ふたり、夏に溺れる 俺と夢野幻太郎の関係は妙なものだ。好敵手であり、友人であり、かと言ってそこに存在しているものは友情なんかでは片付けられず、互いに慈しみ合っている……と俺は勝手に解釈している。もちろん交際もしていなければキスや抱擁などもしていない。それでもふたりの間にはたしかな愛があると思っている。
〝好きだよ、付き合おう〟とどちらかが言い出せば簡単に繋がることが出来るはずだ。それでも互いにそうしないのは言葉での約束がいかに陳腐なものか理解しているからだろうか。
美味しいね、と言いながら食事を共にしたり、何をするわけでもなく一緒にぼうっとワイドショーを眺めたり、夏には庭で花火をして騒いだり、そしてたまに互いを労わるように手を握り縁側で夜空を眺める。そういう何気ない日常が続くだけで幸せだった。
「夢野センセ、どっか具合悪りぃの?」
「はて、我は見ての通りピンピンしていますが?」
「いや、見たまんまを言ったんだけど。顔色悪りぃよ」
「……今朝ちょっと病院に行きまして」
「やっぱ具合悪りぃんじゃん!」
「いえ、小生は見舞いに行っただけです。その方の具合が……」
そう言ったっきり俯いてしまった幻太郎を窺うように「……あんまり調子良くないの?その人」と尋ねた。彼は小さな声で「良くもないし悪くもないし、と言ったところですかね。もうここ最近はずっと、ずっと」と答えた。ずっと、という言葉が耳鳴りのように轟いているような心地がして、思わず顔を顰めた。
彼は自分のことを話そうとはしない。それでも誰にも打ち明けられない秘密を抱えていることは関わっていくうちに容易に推測出来た。顔色が悪い日だって今日に限ったことではなく、度々その姿が垣間見えては〝何かあったのだろうな〟と思っていたが、彼が口にしたくない事情があるのならば、とそれ以上踏み込むことはしなかった。
そのため、こうやって踏み込んだのは今回が初めてだ。口に出さずにはいられないぐらい今日は一段と顔色が悪かったのだ。はぐらかされるかと思ったが答えてくれて良かった。
ぐつぐつと鍋の中の具材が煮えたぎる音だけが二人の間を駆け巡る。台所に茶を飲みに来たはずの彼はグラスに口をつけることもそれを置くことも出来ず、ただただ静かに呼吸を繰り返した。あまりの弱々しさにこの瞬間だけは彼が二十四歳の青年ではなく少年に戻ったかのような錯覚に陥る。
何かを考える前に体が動いた。コンロの火を止め、彼の手の中のグラスを受け取りそっとテーブルに置く。
「海行こっか!」
「……海、ですか?」
「そ。俺っちも仕事休みだし夢野センセも締め切りはまだ先っしょ?」
「そうですけど……」
「海嫌い?」
否定の意味でふるふると栗色の髪が揺れれば、翠の瞳がきょろきょろと空間を彷徨う。鍋、時計、窓の外、お互いの服装。考えていることが手に取るように分かり、小さく笑う。大丈夫、という意味を込め「じゃあ、行こう!」と細い手を引いた。
シンジュクまで車を取りに行こうかとも考えたが、カーシェアリングサービスを利用する方が早いと考え、すぐに予約をした。それに彼に考える時間を与えたくなかった。先程の視線からも読み取れるように俺に気を遣って「海はまた今度にしましょう」なんてことを言いかねないからだ。こういうのは勢いが大事なのだ。
車に乗り込むと彼はいつも以上に饒舌となった。自身も免許を持っていること、筆記試験は得意だったが実技試験は何度か落ちたこと、今はほとんど運転しないこと……彼の来歴が柔らかな声に乗って鼓膜を響かせる。運転に集中しながらも幻太郎の言葉に相槌を打ち、彼のことを一つでも多く知ることが出来た喜びを噛み締める。
道程も半ばに差し掛かった頃だろうか。不意に彼の声量が小さくなったことに気が付く。ちらりと横目で助手席を見やると彼は健やかな寝息を立てて眠りについていた。無防備に寝顔を見せてくれるのは気を許してくれている証拠だろうか。片手でジャケットをかけてやり「おやすみ」と呟いた。
「ん……」
「おはよー!ナイスタイミング〜!もう着くよ〜!」
助手席の窓を開けると蒸すような空気とともに、潮の香りが車へと流れ込んできた。幻太郎も同じことを感じたらしく、鼻をヒクヒクさせ「海の匂い……」と言ってから顔を綻ばせた。
「というかここは何処ですか?」
「ん〜?ナビの表示見てみ〜」
隣で衣の擦れる音がして、幻太郎がナビを覗き込む。
「こんな遠くまで来たんですね。てっきりヨコハマかと」
「あー。ハマだとあの三人に会いそうな気がしてさ〜。邪魔されたくねぇし」
「ふふ。たしかに」
海水浴場の駐車場に着くと、浜辺はもうすぐそこだった。波の音が聞こえる。もう日が沈む時間帯のためか、はたまたここが隠れ家的な穴場スポットのためか、人はほとんどいなかった。遠くの方に犬を散歩させている少年と釣り道具を片付けている高齢の男性しか見当たらない。
何となくお互い無言で浜辺の方へ足を進ませた。砂の残る歩道を歩むと靴がジャリジャリと音を奏でる。
浜辺に着くと目の前の風景は全てがオレンジに染まっていた。本来ならベージュ色の砂浜も、青く染まる海も、どこまでも広がる水色の空も、全て。〝海〟と言われて想像するものとは違うが、変わり者の俺たちには丁度良いのかもしれない。
それに夕日でキラキラと輝く海だってこんなにも美しい。
「作家が月並みなことしか言えなくて情けないですが……綺麗ですね」
「うん、綺麗だね。こっち歩いてみる?」
「……レンタカー汚してしまうのでは?」
「砂払えば大丈夫っしょ。ほら、おいで」
先導するように砂に足を踏み入れる。陽に照らされた砂の温度が革靴を介して足へと伝わった。振り返って幻太郎を見やると彼も恐る恐るといった様子で足を踏み入れた。
そして、わあ、っと感嘆の声をあげたかと思うと先程の躊躇いはどこへやら、さくさくと音を鳴らして砂浜を歩き出す。
「あはは!砂浜を歩いたのなんて何時ぶりでしょうか」
「楽しそうで何より」
「海でこんなに気分が高揚するとは思いませんでした」
波の音に拐われるようにして幻太郎の言葉が消える。それ以上は喋ることも無粋な気がして、彼の背中と夕日を見つめながらただひたすら足を進ませた。風に煽られ髪が揺れるとそれを抑えるようにして動く白い指に目が離せなくなる。
不意にくるりと幻太郎が振り返り「掴まっても良いですか?この服だと転んじゃいそうで」と袴をヒラヒラとはためかせた。
「いーよ」と返事をしてから隣に並ぶと彼はシャツを控えめにぎゅっと掴んできた。今更、遠慮することもないだろうに。いじらしさに胸がいっぱいになる。
シャツを掴む手を取り自身の手を絡ませて「こっちの方が良いっしょ?」と言えば「そうですね」と微かに羞恥を含ませた声が返ってきた。それには気付かないふりをして再び歩き出す。今度は俺の方が彼に背中を晒すようにして。
「飯、どっかで食べて帰ろっか〜!」
「良いですね。何食べますか?」
「海辺だしやっぱ海鮮丼とかじゃね?」
「小生はお蕎麦が良いです。たしかこの辺に人気のお蕎麦屋さんがあるんですよ」
「えー!俺っち既に海鮮丼の口なんですけど〜!」
「小生はお蕎麦の口です」
「じゃあジャンケンしようぜ〜!」
「おや、ジャンケン無敗の小生に勝負を挑むとは良い覚悟ですね」
「ぜってぇ勝ってやるし!」
「望むところですよ」
「ねー、夢野センセー」
「はい、何でしょう」
「……好きだよ。俺っち、夢野センセの恋人になりたいなって思ってんの」
彼の手が一瞬だけぴくりと動くが、すぐにくすくすという笑い声が聞こえた。
「やっと言ってくださいましたね」
「その言い方だと俺っちから告られるの待ってたん?」
「どうでしょうね。小生たちはずっとこのままなのかな、と思っていました」
「そう。このままでも幸せだったんだけどさ、ちょっと欲が出ちゃった」
「欲?」
振り返ると彼があまりに優しい顔で微笑んでいたものだから、無性に泣きたい気持ちになった。
「うん。夢野センセの傍で慰めたり励ましたりしたい」
「今日、連れ出してくれたのも慰めてくれたのでは?」
「これは俺っちの下心」
「はは。何ですか、それ。小生を落としてやるぞー!ってことですか?」
「そうそう。だから早く落ちてきてよ」
灼けるような太陽が海へと沈む。熱がじゅわっと冷める音が聞こえた気がして、少しだけ心に焦燥感をもたらした。
「ここに来ただけでも充分慰めてもらいましたよ」
「……そうじゃなくてさ。〝大丈夫〟って言葉だけで安心させたいの。たとえそれが全く根拠のない〝大丈夫〟だとしても。そして身体に触れるだけで安寧を与えられるような存在になりたい」
藤色に染まる空が幻想的だ。この恋がどういう結末を迎えようとも、きっとこの情景は一生忘れないだろう。そんなことを頭の片隅で考えた。
「なるほど。そんな関係を世間では恋人同士と呼ぶのですね」
「いや、これは俺っちの持論」
「……貴方は気持ちが良いぐらいに真っ直ぐですねぇ」
幻太郎のブーツが足元の砂をざわめかせた。近付く距離に、これからの展開を勝手に想像して頬が緩む。
「伊弉冉さん、僕を抱きしめて。ぎゅっと強く、一つになるように。どうかお慈悲をください」
にこりと笑う彼の手を引き、そのまま身体をすっぽりと腕の中に閉じ込めてしまう。大事にしたいから〝強く〟なんて願いは聞けないけれど。
「そんな厳かなものじゃないよ。ただ夢野センセが好きっていう愛だけ」
「僕にとってはそれがお慈悲ですよ」
「あはっ。じゃあ夢野センセも俺っちにお慈悲ちょうだーい!」
「……好きですよ。ずっと前から既に貴方は僕の特別だ」
「やばっ、殺し文句じゃん!」
「ふふふ。落とされましたか?」
「落とされました!」
くすくすと揃って笑い合えば呼応し合うように身体が揺れる。ほら、〝強く〟なんてしなくても俺らは一つになれる。
「ねぇ、名前で呼んでくださいな。呼ぶ名前に意味を持たせて」
「愛を込めて呼んでってこと?」
「お好きに解釈なさってください」
「……幻太郎、大切にするからね」
「はい、一二三さん。よろしくお願いします」
言葉での約束なんて陳腐なものだと理解しているくせに、恋情に溺れた俺らはこれからも懲りずに愛の言葉を紡ぐのだろう。
だって何気ない日常だけじゃなく愛を囁き合うのだって〝幸せ〟なのだと気付いてしまったから。もう後戻りは出来ない。
溺れるところまで溺れよう。そう思うほど、彼が愛おしくて仕方がない夏の日だった。