その獣、したたかにつき 「……なんだか、ひさしぶりにここまできた気がする」
爽やかな天気だった。からりと晴れわたった空は雲ひとつなく、天気予報によると今週は雨の気配もないらしい。最近は外で過ごすにはちょうどいい気候になっていて、少し前までこの場所──屋上に当然のようにやっていた自分であれば絶好の季節だと諸手をあげて大歓迎したところだったけれど、はてさて今はどうだろうか。どうせなら雨でも降ってくれたほうが、なんて少しだけ逃げ腰な考えが浮かんできたのを何を馬鹿なことをと被りをふって吹き飛ばした。そして、そっと首元へと手を伸ばす。
そこにあった絆創膏は、今朝からもうお役御免となった。全てがなくなったわけではないが、舞台用に持っていたコンシーラーを薄く伸ばしてしまえばもうそこに何かがあったなどということは読み取れないだろう、という程度には隠したかったものが薄くなってしまったからだ。少し治りかけたところをダメおしのようにもう一度刻みつけられたそれは、通常の傷にくらべると随分長い間首元を陣取っていた。
そう、あの類に噛みつかれたとっておきの傷は。
あの日、この傷がバレた後。一瞬だけ浮かんだ激情のようなものをすぐにどこかへ放り投げていつもの調子に戻った類だったが、全てが今までに戻ったわけでもなかった。あれからというもの、隙を見せるとかぷかぷといろんなところに噛みついてくるし、かといって今までのようなスキンシップが減ったわけでもない。練習終わりに更衣室でふたりきりになったときなどは酷いもので、汗をかいているから離れろというにべったりと引っ付いてくる。……いやこれは前からか。でも、今までは主に後ろから引っ付いてきていたのに最近は前からも引っ付いてくるようになったので、確かに何かが変わっているのだろう。
そして、今まで通りでいかないのは司自身もそうで。
今までと変わらず甘えてくる類をかまうことはやっぱり嫌じゃなかったのだけれど、ただ、その節々にあの時、押し倒されてみた瞳だったり、知らない温度に融けた声だったりを思い出してぎしりと身体が固まってしまうようになったのだ。決して嫌で硬直してしまうのではない。なんというか……心臓がエラーを起こしたような。いうならば脳内のキャパオーバー、完全に処理能力を超えている状態になった。
そもそも、こんな状態を許していたことが悪いのだし過度な接触を禁止すれば解決する問題かもしれない。でもこれが自分としてもなんとかしないとと思っている部分でもあるのだが、類がこう、だめかい?と寂しそうな顔で首を傾げてしまうと、やっぱり全部まぁいいかと許容してしまうのだ。あの猫の下には見たことのないような獣が潜んでいる、というのは類の言でも実地の体験でも理解しているはずなのに、どうにもうまくいかない。多分これは、なんだかんだ自分としても類に甘えられるのが嬉しくて、あと、くふくふと機嫌良さそうに笑っているのが好きだからなのだろう。
(とはいっても、流石に極端すぎたかもしれんな)
類の行動を拒否できない。でも、頻繁には流石に耐えられない。そんな相反する悩みをどう解決すればいいのか、考えに考えて出した結論は、『なるべくふたりきりにならない』という単純なものだった。
人前になると、当然だがそこまでスキンシップは過度にならない。まぁ前寧々と会った時のように既に引っ付いていたら別だが、それもやってきたのが寧々だったからだろうし、例えばクラスの中だったり人通りの多い外であればせいぜい撫でて欲しがるくらいである。そのくらいならば変に心臓が高鳴ることがないし、こちらとしても悪い気分はしないので全く問題ない。幸い学業もプライベートもお互い忙しくしているのでふたりきりになるタイミングなどそこまで多いわけではなく、練習後の更衣室は避けられずとも例えば昼休みのランチは食堂にするとか中庭に行くとかで調整はできた。ただ、そうした中屋上はもう校内で類のテリトリーだとしっかり認知されているので顔見知りくらいしかやってこず、かなりの確率でふたりきりになってしまう……ということであれからランチを屋上で取ることは避けていたのだが。
ふぅ、溜め息を吐いて久しぶりにいつもの定位置に腰掛けた。類は購買に行くと言っていたからじきにやってくるのだろう、今日の弁当を小脇に用意して目を閉じる。
散々避けていた屋上だったが、類はそれについて気づいていただろうに触れてくることはほとんどなかった。だからそれに甘える形で逃げていたのだが、今日は食堂の日替わりは野菜炒め、中庭は木々の伐採とメンテナンスの業者が来ているらしくゆっくりできそうになく、消去法的に屋上に集合になったのだ。まぁ、最近屋上にあまりいないからとクラスでもどうしたんだとか声をかけられることも増えているのでちょうどいい機会なのかもしれない。だれも来ない中で類と時間いっぱいショーの話ができるこの環境は自分にとってもありがたい場所なのだ。
だから、さっさとあの類の距離感にもスキンシップにも慣れてしまって。なんでもないものなんだと今まで通りを取り返してしまえばいい。
目を閉じたまま、ゆるく頬を撫でる風を感じているとふわふわとした眠気が襲ってくる。そういえば昨日は次のショーのためのアイデアが浮かんでしまって、類に話す前にいろいろと練っておこうと盛り上がってしまったためにいつもよりも夜更かしをしてしまったんだっけか。空腹も確かにあるが、それよりも自覚してしまうと眠いという気持ちが一気にのしかかってくる。
だめだ、もうじき類がやってくるはずなのに。
でもそう思っていても、ダメだとわかっているものこそが避け切れないのが人の性というもので。結局、そのまま目を開くことはできず、誘われるがままにゆるりと意識は沈んでいったのだった。
***
「……ん」
なんだか、右半身があたたかい。それに、覚えのある機械っぽい、そのくせ甘いような香りが鼻腔をくすぐった。なんだかとてもくすぐったいきもちで頬の隣にあるぬくもりに擦り寄ると、そのぬくもりが笑ったかのようにゆるく揺れて、同時に頭を柔らかく撫でられた。それがとても気持ちがよくて、一度浮上したくせにやっぱりもう一度眠りの淵へ潜って行きたくなる。
「司くん、寝かせてあげたいのは山々だけど……そろそろ、起きようか」
でも、すこし低くて穏やか声がそれを阻んだ。撫でていた手が、促すようにぽんぽんと頭をたたいてくる。もう少しこのままでいたい気持ちと、その手の主の顔を見たい気持ちで5秒ほど彷徨って、後者が勝利しゆっくりと目を開いた。そこに映るのは当然のように見知ったアイリスで、その目はおもしろそうに笑っていた。
「……るい」
「ふふ、おはよう。流石にごはんを食べる時間がなくなってしまうから、ゆっくりでいいけど起きようか」
「そんなにねてたか」
「といっても僕がきてから10分くらいだけど、司くんが居眠りとは珍しいね。疲れたのかい?」
「いや、昨日少し夜更かしをしてしまってな」
少し名残惜しさもありながら温もりから離れてぐい、と伸びをする。あたりは見覚えのある屋上で、ようやく脳が覚醒してくると類を待ちきれずに眠ってしまったのだということがわかった。しかもどうやら少しの間寝かせてくれていたようである。膝を見ると、見覚えのあるカーディガンがかけられていた。そんなところまで気を使わせてしまったらしい。
「時間は……あぁ、まだ余裕があるな。すまん類、感謝する」
「いいよ。僕も待たせてしまったしね。起きたばかりでも食べられそうかい?」
「うたたねくらいだったから大丈夫だ!でもすこし急がねばな」
どうやらこの短時間では寝相の悪さも発揮されなかったようである。さっさと食事を終わらせてしまうべく隣に置いたままだった弁当箱を手に取り、アルコールで消毒をしてからぱかりとそれを開けた。今日もバランス良く構成されているそれを見ると、睡眠欲に負けていたはずの食欲もじわりじわりと勢力を取り戻してくる。水筒からコップへとしっかり飲み物も用意した上で、手を合わせた。
「いただきます!」
さて何から手をつけるか、と思いつつちらりと横を見れば類のほうはにこにことあんぱんを齧っていた。そのほかに持っているパンは……今日はサラダサンドを用意しているわけでは無いようだがその代わりとでもいうように甘い菓子パンばかりで。成長期の男子高校生にしては栄養が足りなさすぎると怒りたいところだが、そうしたらまた脳に必要な糖分は十分足りているとか屁理屈が返ってくるのだろう。
ちらり、手元にある弁当箱に目を移す。この中で類が食べられそうなのはメインのからあげくらいのものか。普段ならば掻っ攫われることもあるが基本的に死守するメイン食材、ただ、類には気をつかってゆっくり寝かせてもらった恩もある。葛藤すること3秒ほど、せめてものタンパク質摂取をさせるためにもと仕方なくからあげを箸でつかんで隣へ差し出した。
「え、いいの?」
「……今日は特別だ!次からはしっかりバランスを考えて食事を用意してくるように!」
「そうだねぇ、覚えてたらがんばるよ」
「お前絶対守る気ないだろ」
目の前に掲げられたからあげを見て類は目を瞬かせた後、機嫌良さそうに笑った。まぁ、こうして自発的に譲ってやるのは珍しいからそのせいだろう。まぁ、嬉しそうにされて悪い気はしないな。
ただ、そこまでした上でようやく気がついたのだが、類のランチは全てパンなのでこのからあげをパンの上に乗せるわけにもいかない。なにせ菓子パンだけなので相性は最悪である。仕方ない、一度引っ込めて弁当箱の上にでも乗せて改めて渡そうか、だなんて思ったところだったのだが……。
ぱくり、と。類はためらいもせず差し出した箸にそのまま齧り付いた。
「んー、やっぱり司くんのおうちのからあげはおいしいねぇ。もういっこほしいな」
「……はっ!だめだ!こら狙うな!もうこれでおしまいだ!」
「えー、けち」
「けちじゃない!」
まるでこちらがあーんをしたような形になってしまったことに気づき勝手に顔が熱くなる。でも類はどこ吹く顔でそのまま唐揚げを堪能していて、馬鹿馬鹿しすぎていつもの調子にもどってしまった。というかあんぱんとからあげ食べ合わせ最悪じゃないのか、と思ったがちゃっかり水でリセットしていたらしい。どこまでいっても抜け目がないやつである。
やっぱり一口食べたら塩気が欲しくなったようで、じーっとこちらの弁当箱を覗き込んでくる類からランチを守るべくくるりと背中をむけて自分も慌ただしく手をつけ始める。まったく、気まぐれで猫を餌付けしたらそれ以上を強請られて困っている時のような気持ちだ。しかもこの猫は強請るのが上手すぎるので正面からとりあってしまうとこの弁当箱はいつしか野菜だけになっているだろう。それは成長期の男子高校生として見過ごせない事態なのである。
「司くん、クリームパンあげるからさ」
「だーめーだ!くそ、こんなことなら食堂で野菜炒め定食をお前に食べさせるべきだった」
「ひどい!そんな、僕に苦行を強いようというのかい!」
「いやだから前から言っているがちゃんとバランスよくだな……こら!言ってる側から肉団子を掠め取ろうとするな!」
背中にぴったりとくっついた熱は、もうこうなったら類の距離の近さへの意識だとかそういう先ほどまでの自分の悩みのもどうでも良くなっていた。あっという間にいつものペースで、もしかしたらこれは類がこちらに気をつかってくれたのかもな、とは少し思ったけれど、隙あらば伸びてくる手にいやそんなこともないかと思い直す。
昼休みの終わりを告げるチャイムがなるまであと数分。いつも通りの日常は、おだやかに戻ってきていた。
***
(……とでも思ってるんだろうなぁ)
ぷりぷりおこる後ろ姿をみてバレないようにほくそ笑む。最近の彼はしっかり自分のことを意識していて、でもそのせいでふたりきりになる機会も全力で避けられていて。可愛くは思えたがこの状況について面白くはなかったので、こうしてまた屋上でのふたりきりが帰ってくることはこちらとしても喜ばしかった。けれど。
そっと目の前にあるグラデーションがかった丸い頭の、流れるように剥き出しになった首筋についた赤いマークに目を落とす。前に落としたマーキングはだいぶ粘ってくれたけれどもう見えなくなっていて、それが少し寂しいとおもっていた。だから今日こうして絶好のチャンスがやってきたのは正直嬉しい。穏やかに寝息を立てるその首筋に柔らかく吸い付いたとき、むずがりこそすれ一向に目を覚さなかった彼がこの印に気付くのはいつになることか。もしかしたら消えるまで気づかないかもしれない。
まぁ、その時は次の手を打つだけである。
こうして日常が帰ってきたことは自分としてもよろこばしいことではあるが、すべてを0にされてしまってはたまったものではないのだ。最近のふれあいでどうも司くんもこちらを意識してくれているようだし、あと一押しというところだろう。
(ふふ、たのしみだな)
肩に擦り寄ってきてくれたときは本当に可愛かった。できればあれがもっとよく見られる関係になるために、今日も少しずつ逃げ道を塞ぎながら、やさしくその時を待つのだった。