サイケデリック ●
今日も空を見ている。飽きずに空を見ている。
目が見えるようになって、空を見慣れたら、「空が綺麗」だなんてはしゃがなくなると思っていた。大体の人間が、大人になればいちいち空なんて見上げなくなるなるように。しかし相変わらず、侠太郎は今日も空を見ている――「遠くで雨の音がするから、虹が見れるかもしれん」なんて言って。
「伊緒兵衛」
ノックの直後にドアが開く。ノックの概念を何度説明したことか。分かっている上で「なんで待たなアカンねん」と、彼の故郷の言語で言う『イラチ』な性分がそれを無視する。
「はい?」
執務机から顔を上げた。室内には入って来ず、ドア枠にもたれている侠太郎がいる。
「虹出とる」
「そうですか」
「虹出とる」
一度目の言葉は報告。だが二度目の言葉は「ねえ聞いてる?」というニュアンスで強調されていた。
「虹がどうかしましたか?」
半分、その『強調』の意図は汲み取れているけれど。念の為に尋ねた――案の定、汲み取れた意図の通りの答えが、返ってきた。
「見に行くぞ」
折角や、いっちゃんええとこで見よや。
そう言って、なんの遠慮もなく伊緒兵衛を片腕で担いで、窓を開けて――重力なんてないかのように、吹き上がる風のように、侠太郎は邸宅の壁を駆け登った。
いくら異能の再生があるとはいえ。命綱は侠太郎の腕一本。落ちたら絶対に痛い。重力が普通に生きてたらかからない方にかかって、本能的な、臓器が窄まるような心地に襲われて、一瞬呻いた頃にはもう、屋根の上だった。
……なんというか。テレビで見た、ヒョウとかチーターとかの親が子供を咥えて木に登る映像を思い出していた。
「脚滑らすなよ、なんやったらおてて握っといたろか」
水平ではない屋根の上に降ろされる。後半の冗句には(頷けば本当に握るんだろうが)「結構です」と答えた。
「ほら、あっち」
侠太郎が視線を彼方へ、作り物の指先で指し示す。顔を上げた――薄い雲を背景に、大きな虹の架け橋が。欠けもない、見事な七色だった。
「な! 綺麗えやろ」
きれえ、と独特の訛の声。青年は笑って、本当に楽しそうに心から笑って、虹に目を細めている。傷のない横顔。遠くから吹く、雨上がりの湿った風。濡れた緑の香り。棚引き流れる白灰の雲と、ただ静かに在る朧な七色。
「……そうですね」
毎度。虹が出る度に外に連れ出される。毎度。隣で侠太郎は綺麗だ綺麗だと目を輝かせている。飽きずに眺めて、屋根から下ろしてくれそうにない。
「君はいつか、虹の足元を探しに行きそうですね」
呟く。いっそ遠くへ行ってしまえと心中で重ねたその言葉に、あっけらかんとした笑い声が返ってくる。
「俺がガキの頃なら行っとったな!」
あはははははは――年齢で言うと爺の癖に、本当に、少年のように笑う。笑っていた。笑い飛ばしていた。
●
きっと、昼間に虹を見たからだ。
変な夢を見た。
「獲った獲った! はよ来い!」
霧の向こうから侠太郎が声を張り上げる。これは夢だなぁとぼんやり自覚しながら――しかしほとんど勝手に体が動く――そちらに向かえば、なんというか、なんだこれは、侠太郎が二メートルぐらいの虹を絞め上げている。虹は打ち上げられた魚のようにビタンバタンと暴れている。なんだこれは? なんなんだ???
「そこの杭拾ってくれ! 黒いやつ!」
侠太郎がそう言うので、何がなんやら意味不明なまま、彼の足元に落ちていた黒い杭を差し出した。次の瞬間、侠太郎が虹の、ちょうど黄色と緑の間に杭をドカッと突き立てる。虹がくたりと脱力して動かなくなった。ああ、あそこが急所なんだなぁ、と夢特有の謎の納得が胸に込み上げた。
虹を離した侠太郎がトランクを無造作に置く。ナイフ片手に虹を解体し始めながら――
「虹を殺すんは無論禁忌や。この罪は消えんが金になる」
その呟きの直後。
解体されていく虹が、『別のもの』に見えて、
――波の音が聞こえた気がした。
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なんや疲れた顔しとるのう。どないしたん、寝れへんかったん?
ああ、いえ。少し……、少し、変な夢を見ただけです。
変な夢?
侠太郎さんが虹を捕まえてたんですよ。魚みたいに暴れてる生きた虹を、こう……素手で。
あはははは! なんやそれえ! そら確かに変な夢やのう!
ええ……本当に。侠太郎さんも何か夢を見ましたか?
俺? 俺あんま夢見ぃへんからな〜……。
眠りが深いんでしょうね。
そうなんかのう。
……パンのおかわり、食べますか?
食べる!
『了』