっち酒使いで頼みますわー」
「はいよー…って、誰が丁稚だ! オレだって今日は客だっての!」
「あーあ、もう酔ってる。こんなのが隊長復帰なんて最悪だよ…英隊長、この機会に隊編成見直しません?」
「冷たいこと言わんと、またよろしく頼むでぇ円」
「は? このおっさん、隊長に戻んのかよ!」
頭を抱える円と鎌鼬の間で、英がケタケタと笑い声をあげる。
「実力と活躍に嘘はないからな」
苦い顔で酒を舐める英は「とはいえ、判断が早かったかもしれない」とらしくもなく続けるのを、重が「はやない、はやない」とへらへら手を振る。
「こればっかりは人間に同情するぜ……ん? てことは、詠も階級が上がるのか?」
鎌鼬たちの会話が聞こえた鬼火が、ハッとした様子で詠を見た。
「詠――」
「コイツは刀衆に残る」
詠が答えるよりも先に、優雅な声がふたりに割って入った
「あ、烏天狗……」
「刀衆に残る。人間界には戻らない。そうだろう」
「え? ああ、まぁしばらくは」
呆気にとられる彼らを気にせず詰め寄る烏天狗に、詠も反射的に答えた。
向こう側では、詠の階級自体は上がるが隊長への起用や中央への異同は無しだと英が妖怪たちに補足説明する。
「本当? 本当に、本当?」
「本当だよ。また異動命令が出たらわかんないけど、少なくとも、自分から申し出るつもりはないから」
「やったぁ!」
やったやった、と嬉しそうな鬼火が詠の手を取ってくるくると回る。大広間といえど人数もそれなりだが、周囲にぶつかる恐れなどお構いなしに回り続けるので、案の定、一人静かに食事を取っていた蒼にぶつかる。
「痛……おい妖怪! 狭いところで暴れるなっ!」
「あ、蒼だ! ね、蒼も一緒に回ろ!」
「は? 回るって、あ、ちょっ」
ぐいっと蒼の手を引くと、何故か鬼火、詠、蒼の三人で大広間の片隅でぐるぐると円になって回る。
何の儀式だ、と烏天狗が目の前で始まった遊びを眺めていると「楽しそうだな」と朗らかな声が隣から聞こえた。
「来ていたのか、蛟」
「今来たところだよ。獣憑きたちも来るかと思って呼びに行ったんだけどね、紫西が行かないならいいと全員に断られた」
代わりに料理をいくらか貰ってくるように頼まれて……と語りながら、蛟が人間界で愛用されているタッパーを取り出す。そういえば食にやかましいやつがいたな、といつか千里眼で覗いた光景を思い出しながら、烏天狗は回り続ける三人を眺めた。
「九尾に聞いた。人間に妖力を分けたんだって?」
「一時的にな」
「一時的でも、信じられないよ。あの烏天狗が他人に自分の妖力を分けるなんて……幻界にいる古い妖怪たちも皆驚いてた」
「どうでもいい」
輪は回りながら移動し、反対側で談笑していた雲外鏡と楓の元へと辿り着くと彼らを仲間に入れ、さらに移動を始めた。この場にいる全員を巻き込むつもりなのだろうか。ひとり、またひとりと仲間を増やし輪が大きくなっていく。
「雲外鏡から礼を言われたのは気分がよかったな」
しばらく黙ったあと、不意に続けた。恥ずかしそうに人間と手を繋ぐ彼の姿が目に留まったからだろう。
「雲外鏡が? 彼も変わったな……いや、今の刀衆が変わった人間ばかりだからか」
「九尾も同じことを言っていた」
「はは、そうだろう。こんな催しを頻繁に開くのも今までならありえないよ」
「刀衆も妖怪も馬鹿が増えたな」
「それもそうかもしれない」
どこか嬉しそうな蛟の、その手の中のタッパーは刀衆の式神が用意した料理でいっぱいになっていた。それに蓋をしようとしたところに色白の手がするりと入ってきて、小さな串に刺さっていた肉団子を攫う。
「九尾……食べるなら皿から取ってくれ」
「大皿のはもうないんだよ。これがラストだった」
突然現れたかと思えば、九尾の狐はしれっと言いながら小さな口で肉団子にかぶりつく。まったく、と呆れたように笑ったくせに蛟はタッパーからもう一本肉団子を出すと未使用の紙皿に乗せてやった。差し出された九尾が少し恥ずかしそうにしながらも素直に受け取る。
「……何見てんだい」
「いいや? お前も蛟の前ではやけに塩らしいんだなと」
「そりゃね。蛟はどっかの烏と違って余計なことは言わないし、素直に接されるとこちらも素直になるしかないもの」
「その素直の塊みたいおまえのお気に入りは、人間巻き込んであっちで踊ってるぞ」
「ふふ、かわいらしいだろう?」
「親バカめ」
鬼火たちの作った輪は、いつの間にか祭りのように踊りながら連なる円を成していた。式神が楽器を奏で、何名かの妖怪は妖術で光や水を幻想的に操っている。巻き込まれた人間たちも、酒が入ったのもあってノリがいい。
慣れていないのか動きの硬い雲外鏡と楓の後ろで、適当に身体を揺らしながら可笑しそうに笑う詠と鎌鼬。人間も妖怪も、何の違いも隔たりもない。ただ、今此処で共に泣き笑い生きる者たち。蝋燭の長さは違っても、そこに宿る命の火がいつか尽きることは変わらない。この瞬間だって、同じ夜が来ることはきっと二度とないのだ。
「永遠を贈ったつもりだった」
ぽつりと烏天狗が溢した。九尾は意味を尋ねるでも先を促すでもなく、静かに食事を続ける。唐草模様の風呂敷でタッパーを包む蛟も同じ。黙って、不器用な烏の言葉に耳を傾ける。
「永遠に、同じ時を生きたいと。命ある者に対してそんなくだらない願望を抱いちまった」
「くだらなくなんてない。素敵なことだ」
「くだらないさ。だから失敗したんだろう?」
蛟と九尾がそれぞれに言うのを、烏天狗は手にしていた酒と一緒に呑み込んだ。
「そうだな……いずれにせよ、バレていたんだろう。俺が、真にヒトと共に生きたいと思ったわけではなく、ただ独りに戻ることを拒んだだけだと」
「バレていたって、誰に?」
「さてね。俺自身か、詠か、玄界の老いぼれ共か……あるいは、この世の理ってやつを創った誰かに」
まあつまりは、覚悟が足らなかったんだよ。
烏天狗が、残りの酒を全て煽る。すべてを見通すガラスの瞳に寂寥の色が漂うのが見えて、蛟と九尾は顔を見合わせた。それから、ほとんど同時に烏天狗の腕を両側から掴んだ。
「?なんだお前ら」
「宴だっていうのに、らしくもない弱気な態度もいい加減にしな。酒が不味くなるだろう」
「そうだよ。こんな隅にいるから良くないのさ!」
そのまま、ぐいぐいと烏天狗の腕を引く。目指す先にはどんちゃん騒ぎの群れ。
「は? いや、俺は……ちょっと待て、あの踊りに混ざれって言うのか?」
「そうだよ」
「そうさ」
「ふざけるなよ、誰があんな…」
ふと、目が合う。
賑やかな輪の中から、烏とは違う色をした瞳が彼を見つめる。桃色の宝石が瞬いて、そこにだけ木漏れ日が差したかのようにあたたかく笑う。
「烏天狗さん! 踊ろうよ!」
喧噪の中、詠の声だけが烏天狗の耳に届く。
甘い花の香りに誘われるかのようにふらりと歩み寄りながら、恐れることなく差し出された手を取った。
とても賑やかで穏やかな夜だった。
【アイラブユーの訳し方。】
「今夜は月が綺麗だな」
主催である英が宴を締めた後、大人しく部屋に戻る者もいれば二次会だといって街に繰り出そうとする者もいる中で詠は烏天狗に「うちで呑み直そう」と誘われた。病み上がりで酒も遠慮していた詠は、二つ返事で答えて彼と共に広間を抜けた。
きっと、どれだけ飲んでいたとしても着いて行っただろうと思いながら。
仄かに青みがかった暗闇の中に、煌々と輝く丸い月。満月のせいで、周囲の星が見えないほどに明るい。揶揄われるだろうか、でも教えてやりたいな。そんな思いを胸に、詠がそっと口を開く。
「人間の世界じゃ、それは愛の告白にもなるんだよ」
烏天狗が、何を言ってるんだと眉をひそめる。
「俺が賞賛したのは月だぞ」
「わかってるよ! でも、そうなの。日本の有名な作家が、アイラブユーをそうやって訳したんだよ」
言ってから、そもそも「アイラブユー」の言葉が烏天狗に通じるのかと疑問に思った。純日本の妖怪たちにとって、英語の概念はあるのだろうか。
月明かりに照らされた横顔を盗み見れば、その目元は楽しそうに細められていた。扇で隠れた口元も、きっと弧を描いているのだろう。
「へぇ。人間にも粋な奴がいたもんだな」
「……わかるの? アイラブユー」
まさか、誰かに言われたり、まして言ったことがあるわけじゃないだろう。
下から覗き込むように烏天狗を見上げると、彼は「気になるか?」と扇で口元を隠したまま言う。
「別に!」
揶揄うつもりが揶揄われた。烏のことだ、どこかの西洋人の家でも覗いたことがあるんだろう。そう納得させて、ずいっと烏天狗の前に出た。
月明かりに照らされた己の顏を見られないように。
「なぁ、詠よ。お前ならアイラブユーを何と訳す?」
後ろから、烏天狗が語りかける。
ただのアイラブユーじゃなくて。
自分が想う相手にだけ、伝わる言葉として言うならば。
「……あなたの瞳が欲しい」
人間の僕から、妖の貴方へ。
愛の言葉を贈るとすれば。
「僕はあなたの、瞳が欲しい」
足を止め、振り返った。
月の光を受けて烏天狗の瞳は青白く輝いていた。もしかすると、あの色は自分のものになっていたかもしれない。
それは、どんな光景だったのだろう。
もう二度と見ることが無いだろうもうひとりの自分の姿を浮かべてみる。
案外、似合ってるんじゃないのって思ったりして。
「成程。お前がそう言うなら、そうだね。」
ふむ、と頷いた烏天狗が再び詠の隣に並ぶ。
「今際の際にも同じことを言ってご覧。そうしたら、またお前の命を救ってあげよう」
「…返事はもらえるんですか?」
「勿論。そのときには、もう人間には戻してやらないけどな」
もしも、お前の命の灯火が尽きるときには。
夢を渡って逢いにいこう。
この瞳の半分を渡して、お前を抱きしめてやろう。
そうして、同じ世界を見せてあげる。
「これが俺の返事さ」
了