まめねこ葉っぱのYサインまめねこ葉っぱのYサイン
(一年生 神田笑一)
決勝の日は、天気予報の通り小雨が降っていた。試合が始まる頃には止むのが救いだ。小雨とは言え傘を閉じれば水滴がさらさらと何粒も流れ落ちるくらいには降っていた。そのせいで室内の床が濡れていて、歩くたびに靴底が滑るキュッキュッと高い音が鳴っていた。
……途端、真横にいたオリバーさんが体制を崩す。
「うわ、だッ!」
長い足が目の前にまで持ち上がる。転ぶまいとした結果さらに体勢を崩したようで、勢いよく後ろにすっ転んだ。転ぶ時の勢いでオリバーさんのまめねこが宙に投げ出されたのを、ボボンさんが素早くキャッチする。
ごいん、と鈍い音が響いた。
「オリバーさん!」
「オリバー大丈夫か?」
「……」
オリバーさんは素早く瞬きを繰り返した後、しっかりと目の焦点をボボン先輩に合わせて口角を上げた。脳に衝撃こそあったもののすぐ回復したらしい。
「いてて。ボケっとしちゃった。恥っず」
「すんごい音したけど平気ですか?」
「ありがと神田くん。割と平気」
よっこいしょ、とボボンの手を取って立ち上がるオリバーさんは、後頭部をさすりつつ困ったように笑っている。床から190センチまで一気に持ち上がったので、まるでタケノコが伸びたかのようにも見える。相変わらずデカい。
「良かった。監督が呼んでるんですよ、緊急だって」
伝えれば、オリバーさんは顔から微笑みを消した。メガネの向こうのヘイゼルアイをすぅと細めて、ありがと、と短く応えると控え室へと歩を進めた。足が長い彼は一歩一歩も大きく、それが早歩きともなるとこちらは若干小走りになる。
控え室に入ると、ほとんどの部員の目がこちらに向いた。一部姿が見えないのもいるが、きっと私たちと同じように手洗いにでも行ったんだろう。オリバーさんは視線を素早く走らせて監督がいないのを確認すると、きっと呼び出された原因だろう場所へと進む。
ベンチに座る、震える手を握り込むレインさんの顔は真っ青だった。彼女のそばに寄り添うコハクさんもぎこちない笑顔で励ましながら背中を撫でている。私たちの足音に気付いたレインさんはぱっと顔を挙げて、へにゃりと眉尻を下げた。
「おりばー」
「レインくん」
どうしたの、と聞くことはなかった。口元を固くして名前を呼ぶだけ。膝を折ると、レインさんの手を握って優しく撫でた。同郷で顔馴染みがあるとは聞いていたがもしかしたら幼馴染だったのかもしれない。彼女の様子から何かを察したようで、目元を柔らかく細めた。力なく握り返したレインさんは困ったように微笑んで無理やり口角を上げる。
「ご、ごめん。大丈夫だ!少し、少し緊張してるだけで…すぐ、すぐ良くなるから、だから…」
「嘘おっしゃい」
部屋に入ってくるや否や、ピシャリとレインさんの言葉を遮ったレオス監督の手には救急箱があった。湿布を取り出すとレインさんへと差し出す。それが『通告』だと知っている彼女は酷く傷ついた表情を浮かべた。
受け取ろうとしないレインさんに湿布を差し出したま、監督は言葉を続ける。
「ピッチング練習を見てましたが、肩が上がっていなかったし、スライダーにもキレがなかった。疲労が溜まってガタが来てるんでしょう」
「……」
「すみません。君に背負わせすぎました」
「違う、わたしだってやれるって思ってた!」
「ですが部員の体調を、限界を見極めらなかった。これは私の責任です」
「っ」
「これ以上の無理は禁じます。君には春の甲子園でも投げてもらうつもりなんです。ここで壊すわけにはいかない」
厳しい言葉で告げる監督ではあったが、声色に覇気はなかった。肺を潰して無理矢理絞り出したかのような、掠れて震えた声は、『心配である』と白状しているようなものだった。
私のいる位置から監督の表情は見えない。でもきっとこの声色とさして変わりない、痛々しげな表情をしているのだろう。真正面から向けられたレインさんが、それ以上の抵抗の言葉を続けられないほどに。
彼女の様子を見て、オリバーさんがレインさんの代わりに、レオス監督が差し出している湿布を受け取る。湿布が自身の手からすり抜けていくと同時に、レオス監督が言葉を発する。
「オリバーくん。君がマウンドに立ってください」
湿布と共に受け取った言葉で、オリバーさんの手が一瞬強張るのが見えた。まっすぐ監督を見つめるヘーゼル色が揺らぐ。
「初めての先発です。不安はあるでしょう。その気持ちは分かる。ですが私は、投手二枚看板でやれているだろうという確信があります。厳しいことを言う私を恨んでくれて構わない」
普段はポケットの中に隠れている左手には救急箱がある。古びた木製の取っ手を力強く握りしめて、白手袋がぎしりと軋んだ音を立てたのを、確かに聞いた。右手でメガネの位置を直すフリをしながら口元を隠し、レオス監督は通達する。
「――君に、任せます」
オリバーさんは一つ、ゆっくりと瞬きをするとレインさんへ湿布を手渡し、おもむろに立ち上がった。静かな佇まいは、穏やかな雰囲気持っている。だがどうしてだろうか、潰されてしまうのではないかというような、心臓がいやな圧を感じる雰囲気を持っていた。
オリバーさんが長い前髪をかきあげて、緑色の野球帽を深く被る。長い前髪で隠されていた右目と合わせた、二つのヘイゼルアイが力強く光る。今日の私のバッテリーが、決まった瞬間だった。
「分かりました。監督」
監督は大きく頷くと、オリバーの肩に力強く手を置いた。お願いしますね、と声をかけるとその手をポケットにしまうと足早に部屋を出ていった。戦術手帳を取りに行ったんだろう。
「……まめこうの、意地を、みせろ」
淡く閉じた口の中でぽつりと呟いたオリバーさんの言葉は、自分に言い聞かせる言葉にしては、湿気のない、どこか乾いた色をしている気がした。
(監督 レオス・ヴィンセント)
我らがまめねこ工科は立ち上がりこそペースを掴めず一失点となったが、それ以降は全くと言っていいほど危なげない試合運びで追加の失点を阻止していた。六番以降の下位打線に至っては安打すら許していない。だがそれは糸島高校も同じで、春夏連覇のレギュラーでもある二年生が多く出揃うまめねこ工科に対して一点優位を守り続けている。
息もつかせぬ投手戦、二打順目に至っては互いにたったの一安打。相手の安打は二番打者。こちらの安打は……なんと、九番打者。
「オリバーの打率がぶっ壊れてる」
初打席。ツーアウト一・二塁、ライト前へ落とすヒット。二打席目。ツーアウト走者なし、センター前へ落とすヒット。
相手チームどころかまめねこ工科の応援席ですら戸惑っていた。それもその筈、投手戦が繰り広げられているこの神宮決勝の場において、投手のオリバーが唯一安打を重ねた選手となっているのだ。
五回裏が終わり打席が二巡した現段階で互いのヒットが片手で数えて余る程度しか出ていない。まめねこ工科のヒット数は四つ。うち二つをオリバーが打っている。
二打席連続安打。得点にこそ繋がらなかったが、対戦相手のピッチャーを捉えているのは間違いなく『投手のオリバー・エバンス』だった。更に彼は、一回表に一点取られたきりでその後は空振りとフライを量産し、バットの芯を捉えさせていない。
クローザーとして最終イニングを投げてきており、打席に立つこともなかった、実力がほぼ未知数の二番手投手。それが突如として神宮決勝に現れて投打ともに暴れまわっている。誰もが予想だにしなかった活躍に、観客は狼狽えつつも沸いていた。私としても嬉しい誤算ではあるが、戸惑いが隠せない。
「オリバーくん!!君、入部の時野球は初心者って言ってましたよね!?」
「……あはは。僕が逆境に慣らしてくれました」
オリバーは控えめに笑ってそう答える。私に相棒のまめねこを預けて、空いた手にバットを持ってネクスト・バッターズ・サークルへと出て行った。
その言い方に疑問が浮かぶが、クローザーというのは確かに精神的な負担は大きいから確かに逆境と言えなくもない。だが正しくいうのではあれば窮地に近いとは思うが、本人が逆境というならばそうなのだろう。……そもそも初登板でいきなり決勝を任せるのだから、逆境もいいとこか。
またしてもツーアウトで巡ってきた三打席目。走者は一・三塁。ドロップカーブを捉えてレフト方向へ引っ張った。
「あのオリバーが打った!」
「すごい!公式戦の打席に立ったのだってほぼ初めてだろ!?」
そこから続くのは一番打者。春夏連覇を達成した猛者たちだ。連打で六点を追加し、七回裏で糸島高校を一気に引き剥がした。
オリバーがその腕でもぎ取ったチャンス、そしてそのチャンスを生んだ右腕は続く八回表も出塁すらさせなかった。裏では七番・神田くんと八番・浮奇くんが手堅く塁に出る。静かに打席を見つめるオリバーの背中に声をかければ、彼はゆっくり振り返った。
「ゲッツーにならないよう奥に飛ばしてこい。できれば出塁したいから引っ張って…いや、流しで打って犠打でもいい、とにかく追加点が欲しい。次のひなPに繋げろ」
私の言葉を脳に刻みつけるかのように、メガネの向こうのペリドットの視線は揺るがない。やがて小さく頷くと、大人びた微笑みを見せた。
「おまかせされます、監督」
「……へ?」
オリバーはふいと視線を切ると、真っ直ぐと打席へ向かった。回ってきた四打席目。ノーアウト一・二塁。絶好のチャンスで打席に立ったオリバーを見たスタンドから歓声と悲鳴が上がった。まめねこ工科のスタンドからはオリバーコールが上がる。
じっと相手を睨みつけるオリバーの気迫に気圧されたピッチャーの手元が狂う。190センチの大男は存在だけ威圧感があった。揺らいだ硬球は意図しない回転を生み、キャッチャーが捕れないほどの変化量となってしまった。後逸したその隙を見た神田くんと浮奇くんが進塁。
ノーアウト二・三塁。
「オリバーが、何かを起こしている…!?」
君まで奇跡を起こすなんて。私はまた奇跡を望んでもいいのか。夏の準決勝のセカンドゴロ後逸のように。この高校に赴任して初めての公式戦でアーチを描いた浅井のホームランように。……私の初めての、甲子園出場の時のように。
私は思わず、三年分の雨水と汗で表紙がすっかり柔らかくなった戦術手帳を握りしめる。大きすぎる鼓動で胸が酷く痛む。無意識に詰まっていた息を大きく吐き出せば、カラカラになった口の中が熱を持った。
またとないチャンスに、打席に立つのは打率10割の投手オリバー。
彼のスタミナを考えればもう体力は尽きかけているだろう。笹木くんには『百球からが本番』などと言って投げさせたが、最初の頃はそこまで保たなかった。リリーフ向けの上級生と、野球のセンスがある同級生の助けを受けて投げてきている。笹木が二年になる頃にはその言葉を実行できるほどになってはいたが、対するオリバーはほとんどマウンドに立った経験が無く、投げ続けることに慣れていない。リリーフ候補は未熟な後輩か、体調を崩した同級生。下ろすわけにはいかない。
レインくんに無理はさせないと言ったくせに、今私はオリバーを酷使している。不甲斐なさで吐き気がした。
「(すまない。頼む、オリバー)」
優勢であることを維持しなければならない。体力で限界が来ているオリバーに、その隙を突かれて打ち込まれた時に精神まで負担がかかってしまい、失投に繋がれば簡単に立場は逆転する。満塁ホームランをされてもひっくり返されないほどの、絶対的な優位が欲しい。
「……犠牲フライでもいい」
代打も代走もしてあげられない今、出塁して走らせて体力を使わせるのも惜しい。九回表を見据えるならば犠牲フライが最適解だった。
点差を広げたい、と言葉を繋げるよりも早く。
オリバーのバットが、硬球を捉えた。
(ニ年生 オリバー・エバンス)
多分、傘から垂れた雨水で廊下が濡れていたんだと思う。足が盛大に滑って後ろ向けにすっ転んだ。
ごいん、と後頭部で鈍い音が響く。
「オリバーさん!?」
「エバさーん、おーい」
呼びかけで、思考の彼方へ飛ばしていた意識が戻ってきた。僕の顔を覗き込んでくる幼馴染がスカイブルーの瞳を見返すと、彼は小首を傾げた。
「急にボケっとしちゃってどうしたの」
「ああ、ごめん。次勝てば十勝目だろ?そう思うと、緊張しちゃってさ」
「あー、それはわかる」
夏の県大会、二回戦目。甲子園を狙うなら序盤もいいところだけれど、僕たちにとっては大きな壁でしかない。僕は、野球が上手くない。一年生の頃から起用して貰えてたけどそれは外野が少なかったからだ。今はコンタクトをしているけれど、入部した時はメガネをかけていたのを、アクシアくんだって知ってる筈だ。
「これが最後の夏だ。僕たちが、三年間育てて貰った僕たちが監督を甲子園に連れて行ける、最後の夏」
固くなり、震える手を握りしめる。サロメ嬢やシュウくんのように、チームを引っ張っていける訳じゃない。アクシアくんや樋口くんのようにコンスタントに打っていける訳でもないし、甲斐田くんのように守備が上手いわけでもない。
「副キャプテンとして、監督に期待してもらってるんだ。今日こそ、頑張らなくちゃ」
おまかせオリバー、なんて言われる事もある。オリバーは重要な場面でこそ打ってくれるから、とレオス監督がおだてて言った言葉がチームに広がったせいだ。それはいとも簡単に重圧へと変わる。
三年生野手の中で一番足が遅いから、長打を打たないとそもそも一塁へ進めない。目が悪いし元々器用ではないから、以前は球をバットに当てることがとことん苦手だった。でも、やるしかない。一年生の頃から出場し続けた経験値と、監督からの信頼と、鍛えてもらった恩に応えるしかないんだ。
握りしめた拳が軋んだ。その手を、相棒のまめねこがそっと触れてくる。心配してくれたようだ。拳を解いて、少し灰色を帯びた渋い緑色のまめねこを撫でれば彼は柔らかく微笑んで手のひらに身を委ねてきた。
僕も撫でろと言わんばかりにアクシアくんの相棒も、黒紺色の身体を擦り寄せてくる。親指で頭頂部辺りを撫でて上げれば猫のような鋭い牙を見せて笑ってくれた。
「最近おれが打席に立つ時とさ、ピッチャーがちょっと調子が悪くなるんだ。なんでか知ってる?」
「君が強いからだよ」
ふと、アクシアくんにそう声をかけられる。分かりきった答えを伝えれば、ちょっとだけ不満そうに唇を尖らせた。
「違う。エバさんがネクスト・バッターズ・サークルで睨みを聞かせてるからだ」
アクシアくんは僕の隣に腰掛けて、艶がすっかり失われたヘルメットを掲げた。細かなキズが沢山ある、まめねことはまた違う相棒だ。
「エバさん意識してないかもだけど、前の打者を見守ってる時、力強い目をしてじぃーーっと見てるんだよ」
空色の瞳が僕に向いた。好奇心旺盛な猫のような目だ。
「ベンチにいる時は『頑張れ行けるぞカッコいいぞ!』って黄色い声援飛ばしてくれるし、『どかすか打ててえらい!』ってお祭り騒ぎで喜んでくれるけど、あの場所にいる時は、じっと見守るんだ」
差し出されたヘルメットを受け取る。バトンのように渡されたそれは金属バットよりも軽くて持ちやすい。頭を守るにしてはほんの少し心許ない、でも確かに必要なこれ。ひっくり返してまめねこたちを入れて持ち運ぶ用の道具であることが多い防具だ。
「それが、おれたちにとっては背中を押してくれる声無き声援なんだけど、ピッチャーにとってはとんでもない威圧感なわけ」
「……確かに、タッパがある僕が打席に立つとなんか威圧感があるみたいでピッチャーがビビるけど、まさかその前からビビらせてたんだ」
「うんうん」
彼は軽く拳を握って、僕の胸をトンと叩く。真似をしたまめねこたちが僕の手のひらをポンポンと叩いてくるのが可愛らしかった。
「おれが打ててるのは、エバさんがピッチャービビらせてるから。そしてエバさんが応援してくれてるって思ったらノリノリで打席に行けるワケ」
快活な微笑みは、チームを支えるセンターとして頼もしさを感じた。かつては二塁を、今はセンターを守備位置として、センターラインを支える優秀な野手。足が早くて流し打ちが得意な彼は、打席で放つ独特の雰囲気で相手チームを惑わす球場の魔物にもなり得る。
「だからエバさんもさ、ノリノリくんで行こうぜ」
「なにそのノリノリくんって」
「えっ知らんの?最近エバさんなんか有名になっててさ、他校のやつらが『楽園村のノリノリくん』って呼んでるらしいよ」
「僕のどこからノリノリ要素出てきた?おかしくない?」
「チームを盛り上げ連打させて、観客を盛り上げてテンションを上げて、ノリノリで安打を打ってくるから、だっけ?エバさん甲子園出場して『愛知のノリノリくん』になろうや」
「恥っず!勘弁してよ」
恥ずかしくなってアクシアくんの肩をバシバシと叩けば、彼はケラケラと笑ってお返しと言わんばかりに背中をパシリと叩いてきた。
それを、僕は、“僕”として見ている。
彼は誰だろう?と疑問に思うのに、目の前にいるのが同級生だと分かる。この三年間一緒に戦ってきた、同じ外野仲間のセンターだ。ニパ!と明るく笑う彼に対して友人への情を強く感じる。同じ村の出身だけどその中でも特殊な地域なのか同郷を持つ者への親近感があった。多分、僕とレインくんのような、そんな感じだ。
鏡に映る姿は、当たり前だが僕だった。でも僕にしては少しだけ違和感ある。“僕”は僕よりも少しだけ背が高くて、少しだけ大人びた表情をしていて、野球をしている時は前髪をまとめてる僕と違って長い前髪をそのまま垂らしている。
「まめこうの意地を見せるぞ、オリバー・エバンス」
鏡の中の自分に向かって、そう言い聞かせる。戦力では負けるかもしれない。だが、気持ちで負ける気はない。逆境には慣れてる。……そう“僕”は感じた。
…………。
また、“僕”の打席だ。
さっきは左打席に入ったけど、今度は右打席に立つ。いったい“僕”はどっちの打者なんだろう?というか、僕を含めた一番から四番までが打席を右に左と移動してる気がする。
まさか両打者?いやそんな訳ない。一つの打席でヒットポイントを覚えた方が効率がいい。わざわざ投手や打ちたい方向によって打席を変えるなんてそんな奇策があるなんて――
ああ、でも。レオス監督ならあり得るかもしれない。
レオス監督が就任するまで一勝もしたことがなかったらしいまめ工が、たったの二年目で甲子園出場を果たして、春甲子園で全国制覇した。三年目には夏甲子園も獲って春夏連覇だ。自チームだけでなく相手チームの情報も揃えて打球を飛ばす先を計算するくらいのデータ野球をしているならば、戦況に合わせて打席を変えることくらいすると思う。
「(さあ、ここだぞオリバー)」
アクシアくんが塁に出た。今は二点のビハインド、僕の一打でアクシアくんを進塁させたい。後に控える打者は樋口くんだから安心して任せられる。アクシアくんを進めさせさえすれば樋口くんの一打でアクシアくんは帰って来れる。……でも、欲を言えば僕がアクシアくんを帰す打者になりたい。
「(僕たちの……“まめ高”の意地を見せろ)」
ゆるやかにバットを握り直す。僅かに足を開いて右足に体重を乗せる。振り切れ。早く、そして高く飛ばせ。
七月上旬の暑くなり始めた、でもまだ柔らかい太陽が色素の薄い目を焦がす。白い肌は日焼け止めがなければとっくに全身が火傷まみれになっていただろう。だがこの程度の逆境なんて、もう慣れた。
身体を捻って遠心力をつける。振り抜いたバットは最後まで重く、バットの芯が硬球を捉えていたのを身体全体で感じた。キンと甲高く小気味良い音が響く。力強く持ち上がった硬球は、そのままスタンドへと吸い込まれていった。ホームランだ。僕はガッツポーズをしながら悠々とベースを踏んでいく。さながら凱旋のようだ。そして、ベンチに戻るや否や。
「やっぱおまかせオリバーよ!よくやった!!」
南国の海のようにキラキラと光るエメラルドグリーンの瞳を輝かせる監督に、ワシワシと頭を撫でられた。
「オリバー大丈夫か?」
気が付けば、神田くんとボボンが僕の顔を覗き込んできていた。すっ転んで頭を打ったのを思い出す。鈍く痛む後頭部をさすりながら、ボボンの手助けを借りて立ち上がる。身体に不調はなさそうだった。そう答えれば早速レインくんの元へ連れていかれて、そしてレオス監督からの通達。
「――君に、任せます」
――やっぱおまかせオリバーよ!
あれを、ただの白昼夢と片付けるのは、勿体なかった。おまかせオリバーなんてよく分からない呼ばれ方をされているらしい“僕”も、きっと同じ言葉を貰ったんだろう。力強く“僕”を見つめるエメラルドグリーンに応えようと奮起したのだろう。秋も、春も、夏も勝ち進んだ先輩たちとは違ってきっと苦しい戦いをしてきた“僕”は、それでもチームと監督の期待を背負って前を向いた。
同じく夢見心地で見るのならば、春夏連覇なんてフィクションみたいな現実よりも、よっぽど現実味のある夢だった。
いざマウンドに立てば、フォアボールを出した上にインコースに入った球を狙われていきなりの失点。でもここで気合が入ってその後は何とか無失点で抑えた。打たれても大抵は背中にいる仲間たちがアウトに抑えてくれる。これほど心強いことはない。
投で支えられたなら、打で支えたい。ピッチャーとしては見当違いな意気込みだったけれど今日だけはうまく行く気がした。しかも幸運にも投球に恵まれて、初打席、二打席目、三打席目と安打を重ねた。うち一回は得点に繋がった。
そして、四打席目。“彼”に倣ってピッチャーを睨みつければ、彼より頭ひとつ分大きい大男の圧に調子を狂わされたのか、コントロールを欠いて硬球をキャッチャーの足元に差し込んでしまう。後逸の隙をついて神田くんと浮奇くんが進塁する。一気に得点のチャンスへと場面が進んでしまった。
スタンドから聞こえる悲鳴と歓声が、冷静でいようとする思考に熱を差し込もうとしてくる。短く息を吐いて、頭を振ってはやる気持ちを払う。
「(まめ工の、意地を見せろ)」
僕は“彼”みたいに威圧感を持つことはできない。でも、向こうが勝手に気圧されてくれるなら、それでもいい。僕は“彼”に倣ってバットを握り直す。僅かに足を開いて右足に体重を乗せる。振り切れ。早く、そして高く飛ばせ。塁を進める役割から、本塁へ帰す役割に変わったとしてもやることは変わらない。まめ工の二番手ピッチャーとして監督に期待してもらってるんだ、それに応えろ、オリバー・エバンス。
両の目でしっかりと球を見据える。奥歯を噛み締めて口を固く結ぶ。縦に伸びたこの身長が活きるなら存分に活用してやろう。
スタンドから聞こえる声援は、ベンチから届く眼差しは、金属バットを重くさせた。緊張で喉の奥がギュッと締まる。おはる先輩やイッテツ先輩が背負い続けた、そしてコハックやボボンが背負い続けてる期待の重さで、追い詰められる苦しさだ。集中力が視界を狭める。連打を浴びても精神的に追い込まれることなく打たれ強さを発揮しているピッチャーが、それでも顔と指先を強張らせていた。互いにメンタルは限界だった。渾身の力で投げられたのは、シュート。変化が美しく、素晴らしいシュートだけど……僕の先輩が投げていたシュートは、もっと抉るような、そして速い球だった。
――ゲッツーにならないよう奥に飛ばしてこい。犠打でもいい、とにかく追加点が欲しい。次のひなPに繋げろ。
僕にパワーはない。けれど身長に比例した体積を活かして、身体を捻って遠心力をつける。振り抜いたバットは最後まで重く、バットの芯が硬球を捉えていたのを腕全体で感じた。腹にまで響くあの感触はない。でも、遠くまで飛んでくれる。
高く持ち上がった硬球は、ライトが捕えてしまった。だがその隙をついて三塁の神田くんがホームへと帰ってきてくれる。これで五点差。レインくんがクローザーになっても余裕がある。ヒスイくんに経験を積ませても良い。
「完璧すぎだろマジで!オリバーくん、お前仕事人すぎるぞ!」
ベンチに戻るや否や、レオス監督が嬉々とした顔で迎え入れてくれた。今にもハグしてきそうなほど大きく両手を広げたことで白衣の裾が広がり、実寸よりも身が大きく見える。ハグするべきか会釈してスルーするか……。冷静に考えをまとめて、後者を選択し頭を下げると、節のある手が頭をワシワシと撫でた。監督の肩の上から僕の相棒まめねこが飛びついてくる。
「このまま九回裏も頑張ってください!」
「え」
「さあ皆さん!我らがまめねこ工科高校は『うたとれ』のチームだ。オリバーくんを支えて、チームで勝つぞ!」
おお!と気合の入った雄叫びが先発組のみんなからあがる。代わりに僕の口から漏れ出たのはため息だ。おかしいよ、初めての先発ピッチャーで最終回まで投げ切るなんて。もう百球近くは投げていて、疲労で目は霞んでる。腕はヘロヘロで、受け取った白球が何故か軽く感じる。
「嘘だろ……」
「オリバー!」
突然、バチン!と思い切り背中を叩かれる。振り返って確認するよりも早く、視界の端で赤い髪が宙を踊っているのが見えた。可愛らしい笑顔が僕の顔を覗き込んでくる。
「うぉあ、いってぇ!」
「気合い入れろー!胴上げが待ってるぞ!」
「レインくん!?でも、君がずっと頑張ってたろ。最後くらい君が……」
「わたしはもうたくさん校歌歌ったからいいよ。それに、今日のヒーローはオリバーでしょ?」
「……」
「今日はあげる。でも、春か夏の夏甲子園では胴上げ選手はレイン・パターソンがやるから。覚悟してね」
力強い灰色の視線が真っ直ぐと僕を射抜く。ずっとここまで頑張ってきた彼女は悔しさを見せつつも晴れやかに笑った。レインくんが信じて任してくれるなら僕は応えなければならない。先輩たちに見せてもらったその技術、レインくんが向けてくれた信頼、監督に鍛えてもらったスライダー。全部を持って戦おう。
「望むところだ、戦友」
大きさの違う拳をコツンと合わせる。今日初めて、監督が口にしている『投手二枚看板』の名前が身体に馴染んだ気がした。
僕はちょっと変化球の幅が多いだけで、まだまだレインくんのように鋭い変化球を投げられない。ヒスイくんのように球種が多いわけでもない。僕は少し左打者に強いだけ。それでも僕は僕なりに戦えたような、そんな気がした。
マウンドに立つ。もう白球は軽くない。指に引っ掛けたフォークとシンカー、油断させたところでナックルカーブを入れて、ストレートでねじ込みに行く。レインくんのようなノビのあるストレートは持ってないけれど、真似することはできる。
ワンアウト。ツーアウト。一回塁に出られたけど、全然焦ってない。みんななら止めてくれる。みんなに支えられて僕は二枚看板の一人になれた。
バッターを睨みつける。僕と同じ二年生。鋭く曲がったフォークボールを捉えられたが勢いは無い。ショート真正面。コハックが捉えて――試合終了。
湧き上がる熱と歓喜が身体を震わせた。
「やったああああ!!!!」
駆け寄ってきたキャッチャーの神田くんに抱き付けば、嬉しさとは別の悲鳴が聞こえた気がした。
マウンドに集まってひとしきり喜んだところで、キャプテンのロハちゃんの号令でスタンドの一角へ目を向ける。指差した先にいるのは、勿論。
「せんぱーい!!」
そこには、見慣れた頼もしい姿。
ほぼ確実視されたプロ野球選手への将来に向けた練習を始めた、もしくは次期社長としての学習を開始させた、先に進んでいく先輩たち。
大きな背中を見せてくれた先輩たちと向き合う。手が届かないほどの距離があっても、すぐそばにいるような気がした。
さあ、この時がやってきた。
公式戦どころか練習試合ですら勝てたことがないまめねこ工科高校野球部を、甲子園まで連れて行った先輩たちが。春には紫紺の、夏には深紅の大優勝旗を持ち帰った彼らが唯一持ち帰るのを忘れてしまったものを、届ける時だ。
僕たちは人差し指と中指を立てると天へ掲げる。思い切り息を吸い込んで、腹から声を張り上げる。
「「「わーすれーものー!!」」」
先輩たちは僕たちを見下ろして、右手を持ち上げる。佐々木先輩とイッテツ先輩は、楽しそうに飛び跳ねながら。おはる先輩と鷹宮先輩は僅かに瞳に涙を浮かべながら、レンくん先輩と加賀美先輩は、ニカリと少年のように笑いながら。
勝利のVサイン――いや、まめねこ葉っぱのYサインを、天高く掲げた。
(オリバー・エバンス)
「オリバー、ほんと人気者になっちゃってさぁ!もう鼻高々よ。でも春夏秋連覇させた名監督のレオス・ヴィンセントにはなんもない!俺のこと褒めろよなぁ!?」
「はいはい、監督すごい」
「世間も世間だっつの。あんだけ活躍したんだからオリバーにも称号くらいつけろよなぁ。魔術師とか、剛腕とか、計算機とかさぁ。キャーキャー言う前に他にもっとつける名声あったろ!?優先すべきもんがあっただろうがぁ」
「そうですねぇ」
「オリバーくんもそう思いません?」
「んー、まあ、思いますね」
「はぁ……まあマウンドであれだけ活躍したし、打席でバカスカ打ちまくったから、そりゃそうか」
酒に酔って真っ赤になったレオス監督は、血色が良くなった下唇を突き出してゔゔゔゔ…と低く唸っている。少しずつ、人差し指で机をトントンと叩く音が大きくなっていた。よほど不満なのだろう。それを、こうやって僕にダラダラとからみ酒するほどに。
僕はレオス監督の肘あたりにいる監督まめねこくんにそっと手を伸ばして避難させる。満腹で眠くなってしまったらしく、僕に触られても警戒心なくもたれかかってきた。多分数分もしないうちに寝落ちしてしまうだろう。監督まめねこくんの口元についた食べかすを指で払い落としてから、レオス監督の方へ再び視線を向ける。
「知りませんでしたよ。監督がそんなに口が悪いなんて」
「そりゃ“勝ちナシ”の新人監督でしたからねぇ?ただでさえ不甲斐ない結果しかあげられなかったんだから、謙虚でいなきゃでしょ」
自嘲するように口角を釣り上げたレオス監督は、手元のお酒をまたぐびりと飲み込んだ。飲みすぎてヘロヘロにならないで欲しい。監督が飲んでるのを見るのは今回が初めてだけど、多分そんなに強くないのは見てて分かる。
「それに、そんな余裕なかったからね。私のせいであの子たちに前を向くことを諦めてほしくなかった」
監督は僕の目を見ているけれど、どこか遠い目をしていた。僕の目を通して何を見ているかはすぐに想像がつく。ダムの底に沈んでしまった、もう音のない思い出たちだ。
「オリバーくん?どうしたんです?」
「いえ」
僕は思わず漏れてしまった笑みを隠せなかった。いつも前向きな監督の、ほんのちょっぴりの哀愁。話し始めると止まらないし声はデカいし社交的だけど、僕たち部員のお喋りを楽しげに聞くだけで喋りかけないとずっとそのまま黙ってることだってあった。そんなギャップは、今になってから見えてくる。
「いい監督だなぁって」
案の定、ぽかんと呆気に取られたレオス監督は、ゆっくり言葉を飲み込んでから気まずそうに目を逸らす。
「……あー、いや、そんなんじゃないよ。私は悪い監督です」
「謙遜なんか似合わないですよ」
「そりゃそうでしょ。私は謙遜なんかしません」
柔らかく笑いながらもニヒルに口角を持ち上げる。少しはしろよとツッコミを入れれば監督はケラケラと笑った。
「能力や癖を数値化してデータ野球する非人道的でわるぅい監督。そのクソ野郎の下でスパルタ教育された子たちが、不屈の精神で育ってくれただけです。ね?悪いやつでしょう?」
そうは言うけれど、エメラルドグリーンの眼差しには、誰よりも熱が入っていた。背中を押す手はいつだって力強かった。心を鼓舞する大きな声はいつだって前向きな言葉を投げかけてくれた。寄り添いつつも前を走って、僕たちが走れるようになったら背中を叩いて送り出してくれる。
そんな男が非人道的なんて誰も信じないだろう。きっと誰よりも野球部を大切にしてくれる、一生懸命になってくれる人だ。
僕は手元のグラスを傾ける。喉を焼くウイスキーは二十歳の僕が飲むには少し背伸びしたお酒だったけれど、レオス監督が飲んでいる甘いサワーよりもこっちの方が好きだった。
「んふふ。そういう事にしてあげます」
「オリバーくん大学に進んでから生意気になってなぁい?」
「そんなことないですよ」
きっと、僕に向けた眼差しと同じものを、甲子園優勝をしてみせた三年生たちに、そして一躍人気者になった“オリバー”にも見せてるんだろうな。いつまでも心の支えとなってくれる恩師。
でもちょっとだけ悔しいし恥ずかしいから、あなたのひたむきな背中に憧れて、一つの物事を極める学者を目指す事になった、なんて言わない。
それは僕がもう少し大人になってからだ。