ユーフォリアの残焼 ローダー4──621は格納庫の天井から伸びるアームに固定されながら、メインカメラをぐるりと動かす。目標を見定めるとカメラをズームし、ピントを合わせてアルファの背中に視線を定めた。
621がアルファの姿を見掛けるのはもっぱらガレージであった。ルビコンⅢへの密航後の会話以来、彼女とは調整室で会うことは無く、直接会う人間といえば様子を見に来るウォルターと技師の男だけだった。彼女はAC整備員だから、621自身に用が無いのは当たり前なのだが。
会う機会といえば機体の調整やメンテナンス、パーツや武装の選定といった仕事に関わる用件で呼び出された時か、621が動かない生身の身体に飽き、気まぐれに機体に意識を接続した時だけだった。
アルファはしがないAC整備員の一人で、つばを深く引き下げた作業帽の陰のせいで目元はいつも暗く、無表情で何をしてもつまらなさそうな顔をしていた。黒いつなぎの袖からひょろりと伸びる腕は真っ白を通り越して病人のように青白く、肉体労働者というよりは一日中机にかじりついているホワイトカラーの人間のようだった。他の整備員たちの溢れんばかりの生命力に、筋骨隆々とした体付きと見比べしまうとアルファは一層不健康に見えた。
それもそのはずで、彼女は一日のほとんどの時間をガレージで過ごしていた。仕事をしている時以外は雑誌を読んだり、携帯ゲーム端末で遊んでいたり、食事を摂ったりと自由きままに過ごしていた。徹夜明けには自室に戻らず、オイルに汚れたつなぎのまま、決して清潔とはいえないキャットウォークの鉄製の床で寝ていることも少なくなかった。非番の日ともなれば歓楽街のクラブで女を引っ掛け、気絶するまで抱いてやると息巻き、朝早くから翌日の昼まで姿を消してしまう男たちとは違って彼女は飽きずに毎日ガレージに通いつめていた。彼女は他人がいようといまいと、ガレージは己の縄張りだといわんばかりにどこまでも自由だった。
「ウォッチポイントの襲撃?まったく、ウォルターも無茶言うよ。まあ、あんまり無理はしないほうがいい。ここじゃあいっそ早めに死んだ方が楽になれるしね。あぁ、君のことが嫌いで言ってるわけじゃないから」
この日アルファは珍しく、ローダー4が格納されたハンガーの隣に固定されているAC──621はそのACの名を知らなかったので、そのACを〝彼〟と呼ぶことにした──のコアパーツの肩部にあぐらをかいて座り、ヘッド・ユニットの表面を研磨剤で染み込ませた布で丁寧に磨いていた。彼はルビコンに到着した時のローダー4とよく似た構成のACだが、頭部だけは探査用の丸みを帯びたファインダー・アイではなく、冷酷で攻撃的なシルエットをしていて、特殊な改造が施されていることは明白だった。
しかし武装といえるものは全て取り外され、621は彼が一度も出撃した姿を見たことがなかった。スペアか、それとも作業用に配備されたACかは分からなかったが、彼はアルファにとって特別な存在なのだと思った。
なぜなら、アルファが彼を構う時だけはいつもの虚空を見つめているような表情にほんの少し色が乗り、機嫌が良さそうに見えた。強化人間である己の感性は当てにならないのは自覚していたが、621がアルファに見いだせた唯一の感情のようなものだった。アルファは彼の古い友人なのだろうか?
「何」
しばし考えを巡らせていた621は、彼女のいたって平坦で、独り言を呟くような声は機体の聴覚センサーの感度を最大限上げなければ認識することができなかった。アルファは621をちらりとも見ず、磨いた表面を肩のペン差しのポケットから取り出したハンドライトで照らし、出来栄えを確認していた。
621はどう返答しようか考えあぐねていた。アルファのひねくれた物言いにしては621に対するからかいや悪意はなく、彼女の言葉はひたすらに真っ直ぐで純粋だ。それは彼女と初めて調整室で出会った時もそうだった。
〝今なら楽に死ねる〟
そう言い621の生命維持装置のケーブルを今にも外しそうな彼女に、不思議と恐れといった感情は浮かばなかった。その時は強化手術による情動の抑制もあっただろうが、僅かながら己の感情の揺れを感じるようになってきた今となっても変わらない。
調整室でアルファは横たわる621を見下ろしていたが、遥か遠くの景色をぼんやりと眺めながら言っているようにも見えた。621のためか、彼女自身のためか、それとも誰かのための言葉なのかは621には分からなかったし、分かる必要は無いと感じた。脳のリソースの多くをACに割かれ、それ以外は使い物にならない脳で他人の本心を推し量ることは疲れるし、推し量ろうとする行為さえ彼女に対する侮辱だった。だから621は彼女への答えをまだ出せずにいる。使役人であるハンドラー・ウォルターはアルファの言うことは気にしなくていい、と言っていたので、その言葉通り気にしないことにした。
今は難しく考えるべきではない。彼女が自分にそうしてくれたように、ありのままに彼女と会話すればいい。
『ア ルファ』
機体のスピーカーを通したCOM音声は621のものだ。発声機能を失った621は、脳神経から機械を経由した独特な発語にいまだ慣れず、途切れ途切れでめちゃくちゃな発音しか発せない己の言葉にひどく歯がゆさを感じるが、621が彼女に言葉を伝える手段は今はこれしかない。
『かれ は きれい だ』
アルファはローダー4──621をのっそりと振り返った。621をまるで奇妙は生き物でも観察するようにまじまじと見つめたあと、「そりゃあ磨いてるからね」と、さも当然のように言い、再び磨く作業に戻った。彼女は機体の物理的なものとして受け取ったのか、意図は上手く伝わらなかったらしい。勘違いされては困ると、すぐに否定する。
『ち がう』
「じゃあ何」
アルファにそう言われ621は困ってしまった。あまり考えず思ったことをそのまま言ったばかりに、なんと説明すればアルファは理解してくれるだろうか。621の身体が普通の人間と同じように正常ならば、うんうんと喉を唸らせていただろう。ひとしきり悩んだ後、621はふと、彼にこそぴったりの表現が頭をよぎった。そうだ。これならば。
『けもの の よう だ』
重ねられた年季のせいで古寂びてはいるが、錆やオイルのこびりつきは無く、その代わりに彼の身体には激しい戦闘のものでしかつかないような塗装の痛々しい擦れと、数え切れない細かな傷や煤の焼き付き痕が残っている。そして幾度も傷つき、幾度も補修された形跡も。一見すれば、型落ちパーツで構成されたどこにでも居る使い古されたAC同然だ。
しかし621にとっては彼はまるで、映像記録で観た過酷な生存競争に生き抜く、気高く美しい獣にも見えた。コアパーツに刻まれたいくつもの七五ミリ徹甲弾の弾痕さえも、彼を飾る勲章に他ならない。
これならば誰であっても理解するだろうと、どうにか考え出した言葉に満足する。しかしアルファは反応せず、ガレージに沈黙がしばらく流れた。彼女の気分を害してしまっただろうかと一抹の不安を感じながら、621も黙り込む。元より必要な事以外はほとんど喋らない二人が話を続ける気が無ければ、自ずと沈黙は続く。
さて、どうしたものか。謝罪すべきか、沈黙を続けるべきか。621は思案しているとアルファの息を吸う音が聞こえた。
機体の優秀なセンサーがなければ決して聞き取れない微かな声。顔はやはり彼に向いたままだったが、アルファはありがとう、とぽつりと言った。
──伝わって良かった。ウォルターに呼ばれ彼女に別れを告げる前に、621が最後に考えられたのはそれだけだった。
ウォッチポイント・デルタからほどなく離れた場所に位置し、いつもと変わらぬ夜を越えるはずだった封鎖機構本部はその日、正体不明のACによる前触れのない襲撃に反撃する間もなく混乱に陥った。
鉄塔から見下ろす眼下の赤い景色は悲惨といえるもので、いくつもの施設から火の手が上がり、警備にあたっていたMT部隊の破壊された残骸が積雪に埋まるように散らばっていた。かろうじて被害を免れた人々は怪我人の救助や消火に追われ、もはや彼らに襲撃者を追跡する余裕も手段もない。その類のものは、すべて焼き払ったのだから。
封鎖機構の本部施設の破壊。軍属であれば立派な戦功賞ものの戦果であっても、アルファは達成感も実感も湧かず、その光景をどこか遠い世界の出来事のように見つめていた。ちかちかと遠くでちらつく炎が、アルファの暗く陰鬱な瞳を赤く照らした。
かつてアルファにとって、機体越しにも鼻を擽る、狩りの歓喜を駆り立てる硝煙の匂いはコーラル・ドラッグなど及ばないほど心を踊らせるものであった。ある一匹は獲物を追い立て、ある一匹は狩りの障害となるものを排除し、ある一匹は鋭い牙と頑強な顎で自らの何倍もある獲物の喉に喰らいつきとどめを刺す。常に彼らは群れとして生きてきた。しかし今となっては肉を分かち合える群れはいなくなってしまった。それぞれの個が一つのものになったような充足感も、狩りのあとの脳を震わせるほどの高揚も、何一つ無い。一人とはこんなにも虚しいものだったのかと、鬱々とした思考で緩く握っていた操縦桿を指先で擦る。
果てのない沼に沈んだような気分になったアルファの慰めになったのは、もう何年も乗ってないはずなのに、何も変わらずにいてくれた鋼鉄の旧友だった。本来の役目を放棄させられ、作業灯頼りのじめついた薄暗いガレージの唯一の飾り物になっていたのにも関わらず、彼は機嫌を損ねることなくもう一度アルファをコックピットに出迎えた。そして彼はアルファの忠実な手足となり、かつてと同じく戦場で持てる性能を余すことなく発揮してみせた。ローダー・アルファ、お前は一番良い子だ。すぐに居なくなってしまう強化人間たちとは違ってずっと傍にいてくれる。自分が死なない限り、ずっと。
『帰投しろ。残りは621が片付ける』
621とのオペレートの合間に送られたウォルターの通信に了解とだけ返答し、機体回収待ちの輸送ヘリとのランデブー・ポイントに向けて飛び立つ。
621に課せられたウォッチポイント・デルタの破壊任務は難しい任務では無かった。センシングバルブ自体には防衛機構は無く、今日も今日とて暇を持て余す予定であった不運な警備部隊と砲台を排除さえできれば、621単独でも十分に達成出来るものだった。
だがそれは、本部からの応援が来なければの話だ。
ハウンズを失った今、ルビコンでウォルターが自由に使える手駒は621だけだ。他勢力の協力を得ようにも封鎖機構を相手取るとなれば、いくらウォルターのコネクションと手腕があれど決して手を出さない。ハイリスク・ローリターン。仮に襲撃が成功したとしても、堂々と大所帯でルビコンの地に踏み入れてしまった者たちへの報復は確実だった。
ウォルターが危険を承知で決行に踏み切ったのは、特定の勢力に属さず、秘匿性に優れ、身元が割れにくい独立傭兵であるからだ。とはいえ、621の襲撃作戦が始まれば必ず本部からの応援要請が派遣されるだろう。
そうなれば621は生きては帰れない。だからウォルターには必要だった。任務を成功させるための、もう一頭の猟犬が。
『アルファ、状況を報告しろ』
電波状況の悪さでざらざらとしたノイズが混じるウォルターからの通信が入り、モニターで機体損傷をチェックしていくが大きな支障は無いようだった。被害といえば待機状態の機体が収容されたMT格納庫と、滑走路の破壊で機能不全に陥った封鎖機構本部のもので、再び復旧するには相当の時間が掛かるだろう。
「機体損傷軽微。基幹システム、各センサー異常なし。しいて言うなら──」
『お前自身のことを聞いている、アルファ』
あのハンドラーとしてはいささかスマートではない手法で出撃させたわりに、アルファの身を案じ、心配の濃い色で気遣うウォルターに溜息をつかざるを得なかった。そんなに憂心を抱くなら、始めから出撃させなければ良かったものを。
「憂鬱だよ、ウォルター」
ACにはもう乗らないと決めたのにね。アルファは右手側にあるトグル・スイッチをはね上げて、ローダー・アルファをオートパイロットに移行させた。ヘルメットのロックを解除して膝に置き、その上に腕を組んで背中をシートに深く預けた。
「……すまない。だが……どうしてもやらねばならなかった。この任務がお前の意にそぐわなかったとしても俺は621を、」
「今あんたが考えていることを当てようか」
アルファはウォルターにこれ以上喋らせまいときっぱりと遮った。モニターに映った向かい風に乗った雪が線のように流れ、ローダー・アルファを静かに叩く。青く不穏な夜だった。
「全ては結果論に過ぎない。これは子どもじみた夢想だ。けれど考えずにはいられない。もしあの時〝アルファ〟がいたら、まだ全員生きていたかもしれないと」
ハウンズは完璧な狩りをこなした。個々が与えられた役目を全うし、カタフラクトとレーザー高射砲を制圧した。その結果彼らは死に、621はルビコンへと辿り着けた。今ウォルターに出来ることは彼らの死に自責を感じることではなく、彼らの死を無駄にしないことだけだ。
もしカタフラクトの襲撃が無かったら?もし〝アルファ〟が作戦に参加していたら?生還していたかもしれないし、そうはならなかったもしれない。心を痛め、ありえた未来を想像するだけ無駄なのだと、この男は知っているはずだ。
「こいつに乗るのはこれっきりだ、ウォルター。三日間の特別休暇と報告に無かったHC二機分は報酬に上乗せしてよ」
ああ、それと、とアルファは思い出した。
「あそこは嫌な匂いがした。早く戻ってやったほうがいい。621を死なせたくなければ」
鈍っていると思っていたが、と己のなまじよく効く嗅覚が憎らしくなり、アルファは苦々しく唇を歪めた。例えるなら、そう。老獪きわまる死に損ないの狩人の腐臭。戦いにしか生きられない人間のにおい。
廃棄グリッドの、乱闘騒ぎを起こすドラッグ漬けの浮浪者たち、セックスに飢えた若者たち、ルビコンで人生の再起を賭け、夢や野心を抱く人間たちが蔓延る、古臭いネオン看板を掲げたストリップ劇場や怪しいカンティーナが立ち並んだ、饐えたにおいを放つ路地裏のほうが幾分かましだと思えるほどだった。その時一緒にいたシンダー・カーラは、飛び抜けたクズどもの集まりだが人間らしくていい、と快活に笑っていた。どちらも人間のにおいだが、ウォッチ・ポイントのこのにおいはもっと違うものだ。廃棄グリッドのにおいもアルファを不快にするもので、騒々しく暴力的だが活気があり、生きている人間の生活の営みがあった。しかしこれは冷たく暗い、限りなく死に近い人間が発する、どろどろとした危うさを孕んだものだ。振り払ってもどこまでも追ってくるようなうっとおしいにおい。無意識に歪みそうになる顔をおさえ、不愉快な悪臭をかき消すためにアルファは頭をシートに擦り寄せた。すっかり身体に馴染んだ合成皮革の化学的な匂いを思い切り吸い込む。
コックピットに残る残滓に思い出すのは、戦場を共に駆け抜けた彼らとの懐かしい記憶。たった三桁の数字の名前を与えられた愛おしい猟犬たち。
アルファは彼らを忘れて幸せになろうとしたが、結局誰一人忘れられずに思い出に取り囲まれている。アルファをアルファと呼んでしまった621のことも、きっと忘れられないのだろうなと、他人事のように諦め目を閉じた。
おやすみ、アルファ。おやすみ、私たちのアルファ。
誰のものでも無い声を聞きながら、アルファはゆっくりと意識を闇にゆだねた。