忘羨座学if(仮タイトル)白い指が弦を弾くたびに、清らかな琴の調べが夜の空気を揺らす。
その音色は美しいのにどこか不安定だった。
何度弾いても微妙に生じるズレが、藍忘機を珍しく苛立せた。
「忘機」
威厳に満ちた低い声に振り返ると、藍啓仁が佇んでいた。
その表情には心配と厳しさが混じっている。
「最近、お前の琴には濁りを感じる。なにか悩みがあるなら話してみなさい」
藍啓仁は言葉を選びながら、やんわりと指摘してきた。
「……申し訳ございません。もっと精進します」
深く低頭した藍忘機の声には、何かを隠そうとするような気配があった。
それを見抜いた藍啓仁は、かすかにため息をつく。
もう一度聞いたとしても、甥は遠慮して答えない気がしたせいだ。
「琴の音は心を映す鏡だ。ここ数日、お前は疲れているのだろう。今夜は早く休みなさい」
「はい……」
藍忘機はもう一度頭を下げ、立ち去る叔父を見送った。
一人残された部屋に再び静寂が戻る。
亥の刻までだいぶ時間があるせいか、床に就いても眠れそうになかった。
こういう時は冷泉で瞑想するに限る……
そう思った彼はサッと寝台から抜け出し、冷泉へと向かった。
***
気分を落ち着けるようとゆっくり衣を脱ぎ、丁寧に畳む。
それから下衣一枚になると、冷泉にそろりと足を踏み入れた。
身を沈めれば、水が針のように素肌に突き刺さるようだった。
やがて、胸元まで浸かる頃には冷たさに身体が慣れてきて、藍忘機は目を閉じた。
水面に映る月がゆらめき、薄い霧が漂う中で彼が瞑想する姿は幻想的で美しい。
滝の音以外何も聴こえない夜なのに、藍忘機の耳の奥では彼の名を呼ぶ明るい声が響いていた。
「藍湛!藍二公子!忘機兄!なんて呼んだら返事してくれるんだ?」
魏無羨は、どれだけ無視してもありとあらゆる呼び方で絡んできた。
懲罰担当である藍忘機にそんなふうに馴れ馴れしく接する者は今まで一人も居なかった。
藍忘機は屋根の上でたった一度、剣と拳を交えた日から一切彼と口をきいていない。
なのに、口を開かせようとしつこい魏無羨の声はいつまでも頭から離れようとしなかった。
その声は雑念と化し、藍忘機の規則正しい日常に謎の歪みを生じさせていた。
「だぁーれだっ?」
突然、何者かが藍忘機の背後を取り、両手で瞼を覆ってきた。
わざと鼻にかかった声色を使っているようだ。
藍忘機は咄嗟に身を屈め、曲者に肘鉄を食らわせた。
はずが……
相手は素早く避けたらしく、派手な水飛沫を背に感じた藍忘機は振り返った。
「そんなに驚くなよ」
呆れたように笑うその姿は、見覚えがあるどころではなかった。
藍忘機を悩ませる張本人……魏無羨だ。
「冷泉に許可なく来ることは禁じられている」
一糸纏わぬ姿に、藍忘機は反射的に目を逸らした。
「藍湛、やっと喋ってくれたな。懲罰の跡がなかなか治らなくて寝つけないって言ったら沢蕪君が許可してくれたんだよ」
ずずいと視界に入りこまれ、露わな肌が嫌でも目についてしまった。
藍忘機よりもふたまわりほど細い裸身は、意外なほど色白だった。
薄い胸板の上では桜色の小さな乳首が水の冷たさで尖っている。
藍忘機はこの日、生まれて初めて家族以外の裸を見た。
なぜか全身の血液が一気に頭に昇っていく気がした。
「近寄るな……」
背を向け、狼狽を隠そうとしてもかすかに声が震えてしまう。
それでも魏無羨は聞いていないかのように距離を詰めてきた。
「近寄るなと言っただろう!」
さらに動揺した藍忘機が思わず声を荒らげてしまうと、魏無羨は楽しげにからからと笑った。
「夜は水が冷たいからくっつけば暖かくなるかなって」
「気のせいだ」
「雪山で遭難したら裸でくっつけば暖まるって何かの本で読んだんだけどな。藍湛の背筋、すっげー!」
そう言いながら背後から密着され、藍忘機の心拍はさらに速くなった。
耳も頬も、冷たい水の中とは思えないほど熱を帯びはじめた。
「ここは雪山ではない……」
「寒いし似たようなもんだろ?さすがに蓮花湖も今頃は冷たいだろうなぁ。暖かくなったら雲夢に遊びに来いよ。暑い昼間は泳いで、西瓜と蓮の実を食べて昼寝して夜は祭りの屋台で遊ぶ!楽しいぞ!」
魏無羨は一方的に喋り続けたが、ぴったりくっつかれたままの藍忘機には一割も聞こえていない。
背中に当たる冷たい肌とぷくっとした乳首の感触がやたら生々しかった。
激しく脈打つ藍忘機の心臓は皮膚を突き破ってしまいそうだ。
「だから、俺たち友達になろう!」
雲夢の魅力について語り尽くすと、魏無羨は冷泉に響きわたる声量でそう言った。
『友達』の二文字は、不思議と心地好くない響きだった。
冷泉よりもひどく冷たい水を頭から浴びせられたような気がした。
藍忘機の心拍は落ち着きを取り戻し、胸の真ん中をひゅうっと風が吹き抜けた。
「君と……友達になる気はない」
逃げるように水から上がると、魏無羨が何か言っていたが聞こえなかった。
靴と衣を引っ掴んだ藍忘機は、濡れた下衣のまま足早に冷泉を去った。
いったん落ち着いたはずの彼の心は、乱れた琴の音のように不安定に揺れ動いていた……