ビフォーアフター●後ろから声
まだ昭和の、二人で暮らし始めて間もない頃のこと。
「おい」
本を読んでいた後ろ姿に、なんてことなく呼びかけた、瞬間だった――
「ゔ」
ビクッ、と伊緒兵衛の肩が露骨に跳ねた。そのまま勢いよく、焦燥と不安の――怯え混じりの顔で振り返り――奉一の顔を見るや「ああ、」と一気に緊張が解ける。今の態度を隠すように笑った。
「っ……どうしました?」
――伊緒兵衛は後ろからの気配に酷く警戒する。
背後から急に刺されたり殴られたりが何回かあれば人間こうなるんですよ、と深刻さをわざと茶化して誤魔化すように笑って話していた。
そのことを知ってから、奉一は。
彼を呼ぶ時、まず柱や壁を指の背で軽くコンコンと音を立てることにしていた。
「……おい」
「ん」
柱の音にぴくりと反応し、伊緒兵衛は振り返る――奉一だと分かっているからその顔に警戒はない。穏やかに笑った。
「奉一さん、どうしました?」
●
伊緒兵衛が後ろからの声に『ビクッ』としなくなったのは比較的早かった。敬語がとれて「奉一さん」ではなく「奉一」と常時呼ぶようになりはじめた頃か。
それでもたまに、奉一は昔の習慣が出て、壁やちゃぶ台をコンコンと叩いて彼を呼ぶことがある。
「おい」
「ン」
この「ン」という奉一の声音が『伊緒』にうつったのはいつの頃だったか。振り返る伊緒は目をぱっちりと開けて、溌剌と奉一の隻眼を見つめる。穏やかに笑った。同じ『穏やか』だけれども、70年前とは違う顔で。
「なあに、奉一」
―――――――――――――――――――
●道を歩く
その男は、まるで追われているかのように歩く。
無意識の中で歩いていると特に、やや俯き気味で、しかし目は周囲を警戒して、例えるなら――雨に降られた傘のない人間が、雨宿りできる場所を求めて彷徨うような。
どうも故郷の村で見た時は、かなり『意識して』『学者先生らしく』歩いていたことを知る。
対し、奉一の一歩は緩やかだが大きく、脚の長さのぶん常人より歩調は速い。しかし伊緒兵衛の歩調も速いので、並んで歩くと歩調の差はほとんどなかった。
「……そンな急がなくていいだろ」
ある日の、ただの帰り道。なんとはなしにそう告げた奉一に、「え?」と思わず立ち止まって振り返る伊緒兵衛は目を丸くする。
「僕、そんな……歩くの速かったですか? すいません」
「謝ることじゃない」
「ん……」
考えるような、思いを馳せるような顔をしながら、伊緒兵衛はまた歩きだす。今度は、少しだけゆっくりと。
●
歩くのが遅くなった。少なくとも『追われるような』雰囲気はなくなった。一人の時はどうかまでは、観測できないので知らない。奉一が伊緒を見ている時はすなわち、『伊緒が奉一と一緒にいる時』だから。
今日も伊緒は奉一の隣を歩いている。いつからか奉一の左側が――見える目の側が彼の定位置になった。
UGN支部からの帰り道、薬局で生活用品も買って、「そういえば桜がちょっと咲き始めてたね」と伊緒が言うので、折角ならと桜並木へと寄り道をした。まだ二分、三分咲きといったところか。しかしこれはこれで趣がある。ゆっくり、ゆったり――伊緒は桜を見上げて歩く。
「綺麗だねえ」
「そうだな」
昔は自分のペースで歩いていた奉一だが、今は専ら伊緒のに合わせている。昔と同じペースだと置いていってしまうから。それに今は、奉一も桜をのんびりと見上げていたい気分だった。
―――――――――――――――――――
●眠る、起きる
昔から、朝は奉一の方が先に起きる。黙って身を起こしたら、その音で隣の伊緒兵衛もぱちりと目を開け身を起こして、「おはようございます」と言ってきた。
伊緒兵衛は寝顔も寝姿も、ただ目を閉じて横たわっているだけのような見た目だった。昼寝というものも滅多にせず、バスやらで微睡むこともなかった。
……そして夜、たまに魘されていた。
時には夜中に飛び起きて、過去に由来する幻覚や恐怖で言動が目茶苦茶になっていた――「肌の下に蛆が居る!」「体が喰われる!」と包丁や鋏で自分の肌をズタズタに引き裂こうとする時もあった。眠れないからと深酒をしたり、ずっと喫煙していたり……そんな時もあった。
700年。伊緒兵衛にとって、現代人が想像するような安泰はなかった。ただ、敵意と悪意の連続だった。延々と続いた孤絶。常人であればとうに精神崩壊していただろう。傷と膿と罅だらけの心を、正気と理性という儚い糸でどうにか巻いて、残野伊緒兵衛という男はどうにかこうにか人間の形を保って、ギリギリのところで息をしていた。
……ゆえにこそ。
「正体を明かしても刺してこない人間っていいね」
おやすみ、と交わした後。電気を消した布団の中。ポツリと呟かれた伊緒兵衛の言葉。
「刺す意味がないからな」
背中を向ける寝返り。己はおまえに何もしないという奉一の無言の雄弁。
「…… そりゃあねえ」
穏やかな暗闇の中、伊緒兵衛は含み笑いをこぼした。天井を見上げ、深く息を吐いて……ゆっくりと目を閉じる。
●
「おい」
「んえ〜あとごふん……」
「起きろ」
「ゔい……」
長い日々の中で、寝起きがあんまり良くないのが伊緒兵衛の――伊緒の『本性』だと知った。
そして昼寝や夕寝をそれなりにする男だった。ソファの上や畳の上、疲れた時はお構いなしに床の上で、パンツにTシャツ姿とか、パンツだけとか、脱ぎかけのスーツ姿とか、そんなだらしのない格好で……。旧い時代の人間だからか、裸体に羞恥がほとんどないらしい。「おっぱいとかパンツがエロになったのって明治以降ぐらいからだよ? ちょっと前じゃん」とは中世人の弁。明治時代は『ちょっと前』ではない。
……その日の昼下がりも、パンツにTシャツという如何なものかという姿で、伊緒はソファで爆睡していた。Tシャツが少し捲れて腹が出ている。あれだけ大喰いなのにぺたんとした腹なのは、抱えたレネゲイドウイルスの特性ゆえらしい。飢えそのものが力に変質したからだ、と。
「ほういちー……おかわりあるよ〜……」
へにゃへにゃの気の抜けた寝顔、平和な寝言、投げ出された四肢。リラックスしている。ここは安全だと――志々叢奉一という人間は安心できると、無防備を託して休んでいる。悪夢に魘されることもなくなった。
昔と比べれば、その変化は良いか悪いかで言えば確実に「良い」なのだろう。
だが……下着姿でゴロゴロするのは如何なものか。気を許しすぎというか、抜きすぎというか、無防備すぎるというか……。
取り敢えず、奉一はタオルケットを取り出して伊緒の上にかけてやった。
『了』