記憶喪失になった臣さんの話臣さんが怪我をしたらしい。
と、母さんから伝えられたのは土曜日の朝、今日は部活が無いから十分な睡眠をとって、朝食か昼食か分からない食事をしている時だった。
「え、怪我?」
「あら、聞いてない?今日の朝、春宮さんとばったり会ったのよ。」
聞いてない。昨日駅で別れてからだろうか、少なくともそれまでに彼に怪我をした素振りはなかった。
「ちょっと自転車と接触したらしくてね。頭を打ったみたいだから昨日の夜はずっと病院だったって言ってたわよ。今はも大丈夫みたいだけど。後で永臣くんに連絡しておいたら?」
「……うん。」
自転車と接触。頭を打った。病院。
断片的に聞くと嫌な想像しか湧かないが、母さんの口調から大事は無いはずだ。うん、きっと大丈夫。
それまでゆっくりと食べていた食パンをさっさと片付け、部屋へ向かいスマホをひらいた。
「なんも来てないな……」
まぁ、臣さんは俺は怪我した時には俺よりもうるさいが、自分の弱みになることは全く言わない。まぁ、わがまま暴君なのはおいといて。
とりあえず『怪我したって聞いたけど、大丈夫?』とだけメッセージを送り、スマホを閉じた。
「…………」
午後2時。漫画を読んでいても、課題をしていてもスマホの通知が鳴らないことが気になり、画面と睨めっこをしていた。
おかしい、いつもなら少なくとも遅くとも2時間以内には返信してくるのに。
かと言って、なんで返信してくれないの?なんて追加で送るのは、面倒くさい恋人の典型だ。いや、恋人というのは間違っていないのだが。
春宮に押し切られる形ではあったが、一応恋人という関係なのだから、心配するのは当たり前だろう。
「……よし。」
漫画を返しに行くついでだ。正直、さっき読んで全く内容は覚えていないが、これを口実に家に行こう。
こんな理由がないと、素直にお見舞いに行けないなんて、という心の声は無視して炎天下の中家を出た。
一応『漫画を返しに行く』とメッセージを送ったが、やっぱり既読にすらならない。
連絡無しで押しかけるのも、と思い、この前2人で行ったカフェで臣さんが美味しいと言っていたケーキを買った。
満を持してチャイムを押そうとしたら
「侃?」
「!?」
後ろにはずっと連絡を待っていた相手が訝しげにこちらを見ていた。
「珍しいな、侃が家に来るなんて。どうした?」
「どうしたも何も……怪我したって聞いたけど……」
「あー、いや、別に大した事ねーよ。軽く頭打っただけで血もでてねーし。」
「……そう。」
上から下まで眺めてみても、特に大きな怪我も無さそうだ。
「まぁ、とりあえずあがれよ。今日暑いしお前すぐ倒れるぞ。」
「そんなにか弱くないし……」
本当に一言余計だ。まぁ、事実だけど……
「あ、臣さんこれ。」
悪くなる前にケーキを渡す。保冷剤入れてもらったし、まだ大丈夫なはず。
「わざわざ悪いな。お、これ最近できた駅前の店のじゃねえか。食べたかったんだよな。」
「え?臣さんこの前食べてたのこれじゃなかったっけ?」
「あ?俺まだあの店行ったことねえけど。」
2人して顔を見合わせる。あの店に行ったことが無い?そんな筈がない。つい先週の話だ。
「まぁ、とりあえずありがとな。お茶持ってくから先に部屋に上がっとけ。階段上がって右のドア。」
俺が動揺する一方、臣さんにとっては些細なことだったようでキッチンへ引っ込んでしまう。
今日の臣さんは変だ。何かが変。なんで数え切れないほど遊びに来てる部屋の位置をわざわざ伝えるのか。
仕方が無いから部屋に入ると、そこはいつも通りの臣さんの部屋だった。エアコンが効いていて涼しい。そのひんやりとした空気が少し頭を冷やしてくれる。
「ほら。」
「ありがと。」
後から来た臣さんから冷たい麦茶を受け取る。暑いと言いながらベットに腰掛ける彼は本当に何も無いように見えた。
「怪我、本当に大丈夫なの?」
「おう、角で軽くぶつかっただけ。」
「……頭打ったって聞いたけど。」
「軽くだよ、軽く。午前もう1回病院行ったけどなんもなかったし。」
なるほど、さっきまで病院に行ってたのか。
「……連絡つかないから何事かと思った。」
病院の待合室でスマホを見る時間はなかったのか、怪我人である以上強くは攻められないがこっちだって気が気じゃなかった。少し拗ねたような口調になってしまう。
「あー、スマホ、そういやなんか壊れてんだよな。」
「え?」
「パスワードが合わねえ。」
「それ結構やばくない……?」
「まぁなんとかなんだろ。」
当の本人は何処吹く風だ。高校生なんてスマホなかったら死ぬんじゃないかって思うけど、彼は以外に執着は無さそうだった。
「あ、これ、借りてたの返すね。」
そうだ、このために来たんだった。鞄の中からちっとも読んだ気がしない漫画を臣さんに返す。
「あ?おう……」
漫画を受け取った臣さんは怪訝そうな顔で漫画を見つめる。
「何?どうかしたの?」
「この刊もってたっけなって思って。」
「は?これ3日前に一緒に本屋に寄って買ったじゃん。展開が熱いから早くお前も読めってその日のうちに渡してきたのは臣さんでしょ?」
そうだ、カフェに寄ったのもその日だ。部活がないからと臣さんと2人で出かけたのだ。
「3日前……?」
本当に検討がつかないという顔だ。冗談とは思えない。それにこんなところで嘘をついて何にもならない。
なにかがおかしい。さっきから頭の奥でチリチリと燻る違和感が少しずつ大きくなる。
「臣さん、今日何日だっけ。」
「なんだよ突然……24。」
カレンダーを見て答えるが彼が特に動揺した様子は無い。
「……明日部活午後からだよね。皆に連絡しておくよ。」
「あー、そうだな。スマホ使えねえから頼んだ。」
これも普通。じゃあ、
「臣さん、」
「ん?」
「俺らって、」
息が詰まる。珍しく回る頭と1つの可能性。それが現実に起こったなら、
「俺らって、友達だよね。」
一瞬の沈黙。クーラーが効きすぎたのか鳥肌が立つ。
「当たり前だろ、お前は俺が唯一認めてる相棒だからな。」
いつもなら、俺はそんなに凄い奴じゃない、とか。よくそんな恥ずかしいセリフ言えるな、とか。でも少し嬉しい、と思えるその返事が今の俺にとっては死刑宣告に違いなかった。
「っ……ごめん、ちょっと帰る。」
「は?おい、侃!」
階段を駆け下り、サンダルをつっかけて玄関を飛び出す。
暑い、暑い、走ったらもっと暑くなるに違いない。
でも、でも。
「……っく。」
上手く息が吸えなくて立ち止まる。走って呼吸が苦しいんじゃない。気づけば涙が零れていた。
間違いない。臣さんは俺が恋人であるという記憶だけ失くしている。
「っなんで。」
なんで、そんなに要らない記憶だったのか。もう臣さんの中には恋人としての俺は全く残ってないのか。なんで、なんで。
家に帰って、ただいまも言わずに部屋にこもって泣いた。自分でもこんなに泣けるのかと驚いたほどだ。
携帯が使えない彼は俺にメッセージを送ってくることも無い。それが、また悲しくて。
散々泣いて、もう身体の水分も残っていないんじゃないかってくらい泣いて。
俺は、臣さんに俺たちが恋人だったと告げないことを決意した。
そうだ、臣さんにとって俺は消えるべき過去で、今そのチャンスが巡ってきたのだ。俺なんかがこの臣さんの人生にシミを残してはいけない。
どうせ彼は明日から俺の家に迎えに来ない。さっさと寝てしまおう。寝て起きたら臣さんとは当たり前の距離に戻る。
涙で腫れた眼を擦りながらようやく腰を上げた。