変化 「アイク!俺野菜やだってば!」
ルカは、アイクが夕食用にと買ってきた弁当を見てそう叫んだ。
「そう言っても出来合いのものなんだから野菜が入っているのは仕方がないでしょ?いつも言ってるけど野菜は食べたくなかったら食べなくていいから」
アイクはルカの野菜嫌いをもちろん知っているし、こう言われることもわかっていた。けれど、アイクには出版社で行われた打ち合わせがいつも以上に長引くことも、夕飯を買って帰ろうと立ち寄ったルカのお気に入りの弁当屋に野菜だらけの弁当しか残っていないことも想定外だったのだ。そしてアイクは想定以上に伸びた打ち合わせで心も体も疲弊していたので他の店を探して買いに行くことができなかった。
「アイクどうしてこんな意地悪するの…別れる!」
もちろん、アイクは決してルカに意地悪しようと思ったわけでもルカの好みを忘れていたわけでもなかった。
「意地悪してるわけじゃないよ、ごめんね、お店にこれしかなかったんだ。今度は違うお店も見てみることにするよ」
拗ねてぷいっとそっぽを向いてしまったルカにそう声をかける。するとルカは──
「んー、それなら許す!」
必ずアイクの大好きな笑顔を向けてくれる。
ルカが嫌なことがあるたびに「別れる」と言うのは、付き合ってからよくあることだった。本気でそう思っているわけじゃなくて、冗談で言っているだけというのはもちろん分かっている。少し拗ねてしまっているだけなのだ。そういう…言っては悪いが子どもっぽくて純粋なところや、恋愛に不慣れで初々しいところもルカの魅力の一つだった。それに、アイクが折れてこうして言えば、ルカは今目の前でそうしているようにアイクの大好きな笑顔を見せてくれる。ルカの笑顔に比べれば一回の「別れる」なんて言葉はほんの小さな傷でしかなかった。
けれど。小さな傷が心に沢山ついて、ついて、気づかぬうちに傷同士がくっついて一つの傷になって…そしてどんどん大きくなり、初めは些細な傷だったはずなのにとうとう心を割くまでになってしまった。
アイクがそれに気づいたのは、ルカのいつもの「別れる」という言葉を流せなかった時だった。
いつもだったら自然と作れる笑顔も作れず、流せる言葉も流せず、アイクはルカがまた「別れる!」と言ってそっぽを向いているのをただただぼーっと眺めていることしか出来なかった。それまでいつものようにふざけ半分で騒いでいたルカも、普段と違うアイクの様子を感じとったようで、ついさっきまで吊り上げていた眉尻を垂らしてアイクの名前を呼びながら様子を伺っている。けれど、それすらもアイクの目には入らなかった。
「……わかった、別れようか」
生気のない目で、ハリのない声で、アイクはそう呟く。沈んだ心にはいつも元気いっぱいで明るく、アイクの心を照らしてくれるルカの姿は眩しすぎた。自然と顔は俯いている。
「じょ、じょうだんだよ、冗談!いつもの冗談だよ、ね?アイク…」
「ルカはずっと冗談のつもりで言ってたんだとしても…だとしても、別れるって言われると…傷つくし悲しいんだよ。僕もう疲れちゃったよ」
「アイク、ごめん、いっつも俺…もう、言わないようにする。アイクのこと、もう傷つけたくない。もっと大切にする。まだ、俺のこと好き…?もう嫌いになっちゃった…?別れる?」
ルカがそう言う頃にはアイクの脳も幾分かはっきりとしてきていて、共に過ごしてきた幸せな日々が脳裏によぎっていた。それらを思うと、たったこれだけのことで別れてしまうなんて浅はかすぎる、とはっきりとした脳は結論を出した。月並みだけど、ルカといるとどんな些細な日常も特別で幸せで尊いものになった。これからもずっと彼の隣りにいたいと思ったし、彼に隣りにいてほしいと思った。辛いことは分け合って、楽しいことは倍にして、そうして手を取り寄り添い生きていきたい。その気持ちを思い出したアイクは、まるで体中の血が入れ替わって新しく生を得たような感覚になった。
「…好きだよ、嫌いになんてなれない。こんなことで離れたくない。もう、僕のこと傷つけないでね」
アイクはようやく自分の表情筋が動き出したのを自覚した。視界が潤んで、眼鏡を外し目元を拭う。泣くつもりなんてなかったのに。ルカと別れて一人で生きていくことを考えたら止めることなんて出来なかった。
ぎゅぅ…っと強い力で未だ流れる涙ごと閉じ込められる。ルカの広くて暖かくて柔らかい胸の中だった。ぎゅうとくっつけるように眼鏡は手に持ったまま、ルカよりも強い力で抱き返して、頬に擦り寄る。ルカは頬ずりを返すのではなく、アイクに負けじと力を強めて抱きしめ返した。アイクはその力の強さに、場違いながら骨が折れてしまうのではと己の身を案じたけれど彼のこの腕の中で死ねたらそれはどんな最期よりも穏やかに眠れるだろうなと思った。
ルカが変わってしまったのはこの日だったんだと思う。