教えて、伊弉冉さん「キス、してみませんか?」
彼の箸に挟まるは天ぷら。キスの天ぷら。つまりこういうことだろう。キスの天ぷらを見て口付けとはどのような心地なのか、と思い一二三に声をかけた、と。
「どーせ、キスの天ぷら見てキスってどんなんか気になって言ってるだけっしょ〜?」と思ったことを口にすれば、夢野幻太郎は「おや。小生の考えていることがよく分かりましたね」なんてとぼけた様子で返してきた。
「俺っちたち付き合ってないし、好き合ってるわけでもないんだしさ、それはヤバくね?」
かぼちゃの天ぷらを一口齧ると小気味の良い音が立てられる。揚げ物は揚げたてが美味いってのは周知の事実である。それ故にこの男の戯言に付き合っている暇などないのだが、そんな事情は知らぬ、とばかりに幻太郎は話を蒸し返した。
「だから良いんじゃないですか。何の感情も持っていないのならキスなんてただの皮膚と皮膚の接触ですよ」
「答え出てんじゃん。する意味なくね?」
てか早く食べてね、と促すも彼はうーんと唸り何かを思案し始めてしまった。キスの天ぷらを持ったまま。もうこうなってしまってはお手上げなので、せめて自分だけは、と揚げたての天ぷらをせっせと消費することにした。
俺と夢野幻太郎は最初の出会いこそ最悪であったが、いつの間にか挨拶を交わす仲に。そしていつの間にか世間話をする仲に、更にあれよあれよという間に、このように夢野邸で俺が作った食事を食す仲になったのである。詳細は割愛。だが、それはあくまで友人としての付き合いであって、恋慕の気持ちは持ち合わせていない。お互いに。
幻太郎は「たとえば」と切り出すとおもむろに俺の左手を引っ掴んできたのでギョッと心臓が跳ねる。「ビビった〜」と言う一二三には目もくれず彼は話を続けた。
「こうやって手に触れたとしても貴方に対する感情や印象は何も変化していません」
「へぇ。どんな印象?」
「いけすかないクソホストですかね」
「ひっでぇ」
幻太郎は手を離すとくすくすと笑いながらやっと天ぷらを口にした。キスの話をしているためか自然と彼の唇に目がいく。油で濡れた唇は、まるで一二三を唆すように耽美に動いてみせた。
「触れるのが手だから感情に変化がないのか、それとも貴方に対して何の気持ちも持ち合わせていないから変化しないのか、気になりましてね。先程も言いましたがキスも手と同じで皮膚と皮膚の接触ですからね。小生が推測するにおそらく後者だと思っているんですよ」
「ん〜、つまり俺っちとチューしてもドキドキもしねぇしクソホストって印象は変わんねぇってこと?」
「その通りです」
「俺っちとする必要ある?飴村シグマとかギャンブラーくんに頼めば良いじゃん」
「まあ、野暮なことをおっしゃる。したいと思った今現在、目の前にいたのが貴方だったわけですよ」
「ふぅん。じゃあここにいるのが俺っちじゃなくて他の人だったらその人にチューねだってたわけ?」
「ええ。そうでしょうね。……で、どうです?キスしてみませんか?」
豚汁の具材である里芋、牛蒡を頬張り歯応えを楽しむように咀嚼を繰り返す。よく噛むと根菜の味がダイレクトに伝わり、大地の恵みの有り難さを改めて実感する。ごくんと嚥下し、たっぷりと時間を置いてから「別に良いけど」と答えた。
リップバームを指に取り、体温で溶かすように馴染ませる。ゆるくなってきたところで自身の唇に乗せ、指を縦皺に沿って動かす。バニラの香りが鼻腔をくすぐれば、口唇は濡れたように艶やかとなった。
「何してるんですか?それ」と幻太郎が手鏡を覗いてきたため「キスするから一応エチケットとして」と返す。きょとんとした顔が何だか妙に可笑しくなって「夢野センセもしとく?」と問いかけた。
「天ぷらの油じゃ駄目ですかね」
「駄目ですね〜!ほら、おいで」
ぬらめく唇にティッシュを当てて、あらかたの油を拭き取る。先程、自身の唇にもそうしたように体温で溶かしたリップバームを彼のそれにも滑らせた。普段は彼の唇をじっくり見ることも触れることもないため、変に心がざわつく。てか、口ちっちぇ〜。こんな子どもみたいな口しているくせに、ラップバトルになると身の毛もよだつような呪詛を吐き出すから油断ならない。
仕上げに唇からはみ出たリップバームを拭い取っていると「美味しそうな匂いですね」と幻太郎が声に出した。
「あー。バニラの匂いだもんね」
「ええ。思わず食べてしまいそうです」
彼はそう言うと俺の指を掴んでパクリと口に咥える真似をした。「なんてね」と悪戯っぽく笑う姿に思わず目を白黒させる。案外可愛いとこあんじゃん、夢野幻太郎。
普段の奇行や屁理屈な性格からつい忘れがちになるが、この男、顔だけは良いのだ。顔だけは。先程の仕草だって見る人が見れば惚れてしまうのではないか、と思えるほどに魅力的だった。
まあ、俺はノーセンキューだけど。
「じゃあ、そろそろやりましょうか」
「どうする?座ったまま?立つ?」
「そうですねぇ。まあ、肩肘張らずに座ったままでしましょう」
「りょ〜」
「せっかくなので役を決めましょうか」
「役?」
「ええ。婚約者がいるにも関わらず男に惹かれてしまう女とその女の事情を知っておきながら同じく恋してしまう男。どうです?」
「何なの、その捻くれた設定。てか役に入る必要ある?」
「良いじゃないですか、雰囲気作りですよ。雰囲気」
何の感情も持たないことを分かっているのならばさっさと終わらせれば良いものの、雰囲気作りとやらに拘るのは空想を売る小説家の職業病というやつなのか。ここで拒否したとしても押し通されることは短い付き合いの中でも学んでいたため、何も言わずに従うことにした。奇人変人に対しては諦めが肝心。
「分かった。じゃあ、どっちがどっちやんの?」
「そうですねぇ。キスの勝手が分からないので小生は受け入れる側の女役をやりましょう」
「あー、そんな感じね。おけまるー」
俺もそんなに経験豊富というわけではないが職業柄、女役よりは男役の方がしっくりくるだろうと思い快諾した。
「女声出さないでね。マジで怖ぇから」
「はいはい。心得てますよ」
「ホントかよ……」
俺の呟きは無視して既に役に入り込んでいるのか、幻太郎はおよよ、といった様子で足を崩した。
「あっ。そんなっいけませんわ、一二三さん。わたしには独歩さんという婚約者が……」
「はい、ストップ!ストップ!」
「何ですか?」
「いやいや、独歩出すのはなしっしょ!顔思い浮かんで集中出来ねぇって」
「はて。寂雷さん、の方が良かったですか?」
「そーゆーことじゃなくて!特定の人物名出しちゃうとやりにくいって話!だいたい友達の婚約者奪うとか出来ねぇし」
「あくまで役ですよ。役」
「分かってるけど!とにかく知ってる人の名前出すのは禁止!」
やれやれ、といった様子で顔を左右に振りため息が吐き出される。やれやれ、じゃねぇよ。こっちは遊びに手伝ってやってんだからさ。幻太郎はコホンと咳払いをすると再び台詞を繰り出す。
「あっ。そんなっいけませんわ、一二三さん。わたしには名無しさんという婚約者が」
作家のくせしてナンセンスな命名に吹き出すと、翡翠の双眼でキツく睨まれる。はいはい、真面目にしますよ。
「名無しくんがいたとしてもお互いに惹かれあっているのは事実だろう、夢野さん」
一語一句を丁寧に、そして優美を含ませて彼を誘なう。培った経験からジャケットは羽織ってなくともホストモードのふりぐらいは出来る。彼の瞳を自身の瞳で灼き尽くすように真っ直ぐ見つめた。
「……そんなことありませんわ」
「じゃあ僕が君に触れたとしても何の感情も持たないというわけだね」
「え、ええ。もちろんですわ」
「本当かな?たとえば唇が触れたとしても?ほら、こんな風に」
〝演技で〟後退りする彼の上にのしかかれば、その細い顎をそっと掴む。頬が染まっているように見えるのは俺の気のせいだろうか。
目を閉じて、と囁けば潤んだ瞳は瞼に塞がれ姿を隠す。規則的に並んだまつ毛が濡れており、より濃くその存在を主張していた。
ちょっとした意趣返しに、と体の重心を移し、まずは鼻先と鼻先を触れ合わせる。俺の行動が読めないためか、たったそれだけの接触でも彼は肩をびくりと跳ねさせた。思わず喉の奥からくつくつとした笑いが込み上げる。
お互いの衣が擦れる音と短い息遣いのみが部屋に響き渡っていた。息を吐いた途端に甘い香りも漂うが、それはどちらのものだろうか。同じリップバームを使っているのだから双方のものであると考えるのが妥当なはずなのに、何故か彼の方から匂い立っている気がする。そう、まるで可憐な花が蝶を誘い込むように。
そのまま唇の距離を縮めると、もうどちらかが囁くだけで触れ合ってしまうだろうというところまでに到達した。このまま感情に任せて口付けを交わせば、きっととても心地が良いのだろう。
だが、それは一二三の胸に置かれた熱い手によって阻まれ、叶うことはなかった。
「あ、あの……もう充分です。これ、でお終いで」
距離を置いて見上げてくる彼はもう〝ただの夢野幻太郎〟へと戻っていた。やはり勘違いではなかったようで、顔は真っ赤に染まっており、見るからに狼狽していた。その様子にむくむくと加虐心が煽られ、再び幻太郎との距離を縮める。
「夢野さん。君も僕に惹かれているのは自覚しているはずだ。怖がることはないよ。口付けをしよう」
「も、もう終わりです!お終いです!演技はお終いですっ!」
「恥ずかしいのかな?ほら、僕に身を委ねて。大丈夫だよ」
「ぎゃー!話を聞けーーー!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ幻太郎を無視して更に距離を縮めた。そして、彼の唇…………ではなく額に短い口付けを落とす。
「うぎゃあ〜!……って、えっ?」
「俺っちがホントにチューするはずないじゃん〜!あ、何?それとも夢野センセ、ちょっと期待しちゃった?」
「は、はぁ〜!?」
「オオカミさんと遊んでるとぱくって食われちゃうんだよん」
ぱくっ、と言いながら手で頬を摘んでそのまま横に伸ばすと、彼の顔が間抜けな表情へと変わり、揶揄うようにけらけらと笑った。
「ふっざけんな!キザ野郎っ!」
一二三の手を払い退けて睨みつける様子は本人にしてしたら精一杯、怖い表情を作っているつもりなのだろうがこちらとしては全く怖くない。顔だけでなく耳まで真っ赤な上に目は潤んでおり、むしろ可愛らしささえ感じる。ふぅふぅと荒い呼吸を繰り返す様はまるで猫のようだ。猫の威嚇。怖くも何ともない猫の威嚇。
「それで?チューの寸前までやってみた感想は?俺っちに対しての感情や印象は変わった?」
「……変わりませんよ。いけすかないクソホストのままです」
「ホントに?」
演技はすでに終了していたが、再び彼の瞳を射抜くように見つめる。
彼の本当の言葉を聞き出したかった。
と言うのも俺も実際のところ危なかったのだ。何とか軌道修正したが、あのまま理性が働かなかったら無言の誘いに乗って口付けを交わすところだった。あの雰囲気に乗せられて、ほんの少しだけ彼に対する気持ちが変化していた。彼も同じ気持ちだと嬉しいかも、と思いながら視線で返事を促す。観念したのか幻太郎はおずおずとした様子で口を開いた。
「あ、の……ちょっとだけ……変わったかもしれません」
「ふぅん。それは良い方に?悪い方に?」
彼が限界です、といったばかりに目を泳がせているのにも関わらず、こんな質問をするなんて我ながら意地が悪い、と苦笑する。彼の反応を見ればどちらか、だなんて明白だろうに。
「良い方……かもしれません」と絞り出された声に気を良くした俺は、彼の頭をぐしゃぐしゃに撫でると「またチューしたくなったらいつでもどうぞ〜!」と言って台所に足を運んだ。
背中にかけられた「もう二度と頼むかっ!」という声に後ろ手にひらひらと手を振る。
夕飯の片付けをしながら幻太郎の反応、そして自身の高鳴る鼓動に思いを馳せた。おそらく、おそらくだが今後、ふたりの関係性は変化するだろう。それも良い方に。俺の思い違いでなければきっと彼も……。淡い期待に胸が躍り、鼻歌交じりにこっそり微笑んだ。