博士のクローンに教授の魂が迷い込む話 瞼越しに感じる光に意識が呼び起こされる。強い光が眩しくて目を開けることができない。普段は気道確保のために習慣でうつ伏せで眠っているから、仰向けに眠っているという現状に疑問が浮かぶ。寝返りを打とうとして、力を入れた肩と腰の位置に強烈な違和感を覚えた。
「…う……っ」
首から肩への距離が僅かに短く、よくしなる。仰向けに寝た際に感じる腰にかかる負担が普段より若干低く、やけに反った背骨が重心の位置を無理矢理引っ張り上げているような、そんな感覚。
なんとか身体を起こそうとしたが上手く力が入らないために上手くいかず、仕方なく背中に体重を預けた。光に侵される目をなんとか開ければ、眼前に広がるコンクリートの天井と真っ白な蛍光灯…のようなもの。メガネもコンタクトもない目は視界にあるものを正しく認識してくれない。
「目が覚めたのか」
紺藍の頭に、真っ白な白衣。恐らくもうすっかり見慣れた友人の姿だ。『恐らく』。彼の髪色はこんな色だっただろうか。普段よりも黒みが薄らいでいるというか、鮮やかな青に見える。だがその声色は、僕の友人であるレオス・ヴィンセントそのものだ。
「…俺…僕は…」
「自我がある?…面倒だな」
レオスくんは小さく舌打ちをして、僕に背を向けた。なにか金属製のものを扱い始めたのかガチガチとけたたましい音がする。…今、誰が誰に問いかけた?僕がレオスくんに問いかけた筈だ。でも僕の耳で確かに聞いたのは、レオスくんが問いかける声で、レオスくんが反応する声だ。
乾き切った喉をなんとか潤そうと、カラカラの口でなんとか唾を飲み込む。上顎に張り付けた舌が、薄くて柔らかい。唾を飲み込む喉の筋肉が不可解な動き方をした。もう一度口を開こうとして、下唇が乾燥してピリッと切れる嫌な傷み方をした。無意識に血を舐め取ろうとしたものの、やはり気のせいではなかった自分の舌の可動域に不快感が優ってやめた。
「ここは、どこ…?」
「なんだ、記憶は引き継いでいないのか。ここは、私、レオス・ヴィンセントのラボ。お前は私が作った実験用の使い捨てクローン。実験の詳細は聞くなよ、お前が知る必要はないし、説明が面倒だ」
やっぱり、僕の口から出てくる声は僕のものではなかった。背中を向けたまま投げかけられた言葉をなんとか飲み込んで、うまく回らない頭でなんとか理解する。どうやらこの身体は『レオス』のクローンらしい。
何が起きたらそんなことになるんだろう。確か僕は自室で資料をまとめていて、眠くなってしまったから少しだけ仮眠を取ろうと机に突っ伏したのを覚えている。夢にしては随分とリアルで、身体が違うことへの解像度が高く、首元や足先に感じる空気の冷たさが鮮明だ。自分の身体がうまく動かせない夢は子供の頃から幾度もなく見てきたが、他人の身体の中に入り込む夢というのは初めてだ。しかもそれが友人と全く同じ身体の中、だという。
珍しい明晰夢を見ている事に得した気分になりながら身体を起こせば、いつの間にか診察台のすぐ近くにまで戻ってきていたレオスくんが僕の顔を覗き込むように顔を近付けてきた。酷くぼやける視界の中で、あの綺麗なアイスグリーンが宝石のように輝いていた。
「レオ…っ、ケホッコホッ」
声をかけようとするが、喉の渇きが咳を呼び込んで邪魔をする。まるで夢に干渉しようとする行為を自分自身が邪魔しているみたいだ。喉を抑えてなんとか咳をおさめたところでレオスくんに頭を掴まれた。眼前に指を突きつけられて、それが僕の視線を集めるように左右に揺れている。僕はその指先は無視をしてぼんやりと見えるレオスくんのアイスグリーンの瞳のあたりをじっと見つめてみたが、その視線を遮るように指先を更に近付けられた。
「見て。顔は動かさず、視線だけで辿りなさい。お前も私と同じく近視だろうが、この距離なら問題無く見えるだろう」
言葉の後にすぐさま動き出す指先を、慌てて追いかける。上下左右、もしくは大きく弧を描く指先の動きは緩慢だが眼球を動かす距離のせいもあって外眼筋に負担がかかるのが分かる。眉間のあたりまで鈍く痛みが響き始めたところで指先が離れ、今度はその手が顎を掴んだ。
「口を大きく開けて舌を出せ。ほら」
冷たい声が降ってくる。少なくとも今まで僕に向けられたことのない、温度のない声だ。彼の言う通りに口を大きく開けて舌を伸ばす。口内を見られることへの気恥ずかしさはあったもののレオスくんの声色と仕草がどこまでも『観察』でしかなかったから、そんな可愛らしい羞恥心など失せてしまった。
いったい、いつまでこの夢は続くのだろうか。本当に実験動物にされている気分だ。…いや、気分、と言うよりまさに実験動物扱いなのだろう。温情や好奇といったある種の執着心を何も持たない冷めきったアイスグリーンが見下ろしてくるのが逃げ出したくなるような焦燥感と恐怖心を掻き立てる。ぞんざいに扱われる事に対して精神的にも肉体的にも蔑ろにされることへの忌避感もあるのだろうか。
暫く僕の喉奥を眺めていたレオスくんは大きくため息をつき、もう結構、と僕の顔と頭から手を離した。『僕』を見限った、そんな口調にぶわりと恐怖が湧き上がる。心臓が強く握りつぶされるかのように痛み、体が強張り、呼気が引き攣った。冗談めかして突き放されたことはあれど、見放されたことはない。余程のことがない限り『オリバー・エバンス』が完全否定される事はないと、ある種の自信というか、そういう信頼がレオスくんにはある。それなのにここまで心を揺さぶられるのだから、夢特有のノーガードメンタルになっているのか、この肉体に精神が引っ張られているのかのどちらかだろう。
恐らく、今の僕はひどく怯えた顔をしていると思う。それを見たレオスくんが怪訝な顔をすると僕を睨みつけたまま首を傾げた。
「……君は……」
アイスグリーンが細まるのがなんとなく分かった。少し考え込んだ後、懐から金属製のオイルライターと、レオスくんが愛飲しているタバコを取り出して差し出してくる。顎をクイとしゃくり上げて僕に『その動作』を促した。確かに僕は最近付き合いで喫煙を始めてはいたが、レオスくんが吸うような重いものではない。けれど反論を許さない凪いだ瞳に気圧されて、僕は震える手でそれを受け取った。僕が手を伸ばしたことで視界に映り込んだ『レオス』の右手にはとても小さな古い火傷の痕があった。熱いものに触れたとかタバコが触れたとかそういう類ではなく、何かの液体によって焼け爛れたような、皮膚が歪に引き攣っている火傷だった。
箱の隙間に人差し指を差し込んで、上蓋を開く。半分ほどしか入っていないそこからタバコを一本取り出して、動作を巻き戻すようにして蓋を閉じると、そのまま右手に握り込んだ。一度、視線だけでレオスくんを見上げてみたけれど彼は静かに見つめるだけで何も反応を返してくれない。
オイルライターの蓋を親指で弾けば、カチンと小気味良い音を立てて開く。取り出したタバコを下唇と中切歯で咥えて、軽く息を吸いながらライターを構えて――
「ストップ」
レオスくんの手が顔の横から伸び、タバコをヒョイと口から取り上げられた。取り上げたタバコを自身の耳に引っ掛けると続けてライターも僕の腕から抜き取って、白衣のポケットに手ごと突っ込んだ。
「やっぱり。君、オリバーくんでしょ」
呆れ声と共に降ってきた言葉に、思考が止まった。僕の返事を待っているのか首を大袈裟に傾げながら顔を覗き込んできた。先程までの冷たく鋭い声とは一変し、間延びして気の抜けた、僕がよく聞く声になっている。表情はよく見えないが少なくとも柔らかい目元をしていることだけはわかった。
「…分、かる、の?」
「火をつける時の、極力肺まで入れない息の吸い方。人差し指と小指を立てて口元を覆った左手。薬指と小指で箱を握り込み、ライターをセットした右手。オリバーくん手が大きいですからね、私の手でやるには長さが足りてませんよ」
「そんな癖…ケホッ、あるん、だ」
「どういう原理か知りませんけど、ソレの中に入るなんて運が悪いですねぇ。肉体はどうしてるんです?死んだ?臨死体験?それともドッペルゲンガーですか?」
クローンは作りますけれど流石にオリバーくんまでは作りませんよぉ、とレオスくんは後頭部をワシワシと掻きながら深々とため息をつく。先程の短く冷たいため息とは違って、演技じみた動きの大きいもので、全くもぉ、とでも言いたげの軽いものだ。その声色だけで心と思考に巣食っていた不安のモヤが晴れていくようだった。
安心しきって思いのままに言葉を紡ごうとして、ケホ、とまた咳が出る。今度こそ「全くもぉ」と声を裏返らせて心底呆れた声で文句を言うと、少し離れた机から何かを取ると僕の手元に押し付けてきた。形状からして差し出されたものはペットボトルのようだ。恐らくスポーツドリンクのものであろうラベルのものが飲みかけである、この二点で幾分か安心して口を付けることができた。口内と喉に張り付くほどぬるくはあったが、中身は普通のスポーツドリンクであってくれた。
そういえば、ラベルの色も普段と違っていたから、恐らく色を認識する視細胞が違っているから今みたいに世界が不自然(に、僕が思えるよう)な鮮やかさなんだろう。僕が元々一部の色彩に弱いとはいえ、レオスくんはこういう色の中で生きているのかと、不思議な気持ちになる。
「それが、分からないんだ。家で資料をまとめていて、少し眠くなったからそのまま机で…」
「なるほどね。ま、生きてることを願いましょう」
少し身構えたが、レオスくんはさらりと流した。脳裏に浮かぶのは同期であるレインくんの「そんな寝方したら身体に悪いぞ!ちゃんとベッドで寝るんだ!」というお叱りの声。レオスくんの場合、今でこそ高級マットレスを買って普段はゆっくり寝るようになったけれど、研究所の所属員だった頃の話をチラリと聞く限り昔はロクな寝方をしていなかったようだ。今でもたまに数日間連絡が取れないことがあるからこっそり研究に身を捧げているんだろう。
レオスくんは自分の手袋を僕が座っている診察台に投げると、お尻のポケットから何かを取り出して…恐らくスマホ画面を親指でタップする動作を始めた。やがてコール音が静かな実験室に響く。スピーカーモードにして電話をかけているようだ。
「…………」
暫く、無言が続く。七回はコール音が続いた後通話が繋がったようでスピーカーからガサゴソと音が聞こえ始めた。レオスくんはスマホを口元に近付けて話しかける。正直レオスくんの声量ならマイクに声をかけたら相手方の耳が危うい気がする。
「オリバーくん?私です、レオス・ヴィンセントです」
血の気が、引いた。
『僕』はここにいる。なのにレオスくんが電話をかけた先で、何者かが、オリバー・エバンスが電話に出た。一度は治った緊張と恐怖がぶり返して、思わず奥歯を強く噛み締めた。
電話の向こう側からはなんの返答もない。小さな呼吸音が聞こえるだけだ。どうして?電話に応対したからには何かしらの返事を返す筈なのにどうしてオリバー・エバンスはなんの反応も示さない?そんな状況に痺れを切らしたレオスくんはもう一度オリバーに問いかけて、やっと反応が返ってきた。
『……ご、ご友人…』
当たり前だが、電話の向こうから、僕の声がした。でも、同じ声帯を震わせて出ている音ではあるけれど『オリバー・エバンス』とは程遠い、鼻の奥あたりに声を響かせてハスキーにも聞こえる音の出し方をしている。レオスくんは更に怪訝な顔を浮かべたが僕はこの喋り方に心当たりがあった。
何とかスマホに声を届けようと、診察台に手をついて身を乗り出した。足の長さと腰の位置が違うからうまくバランスがとれない。腹筋と締めて、何とか体制を整えた。
「サム!?もしかして、サムなのかい!?」
『あ、え…?声は、旦那のご友人でやんすが…、あっしを呼ぶその優しい声色!もしかしてオリバーの旦那でやんすか!?」
「そう、そうだよ、僕…えっと、オリバーだよ!」
まるで安い二次創作みたいなセリフだ、とどこか冷静な思考の僕がツッコむ。電話の向こうがサムというだけでこんなにも不安が解消されて、心が安らぐなんて僕は何で幸福なんだ。
緊張の緩和で思わず浮かんだ涙を軽く拭えば、またレオスくんが大袈裟に僕の顔を覗き込んできた。悪すぎる視力はレオスくんの首から上を『白い肌と青い髪の塊』としか認識していなくて表情をこれっぽっちも捉えてはくれないけれど、見開いた目を上擦った頬でギュッと細めて、あんぐりと口を開けているに違いない。何でもないと伝えるべく笑って手を振れば、彼は肩をすくめながら片手を上げて応えた。そして僕のすぐ目の前に立って、スマホを少しだけ僕に近づけてくれる。
「失礼。もしもし、レオスが喋りますよ。サムくん、今オリバーくんの肉体はどうなっていますか?」
『ヘイッ!旦那の身体は今、旦那がいなくて空っぽの箱みたいなモノでやんす。身体に不調はないですぜ!』
「それはよかった。こうなった経緯はわかります?」
『それが…旦那が仕事中にうたた寝を始めたんでやんす。ヘイッ。そうしたら、急に旦那の意識がスーッと消えちまいやがったんでさぁ!』
「ほう」
『安心してくだせぇ、旦那はまだちゃあんと生きてるようだ。ヘイッ。でも全然目が覚めてくれやしねぇ。電話が鳴っちまったから仕方なくあっしが収まったんでやんす』
電話の向こうで、サムが大きく息を吐くのが聞こえる。今日はため息をつかせてばかりだ。申し訳なさはあるけれど、僕を思ってのことだからほんの少しだけ嬉しさがある。
サム、と思わず声をかければ彼は軽い調子で笑ってくれた。
『ヘヘッ、電話かけてくださったのがレオスの旦那で助かったでやんす。旦那も元気そうで本当に良かった』
「心配させてごめんね、サム。ありがとう」
「…では、えー、サムくん。君、オリバーくんのマネはできますか?」
『そりゃあ勿論でやんす!ヘイッ!たまに旦那が疲れすぎて寝ちまった時に代わりに動かしてるでやんすからね!ヘイッ』
「えっ?初耳なんだけど」
「大変よろしい。ではうまいこと講義やらなんやらの予定を断ってこちらに来なさい。私が住み着いてる廃下水道の場所は分かりますね?」
『ヘイッ!承知したでやんす!』
ではまた後で、と元気の良い挨拶から一拍置いて、通話が途切れた。レオスくんが再びお尻のポケットにスマホをしまう仕草を眺める。サラリと進んでしまったが、今僕は講義が休みにされたし文化経済学の教授とのミーティングもドタキャンされることになったようだ。あの教授、アポを取るのが大変なんだよなあ。生徒のみんなには土曜日…いや、次回の講義の頭で少し触れて、資料をまとめて配ろう。その方がお互いに負担が少ない。ああ、申し訳ないな。気落ちするのを察したのかレオスくんが僕の肩を強く叩いて笑いかけてきた。
「あのテンションのオリバーくん、違和感がすごいですねぇ。」
レオスくんは顔の辺りに手をやると、髪の毛を少しいじった後僕に向かって腕を伸ばしてきた。
「顔に触れますよ」
そうして、指先がこめかみに触れる。眉間とこめかみへの異物感と共に一瞬視界が歪んだかと思うと、一気に視界がクリアになった。視線の先のレオスくんがメガネをしていなかったから自分がかけていたものをくれたのだろう。僕の顔を見ようとしてレオスくんがグッとを細めてこちらを凝視していた。普段は視線が痛いほどに刺さってくるけれど今は僕の目のあたりを視線が漂っている。彼は手でメガネを指して得意げな微笑みを浮かべた。
「慣れない体に加えて、視界まで遮られてしまったら不安でしょう。しばらくかけてなさい」
「いいの?今実感したけど何も見えないよ」
「ここは私の研究所兼自宅ですよ。勝手はわかります。上にもスペアはありますからご安心を」
それもそうか、と納得する。上でサムくんを待ちますかとレオスくんが背を向けたので、ついていくために診察台から降りようと足を外に出した。
爪先に、床の冷たさが染みてくる。後でスリッパを借りよう。ゆっくりと体を下ろしていき踵まで床につき体重をかけようとしたところで、膝が震えてカクンと曲がった。診察台に手をつこうとするが間に合わず床に倒れる寸前で、レオスくんが僕の脇に手を差し込んで身体を支えられる。身長差が無いからレオスくんがかなり大きく感じた。
「ちょ、ちょ、ちょ!オリバーくん大丈夫ですか!?」
「う、うん。ごめんね、上手く力が入らなくて」
ゆっくりと診察台に導かれて、そのまま手をつく。未だ震える足を何度か叩いて気合を入れれば何度か踏ん張ることができるようにまで回復する。
地面から腰、肩、視点までの距離が単純計算で10センチ違うだけでかなり勝手が変わってくる。足の指と踵にかかる体重のかかり方が違うし、単純に長さが違うからバランスの取り方も難しい。
本当に、これは現実らしい。足から伝わる冷たさも、レオスくんにとっさに支えられた時に筋肉が変に捻れた痛さも、そして徐々に冴えていく思考も、全てが夢であることを否定する。何故こんな事になっているかの理由は見当もつかない。
僕は今後の生活に関わってくるから本当に困っているけれど、レオスくんだって僕と同じく困っているだろう。いつも通り実験をしようとしたらトラブルが発生して、しかもそのトラブルに配信仲間が関わっているだなんて面倒な事この上ない。でもその苛立ちを微塵も見せずに、でも少しだけ困った顔をしたレオスくんを見ると、彼は顔をグンと近付けて僕の表情を認識した後、唇をキュッと寄せて首を傾げた。
「……なに、ニコニコしてるんですか」
「いや、レオスくんと視線がまっすぐ合うの、新鮮で面白いなぁって」
「なぁに能天気なこと言ってんのよ。自分の状況わかってます?幽体離脱してレオス・ヴィンセントのクローンの中に憑依してるんですよ?不安でしょうに」
「うん。全く勘弁してくれ、とは思うよ。でもレオスくんならなんとかしてくれるでしょ」
僕の言葉を聞いて、レオスくんは目を細めて小さく息を吐いた。彼からしたら少し顔を顰めただけなのだろう。でも元々視界の悪さを補おうと目を凝らしていたから、ものすごく不機嫌そうな表情になる。
本心なのだからそんなに嫌そうな顔をしないで欲しい。よく分からない問題を起こすトラブルメイカーなレオスくんではあるけれど、それを解決するだけの頭脳と手段を持っている。よく分からない事象に関してはレオスくんに任せていれば何とかなりそうな気がする。残念ながらレオスくんにはそれが上手く伝わっていないようだけれど。
「はあ…私は科学者ですよ。オカルトだとか心理学だとかは、文化人類学者の管轄でしょう」
手を差し伸べられる。手を取れ、ということなのだろう。流石にまた倒れるわけにもいかないし、僕は素直に彼の手を取――ろうとして、手首を掴まれ手を引かれた。彼の指は長いから、手首一周を少し超えている。僕は身体が大きい分腕も太いから、他人に手首を掴まれて指が余るのはとても珍しい気分だ。
例えば不安を解消したいのであれば手を繋ぐし、労わるのであれば腕を掴むだろうに、僕にさして遠慮せず荒々しく手首を掴むあたりがレオスくんらしい。もしくは、中身が僕であるとはいえ、身体が実験対象であるからあまり丁寧に扱おうとは思えないのか。
「ありがとう、レオスくん」
「……どうも」
暫しの間を開けて、さらり、と流されてしまった。
===
「ありがとう、レオスくん」
オリバーくんの能天気な声が、背中にかかる。本当は不安で仕方がないだろうにそれを誤魔化すような明るい声にこの男の精神力が伺える。霊魂の離脱なんて非科学的な事象が発生し、その結果宿主がレオス・ヴィンセントの『クローン』だ。現状を憂うことだろう。
非科学的な事象自体は残念ながらさほど珍しいことではない。私自身はさほど経験は無いが、エデンに住んでいる以上ある程度の覚悟はある。私の知り得る限りでは、オリバーくんは特にその遭遇率が酷くて、フィールドワークの思い出話はノンフィクションだと信じがたいエピソードのオンパレードだ。電子機器の不調だけではなくオカルトも呼び寄せているのかと信じてしまいそうになる。
…ああそうか、そのせいで感覚が麻痺しているのか、この男は。普段のフィールドワークで起こるトラブルに比べれば、オリバー・エバンスとレオス・ヴィンセントの間だけで起きた奇妙な出来事など、不安に値しないのかも知れない。
この男は心配性でネガティブな一面を持ち合わせていながらも、『なるようになるさ』の姿勢が強い。実験の結果を想定通りに出すためならば過程を選ばない私とはまた違う方向の結果論者と言える。彼はかなり経過を重視するというのに自身のトラブルに関してはそれが当てはまることが少ない。
「……」
本当に、勘弁して欲しい。
もしクローンという宿主が無かったら、オリバー・エバンスの霊魂は今頃何処へ行ってしまっていたか、この男は想像しなかったのだろうか。永遠にエデンの何処かを彷徨っていた可能性もあるというのに。私の守備範囲はあくまでも科学であるからどうしようもできないのだ。
こんな下らないことで、それなりに仲良くやってきた仕事仲間を失うだなんて……虚しいじゃないか。
「どうも」
腹の奥にジワリと広がる苛立ちはあったものの、素直に向けられた感謝の言葉に、照れがないといえば嘘になる。誤魔化すために下唇を噛み締めて、ただ一言、言葉を返した。