雨と傘とイタリアン ●
地下鉄から出たら雨だった。
あー。しまったなー。とりあえず駅の屋根の下に引き返して、伊緒は溜息を吐く。たいていはいつも朝のニュースの天気予報を見るのだけれど、見そびれた日に限ってこんな。
季節は冬、時間は夜。濡れて冷えて帰るには些かつらい。鞄の中には濡れたら困る書類もある。スマホによるとこの雨は一晩中降るそうで、一時しのぎの雨宿りは不可能だ。一縷の望みに賭けて駅構内のコンビニを覗いてみたけれど……ビニール傘は既に売り切れ。同じ境遇の者がお先にたくさん居たようだ。
(参ったなぁ……)
タクシーを呼んでもいいけれど、ビニ傘のことを思うと捕まらない気がする。そしてこれは深刻な問題なのだが、時間的におなかがちょーっと空いてきた。インスタントにチョコバーやオニギリを食べてもいいけれど、折角の晩餐、一日の終りのご褒美、簡単に済ませたくはないし、一人じゃなくて二人がいい。
ので。スマホを操作。電話。発信履歴。ちょっとスクロール。彼の下の名前の2文字をタップ。コールしたらすぐに出てくれた。
『……なンだ』
「もしもし奉一? 悪いけど傘持って迎えに来てくれない? 駅まで……傘持ってくの忘れちゃってさ〜……」
たははーと苦笑いをしたら、ちょっと間があってから……しょうがねえなを隠しもしない『分かった』が返ってきた。
ほどなくして。
構内の分かりやすい場所に立って待っていると、濡れた傘を畳んで彼が来てくれる。反対側の手には傘がもう一本。実はお揃いなのだが、ウェットな意図はちっともなくて、単に二本まとめてお安く売られていたから買っただけ。まあ大人の男の傘なんて、大抵はビニール傘かただの黒い傘の二つに一つなんだけど。
「あ〜〜〜奉一ありがと〜〜! 助かったよ〜」
「天気予報見とけ」
「あはは……ごめんごめん」
外へ向かい――細く畳まれていた傘を開く。ぱらぱらぱら、雨の音がポリエステルに弾む。
「ねえ奉一」
「ン」
「折角だしどっか食べて帰らない? 気になる店があって……迎えに来てくれたお礼に奢るからサ」
「……ああ」
伊緒が目星をつけた店は当たりが多い。それに夕食も未だなので、奉一にとって断る理由はなかった。
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路地裏の小さなイタリアン。窓際の席。雫の伝う硝子には、向かい合って座る二人と、机上の晩餐が映っていた。
「おいしいねえ!」
「ああ、うまい」
他愛のないやりとり。たまにはどう、と勧められて奉一は赤ワインを少しだけ頂くことにした。今はペンネ・アラビアータを銀色のフォークで食べている。唐辛子の辛味とトマトの濃厚な甘味が互いを引き立て合い、そこに大蒜の香ばしさも加わって、実に美味い。シンプルながらも、トマトソースの奥には様々な香味野菜の調和があり、その味わいは奥深い。
対する伊緒はいつものように、令和時代にしては小柄な体躯に見合わず――鎌倉時代当初は背の高い部類だったらしいが、時代とは無情に流転するものである――テーブルいっぱいの料理達を美味しい美味しいと噛み締めて味わって喜んで幸せそうに食べていく。もちろん酒もぐいぐい飲む。ちなみにデザートにジェラートとティラミスとパンナコッタとデザートワインが控えている。
もちろん伊緒はこれらを平然と食べきった。量的に先に食べ終えた奉一は、特にやることもないので漫然と伊緒を眺めていた。途中、何度か伊緒から「一口いる?」と聞かれたが、「おまえのだろ」と断った。
「は〜おいしかった!」
会計を終えて店から出る。雨は予報通り降り続けている。「そうだな」と返事をしながら奉一は傘を差した。いい晩飯だった、表情は分かりづらいが少し緩んでいる。左側に並ぶ伊緒はニッコニコで味の感想を語っている。
「――でね、マルゲリータピザのバジルが――奉一も一切れ食べればよかったのに――ワインも――ジェラートが――」
楽しそうなので、敢えて遮ってやる必要もないだろう。ご機嫌なお喋りと雨音をラジオ代わりに、奉一はのんびりと帰路を歩く。
濡れたアスファルトに東京の夜の明かりが反射している。淑やかな煌めきをなんだか美しく感じたのは、少し、酒気を帯びたせいなのかもしれない。
『了』