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    CottonColon11

    @CottonColon11

    紫の稲穂です。
    こんにちは。

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    CottonColon11

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    ※二次創作
    ※口調は雰囲気
    ※本家とは無関係です
    前半はモノローグ多め、後半は会話多め

    とある科学者が自分の子供時代のクローンと暮らしたおはなし ディスコードの通話終了ボタンを目視することすら困難なほど、アルコールが私の脳を麻痺させている。焦点が合わずぼやけた視界でこの辺りだろうとあたりをつけてマウスをクリックし続ける。通話先の同期が「大丈夫ー?」と声をかけているような気がする。あのお気楽お転婆酒飲みコンビに付き合わされた。私もスローンズの二人と同じく缶チューハイだけで済ませておけば良かったと今になって後悔する。ペットボトルの水を飲もうとして手に取ったはいいが指に力が入らず手の中から滑り落ちた。


    「ああー……しまった……」


     足元に転がるペットボトルを拾うために腰を折れば視界がぐらりと揺らぎ、足がもつれて倒れかけた。腹と足に力を込めて何とか体制を整えて、拾い上げ、身体を起こす。頭に登った血が一気に落ちたのだろう頭の奥が酷く痛んだ。胃の中もひっくり返され緩やかに吐き気が込み上げてくる。
     デスクに手をついて少し息を整えてから水を一気にあおる。口の中に残っていた酒臭さが流されるのと同時に、アルコールによって火照った身体が冷やされてスッキリとした快感に短く息を吐いた。
     ふと、パソコンが何かしらの電子音を出したのを、鈍った聴力が捉えた。そういえばデスクについた手の下にはキーボードがあったらしく、遠くの方で滅茶苦茶な打鍵音がしたような気がする。液晶画面に目を向けたが二重に見える文字を見分けることもなんとか解読した文字列の意味を考えることも億劫だった。明日なんとかすればいいか。酩酊状態の今の自分が何かをすれば事態が悪化することは目に見えている。

     千鳥足を自覚しながらも手洗いを済ませ、以前配信業でPR案件を受けた際に譲り受けたマウスウォッシュで口内をすすぐ。少し動作を止めるだけで襲いかかる眠気に、らを食いしばって耐えている現状でシャワーを浴びることはできない。寝落ちして余計な水道代がかかる上に風邪をひくことは間違いないだろう。

     私は白衣だけリビングに脱ぎ捨てて、寝室へ行き立てかけていたマットレスを倒して床に敷く。こんな時、多少の寝心地の悪さはあれど部屋の隅から引っ張り出して体を潜り込ませればよかった寝袋の利便性が恋しくなる。
     壁に手を付き電気を消して、マットレスへ倒れ込んだ。デスクの上で、付けっぱなしの配信用パソコンが煌々と光っていて非常に鬱陶しいが、身体を起こして消すほどの気力はない。


    「まめれこぉ」


     さして用件もなかったが、無意識のうちに同居人の名前を呼んでいた。麻痺してロクに動かなくなった舌は口蓋にうまく張り付いてくれず、呂律の回っていない何とも情けない呼び声になっている。
     何とか目をこじ開けて室内に目を配る。同じ布団には寝ないが同じ部屋で就寝するまめねこの姿が先程から見当たらない。まああの生き物は好き勝手に生きているし、食うのも寝るのも自由気ままだからあまり心配はしていない。酒臭い私から逃げて別の部屋で起きているか、寝ているか、とにかくどこかに存在しているだろう。まめねこだから仕方ない。


    「はくじょおもの…」


     まめねこのことは早々に諦めて、掛け布団を頭からかぶって目を閉じる。視界に広がる暗闇を認識するよりも前に、眠気が意識を奪い去った。







     身体を揺すられている。睡眠を阻害される不快感もさるとことながら、自宅でこの待遇をされることへの違和感に脳が拒絶反応を起こして意識が少しずつ浮上していく。
     まめねこが私を起こすならば棚の上から鳩尾に飛び降りてくるか、顔面を手で何度も叩かれるか、といった暴力的な手段を用いて文字通り『叩き起こして』くる。最近はえにからの事務所で居眠りをしていても先輩後輩関係なく大声で呼ばれ続けるか何度も肩を叩かれて起こされることが多くなり、こういうお優しい目覚ましは久し振りだ。

     最も気遣いが不要である同期で言っても、出会った頃は優しく揺り起こしてくれたオリバーくんやレインくんは今では小気味良い音を立てながら頬を叩きつつ耳元で大声を出しながら起こしてくる。アクシアとローレンも酷い時は足で小突いてくる。それくらい、遠慮も容赦も無いのだ。勿論自分も、野郎なら呼びかけに応じない場合まめねこを何度も腹に落として叩き起こすし、レインくんなら(これはまあ、稀なケースではあるが)顔の近くで名前を何度も何度も何度も何度も呼び続けて無理矢理起こす。

     私は揺り起こされることの疑問と、喉が張り付く強烈な渇きと、そして二日酔いの気怠さを感じながら目を開ける。よく覚えてはいないが私のことだから電気を消して寝た筈だ。だが寝室は蛍光灯によって十分すぎるほどに明るさを保っている。目の前に広がる光景を認識するには十分すぎる光量があった。
     まず目に入ってきたのは、青みの強い明るい緑の瞳。ゆっくりと瞬き繰り返すそれをしばらく眺めてから、その目の色が自分と同じアイスグリーンだということに気付く。散々鏡の中と、製造したクローンで見慣れた色だ。標準より一回り小さい虹彩と元々の目つきも相まって冷たいと思われがちだし自分でも確かに『優しそう』だと形容されることはないことを知っている瞳。だが私が見慣れたそれよりも丸くて大きいような気がする。

     身体を起こせば、目の前の存在の小ささがより鮮明になる。私の身長の半分ほど、体積に至ってはさらにその半分ほどしかないのではと思うほどに小柄な“それ”は丸い目で私を見上げて、小さく首を傾げた。被験者に着用させる病衣を羽織ってはいるがサイズが合っていない上に前が止められておらず、肋骨の浮いた貧相な腹が覗いている。はて、決して裕福な生まれではないがここまで痩せこけるほど『私』は食っていなかっただろうか。ふと疑問は浮かんだが、遺伝子を弄った結果の個体差だろう、と勝手に納得する。


    「……んん…おはよう、ちいさいの」
    「おはよう、れおす」


     酒とタールで痛んで掠れた私の声と違い、声変わりの片鱗も見られない綺麗なソプラノボイスが返答をする。声帯に異常はなく、少なくとも意思疎通ができる程度の知性は有していることが判明した。思わず舌打ちが漏れる。明確な意思や感情を持ち合わせていなければ、普段実験済み個体にするように『処分』してしまおうかとも考えたが、今回はそうではない。しかも見た目が子供だ。私のクローンとはいえ、意思疎通が取れる、子供。流石に子供を手に掛けるほど私は非人道的ではない。なんでモノ相手に気を揉まなければならないんだ。

     枕元のメガネケースを手繰り寄せて中身を取り出し、装着する。クリアになった視界でもう一度クローンを見下ろせば、それ…ソレ?彼?は穢れのない澄んだ目で私のことをまっすぐと見ていた。このクローンに設定されている年齢を予測するにおおよそ五歳から六歳程度。この頃にはもう視力の低下は既に始まっていたから、今目を見開いているのは足りない視力を補うためだろう。


    「ただのクローンならまだ分かるが」


     クローンに手を伸ばし、頬に手を添える。軽くつまんでみれば、幼児の頃の肉体構造を再現したようで、まめねこの腹のような柔らかさがあった。自分と同じ長いまつ毛に縁取られた大きな目の中で、自分と同じ標準より小さめなアイスグリーンの虹彩がじっと私の目を見つめている。
     今自分が頬をつまむ手に力を加えて捻ったらこの子供のクローンは痛みに泣くのだろうか。それとも不快感に顔を顰めるだろうか。痛覚が正常に知覚できているかの実験を今すぐに行ってもいいが、どうせ血液検査の採血で注射針を刺せば分かることだ。後でもいいかとひとまず知的好奇心を置いておいてクローンから手を離した。


    「なんでお前、子供なんだ」


     問いかけてみるが、クローンは首を傾げるばかりだ。製造過程での記憶は持っていないのだろう。それに随分と幼い反応を示すということは、私自身の記憶も引き継いでいなさそうだ。本当に答えを返されるとは思っていなかったが期待が外れて落胆のため息が漏れる。ぴくりとクローンの小さい身体が震えたのが、メガネがカバーしないぼやけた部分の視界に映って、何故だか少し胸が痛んだ。
     ここ最近は意思を持ったクローンを製造していない。数ヶ月前に保存したレオス・ヴィンセントの生体データをそろそろ最新のものに更新しようと保管室から取り出して、どうせ廃棄するならばと今私が開発に取り組んでいる新薬がどのように細胞に影響を与えるかを観測するために培養液に移したのは覚えている。結局その実験は、提出期限の迫った配信業の方の仕事を片付けることを優先したために着手しなかった。

     そういえば昨夜デスクに手をついた時にキーボードを下敷きにしたな。その時にパソコンが異音を放っていたのを思い出す。嫌な予感をひしひしと感じつつも布団から這い出て、配信部屋の隅に置いてある、ラボの機材と繋げている研究用パソコンに向き合った。
     スリープモードを解除し三段階のパスワードを入力すれば、活動履歴が表示され酒で記憶が飛んでいる時間の自身が滅茶苦茶なコードを入力した様子が窺える。全く意味のないコードならば良かったものの、不幸なことに一つがコマンドとして認識され、しかも連続して実行されてしまっていた。
     データの入力作業から幼い頃からの趣味であるイラスト制作にまで私に最も馴染み深いコマンドの一つである『元に戻すアンドゥ』。現在のレオス・ヴィンセントの情報を何度と『元に戻す』された結果が『子供のクローンコレ』だという。成人のクローン生成の過程で幼少期を経過することはあれどアンドゥを繰り返して幼少期を生み出したことはない。偶発的に生まれた新たな発見に、私の胸は全く踊らず、寧ろ、とんでもなく不愉快だった。コレは全く使い物にならないからだ。

     ペタペタと瑞々しい裸足を床に貼り付けながら付いてきたクローンは、その腕に抱いたまめねこと似たような表情をしながら私のことを見上げていた。間抜けに小さく空いている口に指を突っ込んでこじ開けて、検体採取用綿棒を差し込んでやりたい気持ちが湧き上がる。


    「……さて。まずはお前を知ることから始めようか」


     私は膝を折ってクローンに近付き、病衣の紐を結って寒々しい腹を隠した。










     さて、本当に、非常に、心の底から不本意だが、生み出してしまった以上このクローンの生活の基盤を整えなければならない。食うための借金をしていた頃の生活水準だったならばクローンに心があろうとなかろうと無駄な食い扶持を減らすためにさっさと処分していただろう。流石に子供相手に意識があるままに終わらせることはなかっただろうが、戸棚に入っている睡眠薬を使うなり、苦しむ間もなく逝ける毒物を投与していたかも知れない。
     少なくとも最近は気兼ねなく外食をしてドリンクバーとデザートもつけられるし、カップ麺を規定時間以上置いて麺をふやかして体積を増やさずとも二個食べればいいと思えるくらいには、生活に余裕がある。Vtuberという水物商売を収入源にしている以上将来的な安定性に欠けるところはあるが、現状クローン一体を養えるくらいには何とかなっている。

     生活基盤、とはいうものの必要なものは数日間の衣食住の確保だけだ。最低限で構わない。
     食は私と同じものを食わせれば問題が無い。このクローンのためにわざわざ布団を買い揃えるのは無駄すぎるし、寝袋を使うのも使わせるのも気が向かない。小さい身体が一個隣にあることすら本心で言えばかなり嫌だが贅沢は言わない、仕方がないから私の寝相で潰されながら睡眠を取らせよう。暖が取れてるだけありがたく思うといい。
     衣は……病衣もいいが、被験者の運動用実験着を着せて袖と裾をまくれば十分だろう。下着だけは買うか。中央エデンの廃下水道に越してからは駐車場の地代家賃の兼ね合いで車を手放したし、足が無いから厄介だが、ネットで買えばいい。


     右手に持った箸で肉野菜炒めを突きながら、左手でプロジェクションキーボードを叩く。3Dホログラムで表示されている、数日前に採取したクローンの内頬と髪の毛から採取した細胞情報と血液検査の結果から、研究用の計算ソフトに必要なデータと推測される事項を入力していく。ちら、と正面に目を向ければ覚束ない手つきでスプーンを握りこみ、幸せそうな顔をして豚こま肉を口に運ぶクローンが目に入る。呑気なやつだ。
     しばらく眺めているとクローンは私の視線に気付き顔を上げると、口いっぱいに頬張っていたものを“ごくん”と音が聞こえそうなほど思い切り飲み込んで弾けるように微笑んだ。やはりその顔は私よりもまめねこに似ている。カスタードシュークリームを頬張って顔をベトベトにしながら喜ぶまめねこと同じだ。
     独自の社会を形成し、他種族にんげんの言語を理解するまめねこの知能指数はかなり高いと踏んではいたが、感受性に関しては幼児のように純粋なのかも知れない。


    「随分と美味そうに食うんだな」
    「ん。おいし」
    「そうか」
    「ぼく、しあわせだね」
    「……」


     どうだろうな。返答は飲み込み、同情は胸裏に秘める。肉体も精神も強化していないクローンの使用期限は長めに見積もったとして一週間。せめてもの救いとして、この子供が苦しまないように逝けるような手伝いはしてやろうかと思う。それが生み出してしまった科学者わたしの責任だ。
     『普通の』クローンとは違ってこの小ささでは何の役にも立たない。助手をさせる用に作った個体のように私の知性を継承させているわけでも、実験用に作った個体のように強靭な肉体を与えてるわけでも、以前不老長生薬の経過観察用に作った個体のように完璧にトレースした肉体構造と異常活性させた細胞分裂速度を有しているわけでもない。
     私の行う実験は、結局は『私のため』に収束する実験なのに、薬品投与の限界量も合わず正確な観測結果を発言できるわけでもない子供は本当にいらない。ペット枠にしても、これは正しい表現ではないのだが、愛玩の対象としてはまめねこで事足りている。場所と金のかかるゴミ……自分自身に向かってゴミはないな、コスパの悪い居候でしかない。

     短い寿命に加えて、私の気まぐれで消えるかもしれない命に幸福も何もないだろう。だがそれを正直に伝えるほど私は非道ではない。相手が子供の姿だというのは私に罪悪感なんてものを植え付けるのに十分だった。たかがクローンどうぐごときにこうやって精神を左右されるのは実に不愉快だ。これだから、年齢を下方修正したクローンは作りたくなかった。


    「ではお前に、もっと栄養価という『幸福』をやろう」


     私は皿の端に避けていたナスをスプーンで掬い上げて、クローンの皿へと移す。写真には載っていなかったナスが混入した、最悪の料理。ナスの風味がまだ残っている気さえしてくるが避けさえすればまだ我慢できなくもない。現状ひとまずは腹を満たせれば十分だ。少なくとも、景表法違反をしやがったあの店は二度と利用しない。
     不思議そうに首を傾げるクローンの顔ににっこりと笑いかけてやり、好き嫌いするなよ、と念押しする。私からのありがたい施しを受けたクローンは私の顔をチラチラと見ながらナスを一欠片スプーンに乗せて、おずおずと口に運んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んで――笑った。


    「おいしい」
    「……は?」
    「ありがとう、れおす」


     代わりにあげる、と豚こま肉を私に寄越してきた。こいつは本当に私のクローンなのだろうか、まるで他人ではないか。そう疑わざるを得ないほどに、クローンは本当に嬉しそうに微笑みながらあんかけを纏ってツヤツヤと輝くナスをかき集めると皿の端に寄せて、他の野菜を挟みつつ一欠片ずつ味わって食べていく。
     まるでショートケーキの上に載ったイチゴを譲られたかのように目を輝かせ、あれだけ上機嫌に食べていた豚こま肉を差し出すほどに喜び、宝物のように大事に食べるその感性が理解出来ない。

     しばらくそれを眺めて、そういえば自分のナス嫌いは給食で出てきたものを無理矢理食べさせられたことに起因することを思い出す。もう覚えてはいないが、幼い頃はナスが苦手では無かった時期もあるのかも知れない。少なくとも私にとってのナスはどれだけ古い記憶を辿ったところで「ぐちゃっとして気持ち悪いもの」なのだけれど。


    「ぼくごはんすき」
    「それは私もだ」


     無意識に口角を上げてしまった私を見て、クローンはパチリとゆっくり瞬きをして。今度は私に似ているような気がする笑みを浮かべた。











     

     いつもの口上を述べて、配信画面を蓋絵にした後で自身のマイクをミュートにする。視聴者から送られてくるお疲れ様の言葉ととまめねこのスタンプがコメント欄に流れていくのを少し眺めてから配信を閉じた。
     パソコン画面を長時間凝視してブルーライトを浴び続けた目が鈍く痛む。目頭を軽く揉みながらバランスボールに乗せる重心を前に傾けて、思い切り背筋を伸ばした。関節が鳴らないよう首をゆっくりと回して凝りを軽くほぐしながら深く息を吐く。まめねこが大きなあくびをしながら胸ポケットから抜け出したから、私もそれに合わせて白衣を脱いだ。配信用の白衣はまめねこが胸ポケットに収まっても形が崩れないよう針金が入っている特注製だから着ているだけで疲れが溜まる。バランスボールに乗って背筋や腹筋が鍛えられていなければとっくに肩や腰を痛めているだろう。


    「少し仮眠でもとるか…」


     打ち合わせの予定時刻まではまだ二時間ほどある。手繰り寄せたスマホを操作してリミットの十分前にアラームをセットする。カップの中に残っていた煎茶を一気に飲み干して飲み干して口の中を潤した。時間が経って完全に冷たくなった煎茶が胃の中に落ちていくのを感じながら立ち上がり、バランスボールをデスクの下に蹴り飛ばすとスペースが開くのでそこに寝転んだ。

     そのタイミングで、クローンがリビングから顔を覗かせてこちらを覗き込んできた。物音がしたから配信が終わったことを認識したのだろう。一度きょろりとあたりを見渡す。目が合うが、特に話すこともないので視線を切って眼鏡を外し、腕を伸ばして配信机の上に眼鏡を置く。伸ばした腕でそのまま自分の身体を抱き込んで横になる。
     すると全身に降ってくる柔らかい圧迫感。視線を上げると、クローンが寝室から持ってきた毛布を私に落としたところのようで、肩に乗せたまめねこと一緒に私を見下ろしていた。


    「ん、気が効くじゃないか」


     足の指で毛布の端を掴み、自身の足先まで覆う。そして肩まで持ち上げようと体を抱き込む腕を解いたところで、クローンが胸元に身体を捩じ込んできた。


    「ちょ、お、おいっ」


     私の戸惑いなど全く気にしないようで、まめねこを抱き込むと私の胸に背中をピタリと押し当ててくる。普段は私を避けるようにマットレスの端で縮こまるように眠っているクローンからは想定できない行動だ。ちゃっかり私の左腕に頭を乗せているクローンの頭頂部に顎を乗せる。毛布が完全にクローンの体を覆うように調整した。


    「全く……図々しくて面の皮が厚いのはほんと…」


     このクローンの精神年齢は、おそらく外見とそう変わらないだろうから、まだ小学生にもなっていないほどの幼さが持つ未発達さだ。培養液の中で生まれ育ち、親兄弟といった保護者を知らないとはいえ人肌恋しいのかも知れない。少なくとも私が幼い頃は――。


    「ほんと、私そっくりですよ」


     私より幾ばくか高い体温に、眠気が誘われる。私はクローンの小さい体に腕を回して、深く息を吐きながら目を閉じた。







    「ちこくだぁーーっ!!」
    「っ!!」


     完全に夢の奥深くまで入り込んでた私の意識が、耳から届いたその言葉によって一気に水面にまで引っ張り上げられた。毛布を蹴り上げながら飛び起きて、枕元の眼鏡を引っ掴む。長押に引っ掛けたハンガーから作業着を取ろうと手を伸ばして…そこで、ぼやけた視界の先にあるのが和室の塗り壁ではなくコンクリートで、掛けられているのが作業着ではなく白衣であることに気付く。そうだ、今はもう現場仕事ではなく配信業をメインの食い扶持にしている。先ほどまで見ていた過去の夢を引きずってしまったようだ。
     少しずつ冷静に、同時に覚醒していく意識が、遠くの方で鳴り続けるアラーム音を捉える。机の上に手を伸ばし手に取った眼鏡をかけて、スマホを手に取ろうと上半身をねじると目の前にスマホがぐいと向かってきた。


    「れおす、うちあわせ……?」


     私の服を弱々しく引っ張るクローンが、幼い声を戸惑いで震わせながら声をかけてくる。差し出されたスマホを受け取って時間を確認すれば、当初アラームをかけていた時間から三十分ほど経過していた。
     遅刻だ、と私に向かって怒鳴りつけたクローンの慌てようからして、恐らく何度か呼びかけても私が起きなかったから強硬手段に出たのだろうと推測できる。このクローンが誕生した時ですら優しく揺り起こしたのだから余程の事だ。それだけ完全に眠りこけていたのだろう。ねばつく口内を誤魔化すように唾を飲み込み、クローンの頭に手を乗せて、膝に手をつき立ち上がる。


    「助かったぞ、小さい私」


     ひとまず眠気覚ましに顔を洗うとしよう。何かを腹に詰め込みたいが、打ち合わせの時間はとうに過ぎている。コップに水道水だけ注いで打ち合わせに向かうとするか。
     足元に絡みつく毛布を蹴り飛ばしてとりあえず部屋の端に追いやり、仕切りカーテンを引いて配信部屋からリビングと移動する。そこで、テーブルの上に電子ケトルとインスタントの白米、そして非常用備蓄品のサバの缶詰が置いてあるのを見つけた。振り返ってクローンを見やる、クローンは頭を撫でられたことに驚いたのか頭に手をやったまま静止していた。これに反応を止めても無駄そうだ、と思考を切り替えて、白米を手に取る。恐らく私の目覚める時間に合わせて温めていたのだろう、私が寝坊したせいで少しぬるくなってしまっていたが、それでもまだ熱は残っていた。マグカップの中にはインスタントコーヒーの粉が山のように入っている。流石にこの量は多すぎだとは思うが、それでも熱湯を注ぐだけで良い状態にまでセットはされている。ようやく我に返ったらしくパタパタと駆け寄ってきたクローンを見下ろした。


    「お前、本当に役に立つんだな」
    「せんぱい、おしえてくれた」
    「先輩?」


     問い掛ければ、クローンは抱いていたまめねこを掲げた。掲げられたまめねこが得意げな顔をしてにんまりと笑っているのがまた憎らしい。いつの間にこいつはクローンの先輩になったんだ。確かに同居人であることには変わりないが、まめねことはロクに意思疎通もできないだろうに。よく分からないが、まめねこのことだから、煽てられて調子に乗ってその気になったのだろう。そのまま調子に乗ってクローンの子守りをやってくれるならば都合がいい。配信では映りたがるまめねこも打ち合わせは面倒くさがるから、今後どうなるか分からないクローンの経過観察を自主的に変わってくれるのであれば面倒がなくていい。

     私は都合のいい展開にほくそ笑みながら、洗いかごに置いたままの小皿と中皿を取り出す。白米とサバ缶を取り分けた。弁当を買う時に貰った割り箸を袋から出して自分の座る場所の正面に置いて、クローンたちを呼べば、クローンはおずおずと、まめねこは嬉々として食卓についた。残念ながら私は味わって食べる時間はないので、サバを米の上に全て乗せて一気に掻き込み、濃厚すぎるコーヒーで流し込む。食べ終わったら置いておくように、と言いつけてから急いで配信部屋に戻りディスコードを繋いだ。


    「お待たせしました」
    『22分40秒の遅刻』
    「すみませぇん」


     通話先であり、この打ち合わせの理由である数日後に控えた案件の出演仲間のオリバーくんは、呆れたようにため息をつきながら開口一番痛いところを突いてきた。私の性格をよく理解している彼のことだから想定はしていたのだろう、待ち合わせに遅れたことに対して慌てても怒ってもいない。カチャリと小さく音が聞こえたから、私が来るまでの間ティータイムか、もしくは飲酒でも楽しんでいたのだろう。


    『まぁた十分前にアラームつけて、寝坊してスヌーズで起きて、タバコ吸ってからきたんだろ』
    「やべ、メシ食ったけどヤニ補充忘れた。吸ってきていい?」
    『メシは食べたのかよ…はあ、いいよ』
    「どうもぉ」


     当人の許可も得たことだし、と急いでキッチンへ向かう。私がリビングに戻ってきたのを不思議そうに眺めるクローンの横を抜けて、脇目も振らずに換気扇へと向かう。遅刻をした上でさらに待たせるのは、待ち人当人の許可があるとはいえ後ろめたくない訳ではない。
     さっさと済ませてしまおうと、シンク横のスペースに置いてあるタバコとライターと灰皿の喫煙三点セットを一掴みにして手元に手繰り寄せる。タバコを一本取り出して咥えたら、手を空けるためにHOPEの箱を投げ置き、ライターの回転式ヤスリを勢いよく擦って火をつけて…ふといたずら心を持ってしまった。私は火のついたタバコを一旦そのままに、換気扇から背を向けてクローンに向いた。
     いい時間稼ぎがここにあるじゃないか。


    「なあ、小さな私」
    「ん?」
    「パソコンの向こうに私の友人がいるから、私がタバコ吸ってる間遊んでやってください」
    「ん」


     クローンはまめねこを抱き抱えて、配信部屋へ駆けていった。これで三本はチェーンできるな、と換気扇に向かって煙を細く吹き出したところで、案の定スピーカーモードにしていたパソコンからオリバーくんの悲鳴が聞こえた。サプライズを楽しんでもらえたようで何よりだ。
     飲みかけだった、濃すぎてドロドロのインスタントコーヒーに電子ケトルからお湯を注いで適度な濃さに調整する。一本目を吸い終わったところでコーヒーを喉の奥に流し込めば、うん、美味い。店で飲むような香ばしさや奥深さは無いが、この安くて雑味のある味が私は好きだ。舌と喉に張り付くスッキリとしない苦味は眠気覚ましにちょうどいい。

     きっちり三本吸い終わり、念入りにタバコの火をにじり消して配信部屋へと移動する。恐らくオリバーくんが手順を教えたのだろう、カメラが起動していて、何やら変顔対決を繰り広げているようだった。この位置からはクローンは後頭部しか見えないが、オリバーくんはパッと目と口を大きく開けて笑顔を作ったかと思うと、酸っぱいものを食べたように顔をギュッと窄め、そして頬を膨らませる。睨めっこかもしくは変顔対決でもしているらしい。


    「私をノケモノにして仲良いじゃねえの?」
    『おかえり。レオスくんが僕を置いてくからだろうが。退屈にしてた僕に構ってくれてたんだよ』
    「ふぅん。お前もレオスのくせに、いや、私と同じでオリバーくんに気に入られるのが上手いなぁ?」
    「ぼく、れおす、ちがうよ?」
    「一緒だろうが」
    『八つ当たりすんなって。君がこの子を君が差し向けたんだろ?』
    「まあそうですけどぉ」
    「それにしてもホントそっくりだね、君たち。写真撮っていい?』
    「どうぞぉ」


     拗ねた声を作って出してみれば、オリバーくんは呆れ声で返事をしてくる。私が差し向けたことではあるが、仕事仲間と実験道具をいっぺんに取り上げた気分がして少しばかり不愉快だ。私の友人ではあるが互いはそうではなかったのに、私が引き合わせたせいでやけに意気投合して私一人が取り残された時の感情に似ているだろうか。こんなクローンに嫉妬など我ながら情けないな、ガキじゃあるまいし。
     私はテーブルの下からバランスボールを転がり出してそこに座る。私が来てから端に避けていたクローンを膝の上に座らせた。オリバーくんがスクリーンショットを撮ろうとキーボードの位置を探し始めたので私はカメラに向かってピースサインを作る。アイコンタクトで「真似しろ」とクローンに伝えれば、心得たとばかりに得意げに笑って小さな手でピースサインを作り、パソコンに向いた。しばらくして、撮影が終わったらしいオリバーくんがOKのハンドサインを作ったのでポージングは終わらせる。


    『で、彼は?紹介してよ』
    「ああ、おそらく君が察している通り、コレは私のクローンです。なんか…この前配信終わった後ちまちま飲んだでしょ?酔った拍子に変な動作をやっちゃったみたいでなんか生まれました」
    『へ、へえ。それで育ててるんだ』
    「まさか。コレは『は』……彼は、と言わずほとんどのクローンはコスパを考慮して、保って一週間の設定です。育てるほどの期間はありませんよ。だからあと……あれ?」


     膝の上で見上げてくるクローンを見やる。この個体が生まれたのが先週の木曜日。つまりもう六日が経過しているというのに、この個体の肉体は、外見では何の劣化も変化も見られない。首をかしげるクローンは、自分とは似ても似つかぬ澄んだアイスグリーンを、蛍光灯の人工的なライトでキラキラと輝かせている。
     このクローンは、確かに完璧でない・・・・・・・・肉体構造をしていて、最初に計測した結果を見るにそれは明らかだ。内臓機能の働きが弱く、私自身の幼少期に比べて視力も劣化している。そこまで長生きはできない筈だ。このクローンはそう遠くない未来に肉体崩壊を起こして死ぬ。それを口に出そうとして、でも何かが突っ掛かって不快感が湧き上がり、言葉が出てこなかった。


    「……分かりません」
    『分からない?』
    「分かりませんねぇ。この子がいつまで生きてくれるのか」
    『そ、っか。ならさ、その短い命で僕に……僕は……うん……会えて嬉しいよ』


     オリバーくんは悲しげに顔を歪ませたが、すぐに笑顔を作ってクローンに向いた。その表情を見て何故か酷く後悔する。私は彼にクローンを合わせるべきではなかったのかも知れない。人情深い彼はコレに対しても愛情を向けてしまうだろう。気付かれぬ間に失われた命を惜しむだろう。その悲しみを無駄に背負わせてしまった。
     例えば子供の命が容易く手折られてしまうスラムで育ったローレンならばここまで重く受け止められなかった可能性も……いや、彼は寧ろそのせいで感情移入しやすいか。ローレンを友に持ったアクシアくんも同様。自身が病弱だった過去もあるから尚更だ。レインくんは他人の命を一番重く受け止めるだろう、そういう職業にも就いている。彼らと、不老を選ばず限りある命の中で生きることを選んだオリバーくんは、命を重く捉える。私だけだ。自分以外の命を軽んじるのは。

     深く考えて言葉を選び、オリバーくんが伝えたそれをクローンはゆっくりとまばたきをしながら受け入れる。そして口角をゆるりと上げて、だらしなくふにゃふにゃと微笑んだ。やはり、顔の構造は私と一緒だが表情の作り方は私とは似ても似つかなかい。好物を食べて顔をほころばせたまめねこに似ていた。


    「ぼくも。おりばさん」

     
     果たしてその返答は、短い生命活動のうちで出会えたことへの喜びか、もしくはただ単純に出会えた事への喜びか。私はわざわざ問いかけてまで深掘りする気はないし、オリバーくんもこれ以上自分の傷口を広げようとはしなかったので分からずじまいだった。能天気にニコニコとしているクローンは満足そうに頷く。そして、抱いていたまめねこを私の胸ポケットにしまうと、膝の上から飛び降りてリビングへと戻っていってしまった。













     元来、私はとても繊細な生き物だ。
     その言葉だけならば、何を言っているんだこの男は、だとか、お前みたいな図太い人間がいるか、だとかそういう野次が飛ばされるのは想像に難くない。私をよく知る人間ならばある程度の理解はされるとは思う。意外と・・・繊細なところがある、という前置きは外されないのも想像がつく。確かに私は気にしないところは全く気にしない部分はあるが、感情の起伏が激しい方だと自覚しているし些細なことでモチベーションが上下する。ただ長続きせず回復が早いだけで精神が不安定になったときはとことん沈みきってしまうのが私の性分だ。

     そして、私の繊細さは内的要因だけでなく、外的要因も関係している。ハウスダストでくしゃみと鼻水が止まらなくなるし、蕎麦を食べれば口内と喉が腫れ上がる。アルコールにも強くない。そういった、過剰な拒絶反応が出るものもあれば、一見して他人からは知覚できない過敏さもある。それが、今まさにクローンのために吟味している衣服についてだ。

     日々の剃毛で肌荒れを起こすほど肌が弱く、服によっては繊維に負けてチクチクと強烈な痒みを覚えるほど敏感肌な私のクローンがそうでないわけがない。むしろ大人の私よりもその肌は脆い。私の服を着せて出歩くわけにもいかないため、車を走らせて一人で店舗に行き、実際に手で触れて刺激の無いものをこうして選んでいるわけだ。
     大人になった私よりも子供の柔肌は余計に敏感であるからして、私には認識できない刺激を感じる可能性はある。幼少期を思い出す限り私はそれにいつも苦しんでいたからこの子供もあの痒みに耐えられるわけがないだろう。下着はネットで済ませたがそれはハズレが少ないからだ。


    「…はあ」


     クローンに気を使うだなんて私もどうかしている。オリバーくんに「洋服くらい用意してあげなよ」と言われたからと言って実際に行動を起こさなくても良いというのに。
     子供服数点と、あと自分用の靴下を一足だけ買って会計を済ます。自分の服すら買わないというのに、実際に育児をしていない私が子供服を買うのに抵抗があるのでセルフレジというのはこういう時に非常に助かる。普段から持ち歩いているリュックサックに子供服と靴下をレシートごとぶち込んで早々に店を出た。
     天候制御装置によって青空にされている空を見上げて、眩しさに目を細める。太陽が沈む前に自宅へ戻りたいものだ。あのクローンに留守番を任せるのももう何度目にもなるが不安が拭えないのは事実。子供の好奇心が、いつ立ち入り禁止のラボに向くかは分からない。使用を許している電気ケトルと電子レンジで変な使い方をして爆発させた、なんてたまったものじゃない。


    「おっレオスじゃん」


     ふと、自身の名前が聞こえて、反射的に顔を上げる。出先で突然名前を呼ばれるのは久し振りだ。学生時代の友人が住んでいるかもしれない地元や仕事の関係者がいるバーチャル東京ならまだしも、字でも中央エデンでもファーストネームを呼ばれることは珍しい。
     素早く視線を走らせれば、少し遠くから駆け寄ってくる男が一人。紅色の髪と敵対心を感じさせない笑顔ですぐに友人であると認識はできた。だが、彼の着ている服のせいで職質された経験が脳裏をよぎり咄嗟に身構えそうになる。


    「おや、ローレンじゃないですか。君の巡回担当って東区の方じゃなかったっけ?」
    「何で覚えてんだよ……いや、ちょっと応援にな。ここの担当が休暇だからって駆り出されてる」
    「へぇ。お疲れ様」
    「ホントだよ。休暇の理由は酒に酔って階段から落ちて捻挫だってよ。まじふっざけてる」
    「あらら。正義の味方も大変ねぇ」
    エデン組おれらの中で一番正義から遠い科学者からの言葉、褒め言葉として受け取っとくわ」


     視線をどこか遠くに逃しながらくたびれた微笑みを浮かべるローレンの口振りはとてもサッパリとしている。こういった尻拭いを散々させられて、感情を起伏させるほどの事象でもないくらいには慣れているらしい。ローレンはいち部隊員ではあるものの、アクシアくんからの話を聞く限りでは、おそらく昇進も出来るだろう活躍をいくつもして上司からもそれ相応の評価を受けているようだから、期待込みの仕事量というやつだ。まあローレンの反応を見るに、こいつならこなせるだろう、と仕事を丸投げされている感は否めないが。
     ローレン何処かへやっていた視線をこちらへ戻すと、私と、そして私が出てきた店舗に視線を走らせた。


    「ってかここ服屋じゃん、レオス服買うんだ」
    「ったり前だろ。買うよ、失礼な」
    「ふぅん。何買ったん」
    「ああ、」


     クローン用の服だ、と素直に言おうとしたというのに強烈な忌避感と拒絶が続きの言葉を遮った。目の前の男に知られてはいけないと何故だか強く思う。
     今更私の所業を知られたところでローレンが持つ私への好感度が若干上下するくらいで、さして問題は無い。私が違法行為をしているならば話は変わってくるだろうし、他人であれば『子供のいない独身男性が子供服を買った』は誘拐の可能性を見出して目をつけられるかもしれないが、ローレンなら理由を知れば見逃されるし、ある程度口利きしてくれるだろう。中央エデンに住む不便さと、知り合いに治安維持関係の公務員がいるという強みを同時に感じた。……ローレンの怪訝そうな顔を見ていたら、ふと、オリバーくんの引き攣った笑顔を思い出した。


    「何だと思います?」
    「知らんし。実際そこまで興味ねえわ」


     上着のポケットに突っ込んでいた胸を顔の高さまで持ち上げて、手のひらを上にして斜めに傾け、疑問を表すジェスチャーを作る。3D配信で多少なりとも気取っている私ならまだしも普段はまずしない動作に対してすぐにオリバーくんの真似だと思い至ったようで、ローレンも同じく大きな動作で肩をすくめる。会話の内容だけ見れば付き合いは悪いが、実際は会話のテンポもノリもいいから気楽でいい。


    「んだよその反応。ほらこれ靴下」
    「いやそこは服であれよ」
    「いらんいらん。そーんな服ばっかあっても邪魔になるだけよ」
    「ホントぶれねぇなお前」
    「ほんっとーにオシャレなの欲しくなったらオリバーくんそそのかして着飾らさせるわ。言質とってンから」
    「アハハ。エバさんのセンスなら任せられるよな。ほんとエバさんに感謝しなよ」
    「骨の髄まで彼に甘やかされます」


     あのクローンにもオリバーくんに感謝させよう。彼に言われなければ実験着のままで居させるつもりだったし、白Tシャツでも良かった。共に住むなら子供服を買ってやれと説教されたから、仕方なくだ。自分の服すら面倒で買いに行かないと言うのに。
     ローレンは本当に私の買い物内容なんて興味が無かったのだろう、ところで、と早速話題を切り替える。


    「この後時間あんか?久しぶりに休憩が重なったからアクシアと昼食べいくんだ。お前もどうよ」
    「あるある。どこ?」
    「西区のクソでけぇゲーセンのそばに最近出来たラーメン屋なんだけど、コッテリ系メインの店。でも俺のお目当ては口コミでめちゃくちゃ美味いと評判の坦々麺……」


     言いかけたところで、遠くから何かが爆発するような低い轟音が響く。同時に無機質な呼び出し音がローレンのポケットから鳴り響いた。ローレンはその呼び出し音で色々なものを悟り「終わった」と目をつむり天を仰いで大きくため息をつく。しかしその哀愁漂う姿を見せたのもほんの一秒にも満たない時間で、ローレンはすぐに気持ちを切り替えたのか業務連絡用のスマホを取り出して画面を確認し始めた。
     私はその間に爆発音がしたであろう方向に目を向ける。少し離れた区域で、黒煙が勢いよく天へと登って広がっていくのがよく見える。鼻が痛くなる、物が焼ける匂いも近付いてきた。通行人の切羽詰まった声とサイレンの音をバックグラウンドに、ローレンは「わりぃ」と私に詫びを入れながらスマホに何かしらのメッセージを打ち始めた。


    「前言撤回。昼休み無くなった」
    「そのようですね」
    「多分この調子だと向こうも無理だな。合流指示でた」
    「んじゃあアクシアくんにも今度メシ行こうって伝えといて」
    「っけ。じゃ、また」
    「お疲れ様」


     私との会話が終わるや否や、ローレンは踵を返すと早足に去っていく。電話の先に話しかける声が固く、切羽詰まっているからかなりの緊急事態らしい。まあ今まさに追加で連続した爆発音が聞こえてくるし、通行人も戸惑いから悲鳴に変わりつつあるからかなり大規模な問題事なのだろう。職場であるバーチャル東京やらリアル日本ならいざ知らず、エデンでは多少の爆発や宇宙人の侵攻程度ならここまで大騒ぎにならない。出動の準備、とか何とか言っていたのがかろうじて聞こえたから、機動歩兵部隊アクシアくんの仕事が必要な事態だ。
     さて、対テロ緊急事態警報が発令されて飲食店やコンビニが閉店する前に、適当に何か買ってさっさと自宅に避難することにしよう。廃下水道は地下にあるから、さながら防護シェルターだ。上着のポケットに両手を突っ込んで、事件現場から離れようとする人の波に乗って移動を開始する。人波を逆流していく、ローレンと同じ制服を着た人間と何人もすれ違った。





     バスで繁華街まで乗り出して衣服の買い出しに来ていたので、自宅へ続くマンホールまで一時間以上歩くことになった。字にいた頃はたまに山の中を徘徊したり隣の駅まで歩くことがあったから、それくらいの徒歩であれば余裕だった筈だが、中央に来てから少し鈍ってしまったようだ。疲労の溜まった身体を、マンホール横に勝手に置いたベンチにもたげて全ての疲れが吐き出せるように深呼吸を繰り返す。鞄の中からタバコとライターを取り出して早速火をつけ、肺の奥まで煙を思いきり吸い込んだ。
     トントン、と何度も人差し指で叩いて灰を携帯灰皿へ落とす。最近タバコを吸う間隔が延びた。クローンへの配慮は全くしていないし、吸う時は何本もチェーンして吸ってしまうので消費量で言えばさほど変化はないのだが、タバコを吸うために換気扇下へと足を運ぶ機会が減っている。一歩廃下水道から外に出れば意識しないことを意識しなくなり、喫煙所を見かけたならばそこをそのエリアのオアシスとして脳に刻み込んで、身体が満足するまでタールを肺にこびりつける作業に取り掛かる。だから、本数ではなく回数が減った。あの子供と暮らしたせいで。


    「……そろそろ、戻るか」


     タバコを地面に落として、つま先で踏む。火が消えたことを確認してからそれを摘んで携帯灰皿に落として、一旦ポケットに仕舞う。鞄を肩にかけてリモコンを取り出しはスイッチを押せば、マンホールが自動で持ち上がり自宅への道へと誘った。
     マンホールから廃下水道へと降り、遥か先まで響く足音を聞きながら少し進めば管理室の扉が見えてくる。鍵を探すのが面倒だったのであらかじめ決めていたノックを5回リズミカルに鳴らす。私が上着を脱ぐ程度の暫しの時間を空けて、扉が開錠された。人間の存在を感じる暖かい空気と、生活のために灯された電球色の光が漏れ出してくる。そして、青い頭と水色の身体がドアの隙間からひょっこり覗いて見上げてきた。


    「おかえり、れおす」


     一人暮らしを始めてもう片手では数えられないほど長くなった。それ以来、配信で離席して戻ってきた時以外で、自宅で誰かに伝える行為に今更慣れるとは思わなかった。
     私は無意識のうちに上がっていた口角を隠さないまま、定型文を返す。


    「ただいま、小さな私」












     狭い浴槽の中に、二人と一匹。とんでもない狭さであることは違いないのだが、クローンの身体が幼く小さいことと、まめねこがペットポトル程度の大きさしかないためになんとか収まっていた。互いが向き合うように浴槽の縁に背もたれで座っているのでクローンが湯船で手遊びをしているのが特等席で観測できる。私は手のひらで水を掬い、洗面器の中で湯に浸かるまめねこへ湯をかけながらそれを眺めていた。
     歳を重ねるごとに鋭さが際立つようになった私の目元と違い、幼さを感じる丸みを帯びたアーモンド型に縁取られた目元から除く、私と同じアイスグリーン。この頃は上まつ毛もバチバチだったのか。キュッとすぼめた唇は、コレが生まれた時に比べれば肉付きが良くなっているような気がする。気がするだけだ、今は眼鏡がないので細かい観察は出来ない。相変わらず食が細いので肋骨は浮いているがそれでも少しは標準体型に近付いたのではないだろうか。それでも、特に運動はしていないだろう身体で体型維持ができているのだから幼い身体の新陳代謝は活発なのだろう。


    「お前はいいな、肥えなくて」
    「こえる?」
    「太るってことだ。肉体が贅肉でまん丸になるということ」


     私の言葉を理解しようと小さな脳みそを必死に働かせているのだろう。大きな目がパチパチと瞬きを繰り返す。私を見つめるその目は、普段よりも互いが近くにいるので足りない視力を補おうとする必要がないからか、過剰に見開いている普段と比べて穏やかな色を灯している。寧ろクローンの観察をしている私の方が表情は険しい。運転免許を取るためにかけ始めた眼鏡に目の筋肉が甘えすぎたせいで、ここ十年ほどで著しく視力が下がってしまった。両目で0.1も無いこの目では、手に届くほど近いクローンの表情すら、目を凝らしても輪郭がハッキリとしない。


    「ぼく、せんぱいみたい、に、なりたい」
    「まめねこみたいにか?あのぷにぷにの楕円形はまめねこの生態だから良いのであって、人間であの体型だとかなり生活が不便だぞ」
    「だいじょうぶ。ぼくがれおすになるまえ、たぶんあんなかんじ」
    「……ん?」


     クローンレオスになる前、と言ったか。こいつは。クローンどうぐ相手とはいえ仮にも他者との会話を意識して僅かばかりに声色を取り繕っていたが、それが剥がれて随分と低い唸り声が出てしまう。私がこのような反応を見せれば、以前のクローンならば小さく肩を強張らせて顔を覗き込んできたというのに今では視線をチラリと向けるだけだ。不機嫌なだけではなくただ僅かばかりに興味を引かれた時の反応であると、短くない付き合いになり始めたクローンはすっかり理解しているので、驚きも怯えもしない。
     湯船の水面を掴むように手のひらを縮めたり開いたりする手遊びをやめないまま、首を傾けて視線を頭上に漂わせる。何かを思い出そうとする時の仕草は、私に影響されてか、私に似てきていた。


    「フワフワぷかぷかしてた」
    「…ああ、なるほど」


     培養液の中だろう。確かに細胞核や染色体の状態だけで言えば楕円に近いということも頷ける。その状態のことをこのクローン自身が覚えているというわけではなさそうだが、どこかのタイミングで知識として知ったのか。それか生まれた時に周りにあった培養ポットの中を見たのだろう。
     私の作成したクローンが自我や記憶を有することは珍しくはない。投薬したり殺す時に暴れられるのが面倒だからしていないだけで、私がそのように調整すれば私の記憶や価値観をそっくり引き継いだ複製が生まれる。多少生まれ故郷の訛りが出たりだとか、価値観がオリジナルのマッド・サイエンティストよりも非人道的で排他的になったりだとか、そう言った個体差はあれどほぼ同じ。ただし、私を引き継いだ記憶を有するのであって、培養中の記憶について発言するクローンは未だかつていなかった。この個体は幼体であるから、胎児の状態を覚えている状態に近い。
     てっきり私のどこの部位から採取された細胞だったかを覚えてるか記憶しているのか、と期待しただけに残念だ。


    「からっぽのからだがあったからはいったの。そしたら、れおすになってた」
    「はあ」


     なるもならないも、元々この個体はレオスわたしだ。おそらく自我の目覚めだとかそういったことを言いたいらしい。そのうち魂だとか前世だとか、そういった非科学的なことを言い出しそうで憂鬱な気持ちになる。私は続きをするのはやぶさかではないが、誰かの続きにはなりたくない。私はレオス・ヴィンセント以外の何者でもないのだから。
     パチャ、とクローンが水面を指で弾いて音を立てた。微かな音だが、静かな浴室にはよく響く。ぽつりぽつりと蚊の鳴くような声で言葉を紡ぐクローンの声すらしっかりと耳に入るほど、この浴室は静かだった。こんなに長く喋り続けるクローンは珍しい。


    「そしたら、せんぱいがいた。こっちにおいでって、ゆってたから、ついてった」
    「んー」
    「うえにきたら、ねてた。おなかすいたら、れおすおこそうって、せんぱいねちゃったから、ぼくもねちゃった」
    「はあ」
    「ぼくも、せんぱいみたいになりたいな」
    「なったらいいんじゃないか」


     あのまん丸ボディも、お気楽な思考も、能天気な表情も。あれでいいのであればこのクローンであればすぐに習得できるだろう。肉体的な構造は無理だとしても表情の作り方はまめねこにそっくりだ。存在がどうであれ、私にとってはまめねこ二匹と同居しているような、そんな感覚になってきている。大した興味も無いので適当に肯定すればクローンはまめねこと私に視線を交互に向けて、楽しそうにはにかんだ。ほら、お気楽な思考だ。私ならばまめねこのようなボディも思考も願い下げだ。
     クローンに合わせたぬるめの湯船で十分に温まった後、さっさと風呂を出て髪を乾かす。ドライヤーの轟音を嫌がって、さっさとまめねこは遠くに逃げてしまった。私とクローンは特に会話もなくそれを済ませる。いつものことだ。


    「ほら、こっちに来い。保湿クリームを塗るぞ」


     とろみのある無色無臭の保湿クリームを手のひらで温めてから、クローンの背中に塗っていく。元々あまり肌が強くない私が自分自身のコンディションのために自作したものだ、年齢は違うとはいえ同じ細胞で構築されたクローンであるこの子供に合わないわけがない。くすぐったそうに身体を捩らせてクスクスと吐息を漏らすクローンの笑い方は嫌になるくらい私と似ていた。性格や目つきは全く似ていないというのに妙なところでコレが『レオス・ヴィンセント』なのだと認識させられる。

     風呂上がりの乾燥に気を使うなどここ最近はとんとしていなかった。肌の油分が足りずにすぐ荒れてしまう幼少期こそ気にしてはいたが最近はそんなことを意識せずとも済んでしまう。美容を気にするレインくんにでもなった気分だ。しかも、ここ最近は毎日湯船に湯を張るようになったし、私でも滅多に使わずにいる柔らかいバスタオルをクローンに使わせている。それだけでも高待遇と言っても過言ではない。余った保湿クリームを、戻ってきたまめねこに塗りたくればくすぐったいのか身をよじらせながら腕とヒレをバタバタさせていて、それを見たクローンが笑う。

     そんな日々を繰り返して、二週間が過ぎた。





     そんな生活が続くと無意識のうちに思い込み始めていた。










    「ごぽっ」











     堰き止められた水が一気に溢れ出すような、鈍い音。


    「……あ……?」


     自らが吐き出した血で真っ赤に染まった手を茫然と眺めたクローンは、手のひらを傾けて私の目に映るように掲げると、緩慢な動きで見上げてきた。丸くした目の中にあるのは恐怖ではなく、単純な疑問だった。動揺に瞳が震えるわけでも焦燥に手や唇がわななくわけでもない。ただ目の前で起きた現象を理解できずその解答を私に求めている、そんな仕草だった。口の端から唾液と共に流れ落ちた血が、ぼたり、とクローンの服に滴り落ちた。

     ああ、この日が来てしまった。

     想定していたはずのタイムリミットを目の当たりにして、とっくの昔にしていたはずの覚悟は消え失せた。動揺で思考が追いついてこないクローンと違い、私の脳みそは正しくこの後の展開を連想できてしまう。何故か震え出した右手を握り込んで白衣のポケットに突っ込み、強張った身体から小刻みに息を吐いて、やけに感覚が遠のいた左手でクローンの頭を撫でた。クローンの求めた解答を、私の口は吐き出してくれなかった。だが私の態度を見たクローンは、私と同じ聡い頭を回したのだろう、表情を曇らせて諦めたように笑った。


    「ねえ、れおす」


     違う。似てなんかいない。
     違う。コレは私じゃない。
     違う、違う、違う。私は諦めたりなんかしない。


    「ぼく、しんじゃう?」
    「ッ貴様!ふざけたことを言うな!!」


     クローンの戯言を聞いた瞬間、爆発した怒りが理性的な思考を吹っ飛ばした。苛立ちと不快感のままにクローンに怒鳴りつける。狭窄した視界が激しい血流に圧迫されてチカチカと白くフラッシュする。だが、まるで自分のものではないかのような馴染みのない感情に戸惑い、すぐに冷静さを取り戻した。なぜ私はこんなにも苛立ちを覚えたんだ?コレはただの道具じゃないか。道具がこれから壊れようとしているだけじゃないか。他者にスイッチを入れられたかのような感情の挙動に、自身が投げつけた言葉すら理解が出来なかった。
     喉と頭が痛むほどの音量で怒声を浴びせられたクローンがびくりと身体を震わせて笑顔を消した。恐怖で強張り、見開かれた目の中でアイスグリーンが揺れている。


    「…ごめ、ん、なさい…」


     小さな手を握り込み、駆けて行ったクローンに対して私が反応するよりも早く胸ポケットから飛び出したまめねこが後を追っていった。パタパタ、一人と一匹の足音が遠ざかる。――ああ、私は最悪だ。


    「……チッ、くそ…」


     何か物に当たりたい程の衝動に駆られるが、拳を握り込み手のひらに爪を立てて必死に耐える。ゴミ箱が近くにあったならば今すぐにでも蹴っ飛ばしていたが、手と足に届く範囲にあるのはコンクリート製の壁と配信用の機材一式。短絡的に八つ当たりをすれば、自身の肉体もしくは生活基盤が壊れるだけだ。それを理解できる程度には脳のどこかが冷めていた。

     頭を掻き毟り、何度も深呼吸をしてから、寝室へと向かう。部屋の隅で膝を抱えるクローンの側にはまめねこが寄り添っていた。私に気付くとクローンを守るように間に立つと文句を言いたげに睨みつけてくる。すっかり保護者の気分になっているまめねこに、追撃する気はない、と両手をあげて和平の意を伝えた。
     まめねこはしばらく怒った顔をしていて槍を向けていたが、やがてそっと槍を下ろすとクローンの足に縋り付く。すり足で近付いてクローンのすぐ側まで来たところで、膝をついて向き合った。


    「…レオス」


     私の呼びかけに、クローンは肩をぴくりと振るわせた。おずおずと顔を上げたクローンの目は真っ赤に充血しており、泣いていたのが一目で分かった。

     そういえばこのクローンが涙を流すのを見るのは初めてだ。思考が感情に直結しやすい私のコピーであるならば、もっと感情的になってもおかしくはない。創造主の私に対して喉が焼け切れんばかりに不平不満を喚き散らしてもバチは当たらない筈だ。もしくは、自身の短命を呪って顔が溶けるほど泣き喚いても仕方がない。
     もし私が、私自身が記憶と感情を全て写したクローンで、短命に設定されており今まさに死がすぐそこまで来ていると知ったら、激昂してオリジナルを手にかけてしまうかも知れない。

     私は緩慢な動作を心がけてクローンへと手を伸ばす。頭を撫でようとした手は、だがしかし今の私がやるのは最悪な行為だろうと自制する。伸ばした手はそのままクローンの小さな肩へと置いた。軽く、腕を撫でる。最低限の筋肉しかついていない腕はとても儚く感じた。


    「怒鳴って悪かった」


     まるでDV加害者のようだ、と自己嫌悪に陥る。そもそもクローンは私にとってはただの道具で、ヒトに該当するものではない。ない、筈だ。だから胸中で暴れ回る不快感はこのクローンに対する罪悪感の類ではなく、理性を失い感情のままに他者に加害した行為への自己嫌悪の筈なんだ。自分のオモチャを取り上げられた子供が起こす癇癪と同じ原理での怒りであって、私と同じ存在でありながら命を軽んじる発言に自己否定を感じたことへの嫌悪であって、この子・・・を救えない自分への憤りなわけが、ないんだ。


    「………」



     クローンは何も言わなかった。代わりに縋り付くように私の胸にもたれかかり、頭を撫でてと言わんばかりに頭頂部を擦り付けてきた。そして、暫くして小さな寝息を立て始めた。こんな時でも手のひらと口元の血を私の白衣につけないように身体を縮こめたクローンは、今の私よりきっと賢いだろう。
















     内頬から採取した細胞と血液検査の結果を何度読み返したところで、記載されている内容が変わるわけではない。私の推測と大差ない診断結果とそれを裏付ける数字の羅列が並ぶばかりだ。


    「ああ」


     指先で液晶画面に触れる。しばらく掃除をしていなかったそこは静電気により埃を纏っていて、指先に埃がまとわりついた。あるべき場所にないコマンド指示を今更求めたところで現状は変わらない。


    長生きバグの原因はこれか」


     これ以上記録を読み込んだところで何の解決にもならないと判断し、それらのデータは汎用フォルダへ入れてしまった。
     アレは使い物にならない。あの方法を用いて起こるエラーを推測できないほど私は馬鹿ではない。見落としてはいなかった。使い物にならないと評価を下していた筈だった。なのに何故、私はそれを正しく認識していなかったんだろうか。クローンに絆されてしまっていたのだろうか。

     私はパソコンをスリープモードにして、振り返り足元の布団で眠るクローンを見下ろす。免疫力が落ちて熱を出したソレをつま先でつつくが反応は無かった。
     しゃがみ込んで、クローンの首に手のひらを当てる。親指の下の太い血管が、心臓が脈打ち血が通っていることを知らせてくる。この親指に力を入れれば、脳に血が行かなくなる。完全に首を握り込んで少し力を加えれば、気道が潰されて呼吸が止まる。そして体重をかければ、首の骨が折れ神経が絶たれる。今、私は直接的な生殺与奪の権を言葉の通り“握って”いる。このまま肉体の機能停止を待つか、精神の崩壊を待つかしか未来のないクローンの苦しみを断つことが出来る。口の中がやけに苦い。視力は変わっていないのに、知覚範囲が狭まり自分とクローン以外の存在を認識できなくなっているのがどこか冷静な思考回路は気付いていた。


    「…う、ん…」


     首の圧迫感のせいか、クローンが目を覚ます。小さい手で自身の目を擦り、寝ぼけ眼で私の方を見上げてきた。クローンは私の顔を見て、にへら、と緩やかに微笑んでいる。今まさに命の危機にあることをこのクローンは気付いていないようだった。まめねこ以下の生存本能しか持ち合わせていないこのクローンは、死を恐れて不老長生を得た私とは対になる存在のようにも思えてくる。外見的特徴は勿論私の幼少期と全く差異がないし、内部構造も私と何ら変わりはないと言うのに。

     クローンの手が、自身の首を絞めている私の手を取る。さして力を入れていなかった右手は簡単に首から離れ、導かれるままにクローンの火照った頬に触れる。冷たい手が嬉しいのかすり寄ってくる。その仕草にただ背筋が凍る――私が今まで殺めてきたのは、ただのクローンモノではなく別の存在たにんだったのではないか、と。ありえない。コレらはただの道具だ。恐ろしい想像が頭をよぎり、私は吐き気を終えるのに必死だった。


    「      」


     その言葉は声にしなかった。私は左手でクローンの頭を撫でてから、右手に触れるその手を解く。クローンも私が頭を撫でた意図を察したのだろう、その時にはもう手のひらの力を抜いていた。いってらっしゃい、と投げかけられたソプラノボイスに定型文を返して、私は寝室を後にした。








     熱い吐息を繰り返す、レオスとよく似た身体を持つ子供のそばに、まめねこはずっと寄り添っていた。個人配信ならいざ知らず、他企業を相手とする案件を個人的理由で欠席するわけにもいかなかったレオスはひどく苦しそうな顔をしながらバーチャル東京へと向かった。
     下手をすれば遅刻するかもしれないほどギリギリまで看病をし続けたレオスは、明確な声という形にこそしなかったものの、くたばるなよ、と口元が動いたのをまめねこは見ていた。

     あの男はクローンを無碍に扱っていても、人間と同じような認識をしていなくとも、いつも「おはよう」と「おやすみ」と「いってきます」と「ただいま」を投げかけられれば、必ずそれを返しているのを知っている。他者との関わりを煩わしいものと唾棄していても、結局は物と認識しているクローンにも挨拶を返すほどには、レオスは他者とのコミュニーケーションを求めていることを長い共同生活の中でまめねこは理解している。

     レオスが収録に向けて、カメラの配置に関して何とかまめねこがいない空っぽの胸ポケットを映さないようにと頼み込んでいるのをまめねこは知らない。だが、この子供のそばにいるというワガママを通してくれたことは感謝をしていた。


    「はあ、はあ」


     大丈夫?とまめねこは子供の顔を覗き込む。まめねこが手を当てた額はひどく熱を帯びている。熱で思考を奪われて焦点を合わせられない子供の瞳を、まめねこは心配そうに見つめた。


    「……せんぱい……」


     すり、とまめねこの小さな手に擦り寄る。


    「ぼくは、せんぱいみたいに……」


     それ以上、言葉は続かなかった。子供は苦しげに唸ると、身体をくの字に折って強張らせ、えずくように咳き込んだ。胃の中は既に空っぽになるまで吐き戻してしまい、そして血も吐ききってしまったその小さな身体からはもう何も出てこない。吐き気で滲んだ涎だけが口の端から漏れるばかりだ。まめねこは慌てて枕カバー代わりのフェイスタオルを引っ掴むと子供の口元を拭う。ヒューヒューと掠れた呼吸をする子供がこれ以上苦しまないよう、まめねこは無い声帯を震わせて祈った。人間の耳には届かない、小さな小さな祈りだった。

     少しの間苦しそうにしていた子供は、少しずつ呼吸を落ち着かせて、やがて静かに寝息を立て始る。それを見届けたまめねこは、フェイスタオルで子供の額に浮かんだ汗を拭い、そして自身を彼の腕の中に滑り込ませた。
     子供を蝕む熱がどうか少しでも和らぎますようにと、強く強く願った。







     愚痴にも似た独白に、隣に座るオリバーくんはよくまあ嫌な顔ひとつせず私の話に付き合うものだと感心する。快速特急を待つ間の短い雑談の筈が話題が二転三転し、いつの間にか私のクローンの近況報告になってしまった。
     というのも、バーチャル東京発エデン行転移トレインに乗車予定だったが、突発的な時空嵐の影響で収束するまで全線運転見合わせとなってしまい足止めを喰らってしまった為に待ち時間が発生したのだ。エデン時空管理局からの速報によれば今回の時空嵐は一時間もしないで収束する見込みのようだからそこまで大きい災害ではないことが不幸中の幸いか。
     平日の昼間ということもあり、改札から離れた自販機横のベンチに並んで腰を下ろした私たちの声が届く範囲に他の利用客はいなかった。


    「全く、手をかけさせられますよ。まめねこには」


     まめねこ不在の理由についてなんとか誤魔化し、エデンが誇る科学力とえにからの映像合成技術によって何とか胸ポケットにまめねこを投影した事で事なきを得た。だが見切れるまめねこの挙動が不自然なことに普段から私の配信を見ている視聴者は気付いたかも知れない。


    「あの小さな頭でもクローンが長くないことを悟ってるんですよね。いや本能的な勘で言えば私よりは優れているから、尚更か」


     オリバーくんに目を向ける。パソコンの画面越しに会話した時と違い、クローンについて話すことに酷く嫌悪感を覚える。あの時ローレンに対して抱いた感情と同じだ。あのクローンについて話題を出そうとした時、パソコンの画面越しではそうでは無かったのに、面と向かって話そうとすると必ずこの嫌悪感と忌避感が湧き上がりその存在を話したくなくなる。
     だが、その、意識が掻き乱されそうになる感情よりも、今この感情を吐露して楽になりたいと言う感情の方が強かった。彼が返してくる相槌を会話のテンポを測るメトロノームにしながら言葉を続ける。


    「『私』がプロモーションしている『レオス・ヴィンセント』という存在しょうひんには、まめねこも含まれていますからね。それを顧客リスナーに提供できないというのは、なんというか、私の矜持に反します」


     話の脈絡や、段取りなど関係ない。ただただ不快感を吐露して肩の荷を押し付けて楽になる、快感を得るだけの行為にそんな形式など必要なかった。過去の配信の反省点を、雑談配信で被験者に向かって一方的に話し続け、コメント欄に流れる相槌を眺める行為に等しい。オリバーくんも生返事を返すだけでも十分な親切だと言うのに、私の顔をじっと見てしっかりと話を聞こうとするのだからとんだお人よしだ。だが、その人の良さに救われることの方が多い。
     私の言葉が途切れたところで、オリバーくんがゆっくりと息を吐いて少し考え込む仕草を見せた。自身の手元に視線を落として僅かに唇を噛む。やがて何かの言葉を飲み込んで、代わりに何かの感情を笑顔に宿した。彼のヘーゼルグリーンは少しだけ私を憐んでいるように見えた。


    「なんだか意外だな。君は今まで自分のクローンをぞんざいに扱ってたからさ」
    「そうですね」
    「あの子に対してもそうかと思ったよ」
    「そう……」


     笑って同意するつもりが、引き攣った呼気が喉の奥で突っ掛かり、上手く息が出せなかった。図星を刺されて狼狽えたわけではなかった。


    「……そう、ですね」
    「ごめん。意地悪を言ったね」
    「いえ。事実、そのつもりでした」


     上手い具合に自嘲できただろうか。皮肉げな笑顔を浮かべることはできただろうか。オリバーくんの表情を見る限り、完成度にはあたり期待できない。さっさと廃棄処分をしなかった自分に嫌気がさす。大した愛着を持っていないクローンに対してこのザマだ。
     私はコンビニで買ったばかりのミネラルウォーターの封を開け、一気に流し込んだ。ペットボトルを握り込んで出てくる水の勢いが少しでも出るようにする。この得体の知れない葛藤を全て飲み込んでしまいたかった。喉を鳴らして水を飲み込む私の隣で、オリバーくんは静かに無糖の紅茶を少しだけ口に含む。
     若干吐き気を催すほどに大量に飲み込んだおかげで、喉の奥に突っかかった物は胃の中に落ちた。重く燻っているが、この不快感はまだ耐えられる。


    「子供は無条件に愛されて幸せに生きるべきだ。例えそれが、不慮の事故で作られた命だとしても」
    「なるほどね」
    「だから君が彼のことを愛したのは、僕にとっては当たり前のことだ」
    「愛してないですよ。寧ろ酷い仕打ちをしました。ああ、手違いで産み落としたことはそもそもの話だから除いて、です」
    「なら、どんな?」
    「生かし続けた事ですよ。中途半端な情を与えるよりも、世界の楽しさも、苦痛も、何も知らないままで、知らないままで『終わらせた』ほうが良かったんじゃないかって」


     オリバーくんのペリドットの瞳が、まるで研磨される前のカンラン石に戻ったかのように輝きを見失った。僅かに緑がかったメガネのレンズ越しに見えるそれが剣呑な色を孕む。ああやはり彼は優しい男だ。私とは相容れない価値観を持つ存在。同郷の配信者、という繋がりがなければエデンでは関わりがなかったかも知れない、事実そうであったように『興味深い論文を書く男』と互いが認知する程度の間柄だったかも知れない他人。

     彼の方が早くにじさんじの一員として宣材写真が公開されていたから、下手をすれば同期ではなかったかも知れない。たまたま同郷の者が複数人集まって、たまたま同時期に配信者を始めることになって、その中でもたまたま年が近くて、たまたま波長が合って親しくなれた、それだけの間柄。そんな偶然が重なり長くない付き合いをしてしまったおかげで、オリバーくんが今とても苛立ったのがよく分かった。


    「本当に愛していたならば、何も知らせないで終わらせてやるべきだったんですよ。だってそうでしょう?私はこの世界が楽しくて仕方がないんです。知ってしまったら、もっと知りたくなる。それは恐らくあの小さな私だってそうですよ」
    「……ここが公共の場でよかった。事務所だったら後先考えず殴ってたかも知れない」
    「こっわぁ。暴力反対」
    「ならさ。そんな顔するなら、そんなこと言うなよ」


     オリバーくんのメガネに反射して映る私の顔は、歪んでいた。彼に負けず劣らず、酷い顔だ。苦し紛れの自嘲であるのが嫌と言うほど見て取れる。オリバーくんの人情の厚さなら胸ぐらの一つは掴まれるかと踏んでいたが、存外冷静だったようで苦笑いをしながら顔を言葉で指し示すだけにとどめていた。若干の不満を覚えるのは、きっと私がオリバーくんの怒りのままに罵られて、残酷な人間だと思い知らせされたかったからかも知れない。
     私の、身に覚えのなく原因が分からない葛藤を見抜いて優しさを見せたオリバーくんは、深く息を吐いて俯いた。そして線路が伸びた先にある転移電車が来るべき方向に目を向ける。丁度そのタイミングで遠くの曲がり角からそれが姿を現した。
     何を言うでもなくおもむろに立ち上がって鞄を背負う。ずいぶん長い間運行中断していたから混んでいるかと思われたが、リアル東京ならともかくバーチャル東京への転移者は少ないせいか、平日の昼間ということもあって乗客はまばらだった。


    「どうしても、彼を救えないのか」
    「ええ。無理です。考えても見てください、肉体構造は子供のそれなのに、細胞構造は『レオス・ヴィンセント』なんですよ」
    「……」
    「肉体の時間を進める、もしくは止めることは今の私にとってはさして難しい問題ではありません。ですが『戻す』ことはまた勝手が違います。常に上書き保存されていく肉体情報には、完全な巻き戻しができません」


     電車の中ということだけでなく、話す内容もあって声を潜める。長い身体を少し曲げて顔を近づけるオリバーくんの耳元に声を向けた。角席に座っているので本当に密談している気分になる。
     オリバーくんは少し考え込んだ後、通常処理でダウングレードができないのと一緒か、と頷いた。理解が早くて助かる。この辺りの情報はそこまで重要な事項でもないのでさっさと話を進めてしまおう。


    「子供のクローンを作る、というだけなら可能です。細胞分裂の状態を再計算してその情報に置き換えて、0から培養し、胎児状態を経て赤ん坊のクローンを作ればいい」
    「『元に戻す』は無理だけど、初期化して育てるのは可能、と」
    「そ。ただアレは『今の私』の巻き戻しアンドゥ。子供の肉体と大人の情報が混ざって、バグが起きてる状態ですね」


     あのクローンが生成される過程で『再計算』による書き換えが行われず、『元に戻す』で本来あるはずのないデータを呼び込むエラーが出てしまった。本来ならばエラーが出た段階でそのプロセスは中断されるはずが、私が酔ってキーボードに手をつき滅茶苦茶なコードを入力した際に恐らく強制実行の処理が行われてしまったのだろう。
     曖昧な記憶を辿っても原因を思い出すことを出来ず、かといってパソコンのプログラムを読み取って過去の入力ログを遡ることが出来るほど機械に明るくない。せいぜい私が出来るのは計算ソフトがどのような処理をしたか記憶している部分を見る程度だ。
     私は無意識のうちに握り込んでいた拳をわずかにほぐして、人差し指と中指を立てる。そして自らの唇に当てて深く息を吸い、手のひらを反転させオリバーくんに手のひらを向けながら細くゆっくりと息を吐いた。


    「タールで汚染された肺で酸素を取り入れ、コーヒーとコンビニ飯でドロドロになった血液で運んでるんですよ。あの小さい体には毒が山ほど詰まってる。かわいそうに」


     悪い方向に、澱みなく想像出来たのだろう。オリバーくんは苦虫を噛み潰したような顔をして視線を逸らす。私は肉体年齢こそ変わらないように投薬をしているが、その身体に悪影響を及ぼさない生活をしているかと言われれば、それは全く違う。寧ろ配信者となって食事の量は満ち足りて腹は飢えなくなったが、栄養バランスと睡眠時間はかなりイカれてしまった。
     ライバー生活は所謂一般的な社会人とはかけ離れた生活形態をしていて、打ち合わせなどの外部影響のあるイベントが発生しない限り基本的なはず全ての時間が自由時間であり勤務時間だ。生活リズムは崩しやすい。

     さて、暗い雰囲気になってしまった。私は口に笑顔を浮かべて、背もたれに深く寄りかかる。意識して明るい笑顔を作り、手のひらを上に向けて少し持ち上げるジェスチャーをした。お手上げだ、という意味を込めてのものだったが実際のところ正しい動作なのかは分からない。感覚的なものだ。敢えてオリバーくんに聞くまでのことではないし、オリバーくんもいちいち訂正はしないだろう。伝われば十分だ。


    「ま、あの不憫な生き物の最期くらい、穏やかに送らせてやりたいですね」
    「そっか」
    「何かいいところはありません?生憎、廃下水道は真っ暗ですし、今までクローンは…まあ、んー、勝手に死んでしまったので看取ったことはないんですよ」


     自然死よりも、投薬による心臓発作もしくは肉体の崩壊といった具合に人為的に死がもたらされるケースの方が何倍も多いのだが、その点は伏せておく。私が素晴らしい薬品を投与してやってるのに、クローンたちは拒絶反応を起こして自ら死んでいくのだからまあ間違ってはいないだろう。アレも、自然死で長く苦しむようであれば静脈注射をして眠らせてやるつもりだ。そうしてやるくらいには少なからずの情を持ってしまった。
     私からの問いかけに、オリバーくんからの返答は想定よりも随分と早かった。それならばと右手の人差し指を立てながら、左手でスマホをタップし始める。


    「新たな生を祝福する森、っていうのは知ってる?君が前住んでたところに近い場所にある常緑樹林なんだけど」
    「字には森と山と畑が腐るほどありますからパッと出てきませんね……どれです?」
    「ほらここ。僕も君と知り合う前に一回行ったことがあってね。すごく空気が美味しくて、人の手があまり入っていないのに荒れていない綺麗な場所だよ」


     脳内に周辺地図を呼び起こしながら尋ねれば、オリバーくんは地図を表示して私に見せてきた。知っているどころかよく見知った場所だった。セカンドハウスから車を一時間ほど走らせた場所にある森で、奥地に人ならざるものの住処があるとかなんとかそんな理由でエデン郡では有名な場所だ。
     祝福とオリバーくんは言うが、地元では神隠しの森だとか失せ物の森だとか、そういった不吉な名前で呼ばれて忌避されている。まあ、文化人類学者のオリバーくんが言うのだから、元々はそういった歴史があったのだろう。彼は神隠しに遭わなかったようで何よりだ。不運な目に遭ったのならば人に勧めはしない。
     まあ、あの森に関して、私にとって重要なのは俗っぽい噂話ではなくあの森に自生している植物の方だ。あそこは人の手が介入しない分珍しい薬草が手付かずで残っているので、たまに立ち入っては何時間も徘徊し薬草探しに勤しんだものだ。あそこで採れる薬草はいい麻酔薬が作れる。
     私が肯定するとオリバーくんは少しだけ口角を上げた。長い上まつ毛を震わせながら目を伏せて、切なく微笑む。スマホをしまう動作は酷く緩慢だった。
     

    「魂がどうとかそういうのは分からないけどさ。生まれ変われるなら、僕からは祝福を送りたい」
    「そうですか。……ま、気が向いたら行きますかね。字は遠いですから
    「人に聞いといて何その言い草は。…でも、うん。レオスくんは絶対行くね」
    「へえ?そう言い切れると」
    「ああ。これが証拠だろ?」


     膝で足をつつかれる。そこでようやく自分が貧乏ゆすりをしていることに気付いた。足を止めれば遅れてやって来る倦怠感。どうやら長い間この状態が続いていたらしい。胸に宿る焦燥感を自覚して、それを表に出していた気恥ずかしさで耳が熱くなるのと同時に、先ほどまでの収録への影響を考えて血の気が引く。


    「…さっきもしてた?収録の時」
    「貧乏ゆすりは流石に。でも手の甲を指でトントンしてた。2.0のカメラだし、音も乗ってないだろうから大丈夫でしょ」
    「あー」


     転移トレインの車窓にノイズが走り、景色が歪む。ビルの隙間から覗く空が、天然の曇り空から人工的な青空に表情を変える。同時に私の思考に走っていたノイズもすっかり消え失せて視界がクリアになる。今日初めて、しっかりとオリバーくんの顔を見た。そういえば、収録の最中ずっと緊張していたような、いや、不安そうにしていたのを思い出す。元々私自身が自発的な感情に振り回されてその日のコンデションが著しく左右されることはオリバーくんも知っているとはいえ、彼のことだから自分にも原因があるのではないかと少なからず可能性を持ってしまったに違いない。


    「マジですまん」
    「気にすんな。こっちが原因じゃなきゃいいよ」
    「わーりぃ、マジで」


     手で空を切って頭を下げる。オリバーくんは安堵したように気の抜けた笑みを浮かべたから、私の推測は当たっていたらしい。こういう寛容な態度が私を甘やかして付け上がらせると知っているのだろうか。寄りかかりすぎて更なるダメ人間にされている感が否めないが、まあオリバーくんにもイジられたり振り回されたりすることはたまにあるから、お互い様ってことには……ならないか。












     

     私が乗っていたコペンは、今ではセカンドハウスとなった字の賃貸に置いてある。廃下水道には当たり前だが駐車場など無いし、駐車場を借りようにも中央エデンは地代が高すぎる。徒歩圏内で大抵の生活用品は買い揃えられるし、バスに乗ればバーチャル東京への転移ステーションへと行けてしまうため、ここに住んでいるうちは車が必需品ではない。だがこういう時は車を持っていない事が不便で仕方がなかった。
     レンタカーを使うことも考えたが、レンタカーには大抵ドライブレコーダーが付いている。行きでは生者として同乗していた子供が帰り道では同乗していない、もしくは後部座席にはいるが死者となっていた、なんてことがバレれば死体が見つからなかったとしても一発でお縄だ。


    「んで、こうやって頼み込んできた、と」
    「仕方ないじゃないですか。いざって時に頼りになるのエデン組の君たちしかいないんですよ」
    「だからっておれに頼むのはおかしくない?」
     

     バックミラー越しに、運転席のアクシアが私をじとりと見てくる。機会がなくてモニター越しでしか顔を合わせていなかった元同僚であり同期の私に「飯でも食おう」と誘われて、「少し遠いから車を出してくれ」との無茶振りに渋々応えて車を出したというのに、いざ来てみればクローンの看取りだと言われればそりゃあ不満にも思うだろう。体よく足に使われているのだから仕方がない。報酬に高級焼肉を提示したが、エデン組全員を奢りの人数に入れさせられるくらいには足元を見られている。

     私は膝の上に頭を預けるクローンの身体に手を置いて、感情の道筋を辿る。脳に刻んだ文字を辿るように無意識に視線を頭の上でぐるりと回す。手のひらから伝わってくるクローンの身体は、服と毛布に包まれて二回りほど大きくはなっているがそれでも小さい。昨日から熱は下がったが、その分、体の熱が抜け力が抜けていっていた。もうまめねこを抱くほどの腕の力もないようだった。
     小さな、もう消えかかった存在を手のひらと大腿筋から感じながら、記憶の引き出しを開いていく。指先にまめねこの双葉が触れた。芯があるがやわらかいそれは、この子の髪に似ているような気がした。


    「レインくんは多分号泣してどうにもならなくなりそうだからダメです。オリバーくんはそれこそ金積まれても嫌ですよ。運転下手くそなんだもん」
    「なにが『もん』だよ。アラサーのもんはきっちぃよ」
    「言ってろ」
    「んで?ローレンは選択肢にないの?」
    「通報されるんで嫌です」
    「おれそのお巡りさんのバディなんだよなぁ」


     理解できないが気持ちは分かるのだろう、アクシアくんはアハハとから笑いをしながら軽くため息をついた。本当は、アクシアくんにもこの事を知られるべきではなかったとは思っている。どう考えたって重く受け止めるのは目に見えてる。それでも頼まなければならなかった。私の偽善と世間体を両立させるには、今後の友情を天秤にかけるしかないのだ。アクシアくんの記憶を今回の出来事の箇所だけ消すのも出来なくはないが、確実性はないし、何より戦闘職の彼に奇襲をかける事ができるとは思えない。確実性を得るためには毒を盛る必要がある。今はその準備がないし、私は積極的に実行することも今のところは無い。

     高速を使って何時間も走って、ようやく着いた頃には昼飯時から短針が三つも進んでいた。通常自動車用の有料高速転移装置を使用しても、片道四時間の大移動。金をケチっていれば半日は移動だけで費やされる羽目になっていたのだから、文明の発展に感謝だ。

     車のドアを開けてから眠っていたクローンを揺り起こす。ゆっくり開いた目に力は無いが、寝起きのような曖昧さは無かった。少し前から、もしかしたらずっと起きていたのかも知れない。私がアクシアくんに事情を話しているのを聞いていた可能性がある。胸の奥にのしかかった、重油のような、重くて粘ついた黒い感情を噛み殺してクローンを抱き抱える。まめねこもクローンと一緒に抱き抱えて車外へ出ようとして――。


    「レオス」


     アクシアくんの静かな声が、背中にかかる。色々なものを押し殺した、掠れた小さな声だ。


    「おれさ、人が死ぬ物語、不幸になる展開とか、めちゃくちゃ苦手なんだよ。ハッピーエンドが好き」
    「知ってます」
    「それなのにおれに頼むって酷いよ」
    「……すみません」


     私はクローンの体を抱えなおして、車外へ出た。この辺りは中央エデンから離れているから天候制御装置が完備されていない。久しぶりに見たエデンの天然の空は、どこまでも澄み渡る青が広がっていた。
     私が後ろ手にドアを閉じると同時に、ドアの開く音がした。アクシアくんは運転席から外に出ると、車のフロントを回って私の目の前に立った。そして私の腕の中で不思議そうに虚ろな目をアクシアくんに向けるクローンを見下ろして、穏やかな笑顔を向ける。身長に比例して大きめな手がクローンの柔らかいくせ毛を撫でた。


    「生まれ変わっても覚えてて、おれんとこ遊びに来てよ。一緒にゲームしよ。FPSならめっちゃ得意だからキャリーするし、テトリスはあんま得意くないけど勉強する。ポーカーとか、麻雀みたいなやつでもいいよ。お前の好きなゲーム、たくさんやろ」


     少しだけ震えた声は、それでも明るい。私ではかけてやることができない言葉だ。終わる先の未来を期待させることが出来ない。
     アクシアの真っ直ぐな言葉にクローンは面食らったのかしばらくまばたきを繰り返して呆然としていたが、やがて小さな口をもごつかせた。


    「……おはなし、あるやつ……」
    「おっけー!RPGやろな!だから、また会おう」


     クローンは微笑んで、僅かながらだが確かに頷いた。
     見届けたアクシアくんは、顔を挙げると私をまっすぐと見つめてきた。その視線の意図がどうであれ、私の認識では「いってこい」とでも言うかのようなものだ。口角を上げて笑顔で応えようとしたが、残念ながら表情筋が異様に固くなっていることを自覚しているので、軽く会釈するだけに留めた。
     私が森の中へと歩を進める直前、背後で鼻をすする水っぽい音がしたのが聞こえた。






     随分とはっきりした獣道を歩いているのだが、踏みしめた地面は柔らかい。人の手が介入していない自然というのは気持ちを童心に帰らせる。字のエデン荘を拠点としていた頃はたまに森の中を意図的に彷徨うことがあったが、運動や気晴らしといった本来の目的もありつつ、深く物事を考えずただ本能のままに生きていた少年時代の感性を甦らせる行為でもあった。

     歩きながら、腕の中のクローンとまめねこに目を向ける。この存在は、本人が口にしたような『しあわせ』な存在では無かったと思う。寧ろ望まれないままに不完全に産み落とされこうして命を散らせるのだから『不幸せ』に極まっている。
     私の研究成果の中では、奇跡的な幸運を持った部類だ。不完全なクローンが自然に迎える最期は大抵が精神崩壊と肉体崩壊を伴う。自我を保てないほどに精神が虚弱になるか、発狂して自意識を失うか。そしてソレらの大半が肉体という形を維持できずに泥状化もしくは液体化していく。そんな中で、このクローンはそのどちらでもない。立ち上がる気力は残ってはいない。だが意思疎通が可能で、頭の先からつま先までしっかりと肉体を維持していた。

     クローンとしての存在意義で見れば幸運だった。だが、この子供にとっては、不幸せだった。自我を失うことを許されず、最後の瞬間まで不幸せを味わうことになるのだから。



     森の中を進めば、少しひらけたところに出た。私はクローンを腕に抱いたまま座り込む。この場所は柔らかい草が一面に生えていて、剥き出しの地面に座るよりは座り心地が良かった。
     木漏れ日に照らされるクローンは虚ろな視線を虚空に漂わせている。私はその視線の先を追うように、頭上へと目を向けた。木々の隙間から漏れてくる日光に照らされて、まめねこの双葉のような明るい黄緑からレインくんのジャケットのような深緑までの幅広い色味を見ることができる。薄暗い森の中に光が幻想的に差し込み、冷えた空気が肺を満たす。なるほど確かに美しい光景ではある……が。


    「うーん」


     確かに美しい光景ではあるが、こんなものか。空気が美味しくて綺麗、との前評判があったがために期待をしていたが、私の持つ記憶とさほど変わらない。むしろ道中に生えていた薬草の方が心躍るものだった。
     確かに中央エデンでは自然公園に行かなければ見られない光景だ。都会育ちのオリバーくんや、そこのスラム出身のローレンはある程度成長するまでこういった景色を見る機会はなかったかも知れない。感動的だろう。だが、いかんせん私は森と畑と住宅街に囲まれた閑静な田舎育ち。こんなものは見慣れていた。
     これならエデン荘の方が屋根も床もあってまだ良かったな、と一瞬頭に浮かんだが、友人の推薦もあったので一応は納得しておく。まだ道路が舗装されているエデン荘への道ではなく、完全には舗装されていない道に車を走らせてくれたアクシアくんへの恩もある。


    「れおす」
    「なんですか?」
    「ぼく、ずっとしあわせだったよ」
    「……」
    「しあわせで、よかったんだよね」


     私と同じアイスグリーンの瞳を見下ろす。今まさに考えていたことを言い当てられてしまった。私のクローンだから思考経路が似ているのもおかしくはない。それにしては私に似ていないクローンだった。小さな身体を抱く腕に力がこもる。動揺で泳ぎそうになる目を見られまいと、アイスグリーンを睨みつけた。
     どうだろうな、と。こいつと出会った頃の私は呆れ、同情し、返答しなかった。でも今は違う。


    「ああ、当たり前だ」


     口から出たのは、世論に反した言葉だった。

     クローン技術は、禁忌とされている。まだクローン技術が完成していなかった頃、当時同じ研究所に属していた人間に「神様気取りか」と軽蔑混じりで笑われるくらいには、生命を培養ポッドの中で生成するのは人道から外れた行為だというのが世間では言われている。命を生み出すことすら不道徳であるのにも関わらずただの道具として生産しているだけにすぎない点からして、私は外道と呼ばれるようになったわけだが、その生産物であるこのクローンが許されるべき存在であるとは思えなかった。
     それでもこの言葉を吐いたのは、なんてことはない。最後に喜ばせてやりたかった。これから長い続く人生でほんの一瞬だけ生活を共にしただけの、作り物の存在に、愛着を持ってしまった。終わる先の期待はさせてやれなくとも、終わるまでの今この時だけは、救ってやりたかった。


    「やったあ」


     満足そうに微笑んで、ふ、と目を瞑る。腕の中の存在からくたりと力が抜けた。眠ったのかと一瞬脳が現実を拒否した結論を吐いた。明確に、呼吸が止まったのを少し遅れて認識する。


    「おい!レオス!レオス!!」


     慌てて地面に降ろす。脈拍が無いことを確認し、心臓マッサージをする。人工呼吸もするが、反応はない。


    「生きろ、生きるんだレオス!神とやらの作った輪廻にいなくても!生きていいと、私が許可したんだぞ!!!」


     何をやっているんだ、私は。この生命体を終わらせるという目的を忘れたわけではないのに、生かそうとする手を止められない。胸ポケットから飛び出したまめねこが、私の白衣の裾にしがみついているのが分かる。視界には映らなくともまめねこが不安がっていることは直感で分かった。だから、だから、……だから?分からない。思考力が奪われた今の自分では判断が付かない。

     必死になって蘇生を続けた。小さな唇の隙間から息を吸い込めと、薄い瞼を持ち上げて私と同じ目を見せろと、呼びかけ続けた。




     ――だが、反応は、戻らなかった。




    「はあ、はあ」


     私の震えて乱れた吐息だけが耳に張り付く。体の横に垂れ下がった腕が重い。指先の感覚はとっくに消えていた。人の葬式に出席した経験はあるし、クローンを何体も処分してきた。たまにクローンではない被験者も壊してしまって廃棄してきたこともある。他人の死も、自身の死も、何度も何度も何度も何度もこの目で見てきた。だというのに比較にならない絶望が押し寄せてくる。
     決まった道筋だ。看取るつもりでこの地に来た。迷う必要があっただろうか。苦しむ必要なんか無いはずだ。なのに、何故、何故苦しいんだ。分からない。どうしてこんなに悲しいんだ。

     呆然としていたが、足元で何かが蠢く違和感で我に返る。目を向けた先の地面が盛り上がり、しゅる、と蔦が生えてきて小さな体を葉々が覆い始めた。非現実的な、非科学的な状況に絶句する。神隠しやら物失せやらと言われる所以はこれか。『何処か』へ引き摺り込もうとするこの現象がこの植物、もしくはこの土地自体の生態なのか、それと生態系とは全くの無関係でオリバーくんの言っていた「新たな生を祝福」するためのオカルト事象なのか。理解は出来ない、が、クローンが今まさに手元から離れようとしている事実だけは理解できた。
     引き攣って喉の奥で押し留められていた息を無理やり吐き出した。このまま放置すれば死体処理の必要は無くなる。だが、脳はそれを都合のいいことだと解釈したと言うのに、感情が、心がそれを拒絶した。強張った体を無理やり動かした。


    「……やめ、ろ……こいつを、連れて行くな!」


     気付けば私は、クローンにまとわりつく蔦を必死にむしっていた。この子の頭を撫でるために白手袋を外していた手に痛みが走る。硬い蔓に引っかかれ皮膚が裂け血が滲む。無理矢理掴んだ拍子に爪が何枚か外側に折れ曲がる感触がしたが、無視をした。青々とした、やけに青みの強い深い緑は小さな身体を優しく自然の中に抱き込もうとしているのに、私はそれが許せない。私以外の存在が私に干渉することが許せない。
     この子に触れるものが許せなかった。


    「俺の子供だ!!!!!!」


     喉が焼け切れそうなほどの声で叫んだ。渾身の力で蔦をむしり続けた。だが懸命な努力の甲斐も虚しく小さな身体は葉に覆われて見えなくなった。酸欠か、アドレナリンが溢れているのか、目の前が断続的に真っ白に染まる。フラッシュの焚かれた視界の中で、クローンが取り込まれて小さくなっていくのが見えた。
     手のひらに収まるほどまで小さくなったところで蔦が解れ始めた。


    「…………え?」


     そこに”いた”のは。


    「……まめ、ねこ…?」


     ぱち、と蔦の中でハツガソライロマメネコが目を覚ます。真っ黒な瞳が私のことを見上げている。私の元にいるまめねこと違い、この個体の身体は水色に微かなエメラルドのような色味が混じっている。『レオス』の目によく似た、アイスグリーンだ。頭の双葉は深い緑。個体差なのか別種族なのかは分からない。
     目の前で何が起きたか理解が出来ない。人間が、人間ですらなかったものが別の種族になってしまった。何故まめねこになった?まめねこになる兆候はあったか?このクローンは小さな私そのままだったじゃないか――?


    「ああ、ああ、そうだ」


     違和感を思い出した。頭のどこかで引っ掛かったのに無意識のうちに見逃したことがあっただろう。






    『ぼくがれおすになるまえ、たぶんあんなかんじ』
    『からっぽのからだがあったからはいったの』
    ――あのクローンは、嘘も推測も口にしない。


    『ぼく、せんぱいみたい、に、なりたい』
    『ぼく、れおす、ちがうよ?』
    ――なのに、そう言っていたじゃないか。


    『そしたら、せんぱいがいた。こっちにおいでって、ゆってたから・・・・・・、ついてった』



    『おはよう、れおす』






    先輩まめねこから“聞いた“んだな、私の名前を」


     掘り起こされる記憶を辿って問い掛ければ、その存在は楽しそうに笑って身体を揺らした。恐らく肯定と取るべきだろう。もしくは、私がライバーの企画配信に参加した際、カメラ性能の制限の中でも反応を見せようと身体を揺らし、その様を見ていたのかクローンが夜食の時に真似して身体を揺らしたことがあったからそのせいかも知れない。

     こいつが『レオスのクローン』であったから気にも留めていなかった。だが、冷静に考えればレオスとしての記憶を何一つ持っていない状態で生まれたクローンが、私の名前を呼べるはずがない。
     私と言う情報を得る手段を持っていないのだから。廃下水道の地下施設はいつでも廃棄できるよう余計な個人情報を入れていない。居住スペースであればグッズやファンレターがあるので名前の確認くらいならできるが、その手のものはまとめて箱に入れているためクローンが目にする機会は無かった。ならば、私という個人を知るためには、私、もしくは第三者からの明示がなくてはいけなかった。

     あの場にいる第三者は、まめねこただ一匹だった。

     まめねこには声帯が無い。もしあったとしても、少なくとも人間の耳が捉えられる周波数の鳴き声は出さない。あの存在は人間のクローンである以上、聞き取れるはずがなかったのだから「まめねこが言っていた」なんてことはありえない、筈だった。
     所詮はレオスのクローンであると言う認識が客観的な事態の把握を阻害していた。こいつは私なのだから、と前提条件が間違いだった。ナスが好きで、ぬるめの湯船が好きで、理不尽な叱責に怒りを覚えないこいつが私とは全く違う価値観を持つ他者であると知っていたというのに。


     同居人のまめねこが、新たに誕生したまめねこに近寄る。互いに身体を揺らして何かしらの意思疎通を図ったところで、まめねこはアイスグリーンまめねこの肩あたりにポンと手を置き頷いた。まるで『先輩』が『後輩』の門出を祝うような、激励しているような、そんなふうに見えた。私はそれを眺めることしかできなかった。
     アイスグリーンまめねこは嬉しそうに双葉を揺らすと、ふいと背を向けて駆け出した。ただでさえ小さかった姿が更に小さくなっていく。木陰に消えようとしたその直前、アイスグリーンまめねこは振り返って短い手を大きく振った。


      せんぱい、れおす。またね。


     あの子の声で、そんな言葉が聞こえた気が、










      あ、れ  ?






     気付けばアイスグリーンまめねこはその場から姿を消していた。静かな森の中で、風に揺れる葉の音だけが意識の遠くで聞こえる。私は呆然とその場に座り込んだまま、あの存在が消えた場所を眺めるしかできなかった。


    「……あの子は……どんな、声を、していた……?」


     あのアイスグリーンまめねこは確かにそう言った意図のことを伝えようとして、私は確かにそのメッセージの内容を確信し、脳内で声が再生されたと言うのに『どんなものか』を認識することができない。思い出すことができない。
     覚えているのは、私のは似ても似つかない柔らかな笑顔をしていたこと。そして、私によく似た、だが私よりもずっと澄んだアイスグリーンの瞳をしていたこと。

     単に一つの生物を保護して、その責任感を手放すことができた開放感とは似ても似つかない脱力感。まるでドライアイスを流し込まれたように、一気に思考と感情が冷えていく。重くのしかかっていた何かはすっかり消え失せ、寧ろ喪失感を覚えた。
     その感覚をこれ以上認識することが非常に不愉快で、思考から追い出すために思い切り頭を掻きむしる。手のひら残っているあの柔らかい髪の触感とはかけ離れた硬い髪が指に引っかかって何本か抜け落ちていったのを、頭皮に感じる断続的な痛みで認識した。
     孤独に締め付けられる心臓の痛みと似た息苦しさを誤魔化したくて、思い切り息を吐き出す。吐息と共に漏れ出した呻き声はひどく情けなかった。


    「違う、違う、違う。なにが俺の子だ。そんなわけがないだろ」


     自分に言い聞かせるために言葉に出して、脳に刻み込むように独りごちた。


    「あの子は…あいつは、アレは、ただのクローンだ。アレは、ただの、失敗作のクローンだった」


     正しくは、『私の子供時代の肉体構造をしたクローン』だ。情けない声で喚いてすがるほどの存在ではない。興味の捌け口のために生み出され、使い捨てられるクローンと同じ。ただ大きさが違った、それだけの存在だ。
     そうだ、何故私はまるで我が子にするかの様に、クローンを自分自身とはいえ同じ布団で寝かせようと思ったのか。あのオーダーメイドのマットレスは、私一人がベストポジションで正しい姿勢で寝ることを想定して作成されているから、異分子を入れては万全のパフォーマンスを保てない。それに寝袋の様な狭さは許せるが他人が介入することの狭さは許容できない。当たり前のように無防備な空間にクローンを引き入れ、呑気に眠りこけていただなんて我ながら呆れてしまう。危機管理能力が欠如しすぎていた。

     腹の奥で重く粘ついた不快感を今すぐ取り除きたい。喉奥に指を突っ込んで、胃の中のものと一緒に吐き出してしまいたかった。腹にメスを入れて臓物ごと掻き出せればどれだけ良かっただろう。だがこの不快感が肉体的なものではなく精神的なものである以上何の解決にもならないことを知っている。せめてもの抵抗で、肺を握り潰すように深く、深く息を吐いた。身体中のものを擬似的に吐き出し、物理的に酸欠状態にさせて脳の働きを鈍くさせる。そうでもしないと気が狂いそうだった。

     私がしばらくそうしたので、まめねこも流石に心配してか私の膝にしがみついてこちらを見上げてきた。その表情は、あのクローンの顔と重なることはもう無かった。まめねこはただ唯一の、私と共に寝食を共にしている、親近感などと言った少しばかり情がお互いあるだけの同居人であって、そこだけはずっと不変であった。以前と今で変わらないポジションにいるまめねこが救いに見える。徐々に、心臓の鼓動や情緒の乱れが落ち着いていった。歯の根が合わない。ガチガチと音を立てる奥歯を食いしばって、一つ、大きく深呼吸をした。


    「……大丈夫。大丈夫だ、まめねこ。少し、混乱しただけだ。私はもう……冷静だ」


     真っ直ぐと目を見て伝える。まめねこは鼻と耳をぴくりと動かししばらくの間私の目をじっと見つめ続けていた。それこそ、十秒以上はそうしていただろう。やがて納得したのか膝に縋り付くのをやめて、胸ポケットに入れろといつものように腕を伸ばして強請ってきた。
     まめねこの背に手を回し、尻を持って持ち上げる。胸元に近付けるとまめねこは素早い動きで胸ポケットに頭から突っ込んで、しばらくモゾモゾとポジショニングを確認してからいつも通りの体制に整えた。あのクローンに抱き抱えられていた時は重みがなくて楽ではあったが、やはりこの場所にいるのが、私にとっても馴染みがあって落ち着く。


    「なあ、お前は知っていたのか?」


     問いかけるも、まめねこは首を傾げるばかり。口をぽかんと開けて私の顔を見上げている。


    「お前や他のハツガソライロマメネコもそう・・なのか?」

     この問いかけには、すぐに首を振って否定した。どうやらアレが特殊なだけで、普通はまめねことして生を受けてまめねことして成長するらしい。ここで反射的に否定できるのに何故最初の質問は曖昧な返事をしたんだ……結局のところまめねこ自体も自身のことを完全に理解できない不思議生物だとでもいうのか。燻った疑問は『まめねこだから』という都合のいい理由で揉み消すことができる。


    「まあいい。さっさと帰ろう」


     アレがマメネコ属のどこに属してるかは不明だが、その種族はああいう生態なのかも知れない。対象に庇護欲を抱かせ群れの中に入り込む。パーソナルスペースに侵入することへの不快感を麻痺させた上で、その存在があることへのデメリットを考えさせない。その上自身の秘匿性を保とう行動させる。あの存在についての一部を極端に忘れてしまっているのは、まるでまめねこの情報を『隠されている』ようだった。そうすることでまめねこの生態系を守り種を存続させてきたかとも推測できる。観測データがただ一つしか無い以上確信は無い。
     これは可能性の低い推測ではあるが、この森に『神隠し』という呼ばれ方と『新たな生を祝福』という伝承は繋がっているという事もあり得る。“空っぽの状態“の他の生き物に寄生したまめねこが先程と同じ行動をして、それを見た地元民が「人間が消えた」と勘違いしたのかも知れない。まめねこは小さな生き物だ、いくら鮮やかな水色をしているとはいえ背の高い雑草の中に紛れたら見つけることは非常に困難。運良くまめねこへの変化を見届けた地元民がいたとしたら、もしかしたら転生を祝福するかも知れない。サナギから蝶へと羽化するように。
     細かい伝承が残っていないのも、まめねこの生態によって隠されてしまった・・・・・・・・ために記録を残せなかった、と言われれば話は通る。
     そういったフェロモンを出しているのかは定かではないが、それらはある種の洗脳にも思えた。思考を阻害する生き物というのは、牙を持つだけの生き物よりもずっとずっと恐ろしい。

     ……前に進もうとする足が止まり、視線が自然と下を向く。


    「…………」


     視線の先で、活き活きとした双葉が揺れている。
     いつの間にか私の生活圏に溶け込み、馴染み、寝食を共にしている存在。単独で文明を築く程度には知能があるとはいえ人間に比べれば単純な思考回路をしている畜生に私は愛着を持ち、愛嬌を感じ、庇護対象に置いている。個人所有が禁止されているためにエデン内では存在を秘匿している。そして、私はこの存在が『生態不明』であることを無意識に容認し、謎に包まれているという事への不信感やら恐怖やらを感じたことがなかった。


    「――いや、まさかな」


     まめねこから視線を外し、かぶりを振る。あり得ない、馬鹿馬鹿しい想像に思わず自嘲が漏れた。
     こいつはただ同居人のような関係性で、それ以上でも以下でもない。自ら手を出さないだけでまめねこが自ら馬鹿なことをすることに制限はしていない。謎を放置しているのはそれを追求するだけの興味がないだけだ。分からなくても不思議生物のまめねこだから当然と言える。たとえ精神汚染の影響下に置かれているとしても現状金銭的な不利益は受けていないし、被験者リスナーからのウケがいいから問題ない。マスコットキャラクターとして扱いやすいから多少の面倒ごとを許容している。まめねこだから。それだけだ。

     私は一度止めた足を再び動かす。踏みしめた柔らかい土の中から、空気が潰れ土が軋む小さな音がした。この辺りは特に、人間が足を踏み入れる場所ではなさそうだ。虫も寄ってきそうだし、目的を果たした以上無駄なことを考えるくらいならさっさと撤収してしまおう。まるで私の背中を押す様に、もしくは追い出す様に吹き始めた追い風に身を任せて私は来た道を戻る。






     足元にわんさか生えている毒草と手の届く範囲にある木の実を採取しながら少し戻ったところで、木の影から黒い髪がひょこりと出てきた。スカイブルーの瞳ががじっと私を見てくる。車の中で待機しているかと思ったが、気になってついてきたらしい。小さく手を振るとスキップを踏むような軽やかな足取りで獣道へと飛び出して、私のそばへと近付いてきた。


    「わあ、もしかして見てました?」
    「うん。めっちゃ狼狽えてたね」
    「うわ〜そこからですか、恥ずかしっ。絶対!誰にも言わないでくださいよ!」
    「えぁ〜どうしよっかなぁ〜?……いや、うん。フツーに言わんよ?」


     アクシアくんは真面目な声でそう言うが、実際のところ、信用できるかは微妙だ。口が軽いわけではないから恐らく他人に口外することはない。他人に対してからかえないナーバスな部分に関しては、重く受け止めて胸の内に秘める。だが一つ懸念があるとすれば、アクシアくんには相棒ローレンがいることだ。バレることは覚悟しておこう。
     そもそもアクシアくん経由でローレンにバレることは承知の上で、それでも頼まなければならなかった。そう、思ってしまった。本当に私はどうかしていたと思う。冷静になって考えてみれば、騙し討ちにも近い行為をもってしてなりふり構わず行動していた私は、それはもう異常だっただろう。それに付き合ったアクシアくんは本当に人格と人付き合いがいいのだろう。

     私のため息に諦めを悟ったのか、もうこれ以上は揶揄って遊んでも無意味だと気付いたのか、アクシアくんはそれ以上話を引っ張らなかった。代わりに少しだけ表情を曇らせて、私が来た道に目を向ける。その視線を辿って私もそちらに向いた。木漏れ日が差し込むその場所は、内部にいたときはありふれたただの森のように感じていたが、光の加減も相まって立ち入り禁止の神域のように見える。オリバーくんの発言にあったような祝福とやらを与える場所というのもあながち間違えではないように見えるほど、その空間だけが異質だった。


    「あいつ、まめねこだったんだ」
    「そうみたいです。よく分かんないですけど」
    「博士もわかんないんだ」
    「ウン、わっかんね」
    「そっか。で?死なんかったん?」
    「死にはしたけどすぐに生まれ変わった……いや、元々の存在に戻ったって感じですかね」
    「ふうん」


     風が枝葉をざわめかせる音だけが場を包む。アクシアくんは神妙な顔で森の中をじっと見つめる。まるで真夏の快晴をそのまま閉じ込めたような澄んだスカイブルーの瞳は、かつて私だった存在がいた場所を捉えて微動だにしない。獲物を狙う猫のように目を見開き、瞬きひとつしない姿は、まるで熟練のスナイパーの姿だ。スコープの先に捉えた敵に引き金を引く瞬間のように張り詰めた雰囲気を宿した彼は、いったい何を思っているのだろうか。
     暫しの沈黙。アクシアくんは乾いた鼻をスンと慣らして、キュッと口角を上げた。少し強めの風が黒いくせ毛をふわりと持ち上げる。その動きに合わせてアクシアくんは踵を返した。


    「トゥルーエンドがハッピーエンドだったってことよな」
    「んま、そんな感じ」
    「じゃあいいや。お巡りさんにチクんないであげる」
    「私べつに法には触れてないですよぉ」
    「人の道は踏み外してんでしょ」


     私が並び立って反論すれば、呆れ目で私の顔を見てきた。背丈がほぼ変わらないのでまっすぐと視線が飛んでくる。
     彼がもしローレンと同じ都市警備部隊で、その中でも正義感あふれる性格をしていたならば私はとっくの昔に逮捕されたかも知れない。正確にはローレンは都市”警備”部隊であり、中央エデンの治安が最悪なせいで『市民の安全の確保=テロリストの制圧』という公式が出来ており、基本は警察などと言った法的執行機関ではなく治安維持機関だが。それでも一般的にそう認識されてしまうように『お巡りさん』であることは事実。彼が清く正しいお巡りさんではなく、機動歩兵部隊でいてくれて良かったと心から思う。


    「まめねこになっても一緒にゲームしてくれるかな?」
    「しますよ。多分ふらっと君のところに遊びに行くつもりではあるでしょうよ。アレは私に似て嘘つかないですから」
    「アハハ。博士に似て『つもり』だけになってドタキャンとかバックれとかされないといいなぁ」
    「君たちにはまだしてないでしょうが!名誉毀損だよぉもお〜」


     ……だから、指先に触れる致死の麻酔薬のことは言わないでおこう。アレの息の根を止めるほどの強力な麻酔薬を静脈に流し込んで、苦しませることなく“処分“しようとしていた私の目的などアクシアくんは知らなくても良いことだ。注射器とバイアルがぶつかってカチリと音を立てているのが聞こえてしまわないよう、こっそりバイアルを白衣の内側に備え付けたホルダーに差し込む。
     アレに精神汚染を受けて懸命な人命救助を試みてしまった姿を見られて良かった。私にとっては自分の細胞から生み出した道具でしかないが、他人であるアクシアくんにとっては、彼が守るべき無辜の民の一人に近しい存在だろうから、そんな子供が処分されるのは許さない。

     全く、私の同期はみな面倒だ。自分が大事と言いながら、他者を重んじ守ろうとする。アクシアくんだって、あのクローンのことだけでなく、あの悲しい生き物を生み出した私にすら同情する。彼らに出会ってこうして親睦を深める前だったならば、彼らの善性を嘲笑っていたかも知れない。
     それならば、私にとってのエデン組は、アレと同じように精神汚染をしてくる存在なのかも知れない。不老不死を求めるために倫理を捨てた私に、それを再び植え付けさせたのだから。
     

    「ねぇ、博士。今どんな気持ち?」


     ふと、アクシアくんにそう問われた。どんな気持ちも、何もない。あれほど思考が絡まり悩みに悩んでいた三十分前までがまるで嘘のように、するりと言葉が浮かんできた。


    「少し残念です。アレがちゃんと子供の私だったなら、上手いこと学校に通わせて授業参観に出たかった」
    「……は?授業参観?」
    「私の被験者は知ってますよ。私のいつかの夢です。子供のクローンの授業参観に参加して後ろに並んで見学するの」
    「へ、へえ」


     素直に伝えれば、アクシアくんは明らかにドン引きしながらも、引き攣った笑いを浮かべて辛うじて相槌を返した。でもそのすぐ後に「キッショ」と言葉が続く。受け入れて貰えなかったようだ。これも、少しだけ残念だ。





















     さっき、ヴィンさんはお手洗いに行くと言って離席した。すぐそこにトイレはあるのにもう十分以上帰ってこないから、きっとその足で喫煙所に向かったんだろう。よくあることだから今更戻りが遅くても心配することはないし、怒ることもない。オリバー先生と楽しくお喋りしていたらすぐに過ぎ去っていく時間だから。
     オリバー先生と事務所と駅の間にあるカフェの季節限定ワッフルについて話を弾ませていたら、視界の端で双葉がぴょこりと動いた。まめねこはヴィンさんと一緒に行ってしまったからこの部屋にはいない。まめねこだけ戻ってきたのかな、と目を向けた。けれど、目に入ってきたのは見慣れたまめねこブルーじゃなかった。


    「あれ?まめねこだけど、まめねこじゃないのがいる?」


     パタちがそう言ったから、オリバー先生も気付いたようだ。視線をチラリと向けた後、驚いて目を見開いてまっすくその存在に向き合った。
     テーブルの上に置いてあった差し入れのクッキーを口いっぱいに頬張っているのは、ヴィンさんの胸ポケットにいるまめねこよりも少しだけ緑かかった、まめねこ。幸せそうに目を細めてもぐもぐと口を動かしていたけれど、パタちたちの視線に気付いて石のように固まった。口の端にくっついていたクッキーのカケラがコロンと落ちる。
     

    「レオスくんと一緒にいるまめねこと、ちょっと違うんだね」
    「なんかちょっと緑っぽいし、葉っぱが濃くてなみなみ・・・・した形してる〜」
    「これツイーディアの葉っぱかなぁ」
    「ツイーディア?」
    「西洋だと男の子の誕生を祝うのに贈られる花だよ。後は結婚式に使われたり…あれだ、ブルースターなら知ってる?それのことだよ」
    「あ、それなら知ってるぞ。青くてちっちゃくて綺麗な花だよな!ボディーガードの先輩の結婚式で見た」


     緑まめねこにとっては突然向けられた、観察する視線に動揺したのか落ち着きなくキョロキョロと辺りを見渡した。小さな手からクッキーが落ちる。でも、やがて何か妙案を思いついたように目を輝かせると一目散に駆け出した。その先は、オリバー先生の手元。緑まめねこは全身を使って先生の大きな手を持ち上げると、その下に身体を滑り込ませた。隠れてるつもりなんだろうか。


    「あ、いいなぁ」
    「僕に向かってくるなんて珍しいなあ、小さい動物には怖がられがちなんだけど」


     先生は手のひらをちょっとだけ持ち上げて、中を覗き込んだ。いい?と声をかけてしばらくしてから緑まめねこをひょいと抱き上げる。手の中に収まった緑まめねこは落ち着きを取り戻してくつろぎ始めた。ヴィンさんのまめねこに似て、ビビリだけど肝が座っている。でもヴィンさんで人馴れしてるまめねこは初対面の時はパタちたちを警戒したのか視線はあっても触れることはできなかったから、この子が人懐こいのかも知れない。
     先生の顔を眺める緑まめねこを後ろから指先で撫でてみたけど怒ったり怖がったりしないし、寧ろペタンと耳を倒して撫でてもらうモードに入っていた。めっちゃかわいい。
     しばらくそうしていると、先生は突然パッと顔に笑顔を咲かせ、かと思えば眉尻を下げて困り顔をして、その後眉間と口先に力を寄せて『酸っぱい顔』をし始めた。この手の変顔を先生がするのは珍しくて、つい笑ってしまう。


    「なに睨めっこしてる?仲良しじゃん」
    「ハッ、しまった、ついつられちゃった」
    「つられてって、アハハ!なにそれ?っアハ」
    「いや、変顔するんだよ、この子。まるで…」


     オリバー先生が言いかけたところで、控え室のドアが勢いよく開いた。ヴィンさんだ。おかえり、と声をかけるとヴィンさんは律儀に「ただいま」と返してくる。


    「ヴィンさん!まめねこの友達が来てるぞ」


     ヴィンさんはは鋭い目を微かに見開いて、おや、と声を漏らす。その間に胸ポケットのまめねこはそこからぴょいと飛び出して、こちらへと駆けてきた。緑まめねこもオリバー先生の身体を器用に伝って近付いて床に降りるとまめねこに駆け寄る。ぺち、と可愛らしい音をたててハイタッチをしていた。鳴き声は発していないが、短い腕を振りながら笑顔で口をぱくぱくとさせているので、何かしらの交信をしているのだろう。
     まめねこよりも緑まめねこ方がちょっとだけ大きいから、年上なのかな。でも、まめねこの方がちょっと得意げで緑まめねこの方が楽しそうにぴょんぴょん跳ねているから、年下なのかもしれない。いずれにせよ、まめねこ世界にも身長差はあるようだ。

     その様子をしばらく見守っていたヴィンさんは、目元を柔らかく細めると小さく微笑んだ。こんなに優しい笑顔は少なくともパタちたち同期にも向けない。本当にまめねこが、というよりハツガソライロマメネコのことが好きなんだろう。長い足を折ってしゃがみ込むと、まめねこと、緑まめねこの頭を両手で撫でた。ヴィンさんの白衣の裾が床にべたりと付くけれどそんなのお構いなしだ。


    「お前、今日は怪我してないでしょうねえ?」


     ぶんぶん!と頭を振る緑まめねこ。


    「怪我?」
    「こいつ病院代をケチって、擦り傷つくったり肌荒れしたりするとノコノコやって来るんですよ。謝礼にちょっと珍しい薬草を寄越してきます。普通に嬉しいですし、マ、Win-Winな関係ですね」
    「へえ。いいね、それ」
    「いいでしょお〜。……変色や外傷は無し……口内や尾びれに発疹は…これも無し、か」


     ただ遊びに来ただけですね、と触診が終わったヴィンさんは結論づけた。緑まめねこと、ついでにまめねこを手に持ったまま立ち上がってテーブルへと下ろす。緑まめねこを触診する仕草は、普段まめねこを観察しているからか手慣れていた。まるで獣医さんだ。
     パタちとも少しだけ手遊びをして、結局この時間はたったの十分くらいしかなかったと思う。何かを思い出したように耳と鼻をピクンとさせるとパタちたちに背を向けて、身を乗り出さないと届かないくらいまでテーブルの反対側まで移動した。
     そして、ばいばい、と手を振った緑まめねこ。チップスの入った筒形の包装箱の向こう側を通り過ぎたかと思うと、忽然と姿を消してしまった。現れた時と同じようにパッと消えてしまったことにパタちとオリバー先生はビックリしたけれど、ヴィンさんは「毎回あんなんですよ」と事もなさげに言ったから、慣れているんだと思う。それだけあの緑まめねこはヴィンさんのところに来ているんだろう。


    「ああ〜消えちゃった。もっと遊びたかったなあ」
    「どうせなんか約束忘れてたんでしょ」
    「ヴィンさんそっくりだな」
    「何よそれぇ」
    「アハハ!でもさ、あの子、元気そうで良かったよ」
    「ええ。あいつも気ままにやってますよ」
    「らしいや」
    「また会えるといいな、緑まめねこ!」


     まめねこという生き物は、とっても自由で不思議な生き物だ。会おうと思って会えるわけではない。その辺にいるのは分かってるし見たことはきっとあるんだけど、何故か認識して記憶にしっかりと残ってくれない。ありふれているようで珍しい、そんな存在だ。
     パタちがちゃんと覚えてるのはヴィンさんと一緒にいる、今まさにヴィンさんの胸ポケットに戻ってきたこのハツガソライロマメネコだけ。だから、こうやって『緑まめねこ』として認識してまた会いたいって思えるのはとても貴重で嬉しかった。
     パタちは素直にそう言葉にすると、それを聞いたヴィンさんは少しだけ目を丸くしてパタちを見下ろしてきた。アイスグリーンの瞳がじっとパタちの目を見つめてくる。そういえば、あの緑まめねこの身体の色は、ヴィンさんの瞳の色に似ているような気がした。


    「……」
    「な、なんだヴィンさん」
    「面白い話してあげましょうか」
    「面白い話??」


     ヴィンさんはニンマリと笑いながら、ポケットの中からスマホを取り出した。怪しさ満点、この笑顔をしたときのヴィンさんにあまりいい記憶が無いので警戒する。ゲームで対戦した時、パタちの知らない攻略法を使ってパタちをボコボコにして煽りまくった時の顔に似てる。
     本当に不気味なのは、その様子を見たオリバー先生が気まずそうに目を逸らして、でも意識的にニコニコし始めた事だ。先生が呆れた顔とかうんざりした顔をしないって事は面倒な事じゃないってのは分かる。でも、多分、ちょっとだけ意地悪なことかイタズラっ子みたいな『お話』はなるかも知れない。
     身構えたパタちのことなんて意にも返さず、ヴィンさんはスマホ画面を何度かタップした後、液晶画面をこちらに向けてきた。そこに表示されたモノを見て、パタちは絶句する。


    「私たちと緑まめねこの、奇妙な共同生活について」


     ヴィンさんのスマホ画面には、ヴィンさんとまめねこと、ヴィンさんそっくりの子供がこちらに向かってピースサインを向けている、ディスコード画面のスクリーンショットがあった。

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    CottonColon11

    DONE※小諸商工のモブ、ショートの奥田くん視点。
    ※守備コレをそのままさせると不可解な行動になりそうなので、三年生をそのまま入れた形になります。
    ※打席ログを見て書いてますがたまに間違ってるかも。雰囲気でお読みください。
    まめねこ工科高校、夏のドラマの裏側で たくさんのカメラの前で甲子園の黒土を掻き集める、まめねこ工科高校の選手たち。甲子園初出場、初戦敗退。ありきたりな終わり方をしたまめねこ工科高校。去年突如として岡山のベスト4に現れて、今年甲子園に出場した。
     前情報がほとんどない高校だったけれど、難なく突破した。先輩たちと笑いながらベンチへ戻る。甲子園の第一歩としては十分すぎる、6-1の快勝だ。


    「来年また来よう!」


     まめねこ工科の監督の声が、広い広いグラウンドを隔てたこちらにまで届いた。
     俺は振り返ってまめねこ工科の方を見る。マネージャーと一緒に監督に慰められている、どうやら俺とタメらしい、ピンク色の髪のピッチャーが目に入る。二年生が甲子園の先発ピッチャーなんて珍しいと田中先輩が言っていたのを思い出した。俺の打席では、フォアボール2回と凡打2回で、燃え切らない勝負になったけれど、チームが勝てたからまあ良しとしよう。
    12629

    CottonColon11

    DONEこちらはパロディボイスの発売が発表された時にした妄想ネタを、言い出しっぺの法則に則って書き上げたものです。
    つまりボイスは全く聞いていない状態で書き上げています。ボイスネタバレは全くないです。
    ※二次創作
    ※口調は雰囲気
    ※本家とは無関係です
    科学国出身の博士と魔法国出身の教授が、旅先で出会うはなし 高速電車で約五時間乗った先の異国は、祖国と比べて紙タバコへの規制が緩い。大きい駅とはいえ喫煙所が二つもあったのは私にとってはとても優しい。だが街中はやはりそうもいかないようで私が徒歩圏内で見つけたのはこのひさしの下しか見つけることはできなかった。

     尻のポケットに入れたタバコの箱とジッポを取り出す。タバコを一本歯で咥えて取り出して、箱をしまってからジッポを構える。……ザリ、と乾いた音が連続する。そろそろ限界だと知ってはいたが、遂に火がつかなくなってしまった。マッチでも100円ライターでもいいから持っていないかと懐を探るが気配は無い。バッグの底も漁ってみるが、駅前でもらったチラシといつのものか分からないハンカチ、そして最低限の現金しか入れていない財布があるだけだった。漏れる舌打ちを隠せない。
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