昔ちょっとやらかしただけさ ●
「――それじゃあハーブ、また明日」
「うん、またねカル〜」
行きつけのアイリッシュパブからの帰路、友人と別れる。コイントスで負けたから、今宵はカルヴィンが奢りだった。
暗い夜の路地を行く。
昼間に降った雨は、未だ路地の隅を濡らしていた。ほんのり湿った空気に、カルヴィンは故郷を思い出す。
建物に挟まれた空を見上げた。都会の、星が見えない暗い空。帰ってからのこと、明日の予定を、ぼんやりと考える。
そうして顔を前に戻した、その時だった。前から歩いてくる男が、コートの中から拳銃を取り出すのが見えたのは。
「赤のピトフーイ絡みか」
瞬間的な洞察。強盗ではない、通り魔でもシャブ中でもない、明確に『カルヴィン・リックウッド』を狙っている――ただのガンドッグが狙われるとも考え難い、ならば『組織』時代の、テロリストとしての自分を狙っているのだろう。
「サイレンサーつきの拳銃、この路地は車通りがないからドラレコに撮られることもない、身なりがいい……慣れてるな、この職業でそれなりにやってるのだろうか。うん、やや前方に重心がある。君は合理的な行動家。ストレスが溜まると散財するきらいがある……ああ瞳孔が揺れた。当たりかな?」
「随分とお喋りな男だな」
初対面の男に、この一瞬であらゆる情報を暴き出されて――動揺を隠すように、殺し屋は銃口を突きつけた。対し、カルヴィンは穏やかに笑って両手を上げる。
「恨まれる心当たりが多すぎて、君が雇われた理由が分からないな……まあ、罪なら自覚している。今日がその清算の時だということも。覚悟はいつでもできていた。今日みたいな日がいつか来ることを。……ああ、そうだ。君の、名前は?」
「名前?」
「冥土の土産だ、俺を殺す男の名前ぐらい、教えてくれよ」
「……」
普段なら――殺し屋が自分の名前をわざわざ口にすることなどなかった。というより、出会い頭に撃って、それで仕事は終わりのハズだった。気が付いたら殺し屋は、全く無自覚の内に、目の前の元テロリストの話に付き合っていたのだ。
「……イーサンだ」
「イーサンか……ヘブライ語の『強い』という意味を由来とする名前だ。いいね。じゃあイーサン、名前を教えてくれた最後の『ついで』だ……一服、いいか? 君、喫煙者だろう。一本恵んでくれよ。代わりに俺は命を差し出す、君は仕事を完遂できる……悪くない取引だろう?」
「……チッ」
なぜ喫煙者だと分かった? 殺し屋は妙な心地になりつつも、コートから煙草の箱とライターとを投げて寄越した。受け取るカルヴィンは――ヂッ、と火花を散らしてライターに火を点ける。
「ありがとう、イーサン。この火を見てごらん」
闇の中で揺らめく炎。男はそれを、目で追った。追って、離せなく、なっていた。無意識、反射、無我の中で。
「今夜は月が綺麗だ。見えないか? さあイーサン、空を見上げて、そのままゆっくり前に進みなさい。月が見えるようになるまで」
●
「――ええ、はい。私は、檻の中に居ないだけで囚人と立場は同じですから。『目を離した隙に死なれていた』なら……少々、面倒事になるでしょう。……ええ、分かっていますよ。……はい。では、よろしくお願いします」
通話を切る。あの殺し屋はほどなく逮捕されるだろう。
まだ贖いの只中だ。法律が己の死を定めたのならばそれに粛々と従おう、だがそうでないのなら、罪の清算が終わるその時まで、野垂れ死ぬ訳にはいかないのだ。死んで楽になろうなんて逃避、己自身が赦せない。やるだけやって死ぬなんて、そんな身勝手、受け入れられない。
(……ハーブと別れた後でよかった)
彼を、仲間を、己の罪に巻き込みたくはなかった。蛾が纏わりつく街灯を背に、黒い影を踏んで歩いていく。今は暗いこの夜も、いつか明けるのだと信じて進む。
帰ったら紅茶を飲もう。茶葉は何にしようか、――……
『了』