名前「なぁ、俺の事まだ名前では呼んでくれねぇの?」
菊田にそう問われた月島は「はぁ」と返答にもならない気の抜けたような声を出した。
菊田と恋人のような関係になって1年、知り合ってからはもう何年も経っているが月島は菊田の事を「菊田さん」と呼んでいる。深い関係になってすぐに菊田は月島の事を名前で呼びたがったが月島が拒否した。月島が菊田を名前で呼ぶこともしなかった。
「俺が月島の事を名前で呼ぶのも嫌なんだよな?」
決して責める口調ではないが、菊田が残念がっている事は伝わる口調だ。月島が答えずにいると「そうか。」とだけ言って菊田はそれ以上の追及はしなかった。
菊田は月島をいつもよく見ていて、月島が嫌がる事はしなかったが「まだ」と言っていたという事は「いつかは名前で呼ぶ」未来を諦めてはいなさそうだ。
その話はそれで終わって、菊田はソファに座っている月島の隣に腰を下ろして月島の頭を撫でた。
『いつもそうだ』と月島は思った。『いつも俺の事を優先して菊田さんは自分を押し殺している』と。
そう思うと途端に罪悪感のようなドロドロとした自責の念が湧いてくる。
月島は菊田の事を好きだと思っているし、好意には応えたいとも思っている。だけど、名前で呼ぶ事だけは難しかった。コレで『あなたを傷つけるのが辛いので別れます』が間違いである事もわかっている。そんな考えが少しでも浮かぶ自分の身勝手さに月島は小さくため息をついた。
『明治であんなことをしたから、今もまだマトモになれていないんだな、俺は』
菊田も月島も明治での記憶は残っている。残っているから月島は初め、菊田を避け続けていた。同じ会社になるのは想定外だった、と思いつつも転職も出来なかった。
正しくは転職など思いもつかなかった。月島は菊田に惹かれ、視界に入れ続けたいと願っていたが、前世での罪悪感からその思いは月島の中で「無い」ことになっていた。そのため転職はせず、かと言って菊田に関わる事も一切無く過ごしていた。
だから菊田から近づいて来た時は本当に驚いた。明治での記憶が残っているのに月島に声をかけ、前世でのことは「時代や立場もあったし、仕方ねぇよ。あの頃は俺がお前さんを手にかける立場になってもおかしくなかった。」と事も無げに言ったのだ。
その上で「俺はお前さんをもっと知りてぇと思っているんだが、迷惑か?」と月島を食事に誘ってくれた。
頭では断ろうと思っていたのに月島の口から出たのは承諾の言葉だったから、月島は自分で自分が信じられなくなった。
その後も月島は菊田を拒否出来なかった。
一緒に居たい、傷つけたくない、離れたい、そんな考えがいつも頭の中をぐるぐる回っていて結局菊田に流されるままココまで来てしまった。
月島にとって『名前で呼ぶ』は最後に踏み止まっている一線でもあった。
『名前で呼んだらどうなると言うんだ』
拒否感が強すぎて今まで考えもしなかったが、月島は改めて自分の気持ちに向き合ってみることにした。
『名前で呼んだら・・・引き返せなくなる』
自分の全てを菊田に委ねてしまう、と思った。菊田との境界が曖昧になり、別れが耐えがたくなる。自分も相手も殺してしまうかもしれない。結局自分の事ばかりだな、と月島は自嘲した。
どこも見ていない目で月島がクスリと笑うので菊田は月島の頭を撫で続けていた手を止め、「どうした?」と訊いた。
その顔が優しくて、本当に暖かい眼差しだったから月島は『なんて馬鹿な人なんだ』と思った。
『あなたがそんな目で見てる男は化け物だ、いつかあなたを殺すのに、それがわかっていても離れようともしない、そのくせあなたを大事だと思っている化け物だ』と。
月島がその時どんな表情をしていたかは月島にはもちろんわからない。けれど菊田は「何かあったのか?」と心底心配そうに月島を覗き込んだので酷い顔をしていたのかもしれない。『またそんな顔をさせてしまった』と月島は落ち込んで「何でもありません。心配させてスミマセンでした」と目を逸らしながら言った。
そんな風に日々を過ごしていたが、ある日月島は失敗した。
それはいつものように菊田と身体を重ねている時で、いつも以上に視線や表情、愛撫で言葉以上に菊田から「愛している」と伝えられているようで、月島の感情もいつも以上にかき乱された。理性が効かず情動の赴くままに「杢太郎さん」と口走ってしまった。
それを聞いた菊田が思わず動きを止めてしまったので、月島はさっき自分が頭の中でだけ言っていたつもりの言葉を口にしてしまった事に気づいて青ざめた。
すぐに菊田から離れて、混乱した頭で「すみません、ごめんなさい、すみません」と繰り返し口にする。
菊田は行為を中断されたにも関わらず少しも気分を害した様子は見せずに「おい、大丈夫か?どうした?俺の名前呼んじまったからか?」と月島を気遣った。
「違うんです、いや、違わない。すみません、一線を越えてしまった、すみません。」月島は定まらない視線でまた謝る。
「名前、呼んだだけだろう?それで死んじまう訳でもあるまいし」
菊田が月島を元気づけようとしてか、あえて軽い口調で言うと月島は「俺が殺してしまうかもしれないじゃないですか!また!!」と叫ぶように言った。
「もう嫌なんです、これ以上あなたを好きになると離れられなくなる。名前でなんて呼び合ったら戻れない。菊田さんと別れる時に殺したくなってしまう。」
月島は物騒な事を顔を歪めながら泣くのを堪えるような表情で言う。菊田はそれを黙って聞いていた。
「それが理由か?」
月島が少し落ち着きを取り戻した頃を見計らって菊田が静かに問う。月島は何も言わず、菊田は、はぁっ、と大きく溜息をついた。
「あのなぁ、今更別れるとかほざいてんじゃねぇよ。もしお前さんが別れるなんて言うんなら今度は俺が月島基を殺して来世でまた口説きなおしだ。」
月島が今度は目を真ん丸にして何も言えずにいると「もう続きしてもいいか?」と不貞腐れたような口調で菊田に聞かれ頷いた。
菊田に再度押し倒されながら、ようやく菊田の言葉の意味を飲み込めた月島は声をあげて笑いながら「愛しています、杢太郎さん」と言った。