逃げられないから地獄と呼ぶ※モブ女視点
※左馬モブ表記あり
そいつと初めて会ったのは私が中三になった春。
お世辞にも優等生とは言えない、だけど不良と呼ばれるほど目立つことをしなかった。注目を浴びたい訳でもなく、でも同級生と仲の良いフリもできず、学校にいる大半の時間は屋上で煙草を吸っていた。
その日は遅刻をして、入学式中の体育館に入って浴びる視線を想像しただけでもううんざりで、真っ直ぐ屋上に向かった。錆びたフェンス越しに見下ろした葉桜。歌詞も忘れた校歌に耳を傾け煙草に火をつけた。
青い空に吸い込まれていく煙を目で追った。私も、つむじから細い糸になって、空に手繰り寄せられそうになる。ぼんやりしているとドアの開く音がした。体育館から教師は一人も出ていないからビビったりはしない。だけど自分を強く見せたくてデカい声で騒ぎ立てる、入ってきたのがそういう馬鹿だったらと思うと気が滅入る。我慢できずに漏れた溜息が白く広がって、振り向いた。
思わず煙草を落としそうになった。
私が辟易と思い描いていた人間はそこにいなかった。
「……なに見てんだよ」
訝しげに睨みつけてくるのは綺麗な男の子だった。大きめの学生服に着られている感じでなよなよして見えるのに、風に乱された髪をかき上げる手の節には男の片鱗が宿っている。せっかく整った顔をしているのに、うっすらと色の残る痣がそいつの纏う危うい雰囲気を底上げして、きっと私をおかしくしたんだと思う。
「――吸う?」
左馬刻とは屋上でよく会うようになった。
逆に屋上以外で会うことはなかった。あいつは息をするだけで目立つような男子で、貰い事故を食らうのだけは御免だったから絶対に近づかなかった。
つまんない顔をしながら周りの女に相槌を打って、決まった男友達が横に居れば笑うことも少なくはない。目端にうつるとぼんやり眺めて、どこだろうが気分で始まる喧嘩に笑わせてもらった。
「うわ……痛そー」
「痛そうじゃなくて痛えんだよ」
「なら喧嘩なんかしなきゃ良いじゃん」
「吹っ掛けてくんのはあっちだ」
「どーだか」
私と左馬刻がこうして話をしているなんて、きっとこの学校の誰も知らない。知らないし思ってもないだろう。みんなを欺いているみたいで、左馬刻と話すのは楽しかった。
「またそれ吸ってんの?」
「これが一番安いからな」
「それまずいじゃん。よくそんなん吸えるよね」
「ならヤニなんて金の掛かるもん教えんなよ」
左馬刻に煙草を教えたのが私だっていうのも、誰も知らない。白い左馬刻から、吐き出される煙は私が生み出した。
「そんなつもりなかったんだけど。あんたの見た目で吸ってない方がおかしいって」
「悪いセンパイだな」
笑ったと思ったら顔を顰めた。さっきの殴り合いで口の中が切れたんだろう。いつだって不機嫌そうにして、低い沸点のせいで左馬刻は生傷が絶えない。でも、なんとなく私は気づいていた。それは学校以外でも左馬刻の身体に痕を残しているって。
だから左馬刻は、私になにも聞いてこないんだと思う。どうして私がいつも屋上にいるのか、どうして私が煙草を吸っているのか。ここでしか捲らない左袖の下にある、点々とした火傷のことも。
興味が無いのかもしれない。でも私はそれを左馬刻の優しさとして受け取った。だから私も左馬刻に同じものを返した。どう受け取られるのかは、どうでもいい。
「センパイなんて思ってないくせに」
鼻で笑った左馬刻は眩しそうに夕日を見ていた。
「後輩扱いされたことねぇし」
寝っ転がって興味も無いワイドショーを眺めている感覚に近い気がする。つまらないと言えばつまらないけど、別に苦痛じゃない。私も左馬刻もどうでもいいやり取りをしながら、頭を空っぽにしていた。
「そうだね、この一年で煙草しか教えたことないわ」
あっという間だった。大したことも話さない、空白になれた時間。
「明日からここに来るのはあんただけだね」
同じ時間、息をしていた左馬刻は初めて見たときよりずっと大きくなった。ぶかぶかだった制服に追いついて男の子ではなく、男に近づいていた。もう煙に咽せることもない。
煙草を落として踏み潰した。足元に私の吸殻と左馬刻の吸殻が散らばっている。
「じゃーね」
紫煙を燻らせる左馬刻は一度頷いた。私の方を見もしないで。それくらいがちょうど良い。ドアに向かう私を邪魔しない。この一年、振り返ったことはなかったから、今日が初めてで、最後。
「左馬刻!」
もしかしたら名前を呼んだのも初めてかもしれない。左馬刻が驚いているし。その顔に向かって投げつけた。
「たまには美味いもん吸いなよ」
危なげなく受け取ったラキストの箱を変な顔で見下ろしている。バレないように笑って私は出ていった。もしかしたら左馬刻は私の名前すら知らない。お互い連絡先なんか知らない。だからもう会うこともないかもしれないけど、しばらくは屋上に私の吸殻が散らばるんだと想像したら、ちっとも悲しくなんてなかった。
高校に入って何度か左馬刻の名前を耳にした。大体が悪い噂で、どこそこの誰それを病院送りにしたとか、ほとんど学校に顔も出さないとか、女は取っ替え引っ替え。
――本当かな?
会話の締めくくりはいつもそんな台詞で、私は内心、本当なんじゃないといつも返事をしてた。だって綺麗なものを汚すのは簡単だから。そうセンチな決まり文句を口にしたら、左馬刻に殴られそうだなって思った。
私は高校は半年で辞めた。
再会したのは私が二十四のとき。
バイトをしまくって貯めた金でやっと出した店は私が好きなものだけで埋め尽くした。酒と煙草しか無いバー。そこへあいつは子供を連れてやって来た。私は一目で左馬刻だと分かって、意外なことに左馬刻も私に気づいた。
「――また来たの?」
「暇なくせに文句言ってんじゃねーよ」
気怠そうに入ってくる左馬刻の後ろにはあの子が居る。私と目が合うといつも小さく会釈するのが一郎。カウンターの端に並んで座って、一郎は酒も飲めないのに左馬刻に付き合う。不憫に思って店主の私が勧めても一郎は頑なにコーラを飲んだ。
「こんなセンパイに付き合わされて、かわいそ」
「悪いこと教えるような奴よりマシだろ」
「ほいほい誘いに乗ったのはどこのどいつだよ。一郎はえらいねー」
「――いや」
「こいつ変なとこマジメなんだわ。酒も煙草もやりたきゃやりゃあ良いのに」
「駄目だよ。こんなセンパイの言うこと聞いたら」
左馬刻は変わった。
身長はアホみたいに伸びたし、腕も足も私が知っているよりずっとたくましくなって、声も少し低くなった。なによりも雰囲気が違う。
中学の屋上で横に居たときは、静かだけど刺々しくて漠然と冷たく感じた。他人に関心が無くて見えない線があった。言葉にされなくても、お前はここまで。そんなふうに言っていて、たぶん左馬刻は無意識に人を選んでいる。
一郎と居る左馬刻は楽しそうだ。
よく話しかけるし笑うし、可愛がっているんだって誰が見ても分かる。あのとき隣に居た人間か疑わしいくらい左馬刻は柔らかい目で一郎を見て、満足そうに酒を飲んだ。私が感じていた境界線は無くて、むしろ左馬刻はそれを自ら飛び越えて一郎に歩み寄っているように見えた。不器用で、どことなく生きるのが上手くて、下手そうな一郎を手招く、というか強引に引っ張って、まるで仲の良い兄弟みたいに。
昔よりもずっと、美味しそうに煙草を吸っている。
私と同じラキストじゃなくてセッターだった。初めて少しだけ、悲しいと思った。本当に少しだけ。
それが独りよがりだと分かっている。私はまだ、空っぽになれるあの屋上が恋しかった。空白の時間に、もう左馬刻はいない。置いて行かれた。そんな卑屈な気分が一瞬芽生えた。
「お前が言うなっつの」
笑みに煙が混じって消えた。私のしょうもない感情も一緒に消された。清々しいほどに。左馬刻に同意を求められて一郎が困ったように窘めると、大して面白くもないのにカラカラ笑う。
「あんたこそ、先輩には敬語使えっての。ねー一郎?」
珍しく私が話を振ったから一郎はあたふたして、私と左馬刻は笑った。私は、屋上の時間よりもこの時間が好きになる。
なにかがこの身体に満ちていく感触がするのは初めてだった。
私は変わったと思ったけど、左馬刻はもともとああいう性分だったのかもしれない。昔の左馬刻はそれをずっと閉じ込めていたのかも。一郎と左馬刻を見るたびにそう感じた。だって、私の横に居たときの左馬刻より今の左馬刻の方が、なんというか、しっくりきた。
何ヶ月も一緒に居るうちにそんな気がして、でもそんな想像も揺らぐことがあった。
恋は人を狂わせると、聞いたことがある。
「――悪いこと教えてんじゃん」
店を閉めて帰る途中、路地に見た人影は一郎と左馬刻でぴったり寄り添っていた。人目を憚っているくせに、響く音に構いもしない。
キスをするふたりは、世界を閉じて互いの感触に没入して私も飲み込もうとする。視線はなかなか逸らせないけど、きっとそれすらあいつらには邪魔だろうから無理に引き剥がして帰った。
結局左馬刻が変わったのか変わってないのか、はっきりしない。でも、一郎が居て左馬刻が満たされているのは紛れもない事実だ。
次に来たときに突いてやろう。そう決めた。
でも楽しみにしていた次は、来なかった。
「どうしたの? 店閉めたけど」
店の施錠をしているとき、気配を感じて振り向くと左馬刻が居た。
「なんとか言えよ」
煙草を咥えて突っ立っているだけで、左馬刻は返事をしない。後ろで街灯が煌々と光るせいで表情が見えなくて、苛立った私は左馬刻に近づいた。溜息も出なかった。見てしまった瞬間、街並みは揺らいで景色はあの屋上に変わってしまった。
「一杯出すよ」
鍵を開けて店に入る私に左馬刻は黙ってついて来る。照明をつけたのと、左馬刻がいつもの席に座ったのは同時だった。ボトルとロックグラスをふたつ持って、私は左馬刻の隣に座る。あの屋上のときと同じように。左馬刻は今、屋上に居るから。
注いだウイスキーを見下ろすだけで口は付けない。左馬刻の煙草の煙がもくもくと膨らんだ。私は一口飲んでから煙草に火をつけて左馬刻の煙を押し流した。
「ねえ」
思えば左馬刻になにか聞いたのは初めてだ。
「一郎は?」
「うるせぇ」
小さいくせに店によく響いた声に苛立った。
「別れたの?」
「喋んじゃねーよ」
紫煙が混ざって、ぐらぐら揺れる。
「じゃあなにしに来たんだよ」
煙草を消して左馬刻の方を向いた。左馬刻はフィルターを焦がす煙草を指に挟んだまま、ひどくゆっくり私を見た。赤い両目は穴みたいだった。ぽっかり空いた穴は深くて、底が暗い。作り物じみた男が、本当に作り物のようになってしまった。
「いいよ」
たった一言は思考を通らずに私の口を勝手に突いた。言ってしまった、そう言う後悔は不思議と感じない。左馬刻は動いた。私はそれを受け入れた。無駄な足掻きだと分かっている。
熱くて、痛い。身体が分かるのはそれだけ。
声は出さなかった。これはただの排出だから。ただ精液は二の次。
痛くて痛くて、身体を刺すこの痛みは獣に噛みつかれたみたいで、熱くて、皮膚に浮かんだ汗は血なんじゃないかと錯覚する。全部、左馬刻の叫びだと思う。
獣じみているのに、左馬刻はとても人間らしかった。こいつを突き動かしているのは性欲ではなくて絶望に歪められた感情だけだから。悲しみか、怒りか、私には分からない。でも皮膚を引き裂こうとする、感情だ。出さなきゃ死んじゃう。こんなふうに左馬刻の人間らしさを垣間見るなんて、皮肉だ。もっと、違うところで見たかった。
吐き出して、スッキリしたところでなにも解決しない。肝心のものは穴の底にこびり付いて出ていってくれない。でも、こうしなきゃ人間の形を保っていられないんだ。
ここは屋上じゃない。私の店でもない。地獄だ。
これが地獄じゃなきゃ、なにが地獄なのか教えて欲しい。私にも左馬刻にも等しく降りかかる地獄で、無様に踊って誤魔化している。どうしようもなく私たちは人間だった。膨らんでしまう自分の感情を、上手に始末できない。叫びたい。でも咽喉が焼けついて閉じてる。
思い出したくもない汚いフェンスと、私を吸い込もうとした空が見えた。
私はきっと、あの屋上で左馬刻に恋をしていた。再会したとき嬉しかった。同時に隣が私でないことに落胆もしたけど、でも左馬刻が幸せそうだったから私は本当にそれで充分だった。恋じゃなくて、親愛に近づいていたんだと思う。
そう、言い聞かせていた。この地獄は私にそれを賤しく教える。こんな痛くて辛いだけの行為は悲しいのに、どこか喜んでいるんだから。左馬刻は苦しんでいるのに、最低だ。
また私は言い聞かせた。
私は同じ地獄に居ない。私が居るのはあの屋上だ。ずっと前から。
左馬刻と同じ地獄に居るのはたぶん一郎だ。
がつがつ揺さぶられながら、そうであって欲しいと願う。こんなふうにしてしまったのなら、せめて同じ地獄で苦しんでいて。私は屋上から、それを見てるから。
煙草の煙が目に滲みた。