門梶固定のためのギプスに由来する弥鱈の命名のせいで「エグゾディア」と呼ばれ続けた入院期間も終わり、まだ立会人業務への復帰は先ながらも経過観察として自由の身になった。
入卍するにあたって置いて行った財布にカードと現金を戻し街着のポケットに押し込む。そこに何本か吸ってそのままそこに入れられていた煙草の箱を見つけ、埋蔵金でも当てたかのような気持ちになった。
明らかに味は落ちているが、窓を開け放している自宅で吸う煙草は格別だった。出所不明の紙の匂いもしないし、エタノール臭くもアンモニア臭くも南方臭くもない。
入卍の地からほとんど直接搬送…もとい物品搬入の勢いで叩き込まれた病院からしばらくぶりに帰宅する住まいの空気は暗く澱を抱え、復帰と共に入卍が決まった時に全てを済ませてから出たとはいえ多少の手入れが必要だった。
要らないかと思って出がけにすべての家電のコンセントを抜いたが、それを挿し直すのも億劫に思える。定期配送に戻してすぐに届いた水も常温で、何もかもが怠い。
燃える草と紙の煙を深く吸い込み、ああ、終わったなあ、と天井を仰ぐ。
煙を吐き出すのと同時に腹の虫が騒いだ。どんな状況にあろうが、腹は減る。面倒だが食べなければならない。
入卍と入院中に身体を作るような食事ができていなかった分随分と身体が薄くなった。トレーニングを組み立てるのは明日にするとして当座の食事を得るため、着替えるのも面倒だからと退院してきた格好の上に街用のコートを羽織った。
もう色々と面倒になって棚にあったプレーンのサラダチキンと売り場で一番バカのサイズをしていた弁当をカゴに投げ入れる。よく冷えた水と、それからビールのロング缶を3本。あとおかき。それから煙草。
「26番。」
「はい」
家には見舞いに寄越された未開封カートンがあるが、ついさっき味の抜けた煙草を店の前のゴミ箱に捨てたので手持ちがない。
トレーニング中の店員が番号を復唱しながら棚の前を右往左往とする間、ふと横のガラスケースが目に入る。
一つ隣のレジで学生がチキンを注文し、店員の手元にある袋を見て「あ、」と思った。
脳裏に入院中のひとコマが浮かんだ。梶が病室に見舞いとして持ち込んだホットスナックの数々はこのコンビニのものだったのか。そう思うとついまじまじとケースの中を見てしまう。
あれ以降も何度か同じような差し入れを持って梶は病室を訪れた。そのたびに歓迎され、最終的には気が利く奴という評価まで得ていた。
脂も油もたっぷり、たまに口にするにはいいだろうが常食とするべきではない物だろうに、どうしてなかなか美味いと思えた。
「あー…ファミチキ、も一つ」
「はい」
なぜか気恥ずかしさのようなものを感じながら万券を会計に出し、当初の予定よりも膨れたレジ袋を受け取った。
たむろする若者の脇を抜け愛車に乗り込み、弁当を助手席にのせて煙草を咥える。
ああ、新鮮な煙草はうまい。生きた心地がする。乾いた草が燃えているにすぎないというのに生きているものを吸っているような気になる。
とりあえず一本、と駐車場に停めたまま堪能する。途中でゴミ箱脇に座り込んでいた若者たちが車窓からのぞき込んで来たが、目が合うとどこかに消えていった。うぬぼれているつもりはないが懸命な判断だろう。
煙草を通して呼吸していると一本が終わるのなどアッという間だった。さてもう一本、と袋からボックスを取り出そうとしたところでホットスナックの袋に触れた。
袋を開くと色々なものを揚げて来たのだろう油の匂いがむっと立ち上る。一口かぶりついて溢れる肉汁に思わず眉間に皺が寄った。
二口、三口、と食べてもそれは正しく揚げた鶏で、それ以上には特に特筆すべきものも感じない。あの病室で食べたものはもう少し旨味があった気がするが、作り置かれた物だと味が違うものなのだろう。
さっさと胃に収め車のハンドルを握る。唇が油でぬめるのを感じながらくわえ煙草で帰途を走った。
*
「退院したんですね」
賭郎本部の昼下がり、さて一服、というところで喫煙所に梶が入って来た。間抜けなことに手ぶらで、ポケットには煙草の箱すら入っていない。
「…一本いかがですか」
「えっ」
梶は差し出した箱を数瞬、じっと見つめそれから恐る恐るというのを体現したような指先で向けられている一本をつまんだ。
「吸わないのでしたら無理は…」
「あ、吸ったことはあるんですけど、びっくりして」
「はあ」
「や、なんかスマートっていうか、おっ…かっけー…って思いましたね今」
「そうですか」
ポケットから愛用のライターを取り出して向けると唇の先でちょんとフィルターに口を付け先端を火に向けた。ちゃんと吸い込んで着火を待つあたり、本当に吸った事自体はあるのだろう。
けほ、と小さくむせながら梶は二口めを吸った。
「もう復帰ですか?」
「いえ、退院の挨拶にだけ。どうやら思い切りよく折れていた様で」
「でしょうね。ボルト入ったって聞いてますもん」
誰だそんな余計なことを言ったのは、と無意識に自分の顔が渋くなるのがわかった。
「その節は差し入れをありがとうございました。まだ出てこれておりませんが…南方も大変喜んでいましたよ」
「そうですか。ほんと病院食って味気ないですからね…体にはいいんでしょうけど」
確かに、と頷けば梶が笑う。迷宮で最初に見た時よりも多少体つきが頑丈になったように見えるが、立会人らと比較するのは酷だといってもまだまだ貧弱と言って過言ではない体格だ。
梶も入卍の際に決して軽傷とは言えない傷を負っている。血も、肉もきちんと再生したのだろうか。
「食事にでも行きませんか」
「えっ」
吸っている最中に話しかけたのがよくなかったのか梶は鼻からも煙を吐きながら盛大に咳込んでしまった。
自分の口からなぜそのような誘いが突くようにして出たのかもわからないが、とにかく梶の返答を待った。
「あー…鼻水でた…結構重いですね、これ」
「ああ…失敬、慣れていないとそうかもしれませんね」
「…けっこう、あー…肺に入れちゃった」
胸を押さえて丸くなる梶の背を思わず擦りそうになり、その手を引いた。触れるような仲ではない。
「して、ご返答は」
足元がちぐはぐになっていく。自分はこの若者が勝負の盤の上に居る時以外にはさしたる興味はない。はずだ。借りもきちんと返した、はずだ。
今声を出しているのは本当に自分か?わからないが、返事がどうであれ不都合はない。断られたならそれで終わり、野郎同士の飯の都合など軽く誘って軽く断ってで構わないのだから。
「門倉さんがいいなら、行きます」
「は?」
「えっ」
手元から灰が落ちる。それをなんでもないかのように手でつかんだ梶の手を自分の手が掴んだ。それは咄嗟の事で、他人事のようだった。
「…和食か、イタリアンか、どちらがよろしいですか」
「箸、使えるならどっちでも」
「いい肉を出す店があります」
開いた手から真っ白な灰が落ちる。頭にはすぐに、個室のあるトラットリアが浮かんだ。