ポプダイでお題SS 昨夜は雷を伴った雨が断続的に降り続いていたが、今朝は一転して曇天も彼方へと去り、窓からは柔らかな日の光が差し込んでいた。
ポップは寝不足のために気怠い身体を気力で支えながら、重くなりがちな足を動かして窓際へと歩を進めた。窓枠に手をかけ、そっと周囲を見渡す。テランの湖を囲む大きな森の中にひっそりと佇む小屋の小さな窓からは、緑生い茂る雄大な木々と、風に流されて動く雲が浮かぶ青空が切り取られて見えていた。
怪しい気配も、敵意を含んだ視線も、そして国民性ゆえか野次馬も、一時の休息場所として供された小屋の周囲には伺えなかった。そのことに小さく安堵の息を吐く。
「ん……っ」
鼻にかかったような小さな吐息が、狭い部屋に響いた。
はっとしてポップが振り返れば、目を覚ましたらしいダイが寝台の上で上半身を起こしていた。どこかぼんやりとした視線を周囲に投げ、それからポップを視界に認めたのか目尻に涙の珠を浮かべたダイは、僅かに寝台の上を後退った。
「ピィ………」
ゴメがダイの肩に止まり、心配そうに頬を寄せる。
何も人の顔を見るなり泣きそうにならなくてもいいじゃねぇか。
思わず心によぎった言葉を、ポップはぐっと奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
ダイがこのような態度をとってしまうようなことを、降りしきる雨の中ポップはしてしまった。状況がダイを甘やかすことを許さなかったとはいえ、これも自業自得というものなのだろうか。吐き出したくなる鬱屈とした気持ちを抑えながら、代わりになるべく笑顔を浮かべてゆっくりと寝台へと歩を進める。
「目ぇ覚めたか。 頭とか…どこか痛くはないか」
ダイの頭を撫でようと伸ばされたポップの手は、ダイの癖の強い、けれど柔らかな毛に届くことなく途中で止まることとなった。ポップの手に怯えたダイがびくりと身を竦ませたかと思うと、みるみるうちに琥珀色の瞳が潤んでいき、どうにか目尻に留まっていた涙の珠がぽろりと零れ落ちたからだ。
「悪ぃ…………脅かすつもりななかったんだ」
「……ぼくのこと、昨日みたいに突き飛ばしたりしない?」
「しない。昨日は……その、本当に悪かった」
顔を洗って朝食を食べに行こうと促すと、ダイはこくりと小さく頷いた。
ポップがそっと差し出した手は、今度は優しくダイの頭を撫でることができた。ただそれだけのことが、今のポップにはたまらなく嬉しかった。同時に、当たり前のように自分に向けられていたダイの笑顔が失われてしまったことを思い知らされて、胸がずしりと重くなった。
メルルが用意してくれた朝食は、一般的には簡素と言えるものだった。しかし柔らかなパンはおそらく今朝の焼きたてで、野菜とレンズ豆のスープは温かい。それらからはメルルの優しさや思いやりを感じられるものだった。
ポップは席についたもののスプーンを片手にぼんやりとしているダイの様子に気づいた。食べ方がわからないわけではないはずだ。昨日の夕食時は、ポップと目が合うたびに、びくんと身体を震わせて涙をぽろぽろ零しながら、レオナに促されてスプーンで腕の粥を掬って食べていたからだ。
ポップはダイに声をかけるべきか躊躇した。ダイへと伸ばしかけた手を、結局無言で下ろす。恐怖に竦んで青褪めるダイを思いだすと、ポップ自身も身が竦んだ。
もし今ここにレオナがいれば、おそらく率先してダイの世話を焼いただろう。ダイとてレオナであれば側に寄られても怯えはしないはず。
だがレオナは一足早く身支度を終えて、ナバラの案内で先行してテランの王城へ出向いている。これまでの経緯と、これからについて、テラン王に状況の説明に赴いているのだ。
メルルは気づかわし気にダイに目をやっているが、ポップ同様に声をかけるか迷っているようだった。ちらりちらりと、彼女はポップの動きを伺っている。つい先日知り合い、たまたま行動をともにするようになっただけの者が、どこまで出しゃばってもよいものかどうか、どうやら悩んでいるようだった。
「ダイ、どうした」
結局ダイに声をかけたのは、テーブルを共に囲むことなく、少し離れた場所で壁に背を預けていたクロコダインだった。外見の厳つさや、唸るように掠れた低い声からは想像もできない優しく柔らかな視線で、クロコダインはダイを見下ろしている。
「………声が」
「声?」
「……誰かに…呼ばれているような……気がして」
表情を削ぎ落とし、薄っすらと金色の光を瞳に纏わせて、ダイがぽつりとつぶやいた。
「もしかして、竜の騎士さまの声でしょうか?」
「………ダイ、どんな声なのだ?」
メルルが不安気にクロコダインを見つめ、その視線を受けたクロコダインが身を屈めて乗り出し、声の主を探ろうとダイに尋ねる。
そんなふたりの気遣いなど意に介した風もなく、そっと両の目を閉じて耳を澄ませ始めたダイの手首を、ポップは思わず掴んで強く握り締めた。椅子を蹴って席を立ち、ダイへと体を向けて、掴んだ手を己へと引き寄せる。
「やめろっ!!」
「……っ?!」
「声の主のことなんか気にすんなっ! 探る必要も、思い出す必要もねぇ……っ!!」
勢いに任せて引き寄せた、その歳の子どもと比べても小柄な身体を腕の中に閉じ込め、ポップは血を吐く思いで叫んでいた。『ディーノ』ばかりを探して、『ダイ』を見ようともしないバランなど、ダイの父親として認められるわけがない。ましてや己が思い通りにならないとなるや、血を分けた息子から容赦なく記憶を奪った男だ。自分勝手で傲慢なあの男のことなど、思い出してやる必要がどこにあるというのか。
激昂して頭に血が昇ったポップを我に返らせたのは、腕の中の震える身体と、ひっくひっくと引き攣るような嗚咽混じりのダイの鳴き声だった。ダイの手を離れたスプーンが、乾いた音を立てながら床を滑っていく。
「……怒らないで………苛めないでよぉ…………」
「すまねぇ。ほんと悪ぃ……怒ってるわけじゃねぇんだ……」
ポップはダイから身を離すと、ダイの目尻に浮かんでいた涙を親指の腹で拭ってやった。精一杯の笑顔を浮かべながら、愛しさを込めて子どものまろい頬を撫でる。
「ほ、本当に……? 怒ってない……?」
「あぁ。こうしておまえを抱きしめてる時、おれは別にお前を怒ってるわけじゃない」
————だから次におまえを抱きしめても、どうか怯えて泣かないでくれ。
祈るようにそっとダイの耳元で囁き、ポップは落ちたスプーンを拾い上げた。丁寧に布で拭き、再びダイの手に持たせて席に座らせる。
それを合図に凍った空気が流れ出した。誰もが無言のまま食事を再開する。
重い空気のなか食事を終えたポップは、レオナが戻るまで何をすべきか思案した。できれば今後のためにも、ダイとのぎこちない距離を詰めておきたい。けれどポップにはどうすればいいのか見当もつかなかった。
つい昨日までは、ダイとともに行動することなんて当たり前だった。何をどうすればいいのか考える必要もなく、ポップとダイは当然のように互いの隣を陣取り、軽口を叩き合っては顔を見合わせて笑っていた。
どうすれば今のダイの隣にいられるのか。どうすれば失ってしまった時間を取り戻せるのか。考えれば考えるほど、昨日までのダイの向日葵のような眩しい笑顔と、今のダイの乏しい表情との落差に、焦り逸って、そして————胸が締めつけられる。
「ダイさん、ポップさん。食べ終わったら湖の方へ行かれてはどうでしょうか? 綺麗な花がたくさん咲いているんです。花瓶に生けたいので摘んできていただけませんか?」
食べ終わったあとも席を立つことなく、ぼんやりとした表情で窓の外の景色を見つめているダイの様子を心配したのか、メルルがテーブルの上を片付けながら提案してきた。
「花……ねぇ…………」
いつ魔王軍の手先が来るかわからないうえ、できればテランの国民の目にもつきたくはない。ならば小屋に身を隠している方がいいだろう。
そう答えようとしたポップは、けれどダイが薄っすらと瞳に金色の光を宿らせていることに気づいて目を眇めた。
ダイにひとり思考に耽る時間を与えるのは得策ではないかもしれない。何かをきっかけに、ダイを呼んでいるという声に呼応するかもしれないではないか。花を摘むでも、湖を散策をするでも、なんでもいい。とにかくダイの意識を他のことに向けさせておいた方がいいとポップは思いなおす。
「ダイ、湖まで花を摘みに行こうぜ」
ポップの誘いに、ダイは我に返ったかのように顔を上げて目を瞬かせ、それからきょとんとした表情を見せて頷いた。その瞳からは金色の光が失せ、いつもの琥珀色に戻っている。これで良かったのだと、ポップは内心で安堵の息をついた。
もしも今このように精神的に追い詰められた状態でなければ、テラン王国の中心に広がるこの大きな湖と、湖を囲んで国境まで続いている静かで深い森は、歴史を感じさせる祭祀場なども相まって、雄大かつ厳かな景色としてポップの目を奪ったことだろう。
目に映る光景を瞼を閉じることで遮断し、ポップは大きく息を吐いて意を決すると、隣を少し遅れて歩くダイの手を強く握った。昨日までとは違って、その小さな手が応えて握り返されることはなかったが、怯えられることも拒絶されることもなかった。そのことに安堵する。
「花……たくさん咲いてるな」
「うん! いろんな色の花が咲いていて綺麗だね!」
ぱっとダイの表情に笑顔が宿る。よほど花畑が気に入ったのか、ポップに引かれていたはずの手は、いつの間にか立場を変えてポップを引くようになっていた。ダイが記憶を失ってから初めてみせた能動的な態度だ。連れてきてよかったと、ポップも自然と頬を緩めた。
湖のほとりまでポップの手を引いて足早にやって来たダイは、ほくほく笑顔でその場に座り込んだ。自分を取り囲む花々を目で愛で、甘やかな香りを胸いっぱいに吸い込み、それからおもむろに摘みだす。
ポップはそんなダイを少しばかり意外な気持ちで見守りながら、夢中になっているダイが摘む花の密集地を避けた場所に腰を下ろした。
ポップの知るダイは、木の短剣を手にして、友だちだという南海の孤島に生息するモンスターの背に乗り、養祖父や友だちを助けてくれたという勇者に憧れて目を輝かせる少年だ。この一月余りの間は長く離れることもなく、常に一緒にいたというのに、ダイがこのように花を愛でる性分だとは知らなかった。
まだまだポップの知らないダイが存在するのだ。もっと深くダイのことを知りたい。誰よりもダイについて詳しい者になりたい。そう思えばこそ、ますますダイを父親を名乗る男の手に渡したくなくなる。
ポップは胡座をかいた姿勢のまま片頬を膝でつき、目に止まった花を一本手折った。くるくると指先で回し眺めて、ふと思いついて花びらを一枚千切る。
「記憶が戻る……戻らない……戻る………戻らない……」
手慰みに始めた子ども騙しの花占いは、ポップの望みとは逆の結果を示して花びらを一枚残した。踏ん切りがつかず、ポップは新たに花を一本手折る。
しかし二本目も、やけになって手折った三本目も、ポップの気に召す結果を示してはくれなかった。
「くだらねぇ……花占いなんか花びらの数とか先行する言葉とかで結果はどうにでもなるもんだろ…………」
たとえばメルル。占いをしながら祖母と旅をしていたと言っていた。彼女であれば未来を占えるのだろうか。
「……ばっかみてぇ」
ぐだぐだとした思考の果てに辿り着いた思いつきをポップは投げ出した。そのまま後ろへと倒れ込み、澄んで広がる青い空を見上げる。
彼女や彼女の祖母の占いの腕前をポップは知らないが、どのような占いの結果を得ようと、自分たちがやらなければならないことは変わらない。
ダイを守って、あの男を退ける。
ただ、それだけだ。
ただそれだけが、今はとても難しい。最大戦力であった勇者ダイを欠いた状況で、魔法の効かない敵を相手に、自分はどう動くべきなのか。考えても、考えても、ポップには思い浮かばない。
ふとダイへと視線をやってまなこに映った光景に、ポップは目を瞠った。
ダイの小さな手が澱みなく花を編み上げていく。迷いなく動くそれは、明らかに編み込む手順を知っている者のものだ。
「ダイ、おまえ……っ!!」
ポップは衝動的に飛び起きて、ダイの側へとにじり寄った。伸ばした手でダイの二の腕を掴み、体ごとダイ引き寄せて向かい合う。
「記憶が戻ったのかっ?!」
そうしてポップの目に飛び込んできたのは、恐怖に青ざめて血の気を引かせたダイの顔だった。まなじりに少しずつ透明な珠が膨れ上がっていく。
「あっ……」
またやってしまった。まったく学習ができていないではないか。ポップはほぞを噛む。
(……なんでいつもコイツを泣かせちまうんだ……本当は、笑ってほしいのに)
ふたりの足下に何かが落ちている。ダイが手にしていた編み込んでいる途中の花の束だ。そこそこの長さのあるそれは、花冠にでもなる予定なのだろうか。
「すまねぇ……おれ、また…………」
絞り出すように声を出したポップは、続けようとした謝罪の言葉を失うことになった。ダイが、手の甲で目尻の涙を拭っていたからだ。
「ごめんなさい。びっくりしちゃって。でも、お兄ちゃんはぼくを怒ってるんじゃないんだよね」
「ダイ…………」
「泣かないでって、お兄ちゃん言ってたよね。だからぼく、泣かないよ」
ダイは少し屈むと、足下に落ちていた花の束を拾い上げた。両の端を器用に結び合わせると、形を整えていく。やがて小さな子どもの手の上には華やかに彩られた花冠が乗っていた。
「これ、あげる。だから、お兄ちゃんも…………泣かないでよ」
うんと背伸びをしたダイは、ポップの頭の上に手にしていた花冠を乗せた。ぱさりと乗せられたそれは、それ自体には何の重みも感じさせない。なのに、花の香りと、身動ぐたびに髪と擦れてたてる小さな音が、存在感を主張していた。
いつの間に涙を流していたのだろうか。ポップは頬を伝う熱いものに指先で触れて呆然とする。
「元気だしてよ、お兄ちゃん。元通りになれそうになかったらさ、友だちのこととか思い出すといいよ」
「…………友だち」
「うん! あのね、ぼくね、怖い時とか、辛い時とか、寂しい時とか、いつも誰かが一緒にいてくれてたような気がするんだ。思い出せないけど………ぼくにも、友だちがいたんだと思う」
「ダイ…………」
「頭の中でずっとぼくのことを呼ぶ声がするんだ。でも、この声じゃなかった気がする」
「…………そっか」
掴んでいたダイの腕を離すと、ポップはその場に座り込んだ。足に力が入らなかった。
ダイは何もかも忘れて真っ白になって、自分たちのことなど欠片も覚えていないのだとポップは思っていた。
けれども、違う。記憶の表層的な部分は吹き飛ばされてしまったけれど、心の奥深く根付いたものは、きちんとダイの記憶に残っているのだ。
ポップに続いて隣に座り込んだダイは、再び花を摘み始めている。鮮やかに編み込んでいくダイの手元を横目に見ながら、ポップも手の届く範囲の花を摘んでいく。
見様見真似で小さな花の輪を作りあげるとポップは顔を上げた。
「………探しに行こうぜ」
「…………?」
突然のポップの言葉に、手を止めたダイが目を瞬かせる。
「おまえの友だち。一緒に探してやるよ」
「ほんと? お兄ちゃん、一緒に探してくれるの?」
「あぁ」
ポップはそっとダイの手を取った。優しく、驚かせないように重々気をつけて。
ダイの手からは怯えや緊張は伝わってこなかった。小首を傾げてダイはポップのすることを見つめている。
「おまえの友だち、おれが見つけだしてやるよ」
指先に摘んだ花の輪を、ポップはゆっくりとダイの左薬指に通した。
「約束だ」
ポップが初めて作った花の指輪は、形は歪で、あちこちから花や茎が飛び出して不格好なうえ、ダイの指には大きすぎて余るものだった。手を下にしただけで抜け落ちることが確実なそれは、きっとすぐに失くなってしまうだろう。
けれどポップはそれで構わなかった。
指に嵌められた花の輪を目にして、ダイが嬉しそうに顔を綻ばせている。
たとえこのひと時の出来事を再び奪われることになっても、ダイの心の奥深くに刻み込まれたこの瞬間の想いだけは、おそらく永遠に残ることになる。ポップとダイを繋ぐ一筋の絆の一助となるに違いない。
「ありがとう、お兄ちゃん」
ダイは無邪気に微笑みながら花の指輪を見つめている。
昨日は激昂のきっかけになった同じダイの言葉を、ポップは凪いだ気持ちで受け止めた。欲しかったダイの笑顔は、たとえ名前を忘れられようとも、今でもポップへと向けられている。それに気づいたのだ。
腕の中にダイを閉じ込めて、ふたり一緒に花の中へと横から倒れ込む。ポップはくすぐったそうに笑うダイの柔らかな旋毛に唇を落とし、抱きしめた小さな身体の温もりを感じながら目蓋を閉じた。