あれから。●1班
20XX年、令和と呼ばれる時代の東京。
窓の外には入道雲、ビルに囲まれた青い空。小ぢんまりとしたアパートの一室は、エアコンのおかげで涼しい温度。
奉一は視線を窓から正面手元へ戻す。父から受け継いだ猟銃の手入れの最中ゆえ、分解されたパーツがそこに広げられていた。
――父が『これ』をしている時、横で見るのが好きだった。そうして見ている内に、教わらずとも銃の構造を覚えていった。一人で初めて分解と組み立てができた時、父の大きな掌に撫でてもらえたのが、あの時は本当に嬉しかった。
あれから何年経ったか。何度この行為を繰り返したか。この銃と共に故郷を出てから約七十年、『人魚/ざんのいお』の呪いの血を受けて老いることのなくなった奉一は、今はUGNの協力関係オーヴァードとして生きている。表向きは猟師として、チルドレンやエージェントの訓練監督を担っているのだ。
尤も、今日はその仕事もない日。だが休みだからと何もしない奉一ではない。起きたら寝間着から着替えるように、風呂から上がったら濡れた体を拭くように、銃の手入れは彼の生活習慣の当たり前な一つであった。
――今回の整備も無事に終わり。
道具を片付け、銃をケースに収納し、立ち上がる。そうすれば奉一の視界に入るのは、ソファで昼寝をしている伊緒(伊緒兵衛という名が古風すぎるので改名した)の姿。
「――……」
穏やかな寝息、フヌケた寝顔、だらけた寝相。足元には書類がばさばさ落ちている。さしずめ、これを読んでいる間に眠くなったのだろう。散らばってて邪魔なので、奉一はそれらを拾い上げる。どうやらレネゲイドウイルスに関する論文のようだ。奉一と同じくUGNと関係を持つ伊緒は、その知識を存分にUGNで発揮して貢献している。
拾ってまとめた書類はソファ側のローテーブルへ。面倒臭いのでページを整えるまではしない。……と、その時だ。
「奉一」
伊緒が名を呼ぶ。起こしたかと思いつつ「ン?」と奉一は振り返った。が、伊緒はしっかり目を閉じていた。
「それは醤油じゃない……? ちがう……XO醤なの……?」
寝言らしい。そのまま眠りこけ続けている。また飯の夢でも見てるんだろう、奉一はそう思った。平和なことだ。……そしてその感情に、平和ボケを咎める意図は欠片もなくて。むしろ、フッと鼻で笑った。
「ねえ奉一〜……」
また寝言をモニャモニャ言っている隣人の顔は、共に暮らし始めた七十年前から一切老いてはいない。だがその表情はあの時から変わり続けている。なんというか、昔より鮮やかになった気がする。
……風邪を引かれても面倒臭いので、奉一は寝室からタオルケットを引っ張り出すと、伊緒の体にかけてやった。
(さて……散歩にでも行くかな)
東京の暑さにも、すっかり慣れてしまったものだ。寧ろ伊緒の方が音を上げている。机上のリモコンで、24度にされていたエアコンの温度を容赦なく28度に戻すと、奉一は気ままに東京の夏空の下へと出かけていった。
――今日も悪くない日だ、今のところは。
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●2班
「ぬはははは」
平和な笑い声が居間から聞こえてくる。家事を済ませたあざみが玉暖簾を潜って居間に戻ると、コタツでぬくぬくしながら伊緒兵衛がテレビを見ていた。
「あぁ、あざみさんご苦労様です。おやつにしましょうよ」
ほらこっちこっち、とねだってくるので……あざみはその通りにすることにした。あたたかいコタツに入って、ふう、と一息を吐く。
「何か食べたいものは?」
伊緒兵衛が聞いてくるので、あざみは少し考えた。ぜんざい、がパッと頭に浮かんだけれど、どうせならここでは普段食べられないようなものを食べたくて。そうして記憶を辿れば、初めて東京に行った時に飲んだ『あの飲み物』。
「……クリームソーダを」
久々に、あれが飲みたいな、なんて。
――復讐を果たしたあの日から、それなりに時が流れて。
あざみは伴侶を得た。子供を授かった。又鬼は続けているが、今はどちらかというと育児に専念している専業主婦に近い。人並みの、普通の幸せを自分が得られるようになるとは、思ってもみなかった――人生とは不思議なものだ。
なお、遅い昼下がりの今、二人の子供は隣町の小学校に通っている。旦那も仕事に出ている。
ではなぜ伊緒兵衛が家にいるのかというと。
彼は時たま、東京から山菊家へと遊びに来るのだ。特に年末近くになると、結構長い間、居る。
それはまるで実家への帰省のような。……なお、家賃代わりなのか、滞在中は食事を全部作ってくれる。それもとびきり豪華なやつだ。(ちなみに異能のことをそれとなく家族には伝えているから、夫や子供達はそれらを内密にしてくれている)
(……うちを、我が家みたいに思ってくれてるのかな)
目の前に、魔法のように出されたクリームソーダ。実際、魔法みたいなものだ。しゅわしゅわ泡立つメロングリーンから、あざみは上目に伊緒兵衛を見る。頬杖を突いて、テレビを見て、フハッと笑っている平和な横顔が見えた。
――この無間の旅人の、終わらない旅路の小さな止まり木になれているのなら。「よかった」、とあざみは思うのだ。クリームソーダを一口。甘く弾ける、あの時と変わらない味……。
「おっと、そろそろお迎えの時間だ」
時計を見た伊緒兵衛がスッと立ち上がる。ここにいる間の彼の日課の一つ、バスで帰ってくる子供達のお迎えだ。彼はあざみの子供達を溺愛していた――まるで初孫を前にした祖父のように。
「いつもありがとうございます」
「なんのなんの。君はそこでクリームソーダを飲んでまったりしていたまえ」
そう言って、伊緒兵衛はコートを羽織り、中折帽を被った。洒落た性格をしている彼は、ちょくちょくコートや帽子を新調している。
「どうも。……いってらっしゃい、外、寒いから気を付けてくださいね」
「は〜い」
手をひらり、伊緒兵衛はニマリと笑って出かけていった。
残ったあざみは、つけっぱなしのテレビを漫然と見ながら、甘いクリームソーダを堪能していく――あったかいコタツの中で食べる冷たいアイスの禁断的な贅沢を知ることができたのは、あの胡散臭いが親切で義理堅い『変な』男のおかげで。
――窓の外にはさざれ雪。
今日も平和だなぁ、とあざみは優しく目を細めた。
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●3班
もっといい男になってから出直しといで。
あの時の言葉が、ずっとずっと、銀次の中で響いている。
村で過ごしていた時も。過疎化から閉村が決まって上京してからも。伴侶と出会ってからも。子宝に恵まれ、父となってからも。
思えば、銀次の人生で『いい男』というのは一種の指標になっていた。この発言は胸を張れる『いい男』の判断だろうか? このふるまいは? そんな自問自答が銀次の人生を研磨してくれたのは確かだ。『いい男』でありたいという道標が、銀次を導いて――「ほら背筋伸ばせ」「うじうじ下向いてんじゃねえ」「虚仮威しでも良い、ニッと笑え」「ビビるな、前へ進め」――まるで、いつも隣に伊緒兵衛がいるかのように。
そのおかげだろうか。人付き合いが苦手でずっと独りだった銀次の周りには、今は人がたくさんいる。家族がいて、友がいて、知人や同僚がいる。人の縁には恵まれた方だと思う、誰も彼も親切で、気の良い連中だから。
……かつては生きることが罪だと思っていた。自分など死ぬべきだと思っていた。だが今は断言できる。生きていてよかった、と。
目を閉じていたのは数秒。しかし思い返すことは幾星霜。
銀次は目を開けた。東京の黄昏時の賑やかさ。改札前の彼は腕時計を見る。時計なんて時間が分かればと安いのを買おうとして、伊緒兵衛にケツを叩かれ時計屋に引っ張り込まれ、物凄いのを買われた――それは今もこうして寸分違わず時を刻んでいる。時代を選ばない品のあるデザインは、若い頃は瀟洒すぎて不相応だと思っていたが、今になれば程よく手首に馴染んでくれたように感じる。
――待ち合わせ時間まで五秒前。カウントダウン、銀次はゼロで顔を上げた。
「よ〜う銀次、元気か?」
喫煙に対し世間が厳しくなった今、彼の咥え煙草姿もめっきり見なくなった。改札を潜った伊緒兵衛が――今は伊緒と名乗り、UGNの協力の元で学者をしている――あの頃の姿のまま、一秒たりとて老いぬまま、銀次の前に立っている。
「それなりにな。伊緒兵衛は?」
「今日は飲めるからご機嫌さ。行こうぜ」
今夜は久々に飲もうやと約束をしていたのだ。二人は並び、東京の夜へと歩きだす。
「孫が生まれるんだって?」
伊緒兵衛が言う。銀次は頷いた。
「あぁ、男の子らしい」
「銀次もとうとうおじいちゃんか〜」
その言葉に、銀次が老いたことへの寂寥はなく。寧ろ未来への喜びがあった。
銀次はその横顔をちらと見る。傷痕の消えた左目で。老いぬ横顔の向こう側、賑やかで眩しい東京が見える。
銀次は、一瞬浮いた言葉を飲み込んで、静かに微笑んだ。
――「なあ伊緒兵衛、自分は『いい男』になれただろうか?」
その質問は未だ、最後の最後に取っておく、とっておき。
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●4班
生まれてこの方、悠人は村から出たことがなかった。ずっと復讐に生きていたから……村から出る選択肢がなかったのだ。
それが今、緊張しきった手で荷物を抱え、バスに揺られている。流れ行く車窓の景色は、悠人にとっての未踏の地。
今から悠人は東京へ赴く。バスを乗り継ぎ、汽車を乗り継ぎ……長い旅になる。
果たして無事に辿り着けるだろうか。途中で迷ったり、汽車に乗りそびれてしまったらどうしよう。そんな不安と戦いつつ、しかし田舎者と周りから笑われたくもないので、表情だけは毅然として、彼は座席に座っていた。
かくして――
どうにか悠人は東京へと辿り着いた。
ずっと気を張り詰めていたからか、実時間以上に長く感じた……寝過ごしたらどうしようという思いから寝台列車でもなかなか眠れなかったが、悠人は眠気を感じていなかった。それもそのはず、駅から出て目の前に広がっていたのは大都会東京の凄まじい景色で。
(建物が大きい……! 人が多い……! 騒々しい……! ここが東京……)
呆気にとられ、好奇心のまま、右を左をキョロキョロ。ついつい辺りを探索したくなってしまうが、駅前で伊緒兵衛と待ち合わせなのだ。土地勘もないのに変にうろついて迷子になって会えずじまいでは笑えない。それに、これから伊緒兵衛に東京を案内してもらうのだから。
ので、その場でグッと好奇心を抑え――悠人は時計を見上げた。遅れてはいけないという真面目な気持ちから、待ち合わせ予定の30分前に到着していた。
――絶対に会いにいく。彼が寂しさを感じないよう、たくさん、たくさん。
あの雪晴れの日、悠人はそう心に決めたのだ。その日が今日。久々に伊緒兵衛に会える。あの村で別れて以来だ。楽しみであり、緊張もしている。
(少しは……大人になれたかな)
あれから。悠人は村人と積極的に関わり、村の一員として暮らすようになっていた。自然と人間との調和を保つ又鬼としての務めを、立派に果たし続けている。村人はそんな悠人を快く受け入れて――いいや、ずっと、受け入れ続けてくれていたのだ。今の悠人には、それが分かる。
そうして同時に思うのだ。復讐を果たし、己の命を支えている愛と希望に気付いたからこそ、こんなに世界は広くてわくわくするものなのだと。昔の悠人だったら、この東京の景色を、ガチャガチャしてうるさくて汚くて不愉快だ、と顔を背けていただろう。
――嗚呼、もっと知りたいなあ。悠人は心からそう思った。幼くして、村の外を知らないまま散った双子の姉の分まで、もっといろんな世界が見たい。いつか自分が天命を全うして家族の元へ逝った時、たくさん土産話ができるように。
東京の景色を眺めているだけで、時間はあっという間に経って。
「おーーーい、悠人~」
あの声がした。雑踏の中でも聞き逃すことはなかった。
「伊緒兵衛!」
人混みの中から手を振ってこっちにくる男へ、悠人は目を輝かせる――気付けば駆け出していた。
ああ、何から話そうか。話したいことがたくさんある。聞きたいこともたくさんある。行きたい場所も、知りたいことも、山ほどある。
だけど今は――再会が、純粋に嬉しくて。
初夏の東京。
瑞々しい葉桜が薫風に揺れて、太陽にキラキラ輝いている。
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●5班
牡丹にとって生まれて初めての東京の日々は。
驚くほど、あっという間に過ぎ去った。
日数を数えれば、決して短い期間ではなかった。東京のあちこちを伊緒に案内してもらい、目にする全てに目を輝かせ、口にする全てに感動し、知るもの全てに驚嘆した。牡丹にとって、何もかもが未知で作られ都市、それが東京という新世界だった。――だからこそだ、『あっという間』だったのは。
「――必ず、また来るから」
東京駅構内、汽車が間もなくやってくる。牡丹の手荷物は、お土産で来た時の倍になっていた。
「うん、待ってる」
牡丹の目の前には、優しく微笑む無二の友。ぎゅ、と牡丹の手を握った。
「牡丹。帰り道、気を付けてね」
「あぁ。伊緒も……元気で」
言いたいことがたくさんあるはずなのに、なんだか上手い言葉にならなくて、牡丹は視線を惑わせた。「ありがとう、世話になった」「とても楽しかった」「また来るから」「何かあったら電話して」「手紙書くから」――言うべきことは渋滞するだけで、形にならなくて、喉につかえる。
「伊緒、その……」
「うん?」
「……本当に、ありがとう」
ようやっと口をついたのは、ありふれたお礼で。たった5文字では込めきれない想いがあるのに、牡丹にはそれを具象化させられなくて。
だけど伊緒は、その意図を汲みとってくれていた。ただのおざなりなお礼じゃないことぐらい、分かっていたから。
「うん! こちらこそ。ありがとう、牡丹」
――そうして無慈悲に汽車が来る。永遠にも思われた待機時間に終わりがくる。
「じゃあ……またね」
伊緒がちょっぴり寂しそうに、でも微笑みのまま、握っていた手をゆっくり離した。そうすれば牡丹の手に、体温の残滓がゆっくり溶けていく。
「伊緒……っ伊緒、またね、また来るから、楽しかった、ありがとう、絶対また来るから」
乗車しゆく人の流れに押し流されつつも、牡丹は精一杯の声を張った――どうにかこうにかの言葉を、どうにかようやっと紡ぎながら。
伊緒が、手を振る伊緒が遠ざかっていく。乗車した牡丹はすぐ、車両の窓辺に駆け寄った。硝子の向こう、伊緒のくりくりとした目がじっと牡丹を見つめて、手を振っている。
「また来るから、約束だ」
声が聞こえているか分からない、それでも、牡丹はそう言った。そうしたら伊緒は、「待ってるよ」と唇の動きで返してくれた。
汽車が動き出して、彼我が見えなくなるまで、二人は同じ言葉を繰り返し続けた。
――座席に一人、牡丹は荷物を抱き寄せる。
楽しかった。こんなにも楽しいことが、この世にあったなんて知らなかった。
そして同時に省みる。「復讐を果たした後はどうなったっていい」――その言葉通りに自らの命を燃やし尽くしていたら、この喜びを決して知ることはなかったことを。
全ては……今、生きているおかげだ。
そして。
今、生きているおかげで、別れの寂しさと切なさを、今、知ったのだ。
その寂しさは心がぎゅうっとするけれど……きっと、こんな「また会いたい」のあたたかな切なさを、絆と呼ぶのだろう。
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●6班
「はあ゙……」
溜息と共に、権之助は東京の真っ昼間を歩く。トボトボ、分厚い巨躯をしょんぼり丸めて。
「明日から仕事どうすんべ……」
独り言の通り――権之助はついさっき、仕事をクビになった。ある洋食店に勤めていたのだが……そこの客に目付きが悪いだの言葉が汚いだのケチをつけられ……仕舞いには足を引っ掛けられそうになったので、逆に相手の足を踏んでやったのだ。で、そこからドッタンバッタン大乱闘。カンカンになったオーナーから「テメ〜はクビだ! 今すぐ出てけ!」と言い渡されたワケでして。
……嗚呼、情けなや。幾度目かの溜息。専ら寝ることにしか使っていない安い狭いアパートに帰還。と、そこで。
「……ん?」
郵便受けに差し込まれている手紙に気付く。気取った紙、ふわりと漂うのはこれまた気取った香り。
伊緒からだ。
権之助は急いで部屋に戻ると、太い指で華奢な手紙の封を破いた。
『明日の昼、いつもの店で』
流れるような美しい文字。丁度良い時に! 権之助は口角をつった。
――かくして、翌日。
昨日とは打って変わって意気揚々、権之助は東京を歩く。上京祝いにと伊緒がテーラーで仕立ててくれた上質なスーツ、それに見合うピカピカの革靴。後ろ姿を見れば、さながら良家の御曹司。
からんころん、ドアベルを鳴らして喫茶店に入る。いつもの席に、煙草を咥えた麗人が座っているのが見えた。
「どうも」
「ああ、お久しぶりです」
権之助が向かいの席に座れば、伊緒が顔を上げて微笑んだ。
「それで?」
待ちきれないと言わんばかりに権之助が問えば、伊緒はニコリとしたまま鞄から資料を取り出した。
――それは、超常現象に関する資料。伊緒は自らの呪いを解く為に、古今東西の超常現象について調べている。今日のこれも、その一つ。
「今回もついてきてくれますか?」
もちろん今回もタダでとは言わない。伊緒の申し出に、権之助は食い気味に「おう」と笑った。
「丁度クビんなったとこでよ、次の仕事見つかるまでのまとまった金が欲しかった」
「あらら、それはそれは……まあ、次こそ良い職場に出逢えるさ」
それから、「今回もよろしく」と伊緒は一礼して。メニューを権之助の方に差し出した。
「今日は奢ってあげよう。好きなのをお食べ」
「!! それじゃあ――」
何にしようか。いそいそ、権之助はメニューを覗き込んだ――。
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●7班
「いいですか。長くても20年前です。特に君は村の方々と関係が長いから、それだけ老いないことに気付かれる可能性は高いですよ」
そんな伊緒兵衛の忠告を胸に、清志郎は村で又鬼として過ごしていた。
そして、15年目。
とうとう「米田さんいつまでもお若いわねえ」と何気なく村人に言われたので――ああ、ついに来たか、潮時が。
引っ越しの為の準備は前もって進めていたから、手間取ることはなかった。
世話になった人々へ挨拶に回って――必ず聞かれるだろう引っ越し理由については「東京の友人の仕事を手伝う為」と嘘ではない言葉を返し――別れを惜しむ人々の心、故郷での日々、原風景たる雪景色に、別れの寂寞が込み上げるけれど――
「お世話になりました。行ってきます」
人々に、故郷に、神おわす山に、そこに眠る先祖と家族に、深々と一礼を捧げて。
清志郎は、東京へと旅立った。
それから長い時が流れて――
「便利だねえ新幹線は」
令和と呼ばれる時代。真夏の空。入道雲。蝉時雨。携帯扇風機で首元を涼ませている、サングラスの伊緒兵衛――という名は古風すぎるので今は伊緒と名乗っている――が言う。
「おめさん前もおんなじことを」
手の甲で汗を拭い、久方振りの故郷を歩みながら、清志郎が答える。片手には地元のスーパーで買った仏花があった。
あれから……
清志郎はたまに故郷へ墓参りに足を運んでいた。東京から新潟まで新幹線が開通してから、里帰りがうんと楽になったものだ。そして毎度、伊緒は「便利だねえ新幹線は」と言っている。今年もそんな夏。
二人共、当然ながら令和に則ったいでたちだ。ポロシャツにハーフパンツにサンダルの清志郎、気取ったTシャツにジーンズの伊緒。村の人々も――もう村ではなく合併されて町になった――同様に、あの頃とは違った服装である。
墓へと続くこの道も、昔は地道だった。至る所がアスファルトで舗装され、近代的な家や建物が増え、電車だって開通して――昔と比べ、いろんなものが変わったけれど。この田園風景と山の景色は変わらないなあ、と清志郎はしみじみと辺りを眺めている。
――そしてほどなく、米田家の墓前へ。
草むしりをして、墓石を洗い、花を手向け、線香を立て――手を合わせる。昔は伊緒は墓地の外で待っていたが、今は隣で手を合わせてくれる。
心の中で、清志郎は家族を呼んだ。あれから――己がUGNという組織に加入し、様々なレネゲイド関連事件を伊緒と共に調査していることを報告する。
呪いを解く為の糸口は未だ見つかっていないけれど、自分達の調査によって数多の悲劇を食い止められているのなら……これからも引き続き、己達の為、人々の為、尽力していく心算だ。
(皆、どうか見守っていてくんだせ……)
いつものように、そう締め括って。
顔を上げる。夏の日を浴びた濡れた墓石はキラキラと、清志郎を応援するように煌めいていた。
「さてと……行こう、伊緒」
「ああ。お腹すいたな……お昼どうする?」
他愛もない会話。昔と違って敬語の抜けた言葉。蝉時雨の中を、呪われた男二人は朗らかに歩いていく――。
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●幻班
かつて『鬼』に噛まれた腕を見る。傷はとっくに完治してして、無欠の輪郭が青い目に映る。さする首も同じく。毟られかけた肉も、綺麗に綺麗に塞がっている。
そうして鏡に映るのは、数百年変わらない顔。老いないままの、時忘れの相貌。溜息を飲み込んだ。蛇口を捻る、冷たい水で洗う。
――彼ほど耳は良くない、しかし軽快でご機嫌な足音ぐらいは聞こえる。旧い邸宅の廊下の軋み、超常的な身軽さで階段を跳んだ音、軽やかな着地――二人だけでは余るほど広い食堂で、今朝も伊緒兵衛は彼と出会うのだ。
「おはようさん!」
俺の名前を言うてみい、俺は八代の侠太郎、誇り高き又鬼一匹、任侠漢氣の侠太郎様じゃい。――そんな彼の大見得を、いい加減覚えてしまった。そんな彼の、戦場でなければ陽気な笑顔が、伊緒兵衛を見上げている。
「ごはん食べよ!」
「ああ、……何がいい」
「パン!」
「パンはパンでも、」
「食べられないパンってな〜んだ」
「フライパン食べたいのか?」
「なんでやなん鉄分過多で腹壊すわ」
この早押しクイズ並に差し込まれるボケにも慣れてしまった自分が憎い。男は呆れた沈黙を返して――結局、ベーグルパンにハムと幾つかの野菜を挟んだものが朝食になった。それから牛乳。聖人が成す奇跡のように、食べ物は何もないところから現れる。
席に着いた。侠太郎は手を合わせ、伊緒兵衛は手を組んで、銘々の「いただきます」をして。「おいしいのう」「うん」とやりとりをして。
こんな朝も何回目だろうか。伊緒兵衛は侠太郎の顔を盗み見る。
あれから――もう、15年。
流石に……気付いた。期待しないよう直視しないようにしていたが、それでも、もう『異変』は明らかだったから。
「……呪われたな、お前も」
腹を括って、視線を手元のパンに落として、呟く――本来なら37歳、流石に顔に年齢が出はじめるというのに、いつまでも瑞々しく若々しい『青年』へ。
「せやろなあ」
最後の大きめの一切れをもふっと食べて、侠太郎はまるで動じていなかった。「まぁアレだけ『もろた』しの~~」と、悠長に頬張っている。
決して、伊緒兵衛が苦しんだ無間を軽んじている訳ではない。呪いの恐ろしさを理解した上で、その全てを呑み込んで、生き抜く覚悟をもう決めているだけだ。覚悟ができているから、動じない。それだけの話。
「……なら、」
男は、青い目を皮肉げに細めた。
「存分に苦しめ。味わえ。先は長い」
「おう! ――それだけようさん怪物をブチ殺せるってこっちゃあ!」
侠太郎は笑う、笑い飛ばす。いつだってそうだ。どんな悲劇も闇も笑い飛ばして蹴り飛ばす。そんな男だ。
縋れば――きっと――だが、そんな風に救いを求めるべきではない――相対する笑い声に対し、伊緒兵衛は沈黙していた。
侠太郎が今も盲目だったなら、やりとりはそこで終わりだったろう。しかし今は見ることができる――その瞳で。表情や仕草のわずかな機微を、見ることができる。
「ごちそうさん」、の言葉が終わって立ち上がって、その直後だった。侠太郎の五指の揃った左手が、伊緒兵衛の首根っこを掴む。
「朝っぱらからなぁにクサクサした面ぁしとんねんワレ ほらお日さん浴びてお散歩すっど 今日もええ天気や ついてこい」
自由奔放、問答無用。四の五の言わせる余地もなく、男を引き摺っていくのである。笑っている。かつて「覚えていろ」と言わた聖なる祈りの言葉の意味を――『罪深き我を憐れみ給え』――未だ無垢に知らないまま。
『了』