思い思われ、明け六つ 生温い微睡みの中で隣接する熱が離れていく気配を感じとった。もうそんな時刻か。時間も、かかる負荷も忘れて愛し合い、気絶するように眠りについたのは何時だったのだろうか。受け入れる側に負担がかかることに違いはないが、彼だって昨晩は何度も果てたくせに、難なく起床出来るタフさには毎度驚かされる。
『幻太郎、俺っちより若いのに体力なさすぎっしょ〜!』という架空の声は無視して、再び就眠するためにケットを手繰りよせる。きっとそのうち朝食に呼ばれるだろう。
彼が炊事する音を浅い眠りの中で聞く朝が、幻太郎は好きだった。
しかし、いつまで経ってもその音が耳に届くことはなく、代わりに華やかな香りとともに熱が戻ってくる。彼が二度寝するなんて珍しい。まあ、今日は特別な予定があるわけでもないから、こういう日があっても悪くないだろう。たまには自分が朝食を作っても良いかもしれない、と冷蔵庫の中に思いを馳せていると、馴染みのない温度を感じ取る。
それは一瞬だけ躊躇うような動きを見せ、左手薬指におさまった。
「何ですか、これ」
「あっ、目ぇ覚めちった?」
「少し前からですが。それで、何ですか」
再び尋ねながら左手薬指を眼前にかかげる。
聞くまでもないが、そこに佇んでいたのは指輪だった。
「何って指輪〜!」
「見れば分かりますよ。どういった目的の指輪かって聞いてるんですよ。今日は誕生日でもなければ特別な記念日でもありませんよ。こんな高価な物を貰うような謂れはないと思うんですけど」
口数が多くなったのは、鼓動ともに高まる甘い期待を隠すためだ。そんな内心もお見通しとばかりに弧を描く唇が憎くて愛おしい。
「謂れなんて俺っちたちの関係を考えたら充分じゃん。左手薬指に嵌めた意味ぐらい分かるっしょ〜?」
「……おやおや。生憎、貴方から〝お約束の言葉〟を頂戴していないので分かりませんでした」
「何〜?幻太郎、意外とそういうの気にしちゃうタイプ〜?」
揶揄してくる男は無視して再び指輪を見やる。何の装飾もされてないないが、その輝きを見る限りハイブランドであることは間違いないだろう。シンプルさゆえに、おそらくエンゲージリングというよりはマリッジリングの意味合いを持たせているのかもしれない。その割には彼の薬指にその輝きは存在していないし、何より幻太郎が受け入れるだろうと信じて疑わない傲慢さにも呆れる。
「普通、何の相談もなしにこういうの贈りますか?」
「だって言ったら幻太郎逃げちゃいそうじゃん」
「…………」
「図星っしょ?」
「だからといってこんな物で小生を縛り付けられると思ったら大間違いですよ」
「そんなこと言っておきながら抱き着いてくるとか可愛いんですけど〜」
「……肌寒いので暖を取っているだけです」
合わせた肌と肌が妙にぬらりとするのは昨晩の名残りだろうか、それとも再熱した昂ぶりゆえか。絡ませた足をばたつかせれば、こそばゆさに笑いが込み上げる。
不意に左手を取られれば、親指から順に熱っぽい唇が触れる。それは薬指に到達すると、新しく幻太郎の一部となった指輪に口付けを落とした。
「こんな物で幻太郎を縛れるなんて思ってないよ。でもさ、せっかくふたりでいるのに現実ばっか見るのも寂しいじゃん」
「夢ばかり見るのも危険ですけどね」
いつかはいなくなってしまうかもしれないから、と出そうになるが、寸前のところで口を噤むことが出来た。指輪を贈ってきた恋人に言うにはあまりに無粋すぎる台詞だろう。
「だからそれも含めて、俺っちといる間だけは幻太郎に嘘ついてて欲しいの」
「嘘ならいつも吐き出してますが」
「そうじゃなくて。ずっと一緒にいる、俺っちの前からいなくならないって嘘ついてて欲しいってこと」
「……言ったところでそれが嘘だってことは貴方も気付いているんでしょう?」
「気付いてるよ。それでも幻太郎が嘘ついてくれるなら騙されたってことにするから。俺っちを上手に欺いてよ」
「そんなの……」
茶番ではないか、という言葉は塞がれた唇によって紡がれることはなかった。触れた唇は微かに震えていた。お願い、と掠れた声で懇願されては、もう断る理由も見当たらない。
一二三をあやすようにその髪の毛に触れる。よく手入れされた髪はシルクのように滑らかで、そういやこんな風に触るのも久々だな、なんてことを頭の片隅で考えた。慣れ親しんだ関係性が、図らずとも彼に不安を与えていたのかもしれない。
「小生はずっと貴方の傍にいますよ。どこにもいかない。約束します」
そう言うと、一二三は美しいかんばせに花を咲かせ「俺っちも!幻太郎の傍にずっといる!」と声を弾ませた。
彼の方だって背負ってきた傷や闇は深く、全てを開示しようとはしない癖に、まるで幻太郎が運命の相手だと言わんばかりに綴られた言葉は非常に無責任である。一方で、その無責任さに救われるところもあり、不覚にも心に灯火が宿る。お互いの安っぽい嘘も、口にすることによって誠になりうる気がして、それはそれで悪くないのかもしれない、とまで思えてきた。こんな物で縛られる気は到底ないが、プラチナに映る自身がひどく幸せそうに微笑んでいたため、どうしようもない奴だな、と自嘲する。
「朝ごはん何食べたい?」
「ん〜そうですねぇ。そうだ、先程考えていたんですが、たまには小生が作りますよ」
「えぇ〜マジで〜!?俺っちエッグベネディクト食べたい!」
「そんな洒落た物はご自身で作ってくださいな」
「えー!!じゃあじゃあ〜一緒に作ろーぜ〜!」
「ふむ、それも良いかもしれませんね」
でもその前に、と付け加えながら再び彼に抱き着いてその肩に顔を埋める。
「もう少し。もう少しだけ甘えさせてください」
本当にどうしようもない。指輪に当てられでもしたのか、自主的にくだらない台詞を吐き出すなんて。もしかすると自分は存外にもこの男に毒されているのかもしれない。いよいよ抑えきれなくなった思いが涙となり溢れ出た。
濡れる肩には気付かないふりをした彼が「いーよ」と優しく囁けば、どちらからともなく指と指を絡ませる。指輪にふたり分の温度が馴染んだあたりで、そっと口付けを交わした。