生きてて良かったなぁ●1
夜中にふっと目が覚めた。二度寝しようにもなんだか寝付けなくて――そっと、隣の布団で寝てる彼を起こさないよう布団から抜け出した。
月が明るくて、そう暗い夜ではなくて。いいかげん日光で劣化してきたサンダルを履いてベランダへ。新しいの買わないとな。ベランダの柵にもたれる。初夏の夜は心地良い。
ぼーっと……東京の眠らぬ明るさを眺めつつ……昔なら煙草の一つでも吸ったんだろうが、値上がりだの、喫煙場所の減少だの、お気に入りだった銘柄の生産終了だの、コンプライアンスだので、最近は吸う数がめっきり減った。それは同居人も同じで。
いろいろ、変わったなぁ……時代とか、風景とか、僕ら自身も。
昔はこんなんじゃなかった。昔はもっとこう……、ろくでもなかったな。クソみたいな思い出ばかりで、思わずフッと笑ってしまう。
――だけど、『最近』はいい思い出ばっかりだ。彼と出会ってからは、いいことがたくさん増えた。つらいことがたくさん減った。
「……おい」
後ろから呼ばれたので振り返る。奉一が寝起きの顔と声で、「どうした」を言葉なく投げかけている。
「いや」
昔は――僕が夜中に急に起きるのは、『ろくでもないこと』の代表だったけれど。
「生きてて良かったなぁって思ってただけ」
笑ってそう返す。蛆が肌の下を這う幻覚も、気が狂いそうな恐怖と不安も、胃の中身を全て引っくり返すような悪夢も、今はもうないから。
「……そうか」
それだけ言って奉一は寝室に戻っていった。少し、声音が柔らかかった。
僕も寝るかな。ボロボロのサンダルを脱ぐ。明日は新しいのを買いに行こう。
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●2
ハッと目が覚めた、夜中。ここは世界で一番安心できる寝床、山菊家のおうちの客間のお布団。
特に理由はないけれど、なんとはなしに寝付けないので――そうだ! 皆の寝顔をコッソリ見に行こう。アホみたいな好奇心が急に降ってわいたので、しょうがないことなので、僕はのっそりと身を起こした。
僕は影使い。影に紛れて動くのはお得意だ。ひとりずつ――この家で眠っている愛くるしい人間達の寝ている顔を、ひとつひとつ――覗き込んで――静かな寝顔にニコ……フフ……端から見ればそういう類の妖怪みたいだけれど、悪意はないし害もない。
そうして最後に、あざみさんの眠っている部屋へ。畳の上を滑る足は音一つ立てない。乙女の眠る部屋に侵入するなんて罪深いけれど、何もしないから赦されたい。そっ……と彼女の眠る顔を覗いた。あどけない寝顔。静かな寝息。穏やかな無防備。寝相はいい。
……ニコ!
よし。満足したので僕は用意して頂いたお布団に帰ることにした。あたたかい。柔らかい。そして安全だ。悠々と目を閉じても、闇討ちで腹を刺されることもないし、縄で縛られることもない。
(あ〜生きてて良かった!)
●
……あざみはその実、異能の優れた知覚力ゆえ伊緒兵衛の侵入に気付いていたけれど。
彼が妙にウキウキのルンルンだったので、寝たフリをしておいてあげたのだ。彼があんなふうに楽しく生きられているのなら、なによりだ。くすりと含み笑い、あざみはもう一度、眠りに意識を手放すのであった。
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●3
あれから長い月日が流れ、彼もとうとう、墓石の下で眠る者の一人となった。
……最初に会った頃のことを思い返す。あの額の火傷は、きっと、繰り返された自傷の結果だろう。あの怪物は炎を操る異能は持っていなかった。そして彼の言葉の端々から、彼の自罰感情と自己否定とを感じた。あと一つでも何かが折れていたのなら、もしかしたら彼は、僕と出会う前に自死していたかもしれないな。あるいは、怪物への復讐についても「自分なんか死んでもいい」という気概だったから……何か不運が傾けば、彼はもっと早く死んでいたかも。
それが――
こうして生き抜いて――
生きた証をこの世に残して――
死を沢山の人から哀しまれるほどの人間になって――……。
……数日前のことを思い出した。たくさんの人が泣いていた。
なあ銀次、おまえが死んだら泣いた人、たくさんいたぞ。
……それだけ、生きていたことを、命を、愛されてたんだな。
「おまえ、生きてて良かったなあ」
冷たい墓石を撫でた。彼はこの世にもう居ないが、彼が生きた証と事実は、千年先も共に在る。この胸の内に。誰にも決して奪われない場所に。
「……いつかオレもそっちに行くさ。それまで、せいぜい固唾を呑んで見守っててくれ」
そしていつか会えたなら、「生きてて良かった」とおまえに言うよ。
……咥えた煙草に火を点けて、線香代わりに墓前に置いた。
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●4
東京のちょっといいレストランで食事をした。ドレスコードの必要な店だから、僕も悠人もスーツ姿。僕は慣れてるけれど、悠人は真新しいスーツにそわそわしていて、初々しくて面白かった。
「堂々としていなよ、スーツに着られるぜ」――そう言って、ワイングラスで乾杯を。
……少量の酒で酔った悠人に肩を貸して、帰り道を歩く。
心地よい満腹感と、ほんのり心地良く帯びた酒気と、キラキラした綺麗な夜景と、隣に居る気の知れた友人と、ガチャガチャした東京の街。
なんとなく顔を上げて、ドブ臭い都会の夜風を感じて――嗚呼――なんか、いいなぁ。そう思った。満たされた心地がする。なんか、いいなぁこういうの。なんか、幸せだなぁ……。
「……生きてて……良かったなぁ……」
ふと、そんなことを呟いた。肩を貸している友が酒気帯びのまま何かモニョモニョ言っていた。うん、さっさとホテルに帰って水を飲ませよう、そうしよう。
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●5
人生の束の間のご褒美のように、東京で牡丹と楽しく遊んで――
別れ際、いつも駅で、牡丹は毎度毎度しおしおに寂しそうな顔をする。もう東京で遊ぶのは数度目で、お別れだって数度目で、これが最後という訳でもないのに。
「伊緒……その……帰り道、気を付けるんだぞ……」
別れが惜しくて、さっきから牡丹はその話題を繰り返している。きっと、今の内に少しでも会話をしていたいんだろう。だから私も、「うん、牡丹もね」と同じ答えを繰り返した。
そうして汽車が来てしまう。両手にお土産をいっぱい持った牡丹は、捨て猫のような目をしている。
嗚呼。
……こんなに別れを惜しんでくれる人が、私にもいるんだなぁ。
なんて。牡丹には悪いけど、私は彼女の寂しさが嬉しくて。
だから。汽車のドアが閉まる寸前に――私はズルい女だから――「私、生きてて良かった!」――とびきりの笑顔でそう言った。
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●6
スプーンに乗せたハヤシライスを頬張る。
口いっぱいに広がる美味に、心も表情も緩んでしまう。
「んん〜〜〜っ…… おいしい!」
私の率直な感想に、料理人はホッとした顔を浮かべ――しかしすぐに引き締めて、「そうけ」とだけ小声気味に、そしてぶっきらぼうに答えた。それが不機嫌ではなく照れ隠しであることぐらい知っている。だから構わず、食べ進める。今はお喋りではなくお食事に、この口を使いたいから。
「――こんなにおいしいものを食べられるなんて」
まだ人であった頃の、昔の記憶は朧気だけど。酷く飢えて苦しくて辛くて死にそうで嫌だったことだけは、700年経っても薄れてくれない。ちっとも。
だから――今こうして、美味しいものを口いっぱいに頬張って、胃を満たすことができるようになるなんて、本当に、私にとっては奇跡みたいなことで。……この時代の人間には、少々伝わらない感覚だろうけれど。
だからこそ、シェフの目を見てこう告げるのだ。
「生きてて良かった〜!」
笑いかけた。そうしたらシェフは傷痕の口元をもごもごさせて、「大袈裟だべ」と低く唸って、厨房に引っ込んでいって……
「……おかわり食うけ」
厨房から顔半分だけ出して、そう呟いた。
もちろん、頂きますと返した。
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●7
夜に始まったUGNの任務――ジャーム退治は、完了報告やらが済んで支部から出た頃には、夜明けを迎えかけていた。
電車もバスもない、タクシーも見当たらない、しょーがないので徒歩での帰路。流石の大都会東京も、この時間は人通りも控えめだ。ゼロではないが。
「送迎ぐらいしてくれよなぁ」
僕のボヤきに、隣の清志郎は「UGNも忙しんだろて」と疲れた声で呟いた。お互い自販機で買った缶コーヒーを片手に持っていた。溜息をこぼす前に、ぐいっと微糖を煽る――その動作で顔を上げれば、ビルの隙間から朝日が見えて、眩しくて、目を細めて。
そうしたら唐突に――本当に急に――嗚呼、今、生きてるんだなぁ、そんな実感がぐっと湧いて……
「生きてて良かった」
ポツリと呟いていた。ほとんど、反射的に。
「おらも」
隣でそんな声が聞こえた。柔らかい声。独り言に返事があるのって、なんかいいなあと思った。清志郎を見る。昔は苦くて飲めなかったコーヒーを、ちょうど飲みきったところだった。
「ところで清志郎、スチール缶握り潰せる?」
「アルミでねえんだからそんな…… できたべ……」
「できるんだ……」
●幻
「――侠太郎!」
彼の焦った声が聞こえたので。
瓦礫の中から、立ち上がる。
「よー伊緒兵衛ー」
全身血だらけのズタズタで、あっちこっちに何やら破片がブッ刺さって、ドえらいことになっているが……生きている。まさかジャームが死に際に自爆するとは思わなかった。伊緒兵衛が展開してくれた黒砂の鎧のおかげで、なんとか致命傷にはならずに済んだ。
「は~~~……生きててよかった~! 俺の勝ちや」
清々しい青空にン~ッと伸びをする。ブシッと傷口から血が出る。瓦礫に足を取られつつやってくる伊緒兵衛が「安静にしろ!」と蒼い顔で声を張った。
……医者の言うことも尤もなので、その場に座る。ちょっと血が出すぎてクラッと来たのもあった。その正面に伊緒兵衛が膝を突く。いつものように治療してくれる。その様を手持無沙汰に眺めている。不死の血の赤。傷を見下ろす伏目の、こがねの睫毛。引き抜かれる血染めの破片。ちくりとした痛み。
戦いが終わって脳内麻薬も収まって、痛みが神経を焼きはじめていた。だけどあんまりギャーギャー痛がるのもカッコ悪いし心配させるだけなので、ずっとなんてことない顔をしていた。それに、治療のおかげで痛みもやがて消えていった。
一段落の息を吐いて、伊緒兵衛が
「……戻ったら、細かい破片の摘出を」
「え~……自然に治らん?」
「治りません」
「え~~……」
まあ、しゃあない。血で濡れた服が寒くなってきてクシャミをしたら、上着をかけてくれた。「おおきにの」とお礼を言って立ち上がる。