お題「繋いだ手」「ヒーロー」2/27 一度は離してしまったこの手を、もう一度、繋ぐことが出来るなんて思いもしなかった。
ある日突然、さしのばされた手は泥だらけで土のにおいがした。うつむいていた顔をあげるとそこにあったのは太陽だった。太陽は、暑くて、痛くて、あまりにも強すぎるから少し苦手で、窓辺に座ると避けるようにそっと布をかぶって眩しさに目を閉じた。だけれどある日突然現れたその〝太陽〟は、まばゆいばかりに光り、燃える瞳をして、目のまえにさしだされた手はふれずともその熱がわかるくらい熱かったのに、その光は月の光よりもずっと優しくて、燃える瞳は五月の草原よりも青く、その瞳のなかには風が吹いていた。その瞳のなかにどこまでも果てしなくひろがる草原を、思いきり駆けてどこまでも行ってみたい。雲雀が鳴く空の下、むせかえるような草の匂いで胸をいっぱいにして、ああ、それはどんなに素敵なことだろう。この手をとれば、どこまでもどこまでも行けるような気がした。
さしのばされた手をとったその日から世界にはもうひとつの太陽があらわれた。毎朝、その太陽は元気な朝の挨拶とともにやってきて、つむじ風のようにくるくると駆けまわった。眠い朝に起きることも食事も勉強も、いままでの百倍楽しくなった。太陽は夜になっても沈むことなく手をのばせばいつもそこにいてくれた。おそろしい獣の鳴く夜もこわくなくなった。少しづつあたたかくなってゆくベッドのなかで繋いだ手を、そっと、強くにぎって、もう絶対に離さない、離したくない。
絶対に、この手を離さない。
そう、思った。けれど、この手は太陽のように優しくあたたかく強い手を、離してしまった。
爆撃の音がどんどん大きくなり鉄と肉と血の焼ける匂いがする。黒い炎が巨人のようにふくれあがって背後に迫ってくる道を歩きながら、だんだんと体温が失われてゆく身体を背中に感じて絶望の淵で、ああ、もういっそ、これから二人で地獄へ行こうか、ずっと一緒にいられるなら、ヒーロー、大好きな大好きなヒーロー、君となら炎に灼かれ灰になってもかまわない。そう思いながら、淵から奈落へと足を踏みだそうとした瞬間、
ルーク
そう、聴こえた。聴こえた気がしただけかもしれない。けれど、その瞬間、自分の背中に陽光がさしたようにあたたかくなった。太陽だ。自分が背負っているのはこの世界をそのかがやきであまねく照らす太陽だ。この世界を救う、ヒーローなんだ。
何が正しかったのか。あのときの選択は正解だったのか。何度も自分自身に問いかけてきた。でも、飢えと寒さ、怒りと憎しみでどうしようもなくなったとき、月さえも見えない、煙におおわれた夜の空に太陽を探した。あのまばゆいばかりにかがやく太陽がこの世界の何処かに在る。いつか、この世界を救ってくれる太陽が。もう一度さしのばされたその手をとる日まで、絶望の闇を切裂こう、闇のそのむこうに暁をつかむまで。
「で、まさかこんなにあまっちょろい犬になっているとは思わなかったな」
「何か言ったか、アーロン、」
「独りごとだ」
後姿のまあるい頭は、太陽といえばそうかもしれないが、そう思ってアーロンは微笑った。
「何だよ、何笑ってるんだ」
「なんでもねえよ」
キッチンから振返り、顔いっぱいに疑問をうかべているルークの問いを無視してアーロンはソファに寝転がった。遠い昔の夢にまどろむように目を閉じた瞬間、胸のうえに大型犬が五、六匹いっぺんに飛びかかってきたような重みを感じた。目の前には、犬、ならぬルークの顔。アーロンは、目をほそめながら瞬きをする。
「…あいかわらずまぶしいな」
「何、」
「なんでもねえ」
時を経ても太陽は太陽のままだった。想像とは少し、だいぶ違ったけれど、ヒーローはヒーローのままだった。
ヒーロー、
「…俺の、」
「…君の?」
胸の上で首をかしげるルークの息遣いがアーロンの胸をくすぐる。たまらず、アーロンは起上がりルークの鼻の頭に噛みついた。
「何で、噛んだ?!」
「俺の肉はまだか、つってんだよ、」
「僕を食べるなよ、」
ルークは、痛いなあ歯形がついちゃったんじゃないか、ぶつぶつと口のなかでつぶやきながら鼻をさする。アーロンが鼻をさすっているルークの手をつかんだ。近づいてきたアーロンにまた鼻を噛まれるのかと身構えたルークの少し赤くなった鼻の先に、アーロンが口吻ける。
「え、」
ルークの顔が、鼻も目も口も一瞬にしてどこかへはじけ飛んでいってしまったみたいに真っ白になった。アーロンは何事もなかったかのように欠伸をしながらルークに背を向けて歩きだす。ふたたび、大型犬が大挙してアーロンの背中めがけて爆走してきた。
「ア、アーロン、…ごはん、あとに、する、?」
「…しねえよ、」
ぴったりとルークの身体がくっついた背中が、熱い。まわされた腕に抱きしめられた胸も熱く、もう、どこもかしこも熱くて。
肉は、遠のいたな。
そう、ため息をついて、背中の太陽のあたたかさを深く々、感じながら小さな子供のようにアーロンは微笑った。