逆転忘羨座学編(仮) 雲深不知処の授業は蘭室の外で行われることもある。
今日の野外教育は、草花の写生だ。
一流の仙師には、こういった教養も欠かせない。
青空の下に居るのに座って草花を描き写す行為は、藍忘機にとってひどく退屈なものだった。
開始から一盞茶も過ぎないうちに彼は中庭から姿を消してしまった。
叔父上が脱走者に気づく前に捕まえなければ……!
苛立ちを隠しきれない魏無羨は、樹の下で菫を描く江晩吟に大股で歩み寄った。
「江晩吟、藍湛はどこに行った?」
「……知らん」
顔を上げずに筆を進める江晩吟が短く答えると、魏無羨の額にびきっと青筋が浮かんだ。
「いつも一緒に居るお前が知らないわけがないだろう」
「あいつと俺が一心同体みたいな言い方をするな、気色悪い」
「いい天気だから川で魚獲りか、陽当たりのいい場所で昼寝でもしてるんじゃないかな」
険悪な空気が流れはじめると、江晩吟の隣から聶懐桑がひょっこりと顔を覗かせた。
「そうか……」
『川で魚獲り』『陽当たりのいい場所で昼寝』
二つの言葉を手がかりにして、魏無羨は藍忘機を探しに向かった。
ありがとうの一言も無かった事に江晩吟のほうが不愉快になってしまった。
「礼儀知らずだな。懲罰担当が聞いて呆れる」
「魏兄って藍兄が絡むと豹変するから面白いね。いつもは仏頂面でなに考えてるかわからないのに」
「興味ない」
江晩吟が吐き捨てるようにそう言うと、二人は何事も無かったように菫の写生を再開した。
***
どこを探しても藍忘機の姿は見当たらなかった。
裏山の小川にもいないし、草花が生い茂って寝転べそうな場所は全て野外教育に使われて昼寝など不可能な状況だ。
まさか雲深不知処の外に脱走したのか?
そわそわする魏無羨の頬を、白い花弁がふわりと頬を撫でた。
花弁に似た葉の一部のそれは、花水木の総苞片。
春風で舞う総苞を目で追って顔を上げると、見慣れた姿があった。
頭の後ろで腕を組んだ藍忘機は、器用に均衡を保って昼寝をしている。
下からその姿を見てさらに苛立ち、魏無羨は起こさぬようにそろそろと登りはじめた。
音をたてずに素早く樹を登る事など、幼少から藍氏の過酷な修練をこなしてきた彼にとって容易い行いだった。
引きずり下ろそうとして忍び寄ったが、魏無羨は思わず固まってしまった。
あまりにも美しすぎる寝顔のせいだ。
きりりとした細めの眉から近い玻璃色の瞳は伏せられ、長い睫毛が風に揺れている。
座学の無い日は小川や裏山で遊び回っているのに少しも焼けていない肌はまるで、磨きあげられた水晶。
いつも軽口を叩く唇は、閉じていると桜貝のように楚々としている。
藍忘機という男は破天荒で恥知らずの極みなのに、その容貌には一片の欠点も見当たらない。
内からきらめくような麗しさに魏無羨は目が離せなくなってしまった。
樹の上だけ刻が止まってしまったようだった。
「……!」
しばらくぼんやり見惚れていると、突然がしっと抱き寄せられた。
そして、華やかに整った寝顔が急接近し、唇と唇が触れ合う……
ふわふわした感触の隙間から、熱くぬるりとしたものが滑り込んできた。
無遠慮なそれは歯列をくぐり抜けて口腔に侵入した。
「んっ、んっ! んんんっっっ……!」
それが舌だと気づき、魏無羨は逃れようともがいたが力が入らなかった。
ぬるぬると口粘膜を蹂躙する熱い舌は、剛力を封じる術かと錯覚するような痺れをもたらした。
「んぅう……っ……」
唇の裏側を何度もなぞられ、上顎を擽られると魏無羨の膝はぷるぷる震えはじめた。
飲み込みきれなかった唾液が口角から流れ落ちた時、花水木の枝がギギギッと軋んだ。
バキィィィィッッッッ!
上背のある少年達の体重に耐えきれなくなった枝は無残に折れ、天然の布団のようにふかふかと生い茂る草の上に二人は落下した。
重なっていた身体も唇も離れ、止まっていた刻が一気に動きはじめたような雰囲気が漂う。
「き、貴様……! 突然なんてことを……!」
珍しく声を荒らげた魏無羨は首元まで真っ赤になり、手の甲でごしごし口元を擦った。
そんな彼を見ながら藍忘機は草に胡座をかき、にやけた視線を向けた。
「お堅い姑蘇藍氏は接吻というものも教えてくれないのか?」
「それくらい知ってる!」
「知ってるならどうしてそんなに動揺してるんだ?」
「なぜ俺に接吻なんか……」
「じっと見てるだけでいつまでもしてくれないからこちらからしたまでだ」
その言葉で魏無羨の顔色はさらに鮮やかになってしまった。
「惚れた相手と二人きりの状況でじっと見つめられて接吻のひとつもできない男は腰抜けだ」
からから笑う藍忘機を魏無羨は直視できなくなった。
「くだらない……!」
野外教育が終わる前に藍忘機を連れ戻すという目的をすっかり忘れている魏無羨は、そこに居づらくて全力で走り去った。
風が顔を圧迫するほど走っても、藍忘機の舌と唇の感触は消えなかった。
わずかな躊躇いも無い手慣れた接吻は魏無羨に嫌悪とは別の、胸の奥がちくちくするようなもやもやするような感情を植え付けた。
自分に惚れていると言いながら、過去にもあんな事を安易に誰かとしていたのだろうか?
藍忘機が誰と何をしようが自分には無関係なのにどうしてこんなにもやもやするのか?
心が清く、未熟な魏無羨は自分の中に芽生えた感情の正体も、藍忘機が実は童子で先ほどの接吻は彼にとって初めてという事も知らなかった。