エピローグの少し後 ●
――『未来永劫、あたたかさの中で生きていくのだろう。』
カリ、とペン先が原稿用紙を掻いた音。開けっ放しにされた窓から初夏の薫風がやって来て、クリップで留められた『記録』の端々を蝶々のように揺らしていった。
外からは笑い声が聞こえる。普段は肚から出すような力強い青年の声は、歓びに上擦って、ともすれば少し幼くも感じた。
彼にとって、十二年ぶりの青空。空に世界に手を伸ばし、緑に花に触れ、雲の機微に歓声を上げ、陽だまりを浴びた邸宅の、屋根や窓の煌めき、陰影、太陽が創り出す世界に、本当に――嬉しそうにしている。幸せそうにしている。
男は、少し体を傾け窓の外の青年を見ていた。
かつては己も、あんなふうに命を心から謳歌していたんだろう。そして、この命は神から与えられ賜うた素晴らしいもので、神が創り賜うたこの世界はとても美しくて、色鮮やかに輝いていて――そう信じていた――だからこそ、その素晴らしさを伝えることは善いことなんだと布教の旅へ――海を渡って――
「うぐぁッ!」
過去へ沈みかけた思考を急浮上させたのは、青年の悲鳴。ぎょっとして、ペンが机から落ちるのも構わず窓辺へ駆け寄り身を乗り出した。
「おいどうした」
青年は両目を抑えて俯いていた。まさか手術が上手くいかなかったのかと男は目を見開くが――
「太陽めっちゃ眩しい〜!」
指の隙間から笑った目を覗かせて、青年は天真爛漫に答えた。ずっと闇の中に居たのだ、いきなり太陽なんか見れば目と脳が仰天するのは道理である。男は深々と息を吐いた。
「……まだ目が光に慣れていないんだ、しばらく眩しいものは見るな」
「は〜い」
少し目を休めろと室内に手招けば、青年は行儀悪く窓枠をひょいと跳び越え戻ってくる。太陽を直視してまだ目がチカチカしているのだろう、しおしお瞬きを繰り返している。
「目を擦るなよ」
「あいあい」
「ソファ、十時の方向に三歩半」
「おう、『見え』とる」
視力が回復したが、耳の異能が失われた訳ではない。男の気遣いに「おおきに」と、訛った感謝を伝えながら、瞼で目を休める青年はそこにどっかと腰を下ろした。
「あんな、金色やってん」
落ちたペンを拾っていた男へ、青年が声を弾ませる。男の青い瞳が振り返る。
「何が?」
「輪郭線や」
「輪郭線?」
「昼下がりの空って黄色いやん?」
「青色だろ」
「青やけど……なんか黄色いやん! 黄色いねん! 分かるやろ」
「はあ……それで?」
「うん! それでなぁ、全部の輪郭線が……昼下がりの黄色いお日さんで、金色にキラキラしとったんよ。すごかってん! 光の……縁取りが、細い細い光が……全部を包んでて……すごく……世界に細かぁ〜い砂金をまぶしたみたいな、自分の髪の毛ぇの色みたいな……キラキラしてたんよ。……こんなに、世界は綺麗ぇやったんやねえ。ええね、黒だけやない世界って……」
ろくろを回すように手振りをしながら話す青年の言葉は、しみじみと。男は黙ってそれを聞いていた。
「伊緒兵衛」
「なんだ」
「おおきになあ」
瞼を開けて、真っ直ぐな眼差しで、焦点のあった瞳で、青年は笑う。嵐の後の凪のような、霹靂の後の快晴のような。
「……珈琲淹れてくる」
男は顔を背ける。逃げるように部屋から出る。
なのに、彼はついてくる。
「珈琲淹れるとこ見たい! 見たい見たい見たい! 見してえな! 珈琲の色も見たいんよ!」
とか、きゃらきゃら笑いながら。
『了』