歌いながら回遊しよう「逃避行しませんか?」
寝転がり雑誌を読む一二三にそう話しかけてきた人物はこの家の主である夢野幻太郎。いつの間にか書斎から出てきたらしい。音もなく現れる姿はさすがMCネームが〝Phantom〟なだけあるな、と妙なところで感心した。
たっぷりと時間をかけた後で一二三は「……夢野センセ、締め切りは〜?」と問いかけた。小説家である彼のスケジュールなんて把握済みではあるが〝あえて〟質問してみる。
「そうですねぇ、締め切りの変更の連絡もないのでこのままいけば明日の今頃、という感じですかね」
飄々と述べられた言葉にため息ひとつ。ちらりと時計を見る。午後9時。明日の今頃、ということは夢野幻太郎に残された時間は24時間というわけだ。
「そういうのは〝逃避行〟じゃなくて〝現実逃避〟じゃね?」
「やれやれ。浪漫というものが分からない男ですねぇ」
「だって俺っち、今はジゴロじゃないし〜」
というかそもそもこの男が〝そういう雰囲気〟にさせてくれないのだ。
一二三は幻太郎に幾度となく想いを伝えている。そして、その度に玉砕。甘い言葉もかけてみたが、幻太郎はただただ眉を顰めるのみだった。それこそジャケットを羽織り、一二三のもう一つの顔である〝ジゴロ〟となって幻太郎を口説いてもみたのだが、彼は一二三よりもジゴロの方が苦手のようだ。苦虫を噛み潰したような顔をした後にしばらく口をきいてもらえなかったことを思い出す。
この一件以降は無理にムードを作ることなく〝一二三〟として幻太郎にアプローチをかけている。毎回、律儀に振られてはいるが。
それでも拒否することなく、夢野宅へと招き入れてくれるのだから、この男も罪な奴だななんてことを考える。受け入れられないなら拒否してくれれば良いのに……諦められない理由を彼のせいにしたくて、でもそんな自分が浅ましくて、胸の奥がちくりと痛んだ。
「締め切り前だからこそ息抜きが必要なんですよ。適度に体を休めることによってブーストがかかり、その後の執筆がうまくいくってこともあるんです」
饒舌に述べる彼の表情がこれでもかというほどに輝いている。まるで新しいおもちゃを前に興奮が冷めない子どものようだった。こうなった彼を止められる者はいない。仕方ない。ため息をもう一度だけ吐き出すと勢いをつけて起き上がった。
彼は〝逃避行〟と言う割には用意周到だった。「貴方は身ひとつで着いてくるだけで良いですから」という言葉通り、本当に何から何まで手配していたのだ。レンタカーも、サイズの合った上着も、さらにはタンブラーに入れたホットコーヒーまでも。
「貴方が普段飲んでいる高級コーヒーではないですが、それもなかなかイケますよ」と言った通り、たしかに芳醇さは足りないが悪くはない。むしろ、この安っぽい味の方が今の自分に合っているような気がした。
「んで、目的地は?」
「綺麗な夜景スポット、とかはどうでしょう?」
「ロマンチックじゃん」
「でしょう。では、出発しますよ」
ナビは入れなくていいのか、運転するのはいつぶりなのか、袴とブーツでは運転しにくくないのか……聞きたいことは山ほどあったが〝逃避行〟の始まりにそんなことを聞くのは野暮な気がして、ただ静かに目を瞑った。
夢野幻太郎が運転する助手席は存外にも心地が良かった。
「夢野センセー、夜景はどこですかー?」
「はて。ここもいわゆる夜景、であることには間違いありませんが」
停車したフロントガラスから見える夜景──真っ黒な海──はザザザと音を鳴らしながら波立っている。窓を閉め切っているのに潮の香りが漂う気がするのは、ここが海沿いに建つ道の駅だからだろう。
道を間違えたか、それとも気が変わって目的地を変更したか。一二三には知り得ないことだが、あえて尋ねることはせず今の状況を享受することにした。
ラジオから流れていた音楽番組はいつの間にかニュース番組になったらしい。
『◯日、警視庁が大麻所持の容疑でA容疑者を逮捕しました。A容疑者は女優としても活躍していました。A容疑者曰く〝大麻を持って来るように言われた。私は悪くない。悪いのは……』
続きを聞くことなく夢野幻太郎の手によってオーディオが切られる。
静寂、波の音、腕時計の秒針、ふたり分の呼吸。
「……知っていました?この建物の裏に骨格標本があるらしいですよ」
「……へぇ。何の?」
職業柄、情報収集は日課となっている。故に、この地に何の骨格標本があるかなんてのは既に知っている。それでも律儀に会話を繋げた。
「後で行ってみましょう。歩きながら何の標本かを当てるのも楽しいと思いませんか?」
柔和な声は耳心地が良くて「うん」としか紡げなくなる。コーヒーを一口。何か気の利いた台詞でも吐いてみたかったが、うまくいかなかった。今はジゴロじゃないから。
「……小生に何か出来ることはありますか?」
先程とは打って変わって、心配を隠しきれない幻太郎の声色に「ははっ」と声だけで笑った。
「何〜?夢野センセ、慰めてくれてんの〜?」
「……買い被りすぎです」
「またまた〜!優しいんだから〜!」
無理に出した明るい声が宙に浮いて消える。本当に優しい。優しすぎる。もう繕う必要もないか、と無理に出した笑みも消した。
「逃避行、とか嘘っしょ?最初から俺っちを慰めることが目的だった」
「……どうしてそうお思いに?」
「本当はもう脱稿してるんでしょ?」
「おや。伊弉冉探偵の推理が始まりましたね。証拠は?」
「締め切り24時間前の夢野センセがそんなに悠長で小綺麗なはずないもん」
ふふふ、と右隣りから笑い声が聞こえた。経験則からの推理はどうやら当たりのようだった。人の目から逃れられる夜であることも、用意周到なドライブも、消されたオーディオも。全て証拠だ。
「バレてしまっては仕方ありませんねぇ。そうです。最初から貴方のために仕組まれたことだったんですよ」
なりきっているのか不適な笑みを浮かべ犯人っぽい台詞を吐き出す。
そんな彼が可愛くて、愛おしくて、切なくて。
こんな自分なんて放っておけばいいものを。拒絶すればいいものを。これでは君から離れるなんて出来なくなってしまったではないか。
「肩貸して」
一言だけそう呟くと、彼は何も言わずに助手席の方へと体を寄せた。俺もそれに倣ってベンチシートの上を移動する。幻太郎の方へと、その温もりを求めて。
幻太郎の肩に額を乗せて寄りかかると一粒だけ涙がこぼれた。以前、揶揄した袴にそれが染み付いて、居た堪れなくなるのと同時にほんの少しだけ優越感も覚える。
「あの人、常連でさ。俺っちのこと本指名してくれてて」
「……売れっ子女優でしたから金離れも良かったでしょう」
「そそ。あんまり詳しくは言えないけどめちゃくちゃ高い酒も入れてくれたりさ。同伴もした。けど、あくまで客とキャストとしてね」
「……しかし、彼女はそうではなかった、と」
「……うん。本気になっちゃう子はやっぱいるわけで。俺っちも何度か経験してるし、今回も宥めつつって感じでやってたけど、段々エスカレートして……」
「出禁にしたわけですね」
「……他の客やキャストにも迷惑かけてるしって店長がね。彼女の様子じゃストーカー化するかもってみんな懸念してたけど……それを機にすっかり諦めてくれたみたいで。ほっとするのと同時に大丈夫かな、って心配ではあった」
「随分とお人好しだこと」
その言葉に苦笑で返す。お人好しだからこそ涙が溢れてしまったのだろうか。彼女を遠ざけて、でもそんな彼女を心配して。そうだとしたらあまりに偽善で身勝手な涙だ。
「……そして逮捕されて、貴方の名前を出したんですね。『私は悪くない。悪いのは伊弉冉一二三だ』と」
「……俺っちが彼女に命令したって証拠もないし、彼女の今までの行ないも店のみんなが知ってるし。警察からも色々聞かれたけど、ただ単純に巻き込まれたホストってことで無罪放免」
「ただ世間様は放っておいてはくれませんよねぇ」
こくり、と頷く。脂肪の少ない肩は居心地が良いわけではないが温もりが心を軽くさせた。
「彼女の復讐ですかね」
「かもね。俺っち的には何も後ろめたいことはないし、彼女がそれで心が晴れるならいくらでも復讐してくれていいけどさ。……俺っちがもっとうまく向き合えてたら、彼女が容疑者になることもなかったのかなって考えちゃうよね」
「別に貴方のせいではないでしょうに。貴方や店に迷惑をかけたことも、犯罪に手を染めたことも、犯罪とは無関係の貴方の名前を出したことも、全て彼女自身の責任ですよ」
「……うん。頭では分かってる」
それ以上は何も言えなくなった俺の頭を彼はやれやれ、といった風にぽんぽんと叩いた。やっぱりお人好しですね、という声が耳に届く。
「お人好しってか不甲斐ないだけ。……はあ、夢野センセの前なのにかっこ悪りぃ〜」
「そうですか?完全無欠な貴方よりはずっと魅力的だと思いますけど」
けらけらと笑うとふたりの体が揺れた。恋人にはなってくれないくせに、という不満は寸前で飲み込んだ。
「……骨格標本、見に行きますか?」
「ん〜。そだね、もうちょいしたら。もう少し……このままで」
波の音に混じり微かなエンジン音が聞こえた。ふたりと同様に海を見に来た人物だろうか、それとも仮眠を取ろうとする旅人だろうか。
「仕事、辞めないでくださいね」
「辞めないよ」
「……小生、ホストとして矜持を貫いている貴方が好きなんですよ」
体を起こして彼を見やる。彼が好意的な言葉をかけてくるなんて……珍しいこともあるもんだ。
「もしかして、これも慰めてくれてる?」
「慰めになるかどうかは貴方次第ですが、本当のことを言ったまでです」
俺はさらに目を白黒させた。てっきり『嘘ですよ』と返されると思ったから余計に驚愕している。
「夢野センセ、熱でもあるんじゃない?」
すると何が可笑しいのか、くすくすと笑い返された。
「熱、ですか。……貴方ならこの正体が何かご存知ですかね」
「正体?」
「ええ。嫌いだったはずの男なのに、その男が笑うと小生も嬉しくなり、その男が落ち込むと小生も悲しくなるんです。そして様々な手段を使って慰めたくなるんですよ」
誰かのために原稿を急ピッチで仕上げるなんて今までなかったのに、と付け加えられた言葉が体温を上昇させた。目の前の人物の手をそっと取ってみる。頬が微かに染まって見えるのは都合の良い幻覚だろうか。
「……それ、同情とかじゃなくて?」
「……触れられるとこれほど胸が高鳴るのに……同情なんでしょうか?」
彼は何かを決心したようにこちらの手を握り込んできた。それに応えるように握り返す。
再びどこかからエンジン音が聞こえる。仮眠ではなく海を見に来た人だったのだろう。音が完全に遠ざかったところで深呼吸をひとつ。
「夢野センセ、その正体は……」
その言葉の先を知るのは回遊する骨格標本とふたりだけだった。