決別 一節に数回。どうにも眠れぬ夜がある。毎節決まって訪れるその夜を、シルヴァンは寝台に巣食う芋虫となってやり過ごす。
日中、さんざ打たれた腹は浅く息をするだけでもじくじくと痛む。やわな鍛え方はしていないが、それすら気に食わないことも知り得ている。だからこそ相手は何発も打ち込むのだ。手加減などなしに。何度も。何度も。
守るためには服の下に鋼鉄板でも仕込むべきなのだろう。思うだけで実行には移せなかった。仕込んだところで再びの顔だ。そうして今度は腕を、足を。身体中を潰されるのかもしれない。
『目障りなんだよ──』
そんな風に、兄であるマイクランがシルヴァンを好き勝手殴るのはいまに始まったことではない。殴り付けるときは圧倒的に笑顔が多いが、今日は怒りで満ちていた。そんなにも気に食わないのならば、いい加減視界になど入れなければいいだろう。吐き捨てた小さな反抗はより兄の怒りを買った。なるべくならばと顔を合わせぬようにしても、体のいい鬱憤晴らしをマイクランが見逃すわけなどなかった。
「……はあ」
喉の渇きを覚え、シルヴァンが脇机の冠水瓶へと手を伸ばす。いつもならば数秒で済む動作も、今日は酷く時間を要してしまう。心なしか杯も重く感じたのは一瞬で、気付けば派手な音を立て床にすべてを飲ませてしまった。
「──っ!」
左頬に痛みが走る。砕けた硝子が跳ねたのだろう。触れた指先にうっすらと付着した赤は懐かしい記憶すらをも呼び起こす。
「ったく……」
頬を抑えながら、今度は盛大に息を吐く。夜半過ぎともなれば硝子の割れる音など酷く響いたはずだ。だが、いつもならば駆け込んでくる見張りの兵はいなかった。片付けは早朝訪れる侍女に頼めばいい。頬の傷も軽度だ。どうせすぐに治る。しかし、新しい水の手配は誰も来なければ自分でするしかない。
「……仕方ない。取りに出るか」
シルヴァンはもう一度息を吐くと、割れた硝子を避けゆっくりと寝台から降りる。燭台を取り、相変わらずじくじくと痛む腹を押さえ、そっと自室を出た。
不気味なほど静まり返った廊下の窓からは、目映いほどの月明かりが差し込んでいる。これならば不要だったかと思った。
途中、どこかしらに立っている兵に声を掛けようにも今宵はひとりも見当たらない。哨戒が手薄なことを実父が知れば黙ってはいないだろう。シルヴァンの脳裏にあの冷たい眼差しが思い起こされる。突き刺すような眼光は、なにもマイクランだけではなかった。
耳が痛いほどの静寂が支配をしている廊下にシルヴァンの靴音はよく響いた。なるべく音は立てないように歩いていても、磨き抜かれた石畳はそれを許さない。階段を降りる前に一度休憩を兼ねて酷く冷えた壁に寄り掛かれば、遠くからも靴音が響いた。ゆったりとしたその足音に、酷く呑気な哨戒兵もいたものだ、と思う。
さて、どんな顔をしているのか──。
シルヴァンは今度こそ音を立てずにそっと階段を降り切ると、その哨戒兵を確認して驚いた。灯りを吹き消し、急いで階段の陰に身を隠す。相手はシルヴァンに気付いてはいないようだった。
(どうして、こんな時分に──)
心臓が早鐘を打つ。
なるべくならば、いまは会いたくはない人物がそこにはいた。幼いころから、絶対に立ち入ることが許されてはいない部屋に、いとも容易く入り込めるその人物が──。
重い扉の開く音に合わせて、じくじくと腹の痛みが増す。喉は酷く渇いている。早く、早く水を取りにと思うのに、シルヴァンの足は凍り付いたかのようにその場から動かない。
なぜ今宵はこんなにも手薄なのか、その見当はようやく付いた。恐らく人払いをしたのだろう。そうして、城外の警備を厚くしたのだ。この城ですべての決定権を持つ人間ならば不可能ではない話だ。
ようやく魔法が解けたころ、シルヴァンが再び、ゆっくりと長廊下へと踏み出す。堅牢な場に似つかわしくない、甘い香りが微かに漂っていた。初めて嗅ぐ香りだった。
いつもは固く閉ざされた扉の向こうで、父がなにかを呟いていることは確かだが、その言葉までは聴き取れない。シルヴァンはそっと扉に寄り耳を欹てる。
「明日は……だな」
酷く静かな声だった。どきりとした。ああ、そうか、明日は──。
「……がこの……ってから、もう……年だ」
明日、多忙を極める父が毎年同じ時刻、どこかへと出掛けるのは知っていた。努めて明るく振る舞う実母が、その日だけは沈痛な面持ちで見送ることも。
御覧。聞いたことのない優しい音が夜を満たす。
「き……の好き……った花だ」
甘い香りの正体を知る。シルヴァンにはそれがどんな花か、見当も付かなかった。
「……やく、よ……く咲……のだ」
できることならば、共に眺めたかった──。相変わらず途切れ途切れにしか聴こえないが、繋ぎ合わせることは安易だった。そういえばここ最近、庭師の忙しなく動き回る姿を目にしていた。訓練場からの帰路のことだ。
シルヴァンの脳裏に、ある情景が浮かぶ。美しい花々で彩られた庭園の中央に、正装の裾を翻す女性と、傍らに立ち並ぶ父の姿。互いに柔らかな眼差しで、取り留めもない会話を繰り広げる。間違いなく幸せなその光景は、いま、この扉向こうでも開かれている。
シルヴァンはそっと、目の前の重厚な扉に触れた。恐らくこの部屋には、嫡母の肖像画が飾られているのだろう。一度も見えたことのない、話を訊くことすらもできない、兄の実母の肖像画が。
父の声が一層柔らかさを増す。その口から初めて訊く名に、遠退きかけていた腹部の痛みが再び激しさを増した。
「……きみは私の決断を、どう思うのだろうな」
決断──? シルヴァンは嫌な予感がした。この先に続く言葉を聞いてはならないと思った。だが、身体は再び硬直して動かない。
「……、明日、また会いに来るよ──」
すべてが、終わったあとに──。
父の足音がゆっくりと近付いてくる。シルヴァンはどうにかしてその場から離れると、再び物陰へと身を潜めた。
「……おやすみ」
父はすぐに立ち去らなかった。再度鍵を掛けた扉に触れると、もう一度、名残惜しそうに呟く。
「おやすみ、──」
かつて愛した女性の名を紡ぐその声には、どこか涙さえ滲んでいるように思えた。
シルヴァンが父の決意を知り得たのは翌朝のことだった。そのような話が出ていることは風の噂で知り得ていたが、まさか本当に、それが真実になる日が来るとは思わなかった。〝命日〟を重ねた父の姿は、昨夜の語り掛けのような優しさなど微塵にもなかった。あの酷く優しい声は、きっと、あの部屋でしか耳にはできないのだ。
この家にはもうマイクランの姿はない。戻り得ることもない。目障りだ。幾度もそう口にした兄の、見知った弟も共に姿を消した。
「さよなら──」
いつかの誕生日。護身用だと手渡された、一度も使うことのなかった短剣の切れ味は笑えるほどに鋭かった。この剣は初めての獲物が柔らかな肉でないことにさぞかし驚いたことだろう。
「さよなら、兄上」
どうか、お元気で──。そんなありふれた言葉ですら音にはできなかった。すべてを嫌味と捉えるマイクランに届くことなどもうないのに、記憶の中の憎悪はいつだって失われることなどない。
「さよなら、」
互いに長きを生きてきた。シルヴァンはそれを暖炉に焚べることに、躊躇いなどなかった。ただ、はらはらと手から滑り降りるその赤を見せられないことが残念でならなかった。
「──〝お嬢さん〟」
瞬く間に立ち込める煙はシルヴァンの世界から鮮明を奪った。とうの昔に涸れ果てたはずの水が再び湧き出し始めたことに、なぜだかシルヴァンは、酷く安堵をした。