至る凪は未だ遠く ●
ようやっと病院にいなくてもよくなった。まあ、しばらく定期的に行かねばならないようだが。
そんな訳で、侠太郎は隣町の病院から村に帰ってきた。村唯一のバス停で、車両が停まる。
「侠太郎くん、ほら」
付き添いに来てくれた村の大人が、手を引いてやろうと無事な左手に触れるが――
「見えるからええです。……手え繋ぐなんてちっちゃいこみたいで嫌ですわ、恥ずかしです」
侠太郎は『見えないはず』なのに大人の手をひらっとかわすと、自分の脚でバスから降りんと立ち上がる。
「こ、こら! 危ないて」
「危なないですて、ほれ」
ぴょん。跳んで降りて着地。体は寧ろ、入院する前より身軽になっていた――異様なほど。
「……のう侠太郎くん、ほんまに見えとるんか?」
冷や冷やしている大人がバスから降りて、肩を回して伸びをしている侠太郎に問う。
「見えてますよ。おじさんここにいはりまっしゃろ」
伸ばす手は何の迷いもなく、大人の腹をツンとつついた。まだ目には、傷痕を保護する為の包帯が巻かれているというのに。
「せやかて……」
大人は言葉を詰まらせた。医師の診断では、侠太郎の両目は完全に損傷しており――視力検査でも「見えへん!」と少年は言っていた。しかし一方で、「先生ぇこれ何してはりますの?」と見えないはずなのに医者や看護師の方に顔を向けていたという。
しかし……嘘をついているのでもないらしい。どうも平面は本当に見えないのだ。輪郭しか見えていないらしい。
例えば……
リンゴとバナナを並べて、「リンゴはどっち?」と聞くと侠太郎は即座に精確にリンゴを指す。
しかし絵に描いたリンゴとバナナを並べて同じ質問をすれば、侠太郎は「見えへんから分からへん」と答える。
また、青リンゴと赤いリンゴを並べて「青リンゴは?」と聞いても「分からん」と言う。
リンゴと野球ボールのような、大きさが似ている球体二つを並べて「リンゴは?」と聞いた場合、かなり悩んで集中した様子を見せた後、「こ、こっち……?」とおずおずリンゴを指す。たまに野球ボールを指すこともある。
「本当に……奇妙な現象です」、と医者は首を傾げるばかりだった。
「聴力が異常に……発達しています。音の反響で、例えば超音波で辺りを知覚するコウモリやイルカのように、侠太郎くんは周囲を認識しているのでは。信じられないことでは、ありますが……」
それが、どうにか医者が捻り出した結論だった。
とはいえ……付き添いにの大人には、それでも、にわかに信じ難い。
「のう、おじさん」
ぽつり、侠太郎が呟いて振り返る。布に覆われた見えざる目で、相手の顔を見上げている。
「……西のはずれに。空き家がいっこありましたよな」
「あ、あぁ……それがどないした?」
「あれ、もろてええですか。お金が要るなら……ええと……俺、お国からお金もらえますんやろ? 一級……なんとかやから……それで払いますさかい……」
「なっ……何を言うとるんや」
「頼んます」
少年は雪上に膝を突き頭を下げた。
「やらなあかんことが……あるんです。命懸けなあかんことが。どうか……お願いします」
「わ、分かった、分かったから取り敢えず立ちぃ……冷たいやろ、傷に障るで」
気圧されて――子供が宿す決意や気迫ではない――たじろぎつつ、大人は侠太郎の腕を掴んで引っ張り起こす。膝の雪を払ってやる。
「せやかて侠太郎くん、しばらくはうちにいてもらうで。病院行かなあかんし、いろいろ……お国に申請とか、そういうの、子供だけではどないにもならんこと、ようさんあるよってな。それは分かってくれるな?」
「……すいまへん、お手間をかけます」
「ええよ。ほら、手ぇ……」
差し出される手の輪郭を見て。侠太郎は右手を――伸ばしかけて、指のない不格好な輪郭にふっと気付いて。
「……大丈夫です、見えます、歩けます」
手を下ろす。歩きはじめる。
――この善意と好意に甘んじてしまえば。
きっと人間としては、穏やかに幸せに生きられるのだろう。
だが。
その為には、この胸の内より噴出する激情と衝動を、捨てなければならなくて。
――できそうもない。この、心の中に吹き荒ぶ風巻、鳴り狂う霹靂、あれを殺せと叫ぶ嵐。
これを無理やり止めてしまえば……己の中の何か、大切な、根本的なものまで、息を止めてしまう気がするから。
だから。
凪に至るのは、死に果つる時でいい。
『了』