科学国出身の博士と魔法国出身の教授が、旅先で出会うはなし 高速電車で約五時間乗った先の異国は、祖国と比べて紙タバコへの規制が緩い。大きい駅とはいえ喫煙所が二つもあったのは私にとってはとても優しい。だが街中はやはりそうもいかないようで私が徒歩圏内で見つけたのはこの庇の下しか見つけることはできなかった。
尻のポケットに入れたタバコの箱とジッポを取り出す。タバコを一本歯で咥えて取り出して、箱をしまってからジッポを構える。……ザリ、と乾いた音が連続する。そろそろ限界だと知ってはいたが、遂に火がつかなくなってしまった。マッチでも100円ライターでもいいから持っていないかと懐を探るが気配は無い。バッグの底も漁ってみるが、駅前でもらったチラシといつのものか分からないハンカチ、そして最低限の現金しか入れていない財布があるだけだった。漏れる舌打ちを隠せない。
旅館に戻ろうとしたところで、横から手のひらが近付くのに気付く。それは三本の指を擦って、指先に淡い青緑色の炎を灯した。
少し視線を上げれば背の高い男が柔和な笑顔をこちらに向けていた。私もそれなりに長身ではあるが、男は私よりも拳一つか二つほど目の位置が高い。
「よかったら」
「……あー、どうもすみません」
タバコを咥えて顔を近付ける。少し強めにフィルターを何度か吸い着火を呼び込む。やがてじわりと火が灯り重たい煙が口の中を満たした。男はそれを見届けると手を握り込んで小さな炎を消す。紫煙をゆっくり飲み込んで、肺がどっぷりと重くなっていく苦しさが愛おしい。
タネも仕掛けも存在しないその現象を読み解こうとも思わない。魔術師か、と男のヘイゼルアイを見つめながら思考を走らせる。帝国の方ではほとんど見ない、魔力を持ち、操れる部類の人間だ。この男が住んでいるだろう王国でもおそらく私のような魔力の低い人間は見ないだろう。物珍しく思って声をかけてきたとかそういう事に違いない。
それならば暇つぶしの話し相手にでもなってもらおうか。
「そちらも観光に?」
ゆっくり煙を宙に吐き出しながら半歩横に動き、日陰に男一人がもう一人立てる分だけのスペースを開ける。問い掛ければ男は僅かにはにかんで並び立った。彼は壁に背を預けて腕を組むだけで自らのタバコを取り出すことはない。なんだ、喫煙者ではないのか。
「はい。オフシーズンに温泉でも楽しもうかと」
「あら、奇遇ですねぇ。私もですよ。すぐそこに宿とってます」
「僕もこの近くで三泊するんです。もしかしたら明日とかまた見かけるかもしれませんね」
「ンね。そうしたら、まあご縁って事でメシでも行きましょうか」
「いいですねぇ。うまそうな居酒屋いくつか見つけたので、気に入ったところがあったら案内しますよ」
お互いに実行されることはないと薄々感じていながらも約束を交わす。
この辺りは宿がいくつもあるし、私が宿泊しているのは露天風呂がついていない安価な場所。折角羽を伸ばしに共和国まで来たのだから、充分なもてなしを受けられる有名な老舗の方を選んでいると思われる。小洒落た金細工のブローチやよく手入れされたステッキを見るに、ケチな人間ではなさそうだ。
「喫煙所もあったらいいですねぇ。私の泊まるところ吸えないんで、ここまで来てるんですよ」
「はは…うん、喫煙可の席ですね、分かりました」
「お願いしますぅ」
「ああそうだ、タバコといえば…。その火灯し、僕魔石の予備を持っているのでお分けしますよ」
「え?いやいや、これはただのジッポですから。ガス買うんで」
「じっぽ?…ああ、らいたー、とかいうやつですか?」
「嘘だろ」
未知のものを見るかのような男の視線に、流石に呆れが勝る。ライターなんて何百年も前からある、ローテクと呼ばれる類の着火機器だ。
帝国では電気式ライターが主流で、タバコ自体も電子タバコへとほぼ置き換わってしまっているので王国に出荷しているものも電子式かもしれない。だがライターの存在自体を未知の物質扱いされるとは思わなかった。男の不思議そうで、それでいて楽しそうな表情を見るに、嘘や冗談ではなく本心から未知のものを楽しんでいるのだろう。
こちらとしては指先を燃やせる方が物珍しいが……これが国を隔てた常識の違いか。
私はスマホを取り出して通販サイトを開く。お気に入りからガスと、ついでにタバコも買い物かごに入れる。空速便だから今日の夜には手元に届くだろう。一定額以上で送料無料になるので、タバコはその点難しいことを考えなくて良い高級嗜好品だ。
「へえ。今ので注文できるんですね。帝国のでんわは便利だ」
「そっちは手紙が主流なんですっけ。でも念じればいいんでしょう?」
「十五歳になったら、特殊な羽ペンを使えるようになるんですよ。紙と羽ペンに魔力を込めて印字する。それを飛ばして配達依頼をします」
「はぁ。いいですねぇ」
私も紙面に文字を書いてアイデアをまとめ、それを見直すことが多いので筆記は肯定派だ。保管に場所が必要になるのでデータは電子で管理しているものの、やはり本やメモというのが脳にスッと理解が通って個人的な好みでもある。だが書いている間にアイデアが記憶から飛んでしまうこともままあるので、脳で浮かべた文言を即印字ができるならば漏らすことがなく便利だ。
帝国でもそういった魔法を使える人間はいるが、限りなく少数。その文化圏の中で生きている人間から話を聞けるのはいい機会だ。
ふとその時、上着の中がもぞつく。隠し持っていたまめねこが痺れを切らして顔を出したようだ。頭の双葉がぴょこんと飛び出したのを、目の前の男は見逃さなかった。
「あっこら!出てくるな」
「まめねこじゃないですか、珍しい。使役するのはすごく難しいって聞くのに」
「え?あ、ああはい。でも使役はして無いですよ」
てっきり、違法所持だ!と咎められるかと思ったが男はのんびりと構えて、寧ろ感心してみせた。どうやら使い魔契約が一般的に存在している王国の方では『双方合意のもと共にある』ことに重きを置いて『不法所持』の方はあまり重要視されていないようだ。男にバレないようにそっと胸を撫で下ろす。
魔法使い相手に忘却薬がどれだけ効くか分からない以上ギャンブルはできない。使わないで済むならば一安心だ。
「勝手に私の家に住み着いてるだけです。そのくせ置いてくなーって駄々こねるから連れてきました」
「へえ。かわいいね」
まめねこに手を伸ばして、耳の辺りを指先で撫でる男は本当に警戒していないようだ。なりは小さいし力も弱い、不思議生物ではあるが、少なくとも魔力に適応できる魔法生物だ。そんな危険生物を愛でられるなんて、さすがは魔法を隣人とする奴らだ。
撫でられるまめねこは心地よさそうに顔をうっとりとさせて耳をピクピクと震わせている。構われて満足したのか引っ込んでいったまめねこを合図に、彼は私と半歩距離を取った。
それに合わせて、自分もタバコを灰皿スタンドに捩じ込む。パチリと静電気のような音と共にスタンド内で分解されていく。
「では僕はこの辺で。構ってくれてありがとう。また会えたら、その時はよろしくお願いします」
「こちらこそ、火、ありがとうございました。まめねこ共々、いい店期待してますよ」
にこりと微笑んだ男は、あなたに精霊の祝福を、と言葉を残して去っていった。てっきり、あの手のお喋り好きそうな人間には会話を長々とされるかと思っていたが簡単に切り上げられて拍子抜けする。
これ以上話が伸びれば確実に飽きて対応が面倒になっていただろうが『もう少し話してみたかった』の段階で立ち去られてしまった。相手は意図していないだろう。駆け引きが上手だと少し悔しい気持ちになる。
「…おっと」
胸元のシャツがグイッと引かれる。私の顔を見上げるまめねこがこの後行くべき方向へと指差して『早くメシを食わせろ』と訴えてくる。
「分かった、分かった!店は逃げないんだから急かすんじゃない」
まめねこの期待に引っ張られるように、私は喫煙所を後にする。目当ての店は大通りから外れたところにある個人経営の大衆食堂。旅行先で地元の味を食べるなら、そういう場所が丁度いい。
昨日見かけた帝国人の男性が少し濡れた髪の毛を初夏の風に靡かせながらタバコの煙を燻らせている。温泉を堪能したはいいものの髪の毛を乾かさないままでタバコを吸いに来たらしい。もうタバコの中毒なのだろう。
立体映像を指先で叩いているのを何となく眺めてみるけれど、操作している人からしか中身が見えないようになっているのかここからだとただ半透明の黄緑色が光っているようにしか見えない。
電子器具を使ったり、立体映像を使ったり、帝国の人間は器用だ。僕の使い魔であるサムのように手となり目となり足となる子がいる訳でもなく、自分一人の力で生きていける賢さと強かさがある彼のような人間は素直に尊敬する。
じっと見すぎたせいか、彼はふと顔を持ち上げると視線を辿って僕に目を向けてきた。少し不躾だったかと謝ろうとする。しかしそれより早く、彼は私をじっと見つめながら手のひらを上に向けてこちらに腕を伸ばしてきた。視線こそ僕の目を鋭く見てくるけれど、手が指し示す先は、僕の手元に向けられている。……手元にある、さっき屋台で買ったばかりの肉串の入った紙袋に。
これ?と軽く紙袋を振ると男性はこくんと頷いた。まじか。正直すぎる彼の行動にある意味清々しさを感じて、逆に好感が持てる。戸惑いつつも近付けば、彼は初日の時のように僕が立つ分のスペースを開けるために半歩横に動いた。
「君ほどのお人よし、見たことないっすよ」
「僕だって君ほど遠慮のない人間は初めてだよ」
取り繕おうともしない直球な言葉を投げられて、つい僕も同じように言葉を返す。どうやらそれは正解だったようで、彼は歯を見せて笑った。他所行きの言葉遣いがすっかり消えて、お互いこの一期一会を楽しむことにしたのを何となく察する。
彼はスタンド灰皿に吸い殻を捩じ込むと、もう一度手のひらを向けてくる。その手に肉串を差し出せば彼は大変満足そうに笑った。すみせんいただきますぅ〜とカケラも『すみません』となんか思ってなさそうに断って、まだ暖かい肉を頬張った。
僕も自分の分を取り出して、肉を一欠片口に入れる。口の中に広がる、少し苦味にクセのある、それでいてしっとりとした旨みを感じるスパイスは共和国南部にある領土の特産物だ。気候変動や土壌環境にひどく敏感で、その地域でしか育てられない貴重な植物は、まだ他国での栽培実績は上げられていない。
「……」
「……」
初めて味わうそのスパイスの風味を、そして羊肉のジューシーさを二人黙って堪能する。彼が二口目を食べようとする前に、声をかける。
「僕はエバンス。オリバー・エバンス。光エデン王国の…まあ、職業はいいか。通りすがりの他人くらいが楽しいや」
「んふ、私もそう思います。私はレオス・ヴィンセント。永平エデン帝国でイロイロやってます。……んで、これがまめねこ」
「こんにちは」
ちょい、と頭を下げた彼は――ヴィンセントくんは、下げた視線の先でまめねこくんが手を伸ばして大きく手を振っているのが見えたのか、紹介してくれた。手を振って挨拶するけれど、視線は僕と僕の肩あたりを行ったり来たりしている。どうやら、ヴィンセントくんには見えていないけれどまめねこくんにはサムが見えているようだ。お互いに手を振り合っている。
妖精であるサムと、妖精に近い存在のまめねこ。少なくとも土と木の国で生まれ育った僕と、電気と鉄の国で生まれ育ったヴィンセントくんとは比べるまでも無いほどに、かなり相性はいいらしい。
やがて肉串を食べ終わり、ヴィンセントくんはポケットから箱を二つ取り出した。一つは紙タバコが入ったもの。もう一つは、じっぽという名前の鉄製のらいたー。
「そう言えば、じっぽは付けられたんだ」
「ええ、ガス入れたんで」
「ああさっき言ってたね。すまほで買ったって」
「正確にはスマホでサイトに飛んで空早便で届けてもらったんですけどね」
ぽんぽんと分からない言葉がヴィンセントくんの口から飛び出してくる。その場に立ったまま手のひらサイズの電子機器を指でなぞっていただけで、露店に行ってもいないし、空を飛んでもいなかったんけど、どうやったのだろうか。
ヴィンセントくんの魔力量では、というよりよほど魔力が有り余ってる魔術師でもなければ遠い距離で使い魔を操ることはできない。聞いたところで理解するには時間がかかるから、また今度にしよう。
彼は懐からあの鉄の箱を取り出すと、カチンと高い音を立てながら蓋を開けた。回転歯車?に親指を添えて、すまほの画面を撫でるように親指を滑らす。ぼわりと僅かな音を立てて、青とオレンジの炎が灯った。妖精の鼓動も聖霊の祝福も、何も感じない。暖かいけれどどこか寂しい炎だ。
きっとこれが枯れ木を燃やしたならば、そこからは聖霊の領域になるだろうけれど、この鉄の箱に灯る炎は空っぽで、それがすごく珍しかった。混じりっ気のない熱の塊は僕たち魔術師では出すことはできない。
ヴィンセントくんは咥えたタバコの先に、その炎を添える。タバコの先がジリジリと小さな音を立てて燃えていく。甘いような苦いような、まだ慣れない煙の匂いが鼻の頭をくすぐった。
「へえ。じっぽ面白いなあ」
「やってみる?」
「みたい!」
「どうぞ」
ここのヤスリに親指を押し当てて、思い切りジュッ!って下ろすんです。と、説明を受けて彼の真似をしてみるも、かしゅりと乾いた音がするだけで火は灯ってくれなかった。うまく付けられなくてつい眉が寄る。ザリザリした回転歯車が親指の皮をじりじりと削ってきて少しだけ痛い。灯れ、と声をかけてみたけれど、空っぽの炎を灯す鉄製それには何も宿っていなくて、応えてはくれなかった。
ぷはっと空気が漏れる音が聞こえる。目を向ければ、ヴィンセントくんは目元を柔らかくとろかせてイタズラっぽく笑っていた。先ほどまでどこか人の良さそうな大人びた微笑みをしていたが、まるで無邪気な少年のような笑顔に少しだけ驚いてしまう。
「ンハハ、下手くそ」
僕の手から抜き取られたじっぽは、ヴィンセントくんの手の中でもう一度火を灯した。純粋な熱の塊である不思議な炎を灯しているそれは、何で僕の声には応えてくれないんだろう。少しだけ嫉妬してしまう。
手のひらに魔力を込めて右手の親指と人差し指を軽く弾けば、指先に魔力のこもった炎がポッと灯る。温度こそ低いけど、僕の場合は妖精の鼓動が乗っているからどこか賑やかな雰囲気のある、でも穏やかで温かい炎。ほら、僕だって火を灯すことはできるのに。
僕にとっては見慣れたコレも、目の前の彼にとっては珍しいようだ。カチンと小気味良い音を立ててじっぽの蓋を閉じると僅かに目を見開いてじっと僕の手元を見つめてくる。彼が気付いているかは分からないけれど、ヴィンセントくんの瞳の色と、僕が生み出せる炎の色はとてもよく似ていた。
「青緑の炎なんてどうやって出してるの。手に銅でも塗ってる?」
「銅?どうして?」
「炎色反応……あーえっと、簡単に言うと金属の粉とか化合物を火の中に入れると、金属元素特有の発色するって感じです」
「んー…魔力の性質によって炎の色が金だったり赤だったりする、みたいなもの?」
「多分そうです」
僕の手を掴んで顔に近付け、ジロジロと観察している様子を見ると、ヴィンセントくんは本当に研究者なんだなぁと納得する。流石にここまで無作法なことはしないけれど
全くと言っていいほど遠慮がなくて、本当に清々しい。彼も自身の手と僕の手を見比べながら、僅かながらに持っている魔力を込めて指を擦ってみたけれど、かろうじて一度だけ小さな火花が散っただけでそのあとは形にはならない。
「僕もじっぽ見たいよ、もっかい出して」
「後で。どうせもう一本吸う時に火ぃ付けますから」
「三本も吸うの」
「ここの空気はうんまいから、タバコも進むのよ」
そんなもんか?と首を傾げる。パイプを吸う先輩や同僚に合わせてそういったものを嗜みはするが、好き好んでタバコを嗜むことはない。ちょっとふかすだけの僕には分からない世界だ。
「もう一本吸ったら、君が見つけた居酒屋に連れて行ってください」
「お、いいよ。丁度いい場所があったんだ、お酒もご飯も美味しくて喫煙可で――」
「うっそマジで!?んじゃ早く行きましょうよ!」
急に大声を出したヴィンセントくんは、急いでタバコを吸い終わろうと思い切りフィルターを吸い込んだ。ジリジリジリとものすごい速さでそれは灰へと変わっていく。急がなくてもお店は逃げないし、僕も急かすつもりはない。急ぎたいのにタバコは吸い切ろうとするあたり、彼は本当にタバコが好きなのだろう。
ご飯の気配を察知したのかまめねこくんがヒョイと上着の内側から身を乗り出した。目を輝かせるまめねこくんの期待にも応えられるといいのだけれど。多分煙たいのはそんなに好きじゃないだろうし、魔法障壁の中に入れてあげよう。
「さあ、さあ、さあ!エバンスくん、ほら早く案内して!」
「分かった、分かった!」
吸い殻を忙しなくスタンド灰皿に捩じ込んで、僕に詰め寄るヴィンセントくんのはじけるような笑顔は、胸元のまめねこくんとそっくりだ。いいコンビで微笑ましい。彼の期待に押されるように僕たちは喫煙所を後にする。
まさか、本当に彼と居酒屋に行けるとは思わなかった。奇跡のような偶然。今回の旅は本当に楽しいなぁ。
『良かったでやんすねぇ』
「うん、良かったよ」
「なんですって?」
「いいや、いい店を見つけられて良かったなぁって」
「ああなるほど。確かに良かったですねぇ、ほーんと」
サムのことを紹介できたらいいのにな。そう思うほどには、何故か親しみを持てた。
あの喫煙所に行けば、案の定ヴィンセントくんがタバコを吸っていた。彼も、僕が来ることも想定内だったのか軽く手を上げて挨拶してくれる。
僕はスーツケースを引いてヴィンセントくんの正面に立つ。彼は色付きのシャツに、パンジーのような青紫色のネクタイを締めて、白衣を羽織っている。…これが、彼の本当の姿か。
「最終日まで君に会うとは思わなかったな」
「私だってそうですよ」
「旅先の思い出、美味しいご飯とかあったはずなのにもうヴィンセントくんでいっぱいだ」
「ハハハ!よかったじゃないですか。楽しい想い出がいっぱいで」
「この野郎」
否定は出来なくて悪態をつけば、彼は子供のようにケタケタと笑った。本当に、疲れを癒す目的の旅がまさか面白珍道中になるとは思わなかった。酒場で彼がする話題は僕が経験することがないだろう事で溢れていて、でも幼い頃に見たテレビ番組は書籍の話題は一致して盛り上がって、気が合うようで全く違う会話を楽しんだ。
ひとしきり彼が笑ったのを見てから、僕は上着の内ポケットに入れていた紙袋を取り出す。それを手渡すと、ヴィンセントくんは首を傾げながらも受け取って中身を手のひらの上に落とした。ころん、と出てくる彗星の形をした金細工。
「なんですこれ」
「ネクタイピン。すぐそこの露店で見つけてさ、なんか君を思い出したんだ」
「高かったでしょう、これ。こんなの貰っていいんですか?」
「これ自体はそんなに高くないよ。後から妖精の息吹をこめてるから、そのまじない料金を含めたら高いかもね?」
「へぇ」
反応が薄いのも僕にとってはあり得ないことなのだけれど、ヴィンセントくんは本当に不思議そうな顔をしているから、これが違いかとすぐに納得する。帝国の人間にはしっくりこないだろうけれど、王国の人間には妖精のまじないはとても貴重で、重要なお祝い事の時に贈り物として使われる由緒正しいものだ。
文化人類学者として、永平エデン帝国に魔法文化が根付いていない証拠をこうして目の前で見ることができて面白い。ネクタイピンを光にかざしてその輝きを見るヴィンセントくんは、その輝きの不定さを面白がっているようだった。
「いろんな色に反射するんですね。君とお揃いですか」
「僕のブローチは確かにまじないを込めた金細工だね。薔薇だけど」
「まあ、いいんじゃないんですか?時の流れで簡単に命尽きてしまう私には、永劫にも近いほど長くて遠い世界が広がる宇宙を。千年を刻む巨木のように永き時を生き続けるあなたは、この地で静かに生きる儚い一輪の花」
彼は僕の目を、じっと見つめた。
「いい趣味してるじゃないですか」
ヴィンセントくんのその言葉は最大限の皮肉にしか聞こえないのに、彼の表情は呆れながらも柔らかく微笑んでいた。思考や言葉は天邪鬼でも、表情と言葉がずっと一緒の素直な彼が見せた、捻くれた感情表現。気のせいかもしれないけれど、ふにゃりと笑うその顔で少しだけでも喜んでくれたようで何よりだ。
そんな優しい表情を見せたのも、ほんの数秒。タバコを燻らせる時のような静かな表情になると、ふと俯いて自身の胸元に手を伸ばした。アルミ製の四角いネクタイピンを外してズボンのポケットに仕舞い込み、僕が渡した金細工を付ける。
僕の顔を見上げてニヤリと笑った彼の姿は、まるで買って貰ったばかりの靴を「かっこいいだろ」と自慢する少年のようだ。太陽の光を反射して、アイスグリーンがキラリと光る。幻想的な桃色が柔らかく瞬いた。
「では私からはこれを」
彼はポケットを漁ると、あの鉄の箱を差し出してきた。手のひらの上に落とされたじっぽがずしりと存在感を示している。僕はじっぽとヴィンセントくんを何度も見て、彼が間違えた様子がないことを確認してから問いかけた。
「いいの?」
彼は一瞬、視線を明後日の方向に向けた。
「最近新しいのが欲しくなったところなので。次会うことがあったら、その時は付けられるようになっていなさいよ」
「ハハ、うん。練習するよ」
――きっと再会することないと、お互いに分かっている。彼は帝国に、僕は王国に住んでいて、こうやって共和国で出会ったのは本当に奇跡みたいなものだ。
連絡先も交換していないから、約束をすることも出来ない。魔力を持たない人間の寿命は短いから、長く見積もってもあと50年の間にこの奇跡をもう一度起こせるかは微妙なところだ。
「それじゃ、お元気で。プロフェッサー・エバンス」
ああ、なんだ。やっぱり君も知ってたのか。
「お元気で、ドクター・ヴィンセント」
『まめねこの旦那、お達者で!」
「!」
僕はヴィンセントくんに、サムはまめねこくんに手を振って、僕たちは踵を返した。僕は振り返らなかった。そこまでヴィンセントくんと親しくなかったし、名残惜しくなってしまいそうだったからだ。肩に乗ったサムは、曲がり角を右折して一人と一匹の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていたようだった。
「面白い人だったね」
『もしかしたら、まめねこの旦那たちと友人になる世界線もあったかもしれねぇでやんすね』
「どうだろう?なんか、真反対って感じするよ」
『それでも気が合いそうでさぁ』
「ふふ。だといいな」
並行世界というものは確かに存在している。でも僕たちはそれを観測することはできない。何らかの事故が起きればそれは見ることができるけれど、それは自然の秩序が崩れてしまった時だ。
僕はサムのもふもふの体に、少しだけ頭を預ける。もしかしたら仲良くなれたかもしれない彼らとの別れは、ほんのちょっぴり寂しかった。
……オリバーがジッポの炎を自慢できたのは、300年後の夏だった。
古びた庇の下でタバコを吸うレオスと、食べ歩き用の肉串を持って通りがかったオリバー。二人は同時に、お互いのことに気付いたようだった。
レオスは灰皿スタンドに吸い殻をねじ込んで、オリバーは早足で近付き庇の陰に入り込む。
そして、初めて出会った頃と何も変わらない姿で、声で、笑い合う。
「ジッポは付けられるようになりましたか?オリバーくん」
「君に披露することができて嬉しいよ、レオスくん」
カチンとよく手入れされている見慣れたジッポが蓋を開く。
かつてはレオスが寝る前に丁寧に磨き上げるほどにとても大事にしていたそれは、今ではオリバーの大きな手の中で美しく銀色に輝いている。レオスの胸元には、ほんのわずかな擦り傷はありつつもアンティークとして高く売れそうな彗星を模したネクタイピンが金色に輝いている。
オリバーと緑色の相棒、そしてレオスとわたし。その間にジッポの青とオレンジの炎が力強く灯った。