はじめてのおつかいの如く送り出された。
いつもは貘さんがテーラーの人を呼んでそこで採寸したり着せ替えをされたりで、僕は自分でスーツを作った事がない。
しかしいつまでもおんぶにだっこは嫌だ!僕だって独り立ちする時があるんだ!と意気込んで一人で店頭に行って採寸してもらうことにした。
最初からそんな高級な物を仕立てようとは思っていない。想定しているのは社会人歴が数年経ったくらいのサラリーマン。
今度必要な擬態がそれで、今回のチャレンジは案外それっぽいスーツがなかった事に起因する。
最近のサラリーマンの月給から考えて予算はこれくらい、フルセットならこれくらい、と想定しながら財布に現金を入れて来た。
よし行くぞ、と尻のポケットに入れた財布を勢い付けにポンと叩いて立ち上がると、「財布落とさないようにね」「こまったらマルコに電話をするのよ」と駈け寄られる。
もちろん馬鹿にされている風には感じない。二人とも本気で言っているし、カツアゲされかけたり財布を落としたり罠にはまったりの前科が自分には豊富にあるためキリっとしながらも曖昧な顔で頷く事しかできなかった。
目指せ社会人手取り四十万男のオーラ…と勇み足でタクシーに乗り込んだ。
午後を過ぎた街は歩行者天国になっていて、できるだけ近い地点でタクシーを降りて歩く事になった。
人混みの中をどうにか目的地に向かって歩く。大きなビルたちがその向こうと大通りの間に衝立のようにして立っているからまだそこはいいが、あまりにも真っすぐに通る道路は「本当にこっちか?」と疑心暗鬼になるには十分な長さだった。
くじけそうだ。喫茶店か、さっき奇跡的に見かけた吉野家に入りたくて仕方がない。いやどちらかというと圧倒的に吉野家に入りたい。500円でどんぶりが食べられるあの世界に入りたい。
口座に何千万から億の単位の数字が入るようになったこの生活だからといって生活のランクを上げるようなことはしていないから、この街に自分は場違いでしかないように思う。
身なりはかなり変わったと思うけど、貘さんのついでに買ったり貘さんのを借りたり貰ったりで、自分から意識的にいい物を買いに行こうと出かける事なんてほとんどない。
今まで選びたい物ではなく自分が持っていても良い物が手元に来るのを待っていたから、財布にどれだけの紙幣が溢れていようとそもそもあれこれと買い集めるという発想が無かった。
(今までも、欲しい物はあったけどさ…)
大量生産でないものをわざわざ吟味しに行くなんてことはなかった。有る場所に行って、有ったら買って、無かったらそれで終わりだった。
この街を歩く人は迷いなく店に入っていく。買い物って、どうやってするんだったっけか。考え込むほどにわからない。今日も多分「これはいかがですか」と出されたものを「いいですね」と言って買って終わりだ。
…ずっとそうだな。
「お客様」として扱われるようになっただけで、特に変わっていない自分に気づいてしまった。
急に気分が落ち込み、た、助けてくれ!という精神になって道の脇に寄ったところで、ようやく寄りかかる場所に行き着いた。壁の冷たさが今は本当にありがたかった。
スーツ、買いに行かなきゃな。そこまで高級な店じゃないし、予約とかではないから時間も大丈夫だし、今度の賭けに使う備品みたいなもんだし、とにかく行かなきゃな。
これは自分のためじゃない。巡り巡って自分のためだけど、人のための事だから大丈夫。
尻のポケットに入れた財布がずっしりと重たい。その重さにつられて座り込みそうになった。
すぐ脇のドアが開いて中から冷房がサっと吹き抜ける。よし、行くぞ、と立ち直り歩き出そうとした。
「梶様?」
「梶様?」
「はい?」
呼び止められたわけではないが、つい振り向いてしまった。
横を通るご婦人たちから頭3つほど高い身長の二人が並んでいる。見知った顔に、ちょっと救われたような気になってしまった。
「…お二人って、休みには一緒に出掛ける感じですか?」
「「まさか!」」
見事にシンクロする低音にあたりの人が一斉に振り返った。
そして同時にお互いをにらみ合い、また同時に僕を見下ろした。本当は仲いいでしょこの人たち。
「…裏に洋食屋があります。入りませんか」
「そりゃいい。ハヤシライスが美味い店ですよ」
このあたりにはレストランなんかいくらでもありそうなのに、二人が思っている店が同じであろうというのはわかる。
なんでお前も来ようとしとるんじゃ、と容赦なく南方さんの革靴を踏む門倉さんに苦笑いしか出ない。
そしてタイミングよく唸った僕の腹の音。多分雑踏の中でも聞こえてるんだろうなと観念して僕は二人について行った。
*
「私は近場まで用があったのでついでに時計を見に…」
「私もオーバーホールに出していた物をついでに受け取りに…」
「かちあったんですね…」
いつもの特注丈のブラックスーツではなくそれぞれ夏用のジャケットを着ているのが新鮮でついしげしげと眺める。
「お二人ともそういうの似合いますよね。体格がいいからかな…」
「私は入庁してからほとんどスーツですから…私服よりもこちらの方が着ている時間が長いんですよ」
「お前は迷宮に来た時から丈が長かったが、あの丈でよう警察でやっとれたな」
「口を出すにも方向と相手っちゅうもんがあるやろ。ワシには言えんということよ」
二人は器用に方言混じりと僕への敬語を切り替えながら話す。それにしても、男の僕から見ても二人ともいい男ぶりだ。
「時計壊れちゃったんですね。南方さん結構物持ち良さそうだから…」
「いや何、相手の拳に仕込みが入っているのに気づきまして、手持のグローブなぞなかったもので時計で代用したまでです」
古い物を大事に使ってるのかな~という方向に繋げたかったのに、聞くんじゃなかったなあ、と思った。
おすすめされた通りに頼んでみたハヤシライスは、突飛な部分がないのが逆に良いものっぽさを醸し出していた。
人にハヤシライスを勧めた割にはカツレツを頼んだ二人と料理を囲む。口に入れたハヤシライスは「星、三つです!」と言いたいくらいに美味しくて、今日はもうこれで帰っていいかと思えた。
「しかし何故梶様がおひとりでこのような場所に?お屋形様のお遣いですか?」
むぐ、と忘れかけていた目的を思い出した。
「お遣いというか…うーん、買い物をしに来たんですけどぉ…怖気づいちゃって…スーツなんですけど…」
外商を呼べばいいという提案が出て、確かにそうなんですけど、と事の次第を話す。
そこまでは合点が行ったようだったが予算を聞いて二人はちらりとお互いに目線を飛ばし、困ったように沈黙する。先に口を開いたのは南方さんだった。
「少し、その…単価が安すぎるんじゃないかと思いますが」
無理もない。この土地でそろえるには確かにお安い価格帯だ。
老舗百貨店で高級時計を見たり受け取ったりしてきた二人からすればこの予算は廉価モデルの値段くらいで、吊るしのスーツは純正ベルトくらいの値段だろうし。
「あっ、いいんです!カジノ用とかの高いスーツならあるんですけど、三十歳手前くらいの若手サラリーマンのスーツ、でも吊るしじゃなくてオーダーで、安いので、みたいなので…」
門倉さんが南方さんに「備品よ」と耳打ちし、南方さんが頷く。次の立会と勝負については門倉さんが把握しているから、それで納得いったのだろう。
「店のあてはあるんです。でも一人でスーツ買いに行くとか今までした事がなかったので…」
「フルオーダーとなると時間がかかりますし、そうでなくても決めるのは結構な手間ですよ。ウールか、ポリか…色も」
「若手サラリーマンが着るのならそこまで張りこまなくていいでしょう。予算がはっきりしているのならそれを伝えて、ある程度は店に任せてもいいでしょうが…」
それからもさらさらと出てくるワードに「貘さんが言ってたやつだ!」と思いながら薄く笑っているしかできない。
「見立てましょうか」
「はい?」
南方さんがそういうのとほとんど同時にテーブルの下で鈍い音がする。多分だけど、また南方さんの革靴が盛大に潰れたのだろう。
痛みがきたのか息を詰めたような顔になった南方さんを置いて門倉さんがずいと前に出る。
「お見立て致しましょうか。賭郎での私のジャケットは改造しておりますが、一応他にもスーツを仕立てた事はありますので」
うっすらと涙目になっている南方さんがこくこくと頷く。テーブルの下ではぎちぎちと革が悲鳴をあげる無残な音がしている。
*
心強い仲間をパーティに加えたような気持になった。
「お前のせいで靴が終わった」と片足をひきずる南方さんも一行に加え、当初の目的地であったスーツの店に足を踏み入れた。
そこからは嵐のようだった。
貘さんはそもそもスーツに慣れているし知識もあるから自分から引き出しを開けて要望を出せていたのだな、と痛感する。手札がなく、本当になにもわからない。
僕が「こっちかな」という物はことごとく二人に却下され、求人誌に「急募:センス」と張り出して叶うならそうしたくなった。
却下と言っても頭ごなしの否定ではなく、知識がないあまりに不向きな物ばかりを選んでしまうのだ。
「オーダーではありますが設定された人物像から見て、細かく手入れが必要な物は持たないでしょう。ならポリエステルで。」
「会社員ですし三十手前…まあ、グレーが無難ですね。チェックは少しカジュアルになってしまうかもしれないですし…ストライプはどうですか?」
「あ、お任せしま~す…」
まだスーツになる気配すらない布の塊をあれこれと左右から肩に乗せられ秤にでもなったような気分になる。
本当に決める事が多い。スーツは店に行ってサイズが合うものを買って即日持ち帰るという当たり前が当たり前じゃない場所は知っていたが、こんなにも忙しいとは。
素材と色ではお互いに意見が一致したらしい南方さんと門倉さんがフロントのボタンの個数と色と襟をさっさと決め、ほかいろんなパーツも決め、革靴のターンになって揉めはじめた。
布やらサンプルやらでどつかれ続け流石に消耗した僕にお店の人が小さなグラスでお水をくれた。水にレモン入れるのってラーメン屋だけじゃないんだな、というのも最近知った。
結局僕が明確に希望を出したのは後ろの切れ込みの部分の形とポケットを斜め型にしてほしいというくらいで、あとはもう二人にお任せした。
大きな鏡の前に立って二人に見守られながら採寸が始まる。
「梶様は肩はそれなりにありますが、胴体が細いですね」
「滅多に体型が変わるでもないでしょう。ベストも絞った方がいい」
二人の指摘が入り、あちこちを締められたり留められたりを繰り返す。
鏡の中で仕上がっていくシルエットは最初よりもずっと細く、肩越しに見える二人の体格と比べるとよく言えばスマート、悪い方は言うまでもなく貧相でしかない。
「お客様はスリムでいらっしゃいますので大抵の型はお似合いになりますね」
本当に?と俯きかけた。僕からすればなんでも似合うのは南方さんと門倉さんの方なんだから。
採寸が終わって、ついでだからと靴下とネクタイ、シャツも選んでもらった。
「…ダメだな僕、やっぱ自分で選ぶの向いてないです。このスーツも似合うかどうか」
カウンターで所在のない手をもじもじとさせてしまう。振り向いた先、椅子に座ってもらっていた二人の長い手足と張った胸、背中が目に痛い。
「…どういう工程と選択肢があるかはもう分かったでしょう。次からは難なくオーダーできますよ」
「私だって最初の一着はされるがままでしたよ。その後も上司に連れていかれたり、着せ替えをされたり。そんなもんです。」
「…僕も二人位の歳になったら、似合うようになりますかね」
「目指すなら私にしてください。南方は老人社会に長く浸りすぎたせいでセンスが少し…」
「おま…よう手前に言えたな…ツラの皮と腹の肉でサイズ変わらんように気を付けろよ」
TPOに合わせて声は穏やかにトーンは軽くやりあっているがまったく穏やかではない。
店を出て二人にお礼を言う。一人でできるもんのつもりが立派に手を借りてしまった。
「着て回数を重ねればスーツの方があなたに馴染みますよ。次が必要ならまた、お見立てしましょう。」
「次は私は遠慮しますよ。デートは二人でどうぞ」
「はは…そうしましょうかね…」
店に至るにも情けなくも大人二人に連れられ、突っ立っているだけで仕様は決まっていき、結局何もしていない。
…けど、よく考えたらはじめてのおつかいだってスーパーの人とか近所の人が助けてくれてるじゃん!と思い開き直る事にした。
次だ次、次こそ一人でいけたら、それでいいのだ。一人じゃなくても、べつにいいのだ。
*
「よくお似合いですよ、梶様」
ホテルに迎えに来たのは南方さんだった。
今日は専属の人達が上から順にみんな捕まらず、どうにか行き着いた最上さんが立ち会ってくれる予定だ。南方さんは貘さんに頼まれてそこに行くまでのためにわざわざ迎えに来てくれたのだと言う。
お似合いですよ、の不意打ちの第一声に椅子から跳ねるみたいにして立ち上がり、思わずくるっと回って見せた。
「どうですかね、どっか着こなしおかしいところとかありますか?」
「いえ特には…椅子に座る時には前のボタンでも外すくらいでしょうか」
「あ、じゃあ外さないで座ってるってのもアリかな…そのほうが慣れてない風に見えます?」
「お任せしますよ」
運転は黒服に任せて二人で後部座席に座る。
店でいろんな仕立てのスーツを見て以降なんとなくわかった事だが、貘さんと、南方さんと、黒服と、自分が着ているスーツはやっぱり全部違うのだなと思う。
南方さんと門倉さんの真っすぐに落ちるスラックスの裾にはその形を作るために板が入っていると教えてもらって、あれだけ膨大な量のサンプルを見ても尚まだ知らない事があるのかと驚くばかりだった。
特におかしいところはないと言われてもなんとなくそわそわしてしまう。今日の為に着て馴らしては来たものの、いまいち正解に自信がない。
「…門倉には言わないでくださいね」
南方さんが苦笑いしながらそう言う。
「?何をですか」
何を言われているのかがわからないので素直に聞き返すと、南方さんはさらに渋い顔になった。
「仕立て上がりの一番をお屋形様やマルコが見るのは別に今更構いやしないでしょうが、その次が私なのは流石に」
あ、と思い当たった。今日門倉さんがこられなかったのは、三人で店に行ったあの日の後すぐに門倉さんが日本を離れて顔を合わせていないからだ。
僕と門倉さんの仲を知っている南方さんは、こういう事によく巻き込まれてしまう。火の粉は僕には飛んでこない。だって僕らが火中にある方だから。
「気を付けます…」
「よろしく頼みます…」
じゃあ今日もしっかり勝って、せっかくのスーツが汚れないようにして帰らないとな。
そう思うと自然と胸を張れた。このスーツがダメになったとしても、また門倉さんに付き合って貰えばいいか、とも思った。