飴と罠(自然に、自然に…にやけないように…)
そう心の中で唱えて自分の顔を両手で挟む。ふーっと息を吐いてから目の前のインターフォンを押した。軽快な音がして一瞬間が開き、直ぐに返答が来る。
『今開けるから待って』
何度も聞いた優しい声だ。「はーい」と短く返事をしてからはたと自分がにやけてしまっている事に気付く。駄目だ、上手く嬉しさを隠しきれない。
鍵の回る金属音がしてドアノブが下がる。
「いらっしゃい、どうぞ、上がって」
白のTシャツに黒のクロップドパンツというラフな出で立ちの彼は優しく目を細めて笑うと中に招き入れる。
「お邪魔します」
相変わらずの美しい容姿に気圧されそうになりながらなんとかそう絞り出すと後に続いて中に入る。ふわりと彼の甘い香りが鼻腔をつく。
「今日、本当に健の家で良かったの?」
廊下を進みながら彼ーーー健(たける)に話し掛ける。リビングのドアを開けながら健は振り返り、優しく中に入るように目で促してくる。
「何言ってんの、今日は快気祝いでしょ?家の方がゆっくり出来るし……ほら」
ドアの側まで来た私の腰に軽く手を回しつつ、リビングの中の机に視線を向ける。そこには色とりどりの料理が既に並んでいていい匂いが届く。
「わぁ…!」
その光景に思わず感嘆の声を漏らすと息を吐いた様な笑い声が上から降ってくる。
「こうやって嬉しそうな声も聞けるし、大好物ばっかり用意出来るしね」
そう言って笑う彼のいたずらっ子の様な顔はいつでも私をときめかせる。
私が過労から倒れて病院に運び込まれてから1ヶ月が経とうとしていた。(※前回夢小説風『涙』参照)2人の休みのタイミングがなかなか合わず、延ばし延ばしになっていたのだ。
仕事終わりに食事だけでも行っていたが、時間が限られていたのでゆっくりと会うのは久しぶりでなんだか緊張する。
「さぁ座って、食べようか」
私を優しくエスコートして椅子に座らせると、自分はまたキッチンへ足を運ぶとシャンパンと細身のグラス2つを持って戻って来た。
「乾杯用に買ったんだ、どう?」
ただの快気祝いだけなのに沢山のおもてなしに思わず笑みが溢れる。
「もちろん、いただきます」
差し出されたグラスを受け取りながらそう答えるとふわりと彼が笑う。注がれたシャンパンの気泡が弾けて甘い香りを運んでくる。互いに傾け、「乾杯」とグラスを合わせて笑い合う。暖かい時間だ。
「はぁ〜、おなかいっぱい…」
机いっぱいに置かれた料理はどこへやら…余るかとも思われたそれはあっという間に2人の腹に収まってしまった。しかもデザートまできっちり。可愛らしく少しだけ食べようかとか一応は考えるのだが、好物を前になかなかそれが出来ない。なんだかんだと食事の際は腹いっぱいまで食べてしまうのだ。
「本当におなかいっぱいだね。俺は少し片付けしちゃうからお風呂入っておいで?」
空になった皿を重ねながらそう言われて思わず目を見開いてリラックスしていた椅子から急いで立ち上がった。
「こんなに色々して貰って何もしないなんて…片付けは私がやるよ!」
片付けようと目の前の空いた皿に手を伸ばすがさっと健によって回収されてしまう。
「いいからいいから、今日は君の快気祝いなんだよ?大人しく甘えていなさい」
片付ける手は止めずにそう言いながら流し目を送られる。有無を言わせぬ雰囲気でさらに子供をあやす様に「ね?」と囁くように言われてはこちらがひとたまりもない。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
こうなったら頑として譲らないのがこの男だ。大人しく甘えさせて貰う旨を伝えると「いってらっしゃい」とにこりと笑うのだ。私がこの笑顔に弱いのを健は知っているのだ。知っていてこんな事を仕掛ける。狡い。
風呂を出て戻るとすっかりテーブルの上は片付いていて、ふんわりと紅茶の香りが届く。
「お風呂上がったよ〜…」
健の姿が見つからずにそろりとリビングに入ると、健はクッションソファの上で寛いでテレビを観ていた。その姿勢のまま首だけをこちらに向けてニコリと笑う。
「おかえり、紅茶淹れる?」
「お願いします、見ててもいい?」
健の淹れる紅茶はとても香り豊かで好きだ。内心小躍りしながらそう聞くと、クッションソファから腰を上げながら「どうぞ。」と応えてキッチンへ向かう。
紅茶を淹れる、ただそれだけの仕草なのだがとても様になる。カフェ店員でもやっていけるのでは無いのかと思うが、それはそれで私のライバルが増えそうだ。それだけは避けたい。
「一緒にテレビでも観ようよ」
健はそう言って顎をしゃくると紅茶の入った私のカップを持ち、リビングへと向かう。リビングには2人がけのソファと木目調のローテーブル、それからクッションソファが置かれている。健は紅茶の入ったカップを2人がけのソファからは遠い位置のローテーブルの角に置くとクッションソファに体を預けてしまった。ソファに座ろうとしていた私は突然の健のいじわる…なのだろうか?に困惑してしまう。そんな私を尻目に、健はいつもの優しい笑みを浮かべるとポンポンと自分の膝の間のクッションを叩いて指し示す。
「ここ、おいで」
「…へっ!?!?」
あまりに突然の事に一瞬固まり、口から素っ頓狂な声が出てしまった。
確かに少し大きめのクッションソファだが、大人2人座るには手狭だろうし、そもそも彼の前に座る事に抵抗があった。そんな事したら緊張して爆発するかもしれない。
「へ?じゃなくて…ほら、おいで」
健のやや左後ろで立っていたが、突然右腕を掴まれたかと思うと引っ張られて体がバランスを崩す。
咄嗟に目を瞑る。倒れ込んだ先はクッションソファのはずが、何故か少し固い。温もりがある。目をぱっと急いで開けると目の前は健の胸板のそれで上からふふと笑い声が落ちてくる。
「捕まえた」
顔が火を噴きそうなほど暑い。まともに健の顔を見る事が出来ずに慌てて立ち上がろうとするが、手を着いたのはクッションソファで、ビーズ素材のために沈んでしまってただ無様に蠢いただけになってしまった。
「はは、もう逃げられないって。大人しくここに座りなよ」
逃げることも叶わず、私は大人しく健のエスコートに従ってクッションソファに腰掛けた。
まぁまぁ大きなソファだ。足先が浮いて自然と体重が後ろに乗ってしまい、健に密着する形になる。心臓は口から出そうな程脈打ち、ただただ背中が熱い。それに加えて私を包み込むように両手を私の腹に回して指を組み、顎を肩に乗せるようにしてくる。謀らずともその息が襟の口元から中に入ってくすぐったい。
「はい、どうぞ紅茶」
狼狽する私を尻目に健はテーブルの上のカップを取ると私に手渡してくれた。
「ありがとう」
そう言った私の声は震えていないか。今にも吐き出しそうな心臓を押し込めようと紅茶に口をつけて飲み込むが味など全く感じなかった。
テレビで何かお笑い系の番組が流れているのを観て健が笑うと、漏れだした息が頬と首筋に当たって体が更に熱を帯びる。
「わっ…ちょっ…っっ!!」
体がびくんと反射的に跳ねる。体の前で組まれた健の指が悪戯に服の裾を掻い潜って腹に薄く触れたのだ。指の腹だけで撫でるだけ、前から横腹へ、背骨へ、そして前へまた戻る。
「んー…?」
はぐらかした声で返事をしてくるが手の動きは止まらない。また横腹に滑らせた手はゆっくりと確かに目的を孕んだ動きで上へと進み爪がブラジャーのサイドベルトを引っ掻く。その振動に体をびくりと震わせると鼻から抜けるように笑う声がする。
「ぇ!?…やっ…ちょっと…!」
笑う声がした刹那、うなじにぬめりとした熱が落ちてきて体が跳ねる。それは紛うことなき健の舌なのだが、まるで生き物のように髪の生え際まで這いずる様にゆっくりと上がり、ジュッと音を立てて唇で包み込まれる。手はサイドベルトからアンダーベルトへカリカリと爪を立てながら撫でていくその感覚にぞわりと背中が粟立ち体が震えた。持っていたカップから紅茶が跳ねて私の指とズボンに僅かな染みを作る。
それに気付いたのか健の左手が離れていき、私のカップをひょいと奪ってローテーブルに置くと私の左手をそっと包む。
「ごめんね、ちょっと熱かった?」
横からこちらを覗き込むと、私の手が健に引き寄せられ掌が健の唇に触れる。
「ぅっ…ぁッ…」
『大丈夫』と言いたかったのだが、口を開くと漏れてくるのは湿った声だけだ。掌に触れていた唇が開き、熱い舌が指の間を這う。紅茶の雫を捕らえたそれは中指を這い上がり、指先が食まれる。食まれたまま、指先を熱い舌が転がし軽く吸われてそこから生まれた熱が身体の中から少しずつ蝕んでいく。伏せ気味だった瞼が上がり、視線がぶつかる。私の目を見つめたまま舌がゆっくりと指の間を嬲っていく。ぬらぬらとしたそれが指から見え隠れして更に私の欲を掻き立てた。ただ指を舐められているだけなのに行き場のない熱が徐々に溜まっていく。
散々嬲って離れた舌先と指の間に銀糸が尾を引き妖艶に笑った健の色香をさらに濃くした。
「エロい顔…」
そう呟かれたがもう先程までの行為で力の入らない私はなされるがままに健の右腕に背を預ける形で半分寝かされると、健の口が今度は私の口に落ちてくる。僅かに空いた私の口を割って入った舌は今度は私の口腔を嬲る。私の舌を捕らえて吸われたかと思えばぬるりと上顎をなぞられそれだけでどうしようもない疼きが全身を駆け巡る。絡まるうちにどちらの物ともつかない唾液が口の端から糸を引く。粘ついた水音と鼻から抜ける息と共に漏れる私の喘ぎだけが部屋に充満する。
「あっ…はっ…はぁ…」
健が離れた為に酸素を得ようと喘ぐ。二人の間に引いた糸が名残惜しそうにぷつりと切れると健は不意に顔をテレビの方へ向けた。その視線を追うと、どうやらテレビの上に掛けられた時計を見ていたようで、その針は頂点を少し過ぎた所だった。
「うん、日付け変わったね。そろそろか。」
何だか自分だけで納得した様子で独りごちると健はにこりと万遍の笑みを浮かべて私に視線を戻す。こんな顔の時は…なんだか嫌な予感がする。
いつの間に用意したのか、床から何かを持ち上げると私の左手を取って手首にカチカチと音を鳴らしながら何かを取り付ける。
「え!?」
反射的に驚嘆の声が漏れる。可愛らしくファーが付いているがそれは紛れもなく手錠で、慌てて手を引こうとするが、意外と強く掴まれていてそれは叶わなかった。おまけにクッションソファーの柔らかなビーズ素材が邪魔をして身動ぎも満足に出来ない。
「ほら、怪我するからじっとしててねー。」
健はといえば今にも鼻歌でも混じりそうな楽しそうな仕草でもう片方の手にも手錠を嵌めて私を拘束する。
「ま、待って、何これ…」
焦る私を他所に実に楽しそうな笑みで私を見下ろすと顎をクイと持ち上げて強制的に健の顔を見つめる形に仕向ける。
「何って…前に言ったこと忘れちゃったの?」
何の事だかさっぱりだ。私の頭の中は疑問符でいっぱいでそれが顔に出ていたのか健が堪らず吹き出す。
「ははは、本当に分からないのか。病院で倒れた時だよ、覚えてない?」
そこまで言うと健の顔がふっと近くなり耳元に口を寄せる。匂いが濃くなる。
「言ったでしょ、『お仕置き』するって」
低く唸るような声でそう囁かれてズクリとまた身体の奥に熱が灯るのを感じる。
病院でのやり取りを思い出してまたいっそう先を期待して疼く私が居るのもまた確かだ。
「明日お休みでしょ。…今日は寝かせないよ。」
ーーー今日、私は一体どうなってしまうのか…。
彼の色めいた瞳に私は逆らえず溶かされていくのだ。