不治の病 それは朝食に、とたまごサンドに齧り付いたときだった。ああ、まただ。小さく舌打ちをして、とりあえず口の中のものを咀嚼する。何てことないただのたまごサンド。マヨネーズの風味が効いたたまごサラダをふわふわのパンで挟んだ素朴なものだ。近所のコンビニで買ってきたそれは人気の品物だ、とテレビのバラエティー番組でも紹介されていた。自身だって〝本来なら〟美味しくいただけたであろうそのサンドイッチを見つめ、ため息を吐く。
夢野幻太郎は一週間前よりとある症状に悩まされていた。それは今のようにふとした瞬間にやってくるのだ。
忌まわしいあいつの匂い。嗅いだだけで不夜城が脳裏によぎる華やかで艶やかな匂い。あいつ──伊弉冉一二三の匂いが自身に纏わりつくかのように香るのだ。もちろんあいつはこの場にいないのに。こうなってしまっては食欲も失せてしまう。一口だけ齧ったたまごサンドをラップに包み、冷蔵庫へと運ぶ。夜になれば食欲もわいてくるはず、あるいは〝野良猫〟にあげてしまっても良いな、とも思った。不幸中の幸いなのは外食中じゃなかったことだろう。さすがに飲食店に赴き、一口だけ食べて残してしまうのは心苦しい。
居間へ戻るとはぁと再びため息を吐く。伊弉冉一二三は敵対するディビジョンチームの一員である。幻太郎とはラップバトルで対戦する前からちょっとした諍いがあり、それ以来彼とは犬猿の仲である。世間一般でも同じ認識らしく、幻太郎の因縁の相手といえば?と巷で問われれば必ず一二三の名が出てくるほどだ。それぐらいに相容れず、一二三がやることなすことが鼻につくし、気に食わないし、目に余る。
ちゃぶ台に頬を預けながらスマートフォンのロックを解除する。SNSを開けば今しがた頭に浮かんでいたホストが自撮り写真を投稿しており、再び舌打ちをした。こちとら食事も出来ないぐらいに滅入っているというのに楽しそうにしやがって。
何故このような症状が出るようになってしまったのかは見当もつかない。違法マイクの攻撃を受けた覚えもない。ということは自身の体の不調なのだろう。あるいは一種の呪いなのかもしれない……「なんてね」と非現実的な思想に対して戯けてみせた。
「ゲンタローさ、ほっそりしたよね」
Fling Posseのリーダーである飴村乱数の言葉だ。乱数は幻太郎の頬を小さな指でふにふにと挟みながら、ほっぺが掴みにくいもん、と付け加えた。躊躇なく触れてくるその手は彼のパーソナルスペースの狭さを表しているようだった。チームを結成して初めの頃は乱数のボディタッチに対して戸惑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。
「実は最近、食欲が落ちてるんですよ」
「そうなの〜?体調崩しちゃったかな?あれれ?でもその割には肌艶は良いし……むしろキレーになったんじゃない?」
「小生はオネーサンじゃないので世辞はいりませんよ」
「そんなんじゃないよ〜!ホント、ホント!でもゲンタローが参ってるんならちゃんと病院行きなね!」
「病院ですか……そのうち治るかとも思いましたが、たしかにずっとこの匂いと付き合うのも疎ましいですからね」
ティーカップを手に取り中身の紅茶を一口啜る。不本意ではあるがあいつの匂いは紅茶と合うことが判明しここ最近は紅茶ばかり飲んでいる。本当に不本意ではあるが。
「ん?匂いってなぁに?」
「ああ、言ってませんでしたね。いざな……とある人物の匂いがですね、香ってくるんですよ。本人はこの場にいないにも関わらず。それが煩わしくて煩わしくて、食欲も落ちるはずです」
「……へぇ〜!〝とある人物〟ねー!」
乱数がすべてお見通し、だと言わんばかりにニヤリと笑った。今更、誤魔化すことも無駄かもしれないがその笑みは見なかったことにして話を続ける。
「幻嗅……と呼ばれるものみたいですね。少し調べてみましたが心因性によるものが多いそうです」
「ふむふむ!なるほどね〜!そんな風にしちゃうなんてその人はよっぽどゲンタローの心をかき乱しているんだね!」
その言い方は少し誤解を生むような気もしなくもないが「そうですね、小生にとっての有害人物ですね」と答えておいた。
「でもさ〜それは病院ってより……ううん、やっぱり良いや」
乱数が言い淀むことは珍しいがこれ以上、話を続けるのも不毛か、と思い口をつぐんだ。何よりこれ以上あいつの匂いのことを話すと否応なしに煩い顔面を思い浮かべてしまいそうで不快だ。再び紅茶に口をつけるとやはりそれは艶やかな香りとともに口腔内へと入ってきた。
「おや、幻太郎くんじゃないか」
最悪だ。まさかこんなところで元凶の人物と会うとは思わなかった。ジトリと彼を睨みつけるとそのまま踵を返した。
「病院に用があるんじゃなかったのかい?」
背中にそう問いかけた伊弉冉一二三はあろうことか後を付いてきた。
「ええ。ありましたけどまた仕切り直します。では、さようなら」
途端に腕をふわりと掴まれる。決して強い力ではないはずなのに自身の身体は歩みを止めてしまった。
「何ですか?」
振り返り彼の顔を睨みつけるがたいした効果はないようでニコリと胡散くさい笑みを向けられる。
「良かったら送っていくよ」
「結構です」
「結構、じゃないね。乗りなよ」
ちょっと!という抗議の声は無視されそのまま駐車場へと連れて行かれる。見上げた彼の顔は微笑んでおり、どことなく楽しそうだ。そんな顔を見せられると抵抗する気もなくなり大人しく彼の後を付いて行った。
「幻太郎くん、どうぞ」
一二三が幻太郎を車の助手席へとエスコートする。その優雅さはさすがシンジュクナンバーワンホストと言ったところだろう。別に自身は女性ではないのだからドアまで開けてくれなくて良いのに、とどこか居心地の悪さを感じながら助手席へと座った。革張りのふかふかのシートに、高い車なんだろうな……なんて考えが頭に浮かぶ。
「はいはーい!じゃあシートベルトしてねー!」
いつの間にかジャケットを脱いだ一二三が運転席に乗り込んできた。つくづく変な男だな、と思う。ジャケットの有無でこんなにも性格が変わってしまうのだから。どちらにせよ幻太郎の苦手な人種であるのには変わりないのだけれど、と軽い笑みをこぼしながらシートベルトを装着した。
運転する彼は想像したよりもずっと物静かだった。運転に集中しているのか真剣な眼差しで前方を見ているのは不覚にも美しいと感じてしまう。
「なーに?俺っちの顔に何かついてる?」
目線は変えずに言われたものだから驚愕した。見ているのがバレていたのか。咄嗟に彼の顔から目を離して俯いた。
「あ……いえ。貴方こそ病院に用事があったのでは?と思いまして……」
「俺っち?それは大丈夫だよーん。今日はお見舞いで行っただけだし」
「お見舞い……ですか」
「そうそう!同僚ホストが骨折しちゃって入院してんの、だからお見舞い」
「あ、なるほど。だからシブヤにいたんですね」
「そう〜!でもまさか小生くんに会うとはね〜!」
「小生くんと呼ぶな」
にゃはは〜!と陽気な笑い声が車内に響いた。その途端に彼の匂いが強くなったような気がして顔を顰める。ああ、やっぱり乗らなければ良かったかな。後悔の念が頭をよぎり助手席の窓から外を眺めてやり過ごした。
病院から自宅まではそう遠くないので十分ほどで彼とのドライブは終了した。「ありがとうございました」とシートベルトを外そうとしたところで手を彼の手によって捕らえられてしまう。
「何でしょうか」
「夢野センセは?何で病院にいたの?どっか悪いとこでもあんの?」
矢継ぎ早に問われ暫し瞬きを繰り返す。真っ直ぐに幻太郎を貫いてくる黄金の瞳に、この男が自身のことを心配してくれているのだと悟った。ぶわっと音を立てるように再び彼の匂いが濃くなる。ああ、嫌だ。早く車から出なきゃ。そう思うのに体はなかなか動いてくれなかった。
「匂いが……」
「匂い?」
「匂いがするんです。貴方の匂いが。ふとしたときに香ってきて、食事も碌に取れない。それだけじゃなくて貴方のことを考えると胸の辺りがざわざわして居心地が悪くなって……今だってものすごく香ってきてて……」
熱に浮かされているようです、と消え入るような声で呟いた。実際にこの色濃い空間にいると、頭に靄がかかったかのようにぼんやりとしてしまう。別にこの男にわざわざ話すようなことでもないだろうに、普段は虚言ばかり吐き出す口も今は真実のみしか吐き出せない。自分が変わっていってしまうのではないか、という恐怖心からか背中が粟立つ気配がした。何なんだ、これは。
「それで病院に?」
彼の言葉にこくりと頷いて肯定の意味を込めた。
「何なのでしょう。貴方の香水のせいですか?それとも貴方が小生に生き霊でも飛ばしているのですか?」
一二三が目を丸くするがそれは一瞬だったようで、次の瞬間にはぷはっと吹き出した。
「生き霊って〜!さすが作家センセだね!面白いこと考える〜!」
「何も面白くないのですが……これでも小生は悩んでて……」
そう告げた途端に彼の目がすっと美しい弧を描いた。掴まれた手をゆっくりと開かれ、彼の端正な指が絡んでくる。緩慢な動きは妙に色気を含んでおり思わずこくりと唾を飲み込んだ。
「あのさ、悩んでるならイイコト教えてあげんね」
「いいこと……ですか」
「そ。夢野センセは今も匂いがするって言ったけど、俺っち今日は香水つけてないんだよね」
「そ、んな。嘘……」
だってこんなに強く匂うじゃないか。香水じゃなければ何だというのか。
「そして俺っち自身はここにいるから生き霊説もなしね」
繋いでいない方の手が幻太郎の顎を優しくすくう。近付く顔にやっぱり煩い顔面だ、とこの場に似つかわしくないことを考えた。
「夢野センセは俺の何を感じ取っているのかな?」
まるで水中に入ったかのようにぐわんぐわんと体が揺れる。はくはく、と浅い呼吸を繰り返すが不思議と苦しくはない。近い距離に自身が少しでも唇を動かせば、彼のそれと重ね合ってしまうだろう、と認識する。
「それが治る方法。俺は知ってるよ」
彼の声がぼんやりと、ゆるりと、それでいて確実に自身の頭へと届いて定着する。治る方法。気が付けば辺りは暗闇に包まれていた。いつ夜の帳が下りたのだろう。思い出せないほどに自身はこの男に……。
「それ、知りたいです……」
掠れた声で口にすると微かに、本当に微かにだが彼の唇と触れ合う。「あっ」と声を漏らせば彼がくくくと喉の奥で笑った。この艶やかな匂いも相容れなかったはずなのに近付けば近付くほどに自身に馴染むような気がした。パズルのピースとピースがうまく嵌まるように。ぴったりと。この身体が心が遺伝子が、彼を求めている。
「じゃあ試してみよっか」
その言葉にたがが外れたかのように身体を乗り出して唇を重ね合わせた。触れるだけのキスは次第に水音を含んだ深いものとなり果実の汁のように甘い唾液が自身を満たしていく。二人の境界線が曖昧なものとなり、濃くなる匂いが彼から発せられているのか、それとも自身から発せられているのかも分からなくなった。
はあはあ、と息を漏らしながら唇を離せば垂れた唾液を彼が優しく拭ってくれる。
「どう?治った?」
「……治ってませんよ。嘘つき」
甘美な匂いに惑わされてしまった、と自身に言い訳をして、再び彼の唇に触れる。
夢野センセは俺のことが好きなんだね、という声がどこか遠くの方から聞こえた。