包帯でグルグル巻きにされ、たくさんの管に繋がれた乾のその姿は、かつての記憶を激しく揺さぶった。病室に入ることは叶わず、ガラス越しにしか面会は許されていない。
東卍程巨大な組織になると、病院のひとつやふたつ、経営方針に口出しできるくらいのコネクションは簡単に築けた。この病院は、その筋の人間を多く受け入れている。
病室の中の音はきこえてこない。モニターに映し出される脈拍と血圧は、医療に明るくない人間が見ても弱々しいということはわかる。呆然と立ちすくんでいると、病室に看護師が入っていった。看護師は立ちすくんでいる九井に会釈すらしない。
乾が入院しているフロアは本来であれば医師と看護師以外立ち入り禁止の区域で、その筋の人間のための隔離病棟のようなものだ。地下のとある入り口からしか入ることができない。だから、図面上では存在しないこととなっており、ここには患者と医療従事者しかいないはずの空間だった。
看護師はバイタルと点滴を確認し、すぐに部屋を出て行った。モニターの明かりに照らされ、見るも無惨となった包帯に巻かれた顔がぼんやりと浮かび上がる。まるで、死人のようだった。否、最早、死人といっても差し支えがない。
金がいくらあったとしても、現在の医療には限界がある。どれだけ九井が金を積んでも、乾の延命は叶えられないものだった。もう二度と味わいたくないと切に願った後悔を、再び感じることになるなんて。
病院に運ばれたとき、心臓が動いていることが奇跡と言われるような有様だった。右腕は肘から下はぐちゃぐちゃで、左腕も辛うじてくっついているような状態だった。両足は肉が削げ、骨が剥き出しになっていて、状態によっては切断もあり得るという話だった。全身血まみれで、火傷も酷く、手術は10時間を超えた。どうにか一命は取り留めたものの、いつ心臓が止まってもおかしくいそうだ。
嫌な予感がしたのだ。あの日は九井は稀咲から直々に命じられた仕事があって、乾の〝掃除〟にどうしても付き合うことができなかった。仕事の時間まで抱き合って、貪り尽くしてぼんやりとベッドに横たわる乾にいってきますとキスをした。子供の戯れのようなバードキスを何度か繰り返し、気怠げな乾が名残惜しげにココと九井の腕をとった。何かいいたげに逡巡して、乾はなにか告げたかったであろう言葉を飲み込んで、端正な顔に微笑を浮かべていってらっしゃいと九井を見送った。
少し不審に思いながらも、ポケットで鳴り響いたスマホに促され、九井はベッドに寝転ぶ乾を一瞥して家を出た。その数時間後、どうして引き返さなかったのかと、後悔するのも知らずに。
東卍は内外に敵が多い。幹部同士でもいつタマの取り合いに発生するかという程ギスギスしている。九井は乾の側近という立ち位置ではあるが、東卍の財布を握っているのはほとんどの場合九井だ。発言権は幹部連中の中では九井と乾が一番あって、それをよく思わない口だけの古参は多い。
だから、乾をひとりにするべきではなかった。今日もいつもの粛清ときいていたので、すぐに終わるとたかをくくっていたのだ。しかし、乾がその日、指定された倉庫にいくと、突然倉庫が爆発し、その爆発に巻き込まれた。粛清に付き従った乾の部下から連絡をもらったとき、九井は自分のことを心の底から罵倒した。
結局、どれだけの金を手に入れても、九井は無力だった。一生守ると誓ったのに、その約束を2回とも反故してしまった。
不思議なことに、涙はでなかったし、凪いだ海のように心は穏やかだった。ふと、ポケットの中でスマホが震える。取り出してメールを確認すると、九井は乾と隔てるガラスに唇を落とした。ひんやりとしたガラスの温度に乾の体温が恋しくなる。もう二度と感じることのできないあの温もりの記憶が呼び起こされた。
九井はくるりと踵を返すと、すれ違った看護師を呼び止めた。胸ポケットから小さな小瓶を取り出し、サラサラと小切手に金額を記して看護師に握らせる。
「…楽にしてやってくれ」
この額で足りなければあとでオレの部下に言うといい言って、九井は隔離病棟から立ち去った。地下駐車場には部下がすでに迎えにきていた。車に乗り込むと音もなく発進し、九井は静かに告げる。
「手筈通りに頼んだぞ」
わかりましたと頷いた部下の声が遠くにきこえる。九井は後部座席に体を預け、虚空を見つめた。乾をハメた人間は想像するに容易い。これだけ東卍に貢献してきたというのに、こんな仕打ちをするのかと薄ら笑いが漏れる。
「イヌピー、オレもすぐにそっちに逝くよ」
乾に触れることの叶わなかった唇をなぞると、ガラスのように冷え切っていた。