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「いてて……」
血の滲む口元を拭ったら、指先が触れて頬に痛みが走る。酔っ払ったリーマンだったが、パンピーのわりになかなか良いパンチだったなと虎杖は熱を持つそこを撫でた。
——どーすっかなあ。
ビルの隙間から空を見上げて、ため息。買い物に行くのは正直憚られる格好だ。かといって、虎杖の部屋に氷なんていう気の利いたものなどはない。冷蔵庫の中に缶ビールくらいならあったような気がするが、患部が冷え切る前に飲み干してしまいそうだった。
地べたに座り込んだままの身体を起こして、軽く土埃を払う。唯一の救いは、破けたのがお気に入りのパーカーじゃなかったことくらいだろうか。
「あー、いたいた」
「!」
なんて、乱れた髪を手櫛していると聞き慣れた声が通りの方から虎杖を呼ぶ。
「……飴ちゃん」
すっかり常連と化してしまった店のバーテンダー、“飴ちゃん”だ。バーテンダーは目を見開く虎杖を他所にざっと彼の状態を確認すると、持っていた帽子で彼のピンク頭を覆った。
「首突っ込まん方が身のためだと思うけど」
意図を理解した虎杖がそう警告するが、バーテンダーは鼻で笑うと買い物袋を押し付けてくる。
「重くて困ってたから、こんなところで君に会えるなんてラッキーって思っただけよ」
そう言うわりに袋は軽く、“重たいもの”は彼女が持ったままだった。口を開く前にさっさと踵を返してしまった彼女の腕から袋を奪い、虎杖は大人しく着いていくことにした。
「そーそー、そうやって不貞腐れてた方が“ねーちゃんの買い物に付き合わされる弟”って感じでかわいいよ」
「かわいいって……。一応、五条会の虎って怖がられてるんだけど」
「あら、それは失礼」
通りに出る直前、庇うように前へ出た虎杖の横顔を見あげる。キャップから溢れるピンク色はふわりと風に揺れて、雰囲気だけなら朗らかだ。
「なに……」
「君は虎っていうより、ライオンだなって。そーだ、ダンデライオンとかどう?」
「ダンデライオン?」
「ライオンの牙って意味だよ」
そういって、バーテンダーは虎杖に並んだ。含みを持った微笑みが少しだけ引っかかったが、格好良いものに例えられて悪い気はしない。
そんな虎杖を前にバーテンダーはむず痒そうに唇をもごつかせていたが、何も伝えることなくその日は手当を受けて終わりだった。
「お、いい感じ」
プランターをラックに並べてみたら、思いの外素敵な空間ができあがる。ナチュラルテイストの扉にも合っていて、ホームセンター様様だ。しかも安い。
今は扉に引っ掛けているクローズの看板も、今度からはこちらにかけて良いかもしれない……などと思いながら、新入りプランターの位置を微調整する。この子は先日芽が出始めてから存在に気づいて移したのだが、ぐんぐん伸びているので新居はお気に召したようだ。
開店まであと一時間弱。店の前も掃いておこうと顔を上げると、見計らったように小気味いい革靴の音が耳に届いた。
「——まだ開店時間前ですから、“お客様”のもてなしはできませんよ」
「ええ、そのようですね」
少し意地の悪い挨拶を流して、男は看板を一瞥したあとバーテンダーを見下ろす。頭一つ二つ高い位置からの視線はそれだけで圧があるが、バーテンダーは微笑みでそれを受け流した。
「お仕事の話ですか、七海サン」
「そんなところです。あいにくと予定が詰まっていますので手短に」
「へぇ……?」
片眉を上げるバーテンダーの前で、七海の視線が足元に落ちていく。
「うちの“タンポポ”がお世話になったそうで」
「……まさか、あの子気づいてなかったんですか?」
新入りプランターを見つめる七海に、バーテンダーは顔を覆った。
——ダンデライオン。ライオンの牙、というよりは“ライオンの歯”。
それは、いわゆるタンポポのことだ。揶揄い半分冗談半分の呼び名に、随分嬉しそうな反応をすると思っていたが……なるほど、彼は分かっていなかったのだ。
「あの子にその手の皮肉はききませんよ。もっとも、今はすっかり鼻を膨らませていますが」
「ネタばらし済みですか、性格悪いなぁ」
今度店に来たときは、まずそれについて問い詰められそうだ。肩をすくめていると、七海の懐から封筒が出てくる。
「そーゆーのいりませんから」
明らかに金封だとわかる“それ”に、バーテンダーの眉間に皺がよった。どちらの組にも加担せず、バーテンダーはあくまで「地上げ対象の建物を借りているだけ」という立場を崩す気はない。
「それは困ります。こちらの立場もありますので」
「私にもあるんですよね、それ。“お客様”から受け取れません」
なんせ“弟を買い物に付き合わせた”だけなのだから。迎えに行った理由も、虎杖が“酔っ払いの一般人”に絡まれているのを見ていた常連に聞いただけ。そちらの抗争絡みに首を突っ込むなんていう危ない橋を渡るつもりもない。
「……そのようですね」
膝の埃を払うバーテンダーに、大人しく七海は引き下がった。二、三言は応酬があるかと予想していたが、どうやら本当に“手短に”してもらえるようだ。厚み的にもこちらの態度はある程度予測していたのかもしれない。
「っちょっと……!」
などと油断していたせいか、不意に距離を詰めた七海に腕を絡め取られた。振り払う前に離れて行ったそれに訝しんだのも束の間、手首に巻きついたチェーンに気づき慌てて追いかける。
しかし、長い腕はひらりと手を躱し道路を渡り始める。わざわざ向かい側に車を待たせて歩いてきたのは、こちらが追いかけてくるのを防ぐためだったようだ。
「“お客様”からのプレゼントは受け取らない主義だって……!」
「今は“開店前”だと言ったのはそちらでしょう」
先ほどの意地悪の仕返しを喰らってしまい、苦虫を噛み潰したような気分になる。不快を隠しもしないバーテンダーに七海はサングラスの奥で満足げに目を細めると、待たせていた車のドアに手をかけた。乗り込む直前、ふと顔を上げると指先で手首をトンッと弾いてみせる。
「売れば“それなり”になるかもしれませんよ」
「!」
絶句したまま立ち尽くすバーテンダーを置き去りに、黒い車は走り去ってしまった。残されてしまったバーテンダーはもやもやとした気持ちを消化できず、まさに“してやられた”気分だ。
「……よし」
なんとか気を取り直して、深呼吸する。組んだ腕にまだ冷たいチェーンがあたり、また少しモヤモヤ。手首に巻きつけられままのそれは、よく分からないけど“良いもの”であることは確かなようだ。
今すぐ手放してしまいたいが、そうすると七海の思惑通りに行動してしまうようで嫌だった。仕方がないので、当分は巻いたままにしておこう。
考えることを放棄して、バーテンダーは開店準備に取り掛かった。扉を開けるとき、ブレスレットにしては長すぎるチェーンを気にかけたのは——ほとんど無意識だった。
終
タンポポ 神託
ピンクタンポポ 温かみのある心