猫になった日の過ごし方「うにゃあ〜」
自身が発したとは思えないほどに可愛らしい声だ。声、というよりかは鳴き声の方が正しいか。普段は使わない近道を使ったのが悪かった。突如、後ろから憎悪のこもったリリックをぶつけられ、目が覚めたら〝猫〟になっていた。んな、二次創作みたいな展開になるなんて嘘だろ!?と思いたいが残念ながら現実だ。それに仮にこれが二次創作だとしたら猫耳に尻尾なんていう可愛らしい姿になっていただろうが現実なので自身の姿はまんま〝猫〟だった。
手(前足)を暫し眺める。猫の足だと自宅に辿り着くのはどれぐらいだろうか。かなり時間がかかってしまうかもしれないが、自宅にさえ着いてしまえばあとはどうにでもなるだろう、と歩き出す。しかし思考まで猫になってなくて良かった、と安堵する。人間の記憶を失ってしまったら自宅までの道のりも思い出せないだろう。
そういや猫のひげは空間反応能力や平衡感覚を保つ役割があるそうで、ひげを切ると途端にふらふらとした足取りになるそうだが本当だろうか。本物の猫で試すのは外道のすることだが、今は自身のひげだ。試してみたいという好奇心がむくむくと湧き上がるが、やめた。帰宅できなくなったら大変だ、ともう一人の自分が冷静に諭してきた。
暫く歩いていると「あー!ネコちゃんだ〜!」という聞き慣れた声が耳に入った。
「にゃにゃみ!」
一二三!と言った。当然、一二三にも猫としか認識されていない様子で「ネコが喋った!」と驚くことも彼が自身の名を呼ぶこともなかった。
だが、こいつに遭遇したのは大チャンスだ。どうせ違法マイクの効果だろうからすぐに人間に戻れるだろう。そのときはそばに見知った人物がいた方が安心だ。
「ネコちゃんはお散歩してたん?俺っちは夜から仕事〜!あ、俺っちホストしてんだけど〜こう見えてもナンバーワンなんだぜ〜?」
「にゃう」
ああ、知っていますとも。というか猫相手によくそんなに喋りかけられるな。さすが陽キャ中の陽キャ。
「触っていい〜?うりうり〜」
返事を聞く前に頭を撫でるな!と抗議のつもりで「にゃ!」と声を出すが「ん?嬉しい?そかそか〜!」と都合の良いように解釈されてしまった。
まあ、良い。今の頼みの綱はこいつだけだ。
「んじゃ、俺っち行くね〜!バイバイ!」
あ、ちょっと待て!立ち上がった一二三の足に纏わりつく。
「へ?どしたん?もしかして、腹ぺこ的な?あーでも勝手に野良ちゃんに飯やるのはダメだよなぁ〜」
「にゃ……」
「うんうん。でもこのまま行っちゃうのは心配だし〜。うちのマンションも動物はオッケーだけど事前に申請が必要だしな〜」
「うにゃあ」
「……う〜ん。そうだな!とりあえず行くだけ行ってみるか!」
一二三はひょいと俺を抱えるとそのまま最寄りのペットショップに向かった。さすがナンバーワンホスト。ふらりと立ち寄ったペットショップで猫用のキャリーバッグを即お買い上げ。「トイレとか餌置きとかも必要だよな〜」と呟くとそれらも次々と購入していった。キャリーバッグと餌以外は配送してもらうことにしたらしく自分はキャリーバッグの中に入れられた。
猫用のグッズを購入した、ということはこのまま飼うつもりなのだろう。だが、これは違法マイクの効果でそのうち人間に戻ってしまうんだよ……と少し居た堪れない気持ちになってしまった。態度に表れたのか「ネコちゃん、どした〜?腹へり〜?今からタクシー乗って家まで行くから待っててね」と一二三が話しかけてくる。ええ、待ちますとも。しかしマンションに着いた頃には猫じゃないかもしれないけど。伝わるはずもないがとりあえず「にゃあ」と鳴いてみた。
一二三が言ったように一匹と一人はタクシーに乗り込んだ。一二三は運転手が男と分かるやいなやジャケットを脱いで「ネコも良いっすか〜?キャリーに入れてるんで!」と人懐こく話しかけている。了承を得たのかタクシーがぶるるっと音を立てて動き出した。
ああ、やっと落ち着いた。……というか今、人間に戻ってしまったら大変なことにならないだろうか。キャリーバッグをぶち破ってしまうかもしれない。いや、それより運転手に何と説明するのか。ぐるぐると心配ごとが頭を駆け巡るが絶妙な揺れが心地良く感じ、だんだんと瞼が下がって、そのうちに眠ってしまった。
ぱちりと目を開くと紫色の光が見えた。まだ覚醒しきっていない頭を醒ますようにして瞬きを繰り返す。ああ、猫の視界ってほぼ白黒だけど紫色は見えるんだな……なんてことをぼんやりと考えていると、ふとその光に見覚えがあるような気がした。
「珍しい毛色の猫ですねぇ」
柔らかく発せられた声の持ち主……夢野幻太郎だ!
「にゃにゃににゃんにゃー!」
「おや、起きましたね。おはようございます」
夢野幻太郎が……何で?違法マイクで猫になって、そのあと一二三と共にマンションに帰ったつもりだが!?この家どこだ!?半ばパニックになりながら夢野幻太郎を見ると「ふふ」と微笑まれた。てか、一二三は!?
「幻太郎〜ネコちゃん好きなん〜?めっちゃ観察してんじゃん」
「……見ていて飽きませんよね」
一二三いた!!一二三は皿を持ってこちらに歩いてきていた。日本家屋であるこの畳が敷かれた部屋はおそらく居間だろう。一二三が歩いて来た方は台所か。
「にゃにゃにゃー!にゃー!」
おい!一二三!説明しろ!と言うが当然伝わるはずもなく、幼馴染は呑気に「はーい、飯だよ〜」と皿を差し出してきた。
てか、一二三と夢野幻太郎って仲悪いんじゃなかったか?ん?というかさっき一二三が〝幻太郎〟と呼んでいたよな。いつの間にこの二人、仲良くなったんだ?
「あり〜?食わねぇの?」
「知らない家で警戒しているのかもしれませんよ。というか本当にここで飼うんですか?」
「本当はうちのマンションで飼いたいけど独歩が何て言うか分かんねぇしな〜」
この俺が独歩。
「まあ、独歩のことも説得できてマンションの許可もおりたら、うちで飼おっかな〜って。それまで幻太郎の家で置かせてくんない?俺っちも昼間来るし世話するからさ」
やっぱりここは夢野幻太郎の家か。てか、昼間来る?どういうことだ?そんなにしょっちゅう出入りするほど二人の仲は深くなったのか?
「ふふ。まるで母親にペットを飼いたいとねだる子どもみたいですねぇ」
「えーダメ〜?」
「別に良いですよ。小生も猫は嫌いではないので。……それにしてもそんなに飼いたがるなんてよほどこの子が気に入ったんですね」
「ん〜。何か放っておけなくてさぁ」
「……へぇ。そうですか」
妙な沈黙が流れ、一応「みゃあ」と鳴いてみるが誰も反応しない。鳴くタイミングは今ではなかったようだ。猫であることも難儀だな。
「あれあれ?もしかして幻太郎、ネコちゃんに嫉妬してる〜?」
「……してません」
ふいっと幻太郎が顔をそらし俺の頭を撫でてくる。
な、何だ!?何だこの甘ったるい空気は!!
夢野幻太郎とは対照的にどこか愉しげな雰囲気をまとった一二三がにまにましながら幻太郎へと近付いた。
「えー!ホントにぃ?」
「……本当です」
「も〜!素直じゃないんだから〜!」
ま、そういうとこも好きなんだけどさ、と付け加えると一二三は夢野幻太郎の顎に手を添えてその唇に自身の唇を重ねた。
キキキキキスした!!!???キス!?
あ!!!もしかして二人はそういう関係だったのか!?
「……貴方、口付けさえすれば良いって思っている節ありますよね」
「んー?でも幻太郎も好きっしょ?ちゅーすんの。ほら、もう一回」
「もうっ……」
夢野幻太郎は不満を滲ませつつも一二三の唇を受け入れた。軽く触れるだけのキスから段々と水音が混じる深いキスへと変わる。それに従って幻太郎の「んっ」と艶っぽく漏れた息がこちらにも聞こえた。それに興奮した一二三が幻太郎を押し倒すと口付けは更に激しさを増す。
うわーーーー!!!やめてくれーーーー!!!それ以上はーーーー!!!と叫ぶが当然「ゃーーーー!!!」という喚き声しか出ない。
しかし夢野幻太郎は何かを感じ取ってくれたらしく一二三の胸を軽く押して動きを制した。
「一二三、猫が騒いでますよ。ご飯じゃないですか?」
「お、腹減ったかな?」
名残惜しげに幻太郎の唇へと短いキスを落とした一二三がこちらを覗いてきた。
「ネコちゃん〜飯食う?」
「にゃにゃにゃい」
いらない。
「もしかして何か食べたいものあったりするん?」
「にゃにゃににゃにゃにゃにゃににゃににゃにゃ」
あえて言うなら焼き鮭かな。
「そっかー焼き鮭かぁ〜でもネコちゃんには塩分強すぎねぇかな」
伝わるのかよ。
「ふふ。まるで会話してるみたいですね」
「やっぱ幻太郎もそう思う!?何か妙にタイミング良く鳴くんだよなぁ〜」
すすすと畳を鳴らして幻太郎が一二三の隣へと並ぶ。
この二人が……付き合ってるのか。一二三からはそんな話は聞かされていなかったし、そもそも犬猿の仲だと思っていた。だが、二人の会話を聞くに正反対ながらも上手くやっていけているのだろう、ということが窺える。
てかこの二人こうやって並ぶと顔面偏差値高すぎるな!?うっ……眩しい!
「うにゃう」と呻き声を出して手(前足)で目を覆うと「あり?ネコちゃん、次は眠くなった感じ〜?」と一二三が間延びした声を出してきた。
「一二三、いつまでも〝ネコちゃん〟呼びは可哀想ではないですか?名前を付けてあげましょうよ」
「ん〜じゃあ〝ゲンタロー〟で!」
「却下で」
「えー!同じ〝ネコ〟だから良いじゃん!ってあいだだだ!メンゴメンゴ!離して〜」
幻太郎から摘まれた頬をすりすりと摩りながら「じゃあ幻太郎は名前何が良いと思う?」と一二三が尋ねた。別に知りたくもなかったが夢野先生が〝そっち〟側なんだな。
「名前……そうですねぇ」
夢野幻太郎が俺の鼻の頭をちょんと一つ突いてから「〝観音坂独歩〟なんてどうでしょう」と言葉を紡いだ。
その瞬間、違法マイクの効果が切れた。
つまり俺は人間に戻ったのだ。
「いやー!メンゴメンゴ!ちゃんどぽには何でも話してるから幻太郎とのことも話した気でいたわー!」
からりと笑う顔にはあ、とため息を吐いた。猫から人間に戻ったは良いものの衣類まで元通りなんていう都合の良い展開になるはずもなく、無様に裸体を晒したのはこの俺です。百歩譲って一二三にならまだしも夢野幻太郎にまで裸を見られるなんて屈辱だ。
しかも服を貸してくれようとした夢野幻太郎に対して「いくら独歩でも幻太郎の服着るのはダメ!俺っちのスウェットにして!」とか何とか一二三がぬかして、夢野幻太郎が反論してそれにまた一二三が反論して、と真っ裸に痴話喧嘩を浴びせられた故に本当に疲れた。というか一二三、お前がそんなに独占欲が強いとは知らなかったぞ。
「どうせお前はそういう奴だよ。もう慣れた」
「おや、それは小生に対するマウントですか?」
「あ、いやっ!そ、そそんな滅相もないです!」
「嘘ですよ」
「は、はあ……」
「わー!ちゃんどぽ、からかわれてやんの〜!」
「う、うるさいな!」
からかった当の本人である夢野幻太郎は涼しい顔をしてお茶を啜っている。それぞれを相手にするだけでもきりきり舞なのにそれが二人って……。かける2だぞかける2。
「てかてか〜幻太郎は独歩の名前言ってたじゃん?ってことは最初から気付いてた系?」
「ええ。もちろんですよ。小生は猫語が理解できますので」
「マジで!?じゃあ『俺が独歩だにゃ〜』って言ってたってわけ〜?」
「言うわけないだろ……」
「ええ、もちろん嘘です。そんな違法マイクがあるってどこかで聞いてたんですよ。それに毛色が赤茶色にエメラルドグリーンなんてどこからどう見ても観音坂殿でしょう」
「あーたしかに!言われてみれば!」
わあわあと談笑している二人を見ながらとある考えが頭を駆け巡る。夢野幻太郎は最初から猫の正体が俺であることに気が付いていた。それにも関わらず夢野幻太郎は一二三と……キスをした。
不意に夢野幻太郎と目が合いくすりと微笑まれる。まるで「気付きましたか?」とでも言うように。マウント取っているのはどっちだよ……。独占欲が強い者同士で「……お似合いだな」とぽつりと呟いた。
「そういや独歩ちん、仕事は大丈夫なわけ?」と言う一二三の言葉ではっとした。居間の掛け時計を見ると昼の12時すぎだ。仕事の方は営業先を回っていてそのまま昼休憩に入ったとでも言っておけば大丈夫だろう。それよりも心配なのは「スーツ!鞄!」
目を丸くした二人を前にがばりと立ち上がる。鞄の中には仕事の書類やスマートフォン、財布まで入っている。しかも場所が場所で治安の悪い路地裏だ。盗まれている。確実に盗まれている。
「俺、シンジュクの路地裏で猫になったから戻らないと!スーツも鞄もない!」
路地裏で猫になったから、なんていうパワーワードを俺以外が使うことがあるだろうか。いや、ないだろうな。と焦燥感に駆られつつも妙に冷静に考えた。
バタバタと用意をする俺に一二三が「大丈夫〜?俺っちもついて行こうか?」と声をかけてくるが、「いや、お前は夢野先生とゆっくりしてろ。すまんが交通費だけ貸してくれ。すぐ返す」と答えた。
一二三は今日も夜から出勤のはずだ。恋人との少しばかりの逢瀬をこれ以上邪魔する訳にもいかない、と自分にしては珍しく気が回せた。
「おけまる〜!気をつけてね〜!」
「ああ。夢野先生もお世話になりました」
「小生は何もしてませんよ。今度、ゆっくりお食事でもしましょうね」
そう言った夢野幻太郎の顔は穏やかで。先程のような独占欲むき出しの敵意も人をからかうような虚偽の心もないように感じた。きっとこれは本心から言っているのだろう。案外、彼も分かりやすいタイプなのかもしれない、と思いつつ「ええ、絶対しましょう」と答えた。
慌てた様子で走り去る観音坂独歩の背中に「意地悪しすぎましたかね。申し訳ないです」と呟いてみる。もちろん相手には聞こえないだろうし、隣にいる一二三にも届いてはいないだろう。しかし音は感じ取ったらしく「幻太郎、何か言った?」と尋ねられた。
「いえ、自分なりの懺悔を口にしました」
「ザンゲ〜?幻太郎がそんな気持ちになることあんの?」
「失礼な。ありますよ。例えば消費期限切れの食べ物に対して『ごめんなさい』とか」
「うわ〜それ嘘か本当か分かりにくいやつじゃん!幻太郎だったらマジでやっちゃいそうだし」
「嘘ですよ。最近の家の食料は〝誰かさん〟に管理されているのでね」
「えへへ〜偉い?」
「はいはい、偉い偉い」
2月の風は玄関先を、ふたりの間を、駆けて行く。容赦ない冷たさに「今日は鍋にしますか」と言って引き戸に手をかけた。
「ねぇ、懺悔って結局何に対してだったん?」
続いて家に入った一二三が後ろからそう問いかけてくる。自分としては蒸し返したくないが、こういうときの一二三は粘り強いことも知っていた。とりわけ幻太郎の様子が普段と違うときは。そしてここは変にはぐらかすよりも本当のことを言ってしまった方が早いことも。
「……猫であろうと人であろうと恋人が夢中になるものには嫉妬してしまう自分の醜い心に対して、ですかね」
寒い寒いと口にしながら廊下を歩く。居間の方へ進むとストーブの灯油の匂いが鼻腔をくすぐる。冬だなぁなんて思いながらゆるやかな熱に包まれたあたりでやっと「やっぱ嫉妬してんじゃん!」と嬉しそうな声が廊下に響いた。