庭師の息子庭師の息子は物知りだった。植物の手入れや鋏の使い方はもちろん、説話やフォドラの外の世界までなんでも知っていた。仲良くなったきっかけがなんだったかは覚えていない。ただ俺と同い年だと知り、それが嬉しくて声を掛けたのが始まりだった。
一節に一度だけだった秘密の談合は節を重ねる毎に増え、気付けば毎週話をするようになった。俺といるのが見つかると、庭師は決まって息子を叱りつけるので、まるで俺の父上みたいだと言ったら、「親父なんかと一緒にするな。辺境伯様に失礼だ」と初めて庭師の息子から怒られた。庭師の息子はいつも笑っていたから俺はびっくりしてしまった。だけど、それで仲が悪くなるような俺たちではなかった。
庭師の息子はゴーティエの庭園に手をつけるわけにはいかないらしく、水やりや掃き掃除ばかりをしていた。如雨露に水を汲んだり、集めた落ち葉を布袋に入れるのを手伝おうとすれば、「坊ちゃんの仕事じゃあない」とこれまた怒られるので、俺はいつも少し離れたところで庭師の息子を眺めていた。庭師の目を掻い潜り、庭師の息子の仕事を奪うこともせずに、俺は俺の知らない話を庭師の息子からこっそりと聞くのが好きだった。
ある日、幼馴染には打ち明けることのできない悩みを話したら、「嘘に決まっているけどな」と言って、庭師の息子は〝秘密の話〟を教えてくれた。嬉しかった。今まで彼の話を聞くことも嬉しかったけれど、打ち明けたことで微かな〝希望〟が見えた気がして、俺はとても、とても嬉しかった。はやく試してみたくて仕方がなかった。
だから俺は、忘れることにしたのだ。
「試すなよ」
庭師の息子の、その言葉を。
*
「随分長い食事だな」
食事の際、兄上が俺に話し掛けることはない。当然、俺も兄上に話し掛けることはない。今では同席することも少なくなった父上から厳しく仕付けられている俺たちは、長い長いテーブルを挟んで、向かい合ったままいつも無言で食事を済ませる。
兄上は終始不機嫌を張り付けた顔で、ただ今日を生きる為だけに口へと命を運ぶ。それがいつもの日常だった。食事を終えるのはいつも兄上が先で、部屋に戻る途中で出会したことなどなかった。だから、部屋に戻るまでの廊下の陰に、兄上が隠れていたことなど考えもしなかったのだ。
「っ……!」
「おい、待て」
後退る俺の右腕を兄上が掴む。相変わらずの強い力に、骨が鈍く軋んだ。
「痛っ……」
きっとこれも痣になってしまうのだろう。ひとつが消えたかと思えば、またすぐに新しい痣ができる。汗ばむ陽気になっても、いつまでも袖のある服を着ていることを〝ひ弱〟だと笑うのは兄上だけだった。
「俺になにか言いたいことがあるんだろう?なあ、〝紋章持ちのお嬢さん〟」
紋章持ちのお嬢さん――。いつからか兄上は、周囲に人がいない場所では必ず俺をそう呼ぶようになった。兄上と同じ男である俺が、何故〝お嬢さん〟なのかは分からずにいた。けれども、どうしてそう呼ぶのとは訊けずにいた。きっと母上に似たこの顔が、兄上とは違う、まだ細いこの体が言わせているだけだ。そう思い、気に掛けないことにしていた。
「別に、なにも……」
「俺が気付かないとでも思ったか?」
兄上は俺の髪をも掴み、ぐい、と無理矢理上を向かせた。合わせないようにしていた目線がぶつかる。兄上の目はあの時と同じだった。俺を井戸に突き落とした日の、あの冷たい目と同じだった。一瞬、合わせないようにしていた目線がぶつかり慌てて目を逸らす。〝今〟の兄上の目を近くで見るのは怖かった。
「兄上っ……痛い、離してっ……」
見上げる
それで手を離すような兄上ならどんなに良かったことだろう。そのまま体を押され、どん、と思いきり壁に背中をぶつけた。
「ううっ……!」
「お前、最近俺の顔ばかりを見ているだろう」
どきりとした。
兄上は話し掛けることもなければ俺のほうを見ることだってない。なのに、どうして分かったんだろう。決してじっと見つめていたわけではないのに。
「い、いえ……見てません……っ」
「嘘を吐くな。目障りなんだよ。ちらちらちらちら見やがって」
安堵をしたのは一瞬だった。腕を掴む手が漸く離れたあと、視界の端できらりと輝くものが見えた。
「大人しくしてろよ?お嬢さん」
いつの間に持っていたのだろう。兄上は小刀を手にしていた。
「あ、兄上、なにを……」
兄上は磨き抜かれた銀の刃で俺の頬を撫でた。何度も、何度も。
「なにも見れないように、この目を抉り取ってやろうと思ってなあ」
「っ……!」
「安心しろ。眼窩には宝玉でも入れてやるさ。お嬢さんにはお似合いだろう?」
髪を掴む力が強まる。痛みと、息苦しさと、目の下の切っ先に言葉を失う。
「なあ、何色がいいんだ?ほら、答えろよ」
「っ……、いやだっ……!」
兄上の目は笑っていなかった。間近に映る銀の刃から逃れようと、できる限り顔を背ける。視界が滲んで、自分が泣いていることに気付いた。
「今のうちに泣いておけよ。目玉がなくなったら、もう泣けねえからなあ」
目を瞑ったところでこの恐怖から逃れることはできない。たとえ兄上を押し退けることができたとしても、その瞬間、間違いなく刺されるだろう。
刺される――?ふと、それは願ってもない好機かもしれないと思った。刺されれば当然血が流れる。そうしたら、もっと簡単にできるかもしれない。
「おい、目を開けろ。それとも目蓋ごと抉られたいか?」
瞑っていた目を開ける。滲む世界でも兄上の顔ははっきりと見えた。
「随分と聞き分けが良くなったな。何色がいいか決まったのか?」
兄上の目はもう、怖くはなかった。ただ、いつ逃げよう。そうして、どこを刺してもらおう。そればかりを考えていた。
「……兄上の、好きな色がいいです」
「なんだと?」
兄上の眉がぴくりと動く。
「兄上の好きな色にしてください」
手っ取り早いのは腕だ。指先まで滴り落ちれば、きっと楽にできる。なによりその場所は、刺されても誤魔化せる。そう、いつものように――。
「俺の好きな色だと?」
髪を掴んでいる力が少し緩んだ。顔には出ていないが、兄上が動揺していることは間違いがなかった。
「……はい」
抉られたあとの色はどうせ自分では見ることができないのだ。それならば兄上の好きな色を入れてもらえたほうが嬉しい。
「だから、兄上の好きな色を、入れてください」
「……ああ、そうかよ。それじゃあ、そうしてやる」
やるなら、今だ――。
「っ……!」
一か八か、兄上の体を両の手で精一杯突き飛ばそうとした瞬間――。
「なにをしておられるのです!」
突然響いた低い声にはっとしたのは兄上も同じだった。
「チッ……」
銀の刃が遠ざかる。兄上は素早く小刀を服の懐中へと仕舞う。
「運の良い奴め」
兄上は吐き捨てるように呟いた。俺はぎゅ、と胸の辺りの襯衣を握りしめる。駆け寄る騎士の靴音と共に、自分の心臓がどくどくとしていた。もう少しで叶いそうだった。できなかった。でも、これは〝叶わなくて良かった〟ことへの安堵なのかもしれない。自分のことなのに、よく分からなかった。
「マイクラン様、シルヴァン様、そこで一体なにを――」
「邪魔だ。退け」
兄上は騎士を睨み付けると、彼の肩を思いきり突き飛ばしてこの場から離れた。
「っ……。シルヴァン様、お怪我は?」
「してないよ。だから、父上には言わないで」
兄上が俺にきつく当たることはこの城の騎士なら誰でも知っている。ただ〝話〟をしているだけでもなにかと騒ぎ立てるので、俺は困っていた。
「ですが、そのお涙は……」
言われてぐい、と手の甲で拭う。拭っているのに、またぽろぽろと涙が溢れる。
「兄上は、俺の目に入った塵を取ってくれたんだ。取れなくて、痛いって騒いでいたら、兄上が取ってくれたんだ」
努めて笑顔を向ける。信じてほしかった。
「マイクラン様が、ですか……?」
訝しげな表情にも、もう慣れていた。
「俺の話が信じられない?俺は、嘘つき?」
そう言えば、誰もが強気に出られないことももう知っていた。
「……信じて、宜しいのですね?」
今日は一段としつこい騎士だった。言葉を交わすのも面倒で、頷いて終わりにしたかった。
「念のため、目を洗浄しましょう」
優しい口調で騎士が言う。騎士には分からないのだ。俺が本当に聞きたいその口調は、騎士ではないことを。
「いい。もう塵は取れたから」
「では、せめてお部屋まで共に――」
「いい。ひとりで戻れる」
素っ気なく断っても、騎士はどこまでも付いてきた。
「ですが――」
「しつこいな!いいって言っているだろう!?」
渇いた音と共に、掌に痛みが走った。騎士の手を払い除けたことに気付いたのは、呆然とする騎士の姿だった。
「あっ……ご、ごめん……」
咄嗟の行動だった。自分でも悪いことをしたと思った。
「シルヴァン様、お手に、怪我は……」
首を横へと振る。こんな時にまで俺の心配をするものだから、呆れてしまう。
「本当に、大丈夫だから。もう目は痛くはないし、ひとりでだって戻れる。でも、父上に報告はしないで。父上はお忙しいから……余計な心配、掛けたくないんだ」
「……シルヴァン様」
「兄上、本当は優しいんだよ。皆が知らないだけで、本当に、〝今でも優しい〟んだ」
笑顔も、嘘も、もう慣れてしまっていた。笑っていないと、嘘を吐かないと、この家からは笑顔が消えてしまう。
「叩いて、ごめんね」
騎士はもう付いてくることはなかった。俺は兄上が向かった階段とは逆の階段を上る。兄上の部屋は城の北側で、俺の部屋は南側だった。以前は俺と近くにあったはずの兄上の部屋は、いつの間にか城の奥へと変わってしまった。
そのことに疑問を持つ者も、この城では俺しかいなかった。
目を失うことが怖くはないと言えば嘘だった。兄上だけではなく、幼馴染の顔も、グレンの顔も、庭師の息子や自分の顔誰の顔ですら見られなくなってしまう。それにもし本当に失ってしまったら、きっと父上は怒るのだろう。兄上に対する父上の怒号も、できればもう聞きたくはなかった。
襯衣を捲る。巻き直そうと包帯をほどいていくと、うっすらと血が滲んでいた。強く掴まれたときに傷口が開いた証拠だった。
「……兄上」
傷口に口を寄せる。ぴり、と走る痛みも気にせず、強く吸い続ける。広がる血の味に、生きている心地がした。
「もっと前に、知りたかったな」
せめて、直接飲んで貰えるのならどんなによかっただろう。
「明日はもう少しだけ、多くしよう」
この腕から流れる血を、兄上の口に届けたかった。
食事の際、人払いをするのだって苦労をしたのだ。でも、それができたのなら、どんなによかったことだろう。
直接飲んでもらえるのなら、どんなに良かっただろう。兄上は笑って飲んでくれるだろうか。あんな風に怒りを纏わせた笑顔でなく、昔のように。〝シルヴァン〟と呼んでくれた頃のように――。
「明日は、もう少し多くしよう」
小瓶の中に残る水を丁寧に拭き取る。この小瓶には無駄な水滴ひとつさえ不要だ。
その日の昼食に、兄上の姿は見えなかった。夕食も変わりがなかった。
このままもし兄上が同席しなかったら、どうすればいいのだろう。
「……美味しくない」
命を粗末にするのは、久しぶりだった。
*
〝ひと〟と仲良くなるのは簡単だ。
だけど、仲が悪くなることも簡単だと教えてくれたのは、兄上だった。
「顔色が悪いな」
庭師の息子が言う。
「そんなことない」
俺は笑って返した。
「鏡を見てみろよ」
庭師の息子は懐中から小さな木材を取り出した。
「それは?」
「鏡だよ。手鏡。見たことがないのか?」
手鏡なら知っている。けれども、簡素な手鏡を目にするのは初めてだった。受け取り、自分の顔を見やる。曇硝子ではっきりとは見えなかった。
「別に、悪くなんて……」
礼を言って手鏡を返す。庭師の息子は
なんだかふらふらする。
あの日以来、兄上が同じ時間に食堂に来ることはなくなってしまった。それどころか、部屋に運ばせているらしい。どうしたものかと、またひとつ悩みが増えたことに気分が沈んでいたのは確かだ。
「あっ……」
平衝を崩し掛けたところを、庭師の息子の腕
「ご、ごめん……」
「お前、もう戻ったほうがいいよ」
「大丈夫だよ」
「暑くないのか?」
「う、うん」
「なあ」
「うん?」
「まさかとは思うけど、お前、〝試して〟ないよな?」
「してないよ」
「じゃあ、どうしていつも長袖を着ているんだ?」
そこでふと、庭師の息子と顔を合わせてから、まだ半年も過ぎていないことを思い出した。
「腕を捲らない?暑くはないのか?」
「痣だらけなんだ」
「訓練で、よく怪我をするから。みっともないだろう?だからだよ」
「これ……木刀で?」
「真剣は使えないから。槍もそうだよ」
「それは分かるけど……それにしたって、多くはないか?」
「普通だよ。俺の幼馴染だって、同じような腕をしてる」
「ええと……フラルダリウスの……?」
「うん。その子の兄上――グレンは厳しいんだ」
ちくりと胸が痛んだ。グレンはそんなことをしない。だけど、自分の兄上だとは言えなかった。
定期検診も同じように誤魔化している。随分と切り傷が増えたことをいぶかしまれたので、同じ場所は切らないようにしていた。ただ、真剣を使っていないのに何故こんなにも切り傷が多いのかという質問には、頭を悩ませた。そうして、その日から真剣での模擬訓練を始めた。怪我をするようなことはなかったけれど、これで誤魔化せると思った。
そうしないと、また兄上のせいになる。どんなに俺が違うといっても、誰もが兄上の仕業に違いがないと目を向けることは嫌だった。
だって、本当に、兄上はなにひとつ悪くはないのだ。確かに殴られ、蹴られることもある。でも、この切り傷は俺が自分で付けているのだ。兄上は、関係がなかった。
喧嘩をしても、幼馴染や庭師の息子とはすぐにまた元通りになれるのに。
俺と兄上は、どうして元通りにはなれないのだろう。
いつか兄上は言った。紋章持ちのお嬢さんと。じゃあ、兄上には紋章はないの?そう、訊いただけだった。あのときの兄上の目は、
この身に宿る紋章が、兄上にはない紋章が、酷く憎らしかった。
もし分けることができるのならば、試してみたかった。
兄上と最後に笑ったのがいつだったか、思い出せずにいた。
「あれ、これは……」
テーブルに並べられていたのはふたり分の食事だった。それも、父上の分ではない。この席は、兄上の席だった。
「マイクラン様のお食事ですよ」
「ど、どうして?兄上、最近はずっと部屋で――」
言い掛けてから、父上の顔が浮かんだ。
「そうか……父上だね……」
ほっとした。
明日から、また再開しよう。
食事の終わるころ、ようやく兄上が顔を出した。相変わらず
いつもの重苦しい食事は、今日は一段と美味しく思えた。
「よかった……」
久し振りに腕を切る。血を流すことにはもう抵抗はなかった。
下がったのを確認して、素早く兄上のスープに滴り落とす。今日のスープはトマト仕立てなので、多少色が付いても変化はない。久しぶりに多目に垂らすことができて安堵をした。
けれど、兄上は――。
「なんだ、この味はっ…!?」
がしゃん、とスプーンが落ちる。
「どうかなさいましたか!?」
「お前、毒見をしたのか?」
毒見――。その言葉にどきりとした。毒は知っていても、はじめて耳にする言葉だった。
「えっ?」
「えっ?じゃない!毒見をしたのかしていないのか、どうなんだ!」
「も、勿論です!」
「ならどうしてこんな酷い味がする!」
「ひ、酷いとは……」
「飲んでみろ!」
「ま、待って!」
「兄上、俺が毒見をしますっ!」
兄上以外の人間にそのスープを口にさせるわけにはいかない。
「お前がだと?フン、それでは意味がないだろう」
「どうして……?」
「ふざけるな!」
今日の夕食は
「大丈夫だと思ったのに……」
明日からは、いつもの量にしよう。でも、あまりに時間が掛かってしまうと、
「そういえば、どのくらいの量が必要なんだろう……」
食事に混ぜることで、効くのかすらも分からない。けれども、今更庭師の息子に確認をすることなどできない。
「やっぱり、ほんの少しだけ多目にしよう」
いつものように流してすぐの血をスープへと垂らす。今日は、三滴にしよう。素早く混ぜた。
「なにをしている」
「っ!」
「あ、兄上……」
慌てて小瓶を隠す。
「な、なにも……」
「嘘を吐くな。やっぱりお前だったんだな」
「俺のスープに今なにを入れた。その小瓶は毒か?」
「」
「ふざけるな」
「お前の血が入っていただと?それを知らずに、口にしていただと?」
「俺の、血を……」
飲めば、兄上に紋章が宿るかもしれないから――。
秘密の話をすると、兄上の顔は更に
「兄上、痛い、兄上っ……!」
「なら貴様の血を今すぐに寄越せ」
「どうした?俺を紋章持ちにしてくれるんだろう?ならさっさと死ね!今すぐに!貴様の血をすべて寄越せ!!」
「そんなことがあってたまるか!そんな、そんな簡単な方法で……っ!!」
「いいか、このクソガキ!良く聞けよ」
「紋章持ちの血を得ることで紋章が宿るのならば、俺は喜んでその血を全身に浴び啜るだろうさ」
「だがな、貴様の血なぞ望んではいない」
「まだ父上のほうがマシだ、貴様の汚れた血よりもな」
「ハッ、その目だ。貴様のその目が気に食わねえんだよ、お嬢さん」
「見えなくするほうがいいようだな、永遠に」
「あ、……っ!」
マイクラン様っ!!なにをっ!?
きゃああっ!!
旦那様をお呼びしろ!!
へ、辺境伯様をっ!!
「お前たち、なんの騒ぎだこれは」
「父上……」
「マイクラン。お前はまたシルヴァンに手を上げたのか」
「ち、違います、父上……」
「こいつが俺の食事に〝毒〟を盛ったのです」
「毒だと?」
「ならどうして平然としている。口にはしなかgたのか」
「っ……!」
「父上違うんです、確かに俺、兄上の食事に〝毒〟を入れましたでも、でも違うんです、違うんです父上。兄上は悪くない、俺が、俺がすべて悪いんです!」
「今はお前には訊いていない。黙っていなさい」
「……父上」
「マイクラン」
「……はい」
「何故シルヴァンに手を上げた」
「そっ、それは、俺が悪いから――」
「お前は黙っていろ!」
「っ……!」
「ハッ。何故?こいつは俺を殺そうとしたのです。手を上げるのは当然でしょう」
「証拠はどこにある」
「……は?」
「な……」
「原にお前は生きているであろう。ならば、口頭だけで済むのではないか?」
「父上っ……!!」
なら、父上が兄上を殴り付けるのは何故良いのだろう。
「どうやら父上は、俺に余程死んでほしいようですね」
「この家に必要な人間は、紋章を宿した人間。紋章のない俺は、不必要」
「長子であっても家督は継げず弟にも打ち負けるこの俺が貴族連中からなんと呼ばれているか、父上は知らないでしょうね」
「何故俺を紋章持ちとして生んでくれなかったのです!!!」
「分かっていますよ、ええ、分かっている!紋章がなければ遺産は使えない!遺産を使えなければスレンを打ち破れない!紋章のない者は家督を継ぐ資格すらない何故なら!この家を、領地を王国を守れないそれがなんだって言うのです!?あんな槍なんか使えなくたって俺は――」
「どうして……俺ばかりが責められるのです……」
「父上はいつもそうだ、こいつが、こいつが生まれてから、父上はっ……」
「母上も俺」
「貴様など、生まれなければよかったのに!!!」
「俺は絶対に認めない。貴様を弟だなんて認めない。嫡子が貴様などとは認めないっ!!!」
「兄上っ!」
「シルヴァン」
「父上、兄上が……」
「医者を呼べ。マイクランに胃洗浄をさせなさい。シルヴァンの手当ても早急に」
「シルヴァン。お前は手当てが済み次第、私の部屋に来るように」
父上の執務室に入るのは
叩音をする。
「シルヴァンです。あの、父上……」
入りなさい、と
「そんな話を信じるなどと、愚かにも程がある!」
「ひっ……も、申し訳……ありません、父上……」
兄上から言われた言葉と同じだった。
「今節の予定はすべて白紙だ。登城することも、訓練に出ることも許可はしない。当然、マイクランと顔を合わせることもだ」
「聞いているのか!シルヴァン!」
「は、はいっ!父上っ……!」
「どこだ」
「えっ……?」
「血はどこで流した。腕か?」
「は、はい……」
「見せなさい」
「いつからだ」
「これはいつから始めたのだ」
もう
「なんと愚かなことを……」
「たとえ〝あれ〟に紋章が宿ったところで、無意味でしかない」
「えっ……?」
「マイクランには」
「話は済んだ。出て行きなさい」
「そ、んな……。だって、それじゃあ、兄上は――」
「無駄口を叩く暇があるのか?」
「……いえ。失礼します、父上」
「そういえば――」
「お前は最近、庭師の息子といるようだな」
「確か、年が同じであったか」
「あ、あの子は、別に――」
「確認をしただけだ。下がりなさい」
「父上、彼は――」
「聞こえなかったのか?シルヴァン。私は下がれと言ったのだ」
「はい……失礼します」
庭師の息子はいなかった。それどころか、庭師も俺の知っている庭師ではなくなっていた。
どうやら俺が部屋に籠っている間に、どこか遠くへ行ってしまったらしい。何日かして、俺宛に一通の手紙が届いた。蝋封もなにもないただの手紙だった。
「楽しかった」
たったそれだけの、短い手紙だった。
「嘘つき」
兄上とは、あの日以来共に食事をしていない。ただ広いだけの洋卓で、一人食事をする。それは兄上の為を思ってではなく、俺がもう馬鹿なことをしないように、父上が決めたことだった。
兄上と顔を合わせたのは、それから数年も経ったあとのことだ。兄上の眉間の傷に驚いたのを覚えている。どうやらスレンとの攻防で付いた傷のようだった。
俺は城で〝守られていた〟から、兄上の傷すら知らなかった。誰ひとり兄上の話をしないからだ。武功を上げても兄上は俺と違ってあの家で褒められることなどひとつもなかった。それでも、俺に対しては褒めてくれたこともある。
すっかりと体格の良くなった俺を見ても相変わらず〝お嬢さん〟と呼んだ。兄上のなかではいつまでも〝紋章持ちのお嬢さん〟である俺は、兄上と再び遊ぶことができた。兄上の友達と遊んだこともある。酷い遊びだった。嬉しくなんてなかった。あれならば女と遊ぶほうが遥かにマシだった。
都合の良い〝記憶〟だけを失っていた俺は、兄上にとってはいい遊び相手だった。
何故その記憶を思い出したのか、はっきりと分かる。
血よりも精液のほうが効くんじゃないか。そう言って、下卑た笑みで俺の性器を咥える兄上の友達もいた。口で、手で、何度も絞り取られたし逆に注がれることもあった。寧ろ、そのほうが多かった。
馬鹿な男だと思った。
馬鹿な男は、俺のほうだった。
その数年後に、兄上はゴーティエの人間ではなくなった。兄上の悪事が、父上の耳に届いたのだ。〝お嬢さん〟の件ではなかった。兄上がゴーティエの名を汚し続けていたことだ。略奪、無意味な殺人。
先に悪事を働いたのは俺のほうなのに。俺は責められることはなかった。
紋章持ちであるというだけで、俺の罪はいつだって見逃された。
新しく来た庭師には、息子も、子どもすらいなかった。庭師が造り上げる庭園は、いつだって綺麗な庭だった。
「おい、なにをぼさっとしている」
「え?ああ、悪い悪い」
「なあ、お前んとこもさ、庭師っているよなあ?」
「……?ああ」
「お前、その庭師と仲は良いか?」
「良いどころか、話したこともない」
「そうか」
「なんだ、一体」
「いや、別に。実家ならこんなこと、庭師の仕事なのになあってさ」
「ああ、そうだな」
庭師の息子は物知りだった。いつも笑っていた。覚えているのはそれだけだ。
「おい、あげすぎじゃないか?」
「なにがだ」
「水。そんなにあげたら根腐れしちまうだろ」
『水はあげすぎたら駄目なんだ。根腐れしちまうからな』
「フン。ならお前がやれ」
「水やりはお前の仕事だろ~?俺はこっちを片付けてくるから、宜しくな」
「チッ……」
「……あいつ、元気にしてるのかな」
随分馬鹿な子どもだった。ただ笑ってほしかっただけだった。
手紙は焼いて捨てた。覚えているのはそれだった。
「俺向いてねえなあ。フェリクス、悪いけど水やりよろしくな」
「向くも向いてないもあるか――おい、どこへ行く」
「肥料取ってくるだけだよ」
「げっ、ってこれ、穴が開いてるじゃあないか!なんっだよそれ……」
「フ……。俺が押さえているから、お前は口をきちんと持っていろ」
「はあ~あ」
俺はもう、庭師の息子の顔もその声も、彼の名前すらもずっと、ずっと思い出せずにいるのだ。
見られていると落ち着かないんだ。だから、下がっていてくれる?
「ですが……」
大丈夫だよ。兄上となにかあれば、すぐに呼ぶから。
ですが、シルヴァン様。そのなにかがあってからでは遅いのです。
お願いだよ。
……承知しました。
ほっと息を吐く。兄上はいつも遅れてやってくる。その間に自分のスープと交換すれば、事が済む。
交換してるとこをみられる
一か八か、小刀が刺さろうとする瞬間に兄上の体を両の手で精一杯突き飛ばす。小刀が目からも離れて、よろけた兄上の手も髪から離れた。
「このガキッ……!」
兄上の手はすぐに戻ってきた。それも今度は、とても力を込めて。
「うぅっ……!」
「動くんじゃねえ。なにが〝俺の好きな色〟だ、ふざけるのも大概にしろ、このガキが」
「っ……あにうえっ……」
「どうせ抉れねえとでも思っているんだろう?父上を恐れて、俺ができねえとでも思っているんだろう?」
「そんなこと思ってないっ!」
「ハッ、その目だ。貴様のその憐れむような目が気に食わねえんだよ、お嬢さん」
「抉るよりただ見えなくするほうがいいようだな」
刺すのなら、目は最後にしてください。そう言えばよかったのだろうか――。
兄上と同じ男である俺が、何故〝お嬢さん〟なのかは分からずにいた。けれども、どうしてそう呼ぶのですか、などとは訊けずにいた。きっと母上に似たこの顔が、兄上とは違う、まだ細いこの体が言わせているだけだ。そう思い、気に掛けないことにしていた。
。
兄上に訊きたいことは当然あった。それでも兄上を前にすると、どくり、どくりと心の臓がざわめき、言葉が消え失せてしまう。
きっとまだ足りないんだ。
もっと、もっと多くしなきゃ。血の滲む襯衣にそっと口を寄せる。
当時のままです。如雨露が嬉しくないのとか、普通に不要だからだろうけどそれ(如雨露=花=庭=庭師)に関するあんまりいいとは言えない思い出があったら面白いな〜とか、この頭お嬢さんシルくんがデフォなのでお嬢さんエピにどうにか繋げたいな〜とか考えてた。けど蛇足かなあとかほんとさんざ迷った結果の放置です。
拝読ありがとうございます。