嘆く男今さらなことかもしれないし、今頃言ってどうするつもりだと思われても仕方がない。
竹谷は目の前に置いてある一枚の紙を前にして冷や汗をだらだらかいていた。
「そろそろ年貢の納め時だ」
「木下せんせぇ…」
「情けない声を出すな。どうしても必要な事だろうが」
「ですけど…」
しょんぼりと項垂れてしまった竹谷の頭を木下はわしわしと撫でる。乱暴だけれど、痛くない手の温度に泣きそうになった。
「そんな顔をしてもほだされんぞ」
「うう…」
「お前、哀車の術も修行が必要そうだな」
「そんなんじゃないです…」
もごもごと答えると、木下はトントンとある一文を指さす。
『五年生は全員参加』
「ううう」
「お前が毎年逃げ回るからだろう。嫌いではないのだろう?」
「はい」
「苦手なだけか?」
「苦手っていうか…なんと言うか」
またもごもごと言い淀む竹谷の頭を撫でて溜息をついた。
いつもは元気が有り余っているような竹谷が、しょぼくれている原因は一枚の紙だ。学園長先生からの直々のお達しがあって、五年生に出された課題の紙。それが竹谷を悩ませていた。
「ううう」
「で、どうするんだ。行くんだろう?」
部屋の隅で寝転がったまま動かない竹谷の頭を同じろ組の二人が撫でる。
「行かないと合格貰えない…」
「ならさっさと支度をしてしまえ」
「三郎のばか…!」
めそりと雷蔵にしがみついて泣きそうな顔をする。こんな顔をされると、からかう事もおちょくる事も出来ない。雷蔵も困った顔で竹谷の頭を撫でた。
「ハチは川なら平気なのにねぇ」
「足がつかないのが嫌なんだ…」
「正直に泳げないって言えばいいものを…っで!」
すかん、と三郎の頭に桶を投げつけて竹谷は本格的にべそをかく。
「泳げる三郎にはカナヅチの気持ちなんてわかんないんだぁ」
わぁぁぁん!と雷蔵にしがみついて泣きだした。
雷蔵と三郎は顔を見合わせて深く深く溜息をつく。
竹谷八左ヱ門。
海で泳ぐ事ができない苦悩を級友に本泣きでぶちまけた昼過ぎだった。
八左ヱ門が泳げないという事は結構知られている。
川でも腰までの所までしか入らないし、海はなんだかんだと理由をつけて行かない。足がつく所なら潜ることはできたので、なんとかその手の実技は合格していたが、流石に泳げないままでいるのはダメだと思われたらしい。
「うううう。雷蔵、どうしよう」
「どうしようって言われても、ううん、どうしよう」
雷蔵にしがみついたまま「どうしよう」しか言わない八左ヱ門につられて、雷蔵までぐるぐると悩みだした。
「どうしようも、こうしようもないだろう。泳げるようにならないといけないんだから」
「ううう…」
三郎に言われても、八左ヱ門は唸ることしかできない。
そんな事は本人が一番わかっているのだ。
泳がない忍務だけやっていては一流の忍者になれない。
「海に行くまでに、水錬池で練習しようか?」
「でも」
水錬池でも深いところはあるのだ。足がつかない水は怖くて仕方がない。
「足のつく所からやってみて、だんだん深い所に行けばいいからさ。僕、一緒に練習をするから」
「雷蔵がするなら私も手伝う」
雷蔵にひっついている八左ヱ門を引っぺがして、三郎は雷蔵に抱きついた。
「お前は練習しなくても大丈夫だろう?」
「雷蔵といたいんだもの」
「ハチの練習の邪魔をしないならいいよ。ねぇ、ハチ」
「もうどっちでもいいよ…」
練習すると決めたけれど、本気で気鬱になっている八左ヱ門は寝転がって両手で顔を覆ったまま動かなくなってしまった
「ハーチー?」
「うん…」
「行くよ」
「………………」
「ハイ、行くよ」
襟首を雷蔵に引っ張られて、引きずられていく八左ヱ門に三郎は苦笑いを浮かべた。
「で、ろ組はそんなにぐったりしているんだ?」
「そういうお前は元気だな、勘右衛門…」
「うん」
饅頭をもしゃもしゃ食べながら、ぐったりした八左ヱ門・雷蔵・三郎を愉快そうに勘右衛門が見る。
「足がつくところでは浮かべるのに、なんで足がつかなくなった瞬間溺れるんだ…ハチは…」
「頑張ってるんだけどねぇ…」
真っ白い顔色で寝っ転がる八左ヱ門を見て三郎と雷蔵は同じ顔では大きな溜息をついた。