ぜんぶ、きみ「今日からよろしくお願いします」
栗色の長い髪を揺らし初共演の女優が頭を上げる。ふわりと香った甘いにおいに、ユキの脳内に一瞬だけ何処かの風景が浮かんだ。
白線が伸びる地面。錆び付いたカーブミラー。緑の植込み。夕暮れの空。
「……?」
覚えがあるような、ないような。不思議な感覚にぼんやりと思考が一時停止する。何もない空間を見つめる猫のように、綺麗な顔をぼけーっと晒したユキに相手も戸惑った。
「あ、あのー……ユキさん…?」
「……ああ、うん。よろしくね」
名前を呼ばれてようやく挨拶を返せばほっとした様子の笑顔が弾ける。朝の連続ドラマで主演ヒロインを務め、今がまさに売り時の若手女優。ユキの今回のお相手だった。
軽い挨拶と顔合わせを済ませそれぞれにメイク室へと移動する。
……どこだろう、あの景色。
ぽふぽふとメイクスポンジを顔面へ押し付けられている間も、ユキの思考は一瞬だけ浮かんだどこか懐かしい風景のことでいっぱいだった。
「ねえ楽くん。神奈崎さんと一緒のシーンのときって集中できてる?」
とあるテレビ局の撮影スタジオ。その休憩中。ロビーでコーヒーを飲もうとカップを手に取った楽は、日焼け知らずの白い肌をサーッと青くさせて「スンマセン!」と叫んだ。
「今回の撮影、俺なりに役に向き合って役作りをしてきました! あいつのことは俺がいちばん理解してる、そう自負して今日の撮影にも臨んで……ッけど、俺だけがそう思ってるだけじゃダメすよね!? 俺、監督に掛け合ってきます! 今日の全シーン、リテイクしてもらえるかどうか!」
「待って待って、間違えた! 演技のことは大丈夫だから!」
スタジオに向かって走り出そうとする楽を慌てて止める。長い脚はすでに一歩を踏み出しており、数瞬でも遅れていればユキの体では追い付けなかっただろう。
「撮影のことじゃなくて、その、普通に彼女と話してるときのことを聞きたくて」
「話してるとき……?」
不思議そうにしながらも楽が足を揃えてユキの隣に並び直す。ひとまず駆け出す心配はなさそうで、ほっとしながら「うん、そう」と頷いた。
「撮影の合間で彼女と話してると、不思議な光景が浮かぶんだよね。何処かの道端……住宅街の一画だと思うんだけど。頭の中に景色がフラッシュバックするんだ。……こう、右手にぼんやり植込みがあって、左手は道路なんだけど……あ、十字路かな。前方にカーブミラーも見える」
単発のスペシャルドラマの撮影入り、顔合わせとビジュアル撮影を行った初対面のときから、共演シーンや休憩中、ドラマに向けてのインタビューなど。初共演の彼女と顔を合わせて話すたび、ユキの脳裏には幾度となく同じ光景が浮かんでいた。
はっきりとは思い出せない。だけど懐かしい気持ちになる不思議な景色。水彩画に水滴を滲ませたようにぼんやりとしているのに、その景色を思い描くと驚くほど穏やかで優しい気持ちになれる。
これは一体なんだ。
「楽くんは見たことない」
「いや……俺は身に覚えがないですね。特に、いつもと変わらないっていうか」
首を捻る楽にそっか、と眉を下げる。ぼうっと自分のカップを見つめてみるが、やはりあの光景をはっきりと描くことはできない。小さなカップの中、コーヒーの水面が写すのは天井の明かりだけ。自分だけが見えるもの。益々何もわからない。ユキの唇からはぁーと深く溢された憂いの吐息に、これは思っていたより深刻な問題なのか? と焦った楽も懸命に脳を働かせ―――しばらくして、恐る恐る口を開いた。
「前世の記憶とかじゃないですか」
「前世」
神妙な顔付きの八乙女楽に何かを言われれば、人類誰しもそんな気がしてくるというもの。楽の言葉を繰り返すユキもまた、彫刻のようだと持て囃されてきた顔面の持ち主。前世? 前世。前世かぁ、と呟き合う二人を前に、カメラが回っていない方が不思議なほどで。
「そんな実感ないけど、どうなのかな」
「俺も霊感的なものはさっぱりで。ただ、全く無いと決めつけるのも霊に悪い気がしてるんで否定はしてません」
幽霊にも配慮できる男・八乙女楽は、ちらりと壁掛けの時計に目をやると「まだ時間あるな」と呟いた。
「こういうことは詳しい奴に聞くのが一番っすよ」
「専門家の知り合いがいるの?」
「いや。ただ、今日はアイツらがいるらしいんで」
空になったカップをゴミ箱に入れると、行きましょう、と力強く頷いて楽が踏み出す。その心強い背中を今度は止めることなく追いかけた。
「……で、私たちにどうしろと?」
「前世!? すごい、棗さん前世が見えるんですか!」
真っ赤な知恵の実を思わせる、キラキラと輝く艶やかな瞳。自分とは見事にズレた陸のリアクションに巳波がため息を溢す。
「七瀬さん、この方たちは私と貴方の両方を目当てに来たんですよ」
「それと前世は見えません」と早口で付け足せば、「見えないんだ……」としゅんと落ち込む姿勢を見せ、すぐに「えっ俺も!?」と叫んだ。慌ただしくて忙しない様子の陸は、出会った頃の相方を想起させる。ユキには妹や弟はいないし欲しいと思ったこともないが、陸のような犬なら飼ってもいいかもしれないと時々に思う。ちょっと頼めば、簡単にくるくると回ってひと鳴き吠えてくれることを知っているので余計にだ。
「七瀬って霊感あるんだろ? 天が言ってたぜ」
「あら、視える方なんですね」
「うーん……でも、特別なことじゃないですよ。そこにいる人が見えてるだけなんで」
生死を問わず視えているからすごいのだが、陸本人にとっては当たり前過ぎてわからないのだろう。「オーラとかがわかるわけでもないですし」と呟いた陸は、そのままの瞳でじっとユキを見つめると「でも……」と続けた。
「ユキさんの後ろには、ちょっとだけ女の人が多いです」
「あ、本当?」
「背後霊か?!」
「生霊じゃないですか、どちらかというと」
いずれにせよあまり知りたくなかった事実だ。心当たりは残念ながら山のようにある。まあ悪さをされたわけでもないし、なんなら地縛霊と住んでいたこともあるしなぁとのんびり思い返すユキの脳内に、かつて住んでいた事故物件の部屋が広がる。今は懐かしいボロアパートのワンルーム。閑静な住宅街に馴染んだ築ウン十年の建物は壁も薄くて大変だった。
「……ん?」
思い返す記憶が、何かと繋がりかける。んん、と考え込んだユキの隣で「どうかしました?」と楽が訊ねた。
「あーいや、何か繋がりそうで……いや、だめだな。わからないや」
「お相手の女優さんとは初共演なんですよね」
「そうだよ」
「モモさんもですか?」
「あー……確かバラエティーで一緒になったことがあったって」
「じゃあモモさんにもお聞きになってはいかがです?」
まるで尋問のように投げられた巳波からの質問に、ぽいぽいと答えていたユキの表情がぴしりと固まる。背後に生死不明の女性の影が、と言われてもけろりとしていたのに。
「う、ん……そうなんだけど」
それはそう。きっとモモに聞けば何かわかる可能性は高い。なんせユキ以上にユキを理解しているダーリンマスターなのだから。
だけど、ね。
「モモに聞いたら、……気にする、から」
特定の女性を前にすると不思議な光景が浮かぶなんて、そんな話。
「不安にさせたくない」
クールでイケメンで偏差値の高い国民的アイドルの顔面は、ただただ誰かを想う平凡なひとりの男のように。少しだけ情けなく表情を崩して赤く染まっていた。
巳波が無言のままに首元をぱたぱたと手で仰ぎ、その横で楽が腕を組んでうんうんと頷く。
あ、やだなこれめちゃめちゃ恥ずかしいこと言った気がする。
すぐさま後悔するユキの心境なぞ全く知らず、彼の言葉を聞いた陸は瞳の輝きをうんと増すと誰もを虜にする笑顔を弾けさせた。
「Re:valeさんって本当に素敵ですね!」
「あそこにいるのモモさんじゃないすか」
撮影スタジオに戻ると、出入り口の近くにモモの姿があった。後輩たちの前で恥ずかしい姿を見せたばかりなのでなんとなく気まずいなと思いつつ、きっと自分に会いに来たのだろう健気な相方に自然と口元がほころぶ。
「モモ――……」
なるべく自然に、と呼びかけた声は彼の向かいにいる人物を捉えて宙に散らばってしまった。
「あ、お疲れユキ! 楽も!」
おおい、と手を振るモモの隣に小柄な体が並んでぺこりと頭を下げた。ぼんやりとした視界は、傍らを歩いていた楽に小さく小突かれてなんとか正常を保つ。
「お疲れ、モモ……神奈崎さんも」
声を掛けると何も知らない若手女優は嬉しそうに笑った。その笑みに益々ユキの表情が強張る。モモもいる今、この場で、あのフラッシュバックが起こったら。きっと取り繕うことが出来ない。どうしよう、と焦りながらぎりぎり張り付けた「いつもどおりの顏」を事情を知る楽もちらちらと伺う。
「? ユキ、どうかした? ……もしかしてマジでお疲れ?」
「そんなことないよ。急にモモの顏が見られたから驚いただけ」
「やだもう、ダーリンったら!」
きゃ! とわざとらしいリアクションを返すモモ。些細な違和感を見逃さないモモと流石の切り返しで誤魔化したユキとの水面下の攻防に、楽ひとりだけが「流石、Re:valeさんだぜ!」と胸の内だけで拳を握る。
「でも、本当に無理はしちゃダメだからね」
きゃぴきゃぴとはしゃいでいた瞳がほんの僅かに寂しさを浮かべて、一歩、ユキの前に近づいた。瞬間、ふわりと香る甘いにおい。声を溢す間もなく浮かんだ風景は、白線が伸びる地面。錆び付いたカーブミラー。緑の植込み。夕暮れの空。ボロアパートの黄ばんだ外観にカンカンとやかましい鉄骨の階段。小さな扉を開いたその先で待つ笑顔。
―――『おかえりなさい、ユキさん!』
「……あのさ、モモ」
「ん?」
「昔住んでたアパートの近くに、金木犀を植えてる家、あったよね」
ユキの問いに、モモが「あーあったねぇ!」と嬉しそうに笑う。
「あ、もしかしてユキもこの香りに気付いた? 今ね、神奈崎ちゃんにお裾分けしてもらったの!」
ほら、と革紐のブレスレットを巻いた手首がユキの前に出される。甘く、懐かしい記憶を呼び覚ます花の香りが強くなる。
「いい香りだよね~! 都会だと自然の香りにはなかなか会えないけどさ」
「そうなんですよね。しかも、結構自然に近い香りで本当にお気に入りなんです!」
「ちょっとキツめの匂いもあるもんね。ね、楽もちょっと嗅いでみて」
「失礼します……あ、ほんとだ。これなら周りへの迷惑とかあんま気にしないで済むな」
「ねー! でも近づくとちゃんと香るからさ」
何処のブランドだなんだと盛り上がる三人をぼんやりと見つめ、ユキの脳内ではオレンジの小花が咲き誇る。
香りひとつで呼び起こされる記憶の、その全ての風景にきっと同じ人がいる。いつでも自分の帰りを待って、懐かしいねと笑っている。
「ねぇモモ、今度の休みは久々にあのアパートに行ってみない?」
会話の流れを無視して声をかければ、鮮やかな桃色の瞳がひとつ瞬いた。
「同じこと、ユキに言おうと思ってた!」